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継続するコツ 第8回 どうやって自分の生活を作り上げるのか

 1週間ほど仕事を休んでました。僕の場合で言うと、執筆とパステルのことです。この二つは毎日やるってのが僕の日課なんですが、それを休んでみました。なぜなら、いつもなら鬱になっているリズムの時期なのに、むっちゃ元気だったからです。元気だからって、そのまま休まずにやり続けるのはどうかな、と思って、鬱になったと思って、休んでみることにしたんです。僕の場合、鬱で困るといいますか、もちろん、相当苦しいのでもちろん困るし、鬱にならないならならない方がいいのはそうなんですが、鬱になることで、それまでに溜まっていた疲れをかなり強引ではありますが、休ませる効果もあることはあるんです。僕の場合は、毎月、五日間ほどの鬱がきますので、そこで、ぶっ倒れることによって、他の日は休まないで、生活できるんですね。鬱で全部抜けていくからか、風邪とかも引きません。しかも、鬱が明けて現実に戻ってくると、全く新しい視点で見ることができますので、休養もできるし、新しい創造性も発見できるということで、苦しいんだけど、なくてはならないものでもあるんですが、今月は鬱になりそうな気配がありません。

 鬱が来ないと、もう休まずにどんどんやっていく生活が続くってことになるので、一応、鬱予定日は予想してましたので、その予定日を丸々鬱じゃないけど、鬱になったと思って休むことにしたんです。4月18日から4月24日までの1週間。体調むっちゃいいのに休んでみました。

 で、僕の場合、休みとはどんな感じかと言うと、本当に布団に横になったまま寝て過ごしたりすると、体調が悪くなってしまうんですね。それだと退屈ですから。僕は天下一の暇人ではありますけど、退屈は嫌いなんですね。これは鬱の時の治療法ともつながるのですが、僕は退屈している限り鬱からも治りません。でも休む必要がある。休むっていうと、布団に横になる、ってことしか頭になかったんですが、最近はもうわかってきました。僕にとって休むとは、ただひたすら好きなことに夢中になるってことなんですね。食べるものも全部食べたいものを食べる。一緒にいたい人としか一緒にいない。そして、時間はやりたいことだけやって過ごすってことです。ということで、前々から一日中時間をかけて夢中になってみたかった、フェルトの人形作りとチェロでバッハの無伴奏チェロ組曲第1番プレリュードを弾けるようになるまで本気でやってみるということに取り組んでみました。はっきりいって、いつもの仕事の日課の時より疲れたかもしれません。でも、プレッシャーみたいなものは全くありません、ただ楽しかった!と思うだけです。もちろん落ち込むこともなく、1週間を過ごすことができました。で、1週間経って、気持ちもリフレッシュしてこの継続するコツの連載も頑張って書こうと思ったのですが、僕の場合、1週間も書かないで過ごしちゃうと、というかそんなこと今までほとんどなかったわけですが、もう何を書くのか忘れてしまっているようです。だから慣らし運転をやってみてます。僕の場合、感覚が戻ってきたら書き始めるみたいなことをやらないんですね。感覚が戻ってきていないってことも興味深い状態なわけです。絵を描いている時とかも、慣れない構図の絵とかに挑戦すると下手になってしまうんですね。それなら下絵を描いたらいいじゃないかと思うんですけど、下絵を描いちゃうと、それはもう下絵じゃなくて、僕にとっては絵なんですね、だから、それをなぞって本番を描き始めるともうやる気がなくなってしまうんです。だから、慣れていないままに、もう本番を描いちゃう、書いちゃうんです。歌を作った時もそうです。歌を作った、出来上がったその瞬間に、まだ歌詞も覚えてないままに、ギターもまだそこまで完全に体に染み込んでいない状態のまま、僕は録音しちゃって、それを発表しちゃいます。そっちの方が、いつも結果がいい感じだからそうしているんです。色々考えて、いいことが一つも起きないんですね。これは僕の場合だけかもしれません。だから、僕の場合は、練習なしで、常に本番と思って、全部作品だと思って、習作と思われるようなものでもそのまま、外に出してます。そうすると、全然、コントロールできない自分が見えるんですね。表に顔を出してきます。今もそうです。1週間も書かないでいると、それだけで、もう慣れてないっていうか、どうやって書いていたのかすら僕は忘れてしまいます。継続のことって何を書こうとしていたのか、そもそも何を書こうと思って、書き始めてすらいないんですが、僕の場合は。僕は何かを書こうと思って、その中身なんか何も考えずに書き始めちゃいます。何を書くかを考えると、うまくいかないんです。というか、その時の、始めようとした時の自分はその時の自分ですから、その時のその日に体力のある限り、書けるところまで書きます。それがその時に頭にあることなんですね。もっとあれを書きたい、これを書きたい、と思っても、明日になったらもう自分は変わってしまっているんです。僕の場合、この変化が激しいのかもしれません。もう別人かよっていうくらいに変化しているんですね。だからこの連載も、継続するコツのことを書いているのかどうかすらもうわからないんですね。でもこういうことをずっと考えながら、というか、考えるだけっていうのは僕はないんですね。僕の場合はいつも考える前に、もう手を動かしちゃってます。もう書いちゃっているわけですね。しかも、これはそのまま外に出して、発表し、作品として、人に読んでもらうつもりで書いているんです。そうやって、書いている間、手を動かしている間だけ、僕は考えることができるようなんです。逆は僕はできないんですね。書いたあとに、あれはなんだったんだろう、ってことを考えることが僕はできないんですね。僕が考える、という言葉を使うときは常に、絵を描いているか文章を書いているか音楽をやっている時なんです。その時だけは考えることができる。

