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躁鬱大学 その9 鬱の奥義 二の巻/鬱の時の過ごし方 躁鬱人は医人である

9 鬱の奥義 二の巻/鬱の時の過ごし方 躁鬱人は医人である

 鬱状態になった時に、どうやって1日を過ごしていくかってことは、躁鬱人にとって永遠のテーマです。僕が調べた限りではありますが「鬱の時の過ごし方」について書いてある本がおそらく一冊もありません。このことに関してはまだ誰にも解明されていないし、研究自体もほとんど進んでいません。しかし、躁鬱人にとって何よりも知りたいことがこのことなのです。というわけで、今日は「鬱の時の過ごし方」について徹底的に考えてみることにしましょう。僕もまだ最適解が見つかっているわけではないです。今、僕は鬱ではありません。だから呑気に書いてますが、僕も鬱になったら、とんでもない絶望の渦に飲み込まれて、書くどころではなくなるし、部屋に一人でこもり、そして、自分自身を際限なく責めてしまいます。慰めも効かず、自分ではどうにか立て直そうとしますが、何かが自動的に動いていて、それが常に悪い方へ辛い方へとばかり向いていくので、すぐに心が折れてしまい、また自己否定に向かうという運動が始まってしまいます。まずはカンダバシの言葉を読んでいくことにしましょう。ようやく一段落目が終わり、二段落目に入ります。最初の行から。
 躁鬱人たちが「不自由な状況に対して、『しっかりしなければ』と耐えていると、躁鬱の波が大きくなります」。われわれ躁鬱人は、完全に鬱になる前にカンダバシが指摘するように「しっかりしなければ」と考えはじめてしまってます。もしくは「きちんとしなければ」という言葉を使う人もいるでしょう。ちゃんとしないと、とか、真剣に取り組まないと、とか、物事の深刻さを理解しないと、とか時々、できもしないのに、誰から教わったのか、突如顧みようとする、例のアレです。
 鬱になる前に、プレ鬱の状態があります。その兆候は「ちゃんときちんと語」を話しているかどうかを確認すればすぐに把握できます。「ちゃんときちんと語」は躁鬱人の公用語ではありません。言うまでもなく、われわれ躁鬱人の公用語は「のびのび語」です。
 僕の生活を元にした例文を作ってみましょう。たとえば僕のところにある本の書評の依頼が来たとします。僕が尊敬する作家の本です。依頼はある新聞社からで、日曜日に掲載されている本特集で、その本についての書評を800字にまとめてほしいという依頼です。まずはいつも楽しい躁状態、軽躁状態の時にどう感じているかをのびのび語で言葉にしてみます。

〈例文1〉のびのび語

 会ったことはないけど尊敬しているあの人の書評の依頼がきた。しかもあの新聞社だ。日曜版だからドーンと掲載されるはずだ。もしかしたら俺の顔写真も掲載されるのかも! なんの賞ももらってないけど、在野でかっ飛ばしてる俺こそが作家の中の作家だし、だからこそあの新聞社は依頼しているわけで、本当に良いものを良いと言えるこの新聞社はすばらしい。書評依頼されている本自体はまだ読んだことないけど、というかそもそもあの作家の人の本は、尊敬するといいながら一冊も読んだことはない。でもあの人の書いている文字から漏れてくる感覚っていうのかな、それが好きだからそれで良い。本なんか読めなくても問題ない。むしろ本が読めないのに本を書いている俺やばい。誰もわかってないけど多分おれまじですごい。でそれを理解してる新聞社もやばい。だから俺は今回、本を読まずに書評するつもりだ。それでもできちゃう。パッと本を開いて、目に入ったところから一冊の本がかけるくらい書評書ける。で、もう書いちゃった。800字っていうお願いだったけど、もちろん常に枠ははみ出していこうの精神で12000字書いちゃった。で速攻でメールを送って、真夜中だったけど、感想が聞きたくてすぐ電話した。

 とにかく元気ですね。そして自信満々。本が読めないことが長所にすらなっています。そっちに寄せるのではなく、こっちに寄せる。どうにか自分の土俵で好きに生きていこうとします。だから書評の依頼なのに、本は読みません。そうではなく、自分がどう感じているかを、本を超越して、それでも自分はその本の本質を見抜けると確信してしまってます。そして実際に、締め切りより随分早く大量の原稿を書いて送ることができます。800字の枠では足りない。しかし、新聞社のデスクがこれを読んで感動し一面使って掲載することになる、ということも稀に起きます。でも大抵は周りが困ってしまって、書き直しさせられる羽目になる。そうするとプレ鬱状態がはじまっていくのです。では、これが「ちゃんときちんと語」になるとどうなるかを見ていきましょう。

〈例文2〉ちゃんときちんと語

 書評がきた。いや、きてしまった。できるわけがない。しかも書評する本はあの人が書いた新作。まずその本を読んだこともない。そして読める自信もない。でもなんで書評の仕事が来るのか。躁状態の時に、読んだこともないのに、あの作家のことを「俺はこんな風に読み込んだ」と言って、パッと開いてたった3行くらい読んで思いついたことを、適当に書いちゃったからだ。あれを記者がツイッターで読んで、それで依頼してきたっぽい。実はあの人の本は読んだことがない。それがバレてしまうんじゃないか。新聞社の書評だからきちんとしなくちゃいけない。本は読まないといけない。新作だけでなく過去作も読み込まないと書いてはいけない。そうやってちゃんと読書できる人間だけが書評委員になるべきで、僕みたいな作家といいながらもただ躁状態の時に思いつきで書くだけのニワカ作家にはできない。僕は本を読める人が羨ましい。そうなりたい。読書できないことを躁状態の時はむしろ自慢するが、あいつを叩きのめしたい。本当に傲慢だ。僕にはできない。書評も書けない。仕事しないとこれからどんどん金がなくなっていくと思うけど、それでも書けないから断りたい、でも断るメールを書くのもしんどい。締め切りは近い、きちんと読書もできないのに、読み込まないといけない。仕事しないといけない。眠いのに、寝てはいけない。とにかく仕事をしなくてはいけない。でもできるわけがないし、僕は本当にどうしようもない、嘘をついている。本を書くんだから、本が読めるんだ、読めなくても本質を理解することができると嘘をついて、そう見せかけている。そうではなくなりたい。ちゃんといきたい。真面目に生きたい。きちんと本を読んで、当たり障りのないかもしれないが、これが新聞社の書評だ、と思われるようなものを、知識人も唸るようなものを書き上げなくてはいけない。しかし、それができないので、今回の仕事は断ることにしたいが、できない。書いてみたが100字くらいしか書けなかった。僕はもう終わりだ。書けないのