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自分の薬をつくる 非日常につける薬――あとがきにかえて


 Covid-19 が流行しています。自宅待機、友達にもあんまり会えず、お店で酒を飲んだりもできないこの感じは鬱のときの私に似てるかもしれません。 突然の、発作的な、長期の休み。経済活動もストップ。鬱の私はいつもそうです。前兆もなく襲ってきて、昨日までは外に出られたのに、一切出れなくなります。もちろん人にも会えなくなります。    

 私のまわりのいつもはとても健やかな友人たちも鬱っぽくなっているようで「こんなことは初めてだし、いつも苦しんでる鬱の人の気持ちがわかったかも」と言われたりしました。

 どうやら躁鬱病の人や、統合失調症の人などは、マラリアなどの伝染病にかかっても平熱のままで、それまでは健康的だった人たちを介抱しはじめるらしい。そうやって、この病気の遺伝子は生き延びてきたようです。噓みたいな話ですが、今、私は不思議なほど、それこそ躁鬱病と診断されてから一二年が経ちますが、今までで一番穏やかな落ち着いた日々を送ってます。何よりも改良し続けてきた日課が効いているんでしょうが、平時は激しい波に飲み込まれてしまう私は、危機的状況ではピタッと波がおさまり、冷静になるようです。
 それは二〇一一年三月一一日のときもそうでしたし、二〇一六年四月一四日の熊本で起きた大地震の時もそうでした。


 いのっちの電話をしている私にとっては、年間二万人以上が自殺で亡くなるこれまでの日常こそ危機的状況だと思ってます。


 ところが社会はそのようには感じていないように見える。日常ではそのギャップがとても激しいです。その結果、私の精神の波が大きく揺れてしまうのでしょう。一方、何かが起きて世界全体が危機的状況になると、普段は健やかで安定している人も同じように波を起こしはじめます。これではまるで災厄を求めているように聞こえるかもしれませんが、これが私の正直な気持ちです。そして、私が感じている危機は伝染病よりもやはり、それまでの日常の中に隠れつつ、実はしっかりと存在していた自殺の問題ですし、そのことについて今も変わらず電話番号を公開し行動していこうと考えてます。

 この危機的状態の中で起きている管理の仕方についてはとても心配してます。人が人を監視するようになっています。人のことが気になるのは鬱の時に常に起こる現象です。それが社会全体に広がっているように感じます。
 本来、人は人に指図ができません。人に注意することもできません。嫌なら文句を言わずに、ちょっと離れたところに移動すればいいのです。でも社会全体に不謹慎なことをするなという空気が充満してます。みんなが自粛を要請されてます。自粛要請という言葉はおかしいのに、人から指図されるものではないのに、国家がそれを要請してしまっている。言葉が壊れてしまっているなあと思います。そして、何よりも窮屈だな、と。
 窮屈はこの本でも随時書いてきましたが、とにかく鬱を呼び起こす唯一といってもいいくらいの原因です。非日常のときは、この「窮屈」がいたるところに発生します。でも同時に今までの「窮屈」がほとんど姿を消しているということでもあります。
 というわけで、あとがきにかえて、ここでは非日常につける薬について考えてみたいと思います。


     
 まず危機的状態になったときどうするか。
健やかな人であれば、そんな時でも平静を保って、これまでの行動を粛々と続けようとするかもしれません。そんな一つ一つの物事にアワアワしていては大人ではない、と教わってきてますから。しかし、私の場合はすぐ逃げ出します。ちゃんとしないといけない、と考えた瞬間に鬱になってしまうからです。とてもじゃないが頼りがいのある人間ではありません。私にも二人の子供がいますが、子供よりも先に
不安を感じてしまいます。昔はそのことが悩みでもありました。なんて自分は弱い人間なのかとこれでもしっかりと悩んだことがあるのです。でも、ちゃんと、とか、しっかり、とかが本当に無理なんですね。どんどん窮屈になりますから。自分ではやりたくないのに、大人だから、これくらいちゃんとやっておかないといけない。そんな状況になった瞬間に体がおかしくなります。
 そんなとき、さっと逃げると、とても楽になります。根無し草のように踏ん張らずに川の流れにサラサラと流れていくんです。私は二月下旬と三月上旬に二つライブがあったのですが、なんか気になるから、と主催者に伝えて、ライブをやめてしまいました。どうも変だな、と思ったまま、行動を続けることができないんです。
 そして、逃げたら、逃げた後の気分を観察しましょう。心地いいか、より悪くなったか。もしも心地よかったなら、成功です。より悪くなったとしても、逃げると、ゆっくり休養はできますから、お得です。次は逃げずにやろうと思えばいいだけです。そんなことじゃ社会活動なんかできないとおっしゃる方もいるかもしれませんが、私の経験では「嫌われる人からは結局いつか嫌われるから、やりたいようにやったほうがいい。我慢するのはまったくの無駄である」に尽きます。そんな一回の逃げで失うような仕事は、いつか必ず失います。早めに失って次を探した方がきっと心地よく生きられるはずです。それで失職したとしても、心のどこかでは安心してるかもしれません。とにかく窮屈にならないこと。これが一番大事なことだと思うんです。

 そんなわけで私はすぐ逃げて、一人でこもります。これも書いてきましたよね。自閉するってことです。ついつい人は、人間にとって一番大事なものは他者だ、と思い、たとえそこが居心地よくなくても近寄っていってしまいます。自ら窮屈さの方に行ってしまうんですよね。それをやめるだけで、むちゃくちゃ楽になりますよ。ずっと孤独でいろって言っているわけではないんです。窮屈さを感じた瞬間だけ、一時的に避難するってことです。そこで体調を整えて、また出向けばいいんです。なので、積極的に自閉しましょう!
 そうすると、あらゆる物事が停滞します。
 停滞する、停止する、これらのことを人はとにかく恐れます。経済活動なんかもそうですよね。だから、一回止めて、体制を整えた方がいいのに、ズルズル行動しちゃう。私の場合は、そんなことすると余計にひどい鬱になりますので、より深く停滞してしまいます。なんにせよ私には停滞が必ず訪れてしまいます。もちろん停滞の時間を過ごすのは、きついです。

 しかし、停滞のときにいつも私が感じるのは「普段使っている体や活動や思考は停滞しているが、実は他の今まで使ったことない何かが動き出している」ということです。そうやって、今までももう二度と何も生み出せないと思いつつも、新しいことが発生してきました。それは後になってからでないと気づけません。やっている最中はわからないんです。なぜなら今まで見たことがないものだからです。すべてのことが停滞している今はそれこそ「停滞の練習」の機会なのかもしれません。

 停滞している間、何もかもが色あせて見えます。
 私は深い鬱に陥ってしまうので、本当に色がなくなってしまいます。考えることはできません。体もうまく動きません。そんなときどうするか。私は四足歩行していたときのことを思い出します。唐突ですみません。でも、必死なんです。なんとかしなくちゃいけない。でも足を動かして、外に出て活発に活動することができなくなってるんです。でも私は太古、四つ足で動いてたと気づく。そして両手を見るんです。これも昔足だったじゃないかと。そしてそのもともと足だった二本の手を使って、どこかにいこうとできるんじゃないかと考えつきます。


 手を動かすんです。それこそ足を動かして旅に出るように。手は指まで細かく動くようになっていますので、指だけで旅することもできます。そうやって、編み物をやったり、絵を描いたり、料理をしたり、陶芸をしたり、織物をしたりしてきました。
 そうすると、頭、脳みそを使って思考しているのとは、別の思考が出てきたんです。それは言葉にはなっていません。でも確かに実在しているように感じます。私がこのワークショップで一番最初に伝えたこととも繫がります。外側への観察ではなく、内側にある自分ではないもの、内側の風景と呼べるようなものの観察が、停滞している時に可能になるのだと私は感じるようになりました。

 哲学者のヘーゲルは「自由とは意識がみずからの裡につくりだす現実のことだ」と言ってます。
 停滞の間、手を動かすことで私が垣間見たものが自由だと思うと、とても嬉しくなりました。
 みなさんもこれは停滞できるチャンスだと思って、積極的に逃げて、こもって、手を動かして、ぜひあなたの自由を見つけ出してみてください。そう思うと、面白くなりませんか? 窮屈さを退けるのは、そういう喜びや楽しさです。
 コツは適当になんでも思いついたことをやるってことです。うまくやろうとすると、飽きたとき、なんか悪い気がしますから。飽きても気にしなくていいことからどんどんやってみましょう。なんといっても手を動かして体に多様な風を送り込むだけで、気持ちいいんですから。先を考えずに楽になんでもやるといいですよ。

 私は今日もなにも変わらず手を動かしてます。
 朝起きて、朝ごはんを作って、原稿を書いて、お昼ごはんを作って、最近はじめた畑を見に行って、午後三時からは西日を浴びないようにアトリエで三時間絵を描いて陶芸をしてます。まわりは騒がしいですが、日課をただ続けてます。社会の時間軸と別に、自分の時間軸を作っておくと、社会が折れても、自分は折れません。私も精神的には停滞しているんだと思います。特に何にも閃いたり思いついたりできません。そんな日々ですが、手は動かしてますので作品だけは少しずつでき上がってます。今こそ手です。手の抵抗。
 私の場合は二、三か月無収入とはザラにある普通の出来事なのですが、そういうときのコツは、金にならなかろうが毎日つくること、だけです。それで今までどんなときでも生き延びてこれました。だから仕事がなくなろうが売れなかろうが気にせず、次をつくるんです。むしろつくるだけになります。それが次の何かにそのまま変貌するんです。こもっている、働けない、金がない。それはそのまま手を動かして創造しろってことです。 才能あるとかないとか関係なくて、それやんないと気が狂うからやってるだけです。すごいものを作ろうなんて考えたら手が止まりますから、まったく無駄なのでやめて、下手でもいいので狂わないようにつくってみてください。
 縛られない生活が続くと、生活リズムが乱れて遅く寝たりしているかもしれませんが、気をつけてくださいね! そのままにしてるとすぐ鬱になりますからね! 自由時間だけの生活になったときはとにかく「早寝早起き朝ごはん」これが基本です。遅寝しても早起きが基本です。睡眠不足よりも起きる時間のほうが大事です。 家にこもってる人には本当に効くからお試しを。引きこもりも楽かと思われるかもしれませんが、けっこう大変なんですよ。すぐ狂ってしまいますから。でも自分の方法を見つけたらそれはあなたの「時間」になります。
     


 今日も変わらず「いのっちの電話」はかかってきてます。
もちろん私は医者じゃないので薬が出せません。そのおかげであれやこれやとアイデアを出したり、経験から作り出した直感で対応するしかありません。でも、一緒にその人にとっての薬をつくりたいなといつも思ってます。やっぱりこの電話でも私は「作ってる」んですね。毎日作品を作っている作業となんら変わりません。私は創造行為として「いのっちの電話」をやっているということです。電話口から聞
こえてくる声の内容はとてもとても個人的なことです。社会で起きていることの前にそれぞれの人に起きているその人だけの出来事があります。私が担当しているのはそこに目を向けるということです。その対処こそ私の創造行為なのかもしれません。

 僕の携帯電話番号は090-8106-4666です。これも正気を保ち生きのびるための技術ってことです。困ってることを直接口にすること。困ってることは全部外に、内奥には作るための力を溜め込みましょう。困ってることは口にして、困ってることから発動した力は作ることにして外に出すって戦法。
 痛かったり、苦しかったり、死にたかったりするのは、きっと一人で考えすぎてるからですよ。もちろん人間はみんな孤独です。だから困ったら、すぐに相談しましょう。そうやって、素直に口にするとむちゃくちゃ楽ですよ。
 むちゃくちゃシンプルな結論に達してますが、それがなかなか難しくなっているのが今の世の中なので、私はいつまでも声を大にしていい続けたいと思います。
 とにかく一人でどうにもできなくなったら相談すること。素直になること。素直な声を出せば、この本読んでもらえば分かったと思うんですが、そもそもそれは悩みではなく、自分が何かをしようと、それこそ創造をしようという準備段階だと気づくはずです。
 自分の薬をつくるというワークショップをやって本当によかったです。私はとても自然に感動しました。この本に登場して相談してくれたみなさん、ありがとうございました。

 人から信頼されるのはとても力になりますし、人から、元気になった、ありがとうと感謝の言葉をもらうのはとんでもない治癒力があります。いつもこういう行動をして助けられるのは私自身です。
 

 みなさんがそれぞれに自分の薬をつくれますように。
 もちろんわからなくなったらいつでも相談してください。
 お互い素直になって声を交わしましょう。
 それではまた、どこかでお会いましょう。


 二〇二〇年四月二七日 自宅書斎にて                  

                             坂口恭平 

 

 追伸: 畑をはじめて、野菜が夜育つと知ったので、毎日夕方五時から畑に行くようになったら、自然と西日が嫌いではなくなりました。今では毎日畑から夕日が沈むのを見ることが好きになりました。今の僕の薬は、毎日畑に行くこと、です。
そして、通院、服薬を完全にやめました。



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