 このことに気づいたことは意外と僕にとっては大きな変化でした。もちろん、元々はよくわかっていなかったんです。

 何を作ろうか、と計画表じゃないけど、その前のメモみたいなものを適当に書きながら、どうやろうかとぐるぐる考えていたこともありました。随分、昔のことですけどね。僕も元々は本を出したりもせず、絵も継続的に描くこともせず、いつも思いついた時にだけ作ってましたから。それが20歳代前半くらいまでですかね。初めて本を出したのが2004年ですから、26歳の時です。そのあとも、2008年までは継続的に本を出すってことはできていなかったんです。お金がなかったので、バイトをしまくっていたという理由もありますけど、まだ継続的に作品を作るってことがなんなのかがわかっていなかった。作品を作ろうとするとき、僕はついつい、どんな作品を作ろうかなんてことを考えてしまっていたんです。

 でも当たり前のことのように思うかもしれません。作品を作るときに、どんな作品を作るかと考えることは。

 しかし、それでは作品は完成しないんですね。たとえ作品が完成したとしても、その一作で終わってしまうんです。次に繋がっていかない。 

 僕もそういう時代があったんです。2001年の大学卒業から2008年までの7年間、20歳代がまさにその状態でした。

 僕は当時、建築家になろうとしていたんです。でも、建築家って注文がないと作れないじゃないですか。注文がないと作品が作れないんですね。これだと作品をずっと作り続けるために結構大変じゃないですか。しかも土地を持っている人からの注文限定です。土地って高いじゃないですか。しかもお金で土地が買えるって妄想じゃないですか。妄想じゃないって人もいるかもしれませんけど、僕の中では妄想に思えたんですね。これじゃ、自分のペースで作品を作り続けることはちょっと難しいなと思ったんです。あと、建築って人がたくさん関わっていくじゃないですか。映画とかもそうですけど。たくさん人が関われば関わるほど、なんか色々面倒なことが起こるし、しかも、絶対、質が変わっていくじゃないですか。もちろん生きていく上ではたくさんの仲間に囲まれた方が幸せな人生かもしれませんが、仕事だけに限っては、作品を作ることに関してだけは、できるだけ人と関わらない方がいいなと思ったんですね。安直な考えではありますが、そんなわけで建築家になることを僕はやめたんです。現行のルールの中での建築家という仕事は僕には無理だなと。

 で、僕の建築家の師匠がいたんですけど、石山修武という建築家で、氏が授業の中で、建築家になるには、自分の考え方をまずは本にしろ。本を書かない建築家になるな、みたいなことを言っていたんです。で、僕はなんでも自分の都合のいいように解釈するのが得意なんですが、ずっと建築を建てることなく、生涯本を書いていたらいいじゃないかと思ったんです。当時、僕は建築家の中で実験的な集団みたいなものを追いかけていて、1960年代から70年代にかけてヨーロッパの方で、いくつかそういう実験的な建築集団が生まれたんですが、彼らは実験的なアイデアですから、もちろん最初から施主がいるわけもなく、でも建築的な考え方は伝えたいってことで、彼らはよくアイデアを絵や文章にまとめて発表していたんですね。建てないってことでアンビルドと呼ばれていて、彼らは自分たちの自由なアイデアを施主はいないのに、どんどん膨らませて、芸術作品として発表していたんです。

 彼らのやり方は、いいなと思ったんですね。だって、施主がいなくてもできますから。自分の好きなペースでどんどん発表できるわけです。紙の上に発表するだけですので、お金もかかりません。とにかく依頼もされずにお金もかけずに、建築を発表できる、自分たちで雑誌みたいなものを作って彼らはどんどん新しいアイデアを発表していたんです。こりゃあいいと思いました。そして、彼らが発表した作品はのちに美術館などで飾られるようになりました。そういう発展の仕方もなるほどなるほど面白いと思って吸収しました。しかし、彼らはのちに有名になって、実際に建築を設計できるようになるんですが、つまり施主が現れたわけです、それを大多数の人間を使って、実現化したのですが、そこで出来上がった建築作品がまあ、酷い代物だったわけです。なんというか、机上で作った夢想の建築を具体的に建築としてできるだけ再現しようとしているんですが、これがまああくまでも再現でして、紙の上で描いてた時の方が空間の奥行きが半端なかったわけですね。紙の上だから、机上の空論というわけではないんだと学びました。実際にその夢想の世界を具現化した建築の方が、おもちゃみたいで、偽物に見えたんですね。やっぱり人が関われば関わるほど作品の質はどんどん落ちるんだなと20歳代の僕は感じまして、やっぱり実際に何かをたくさんの人と力を合わせて作るのはたとえ有名になってわがままが言えたり、何も知らずに有名だからと注文するような施主が現れたりしたとしても、やらないでいようと思いました。

 というわけで、大学を卒業したばかりの僕はまずは色々と方針を立てました。

 大学を卒業する前に就職活動なんてことも一度もしたことがありません。そうですよね、こんな思考回路じゃそうなってしまいます。会社でみんなで力を合わせて何かを作ろうとしても、どうしてもしょうもないものしか作れないからです。何かを作りたい、とは思っていましたから、会社にはいけません。施主から依頼も受けられません。一体、どうするのかなあと不安でなかったと言えば嘘にはなりますが、それでもどうやって作っていくか、そして作り続けていくかってことはよく考えました。

 建築家もみんな初期作品は、いろんな実験に溢れていて面白いものが多いですが、有名になっていくにつれて、作品にかけられるお金の額が大きくなっていきます。そうすると必然と関わる人の数も多くなるわけです。そして、そうなるとどの建築家も等しくしょうもない建築作品しか作れなくなるんです。そりゃそうです。人が関わっているんですから。どんどん質は低下していきます。ということで、有名になると、ろくなものにはならないなと思いました。有名が悪いんじゃないんですけどね。悪いのは、かけるお金が大きくなるってことと、関わる人が多くなればなるほど質が低下するってことです。この二つもしっかり避けていこうと思うようになりました。

 ということで、大学を卒業したばかりの23歳の僕は、建築家にはならない、でも、その手前の建築の考えを本にするってことは取り入れよう、そういう建築家はいたが、大抵、みんなその考えが知れ渡ると、お金をかけて実際に建築を作りたがるが、そうなるとどれも駄作になってしまうので、死ぬまで本を書こう。で、建築集団は文章だけでなく、絵もたくさん発表していたので、絵も発表していこう、で、僕は元々文章よりも絵よりも音楽が好きだったので、音楽も取り入れよう、それで有名になって、変な仕事をするようになることは避け、いつまで経っても、紙の上で、考えを外に出していこう。できるだけ仕事は一人でしよう。一人でできることだけやろう。多くの人が関わることは質が低下するので絶対にやらないでおこう。という感じで、初期設定をしました。

