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福田翁随想録(38)

 チャンスを見抜く眼力

 波乱万丈と言わなくとも、私にも私なりに山あり谷ありがあった。
 新聞紙を包んだ千円札二センチほどあったろうか。当時は一万円札(1958~)、五千円札(1957年~)紙幣はなかった。総額二、三十万はあっただろうか。ある筋の人からの付け届けだった。
 あの時その金子(きんす)に目がくらんで受け取っていたら私の価値はそれだけでしかなく、人生台なしにしてしまっていたことだろう。
 私はすぐに上司の所へ行って仔細を話し、拒絶した旨報告した。私が上司に報告せず、黙ってやり過ごしていたら件(くだん)の人は自分で着服し、私は濡れ衣を着せられる羽目になっていたかもしれない。魔の手はいつどこから襲ってくるかわかったものではない。
 また、そんな危ない誘惑ばかりではなく、一生のうちには一度か二度は幸運なチャンスが巡ってくるように思う。と言ってもチャンスというものは姿や形をとって訪れるとは限らない。
「俺はチャンスというものだが、君は一体どちらを選ぶのかね」などと言ってナマハゲのように目の前に立ちふさがってくれるものでもない。 
 後年追想してみて「あの時がチャンスだったのか」と分かるものなのである。

 身近にこんな話があった。
 本人は今がチャンス到来と気がつかないでいた事例だが、人事異動期のサラリーマン社会では珍しくないよくある話だ。このチャンスを生かすも殺すのも今だなと私は思った。
 一年三百六十五日はこのたった一日のためにあるようなもので、チャンスと見抜く眼力は凡々と「頼まれ仕事」を惰性で送っていては育たない。
 私はこのような相談を受けた。
 本社の広報担当だった彼が現場施設のトップに転任することになった。ところが転任先は労務で紛争が続いている本社でも手を余している部署だった。
「辞令をもらって受けるべきかどうか迷っています。ストレスが昂じ、血糖値も上がりました」
 と、五十歳前なのに沈んだ声で苦衷を訴えるのを聞いて、私は憮然とした。 
 本人はこの異動を人間関係に翻弄された揚句の貧乏くじとみているから、元気が出るわけがない。 
「しかし考えてもみよ。全国数ある施設のなかでも一番自宅に近いのならなんの文句もつけようがないはずだ。なんの問題もない部署への赴任ならだれでもやっていける。泣きっ面をした新しい施設長が来て経営の立て直しなどできるだろうか。
 原点に帰らなくてはならない。君にとっての原点とは、施設の存続目的だろう。入居者の安全な生活を守ってあげ、サービスを向上させ、さらに明るく一新させることだろう。その自覚と使命感がないのなら転任の人事異動は貧乏くじかもしれないし、第一君には荷が重すぎるのかもしれない。
 赴任までの一ヵ月の時間があるのならまず身体づくりから始めなくてはならない。糖尿病は病気ではない。食生活を改め、運動を心がければよいだけの話ではないか。 
 タバコをやめることすらできないというのはどうしたことか。酒が好きで深酒をやり、くよくよ下ばかり見て背を丸めて歩く中年男にリーダーの資格はないだろう。自らが燃えなくてどうして人を燃やすことができるのか。社内の争いの渦中に気をとられる暇があるなら湿布摩擦などして青空を仰いでいたらどうだろう」
 君には荷が重いようだ、天も怖れないわがままなものの見方だと言ったのは、私の体験から出た言葉だった。

 戦後天津から引き揚げる時、乗船したLST(揚陸艦)の船底は横にもなれない詰め込みようだった。誰もが虚脱して疲れきっていた。
 私はこの時進んで炊事と食事運搬の役を買って出た。私に与えられていたわずかなスペースは家人のスペースとしてその分心持ち広くすることができた。私といえば配給が終ると役得で吹きさらしの甲板の隙間でのびのびとできた。 
 私はこれまでにたびたび人の嫌がる仕事をあてがわれたりしてきた。その都度どうしてこう辛い目にばかり遇わなくてはならないのかと頭を抱えたものだが、今思えば、引き揚げ船の時のように活かしようによれば、世渡りにはなにも「無駄」なものはないように思う。

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