 とは言っても、なかなか簡単に行かないんですよね。本を書く、絵を描く、音楽を作る、それを一人で死ぬまでやり続ける。今もそれをやっている状態だと思っているんですが、つまり、初期設定の通り、今、なっていると思うんですね。会社を作りましたが、会社だって、僕一人でやってます。建築はいまだに作ってません。知っている方もいらっしゃるかもしれませんが、別に有名でもありません。というわけで、初期設定をしてから今年で丸20年が経過したんですけど、それなりにいい感じでは進んでいると思います。でも、作品を作るという行為を、僕は何者でもありませんでしたが、その何者でもない僕が継続していくってことはなかなか難しいわけです。しかも、本を書いて、絵を描いて、音楽を作る、って、なんかただの若者の夢~みたいな感じじゃないですか。そこでそれを実際に実現している人を探してみたんですね。当時、赤瀬川原平さんが生きていました。僕は生まれて初めての対談は赤瀬川原平さんにお願いをして実現したのですが、赤瀬川さんは元々ネオダダという芸術集団の一員で芸術作品を発表していたんですね。しかも、その後本を書き始めて芥川賞も受賞している。音楽はやってませんでしたが、絵も描いて本も書いてってところは影響を受けたと思います。ですが、赤瀬川さんは本流としてはやっぱり本を書くことで、もっといろんなことをやったらいいのかもなあと思いました。あと芸術家の大竹伸朗さんもいましたね。大竹さんは絵を描く芸術家ですが、文章も書いて、当時本をいくつか出版してました。あと元々音楽家だったのでアルバムもいくつか出してます。大竹さんは26歳くらいの時にアトリエのある宇和島まで会いに行ってます。あと、僕の師匠、石山修武さんも本を書き、建築を設計し、絵も描いてました。いくつかの仕事を同時にやっている人もいるにはいたわけです。少なかったですけど。というわけで、初期設定を済ませると、その後は具体的に、自分がやろうとしている仕事に近いことをしている先人たちを見つけて、彼らがどうやって生き伸びているのかをチェックしました。赤瀬川さんは本が売れていて、ベストセラーになった本もいくつかありました。大竹さんはギャラリーに所属していて、そこで絵を売っていた。石山さんはおそらく主な収入は大学教授の給料だったのではないかと。

 ほー、なるほど、じゃあ僕はどうやっていこうかなと考えました。本が売れるなんてのはちょっと夢を描きすぎだな、というかまだ本を書いていない。じゃあギャラリーに所属しようかなと思ったんですけど、まだ描いた絵といっても数枚しかない。大学教授は、会社と同じですから、僕としては無理な話です。というわけで、本を書いて、絵を描いて、音楽を作って、それで食っていこうなんてのは、ちょっと考えられないわけですね。

 僕が手に持っていたのは、大学の卒業論文としてセブンイレブンのカラーコピー機を使って作り上げた路上生活者の家の写真とフィールドワークした記録を文章と絵にしたものを自分で編集した手作り本、オールカラー200ページの「東京ハウス」という本一冊でした。これは僕が継続することで作り上げた初めて作品だったといえます。2001年に完成しました。僕の作品第一作目です。これが23歳の時ですね。大学在学中に、まずは1週間かけて、多摩川河口から多摩川の源流まで歩いて、宿泊は毎回、河川敷の路上生活者のおじさんにお願いして泊めてもらいました。それで帰ってから1週間かけて執筆し、その後1週間かけて編集、製本して作りました。1ヶ月、何かに集中して継続すれば、なんでも作り上げることができるのかもしれないと実感した出来事です。

 本が完成した後、僕は、ああ、こういう生活がやっぱり一番いいなと思ったわけです。自分が作りたいと思うことにだけ集中する生活。こりゃ楽しいなと。せっかく継続するなら、こういうことをやってみたい。しかし、困ったことに、作品を作り上げた翌日から、本当に次は何をしたらいいのかわからなくなってしまいました。力はあるのはわかるんです。もちろん力を注入して作ったことは作りましたが、なんかまだ力は有り余っているんですね。でも、作品は完成させちゃったので、完成させちゃうと、ネタ切れというのか、次に何をしたらいいのかわからなくなったんです。この頃はまだ何を作るか、ってことにだけ集中していたんだと思います。この時は、既存の現代建築のアンチテーゼとして路上生活者の家の作品集みたいなものを作りたいと考えてました。路上生活者の家の調査を僕はネタだと思っていたところも正直あると思います。だから完成させちゃったあとは、何をしていいのかわからなくなった。でも、僕が最初に、目に入ってきたのが路上生活者の家だったのは今も何か意味があると思ってます。もちろん、最初は、見た目の奇抜さに惹かれていたのは事実です。しかし、実際、彼らの住居の中に入って、住んでいる人と話し、酒を飲み、何度も通ううちに、僕は路上生活者の家の調査という奇抜なものを観察する観点から、彼らの生活、彼らが毎日やっている作業に着目していくようになっていったからです。僕は彼らと話していく中で、自分には生活がない、自分はどうやって生きていくのかまだわかっていないと強く思うようになっていきました。それくらい僕が話を聞かせてもらったおじさんたちは、毎日の日課があり、その日課をしながら生きていることに幸福を感じているようにすら僕には感じられました。実際に、幸せなんだよと僕に話してくれた人だけを僕は調べるようになっていきます。ここまで書くまでわかっていなかったんですが、確かに、僕は、大学在学中のこの路上生活者の家の調査の時に、すでに、継続仙人たちと出会ってたんですね。今気づきました。彼らもやはり一人で独力で、毎日の生活を組み立ててました。一人で仕事をしてました。そして、毎日、同じような日課を来る日も来る日も継続していた。そして、みんなに共通していたのが、僕が話を聞かせてもらった人が皆、自分が幸福であることを、僕に教えてくれたってことです。なるほど、なんで、今日は昔を遡るんだと思いながら、実はちょっと違和感を感じながら書いていたのですが、そういうことだったんですね。僕は仕事の最初期から、どうやら建築ではなく、どうやって自分の生活を作り上げるのかってことがテーマだったのかもしれません。路上生活者の家をそれこそネタとして消費しまいそうな自分もいたのは確かです。だからこそ、次に何を作ればいいのかわからなくなった。でも、僕はこの時にすでに、その後何十年と続く、自分の生きるテーマ、どうすれば幸福になれるのか、ってことに気づいてもいたようです。いや、その時はわかっていませんでした。何を作るかってことは悩んでました。迷ってました。それで手が動かずに止まっている時間もあったんです。でも同時に、僕はただ作りたいだけなんだけどなあ、どうすればいいんだろうか、と思っていたこともまた事実でした。お金がないから、僕は自分がやりたいと思っている、本を書いて、絵を描いて、音楽を作る、ってことが継続できないんだろうか。そう思いながら僕は目の前で酒を飲んでいる路上生活のおじさんたちがお金がほとんどないことにも気づいてます。彼らは徹底して、時間を自分なりにコントロールしてました。彼らはみな朝4時頃から仕事を開始します。空き缶を拾う人だったり、ゴミ袋から貴金属を拾う人だったり、古本を売る人だったりと内容は様々でしたが、みんな早起きでした。そして、お昼には仕事を終わって、あとは毎日ゆっくり食事して晩酌して楽しんでました。その空いた時間で、俳句を作ったり、カラオケに夢中になったり、拾ってきたゴミで彫刻を作ったりしてました。

 なるほどそれなら僕もと思い、僕も朝に強かったので、築地市場で朝4時からバイトしながら、お昼過ぎに終わるので、そこから作品を作るという日課を始めることになったのです。

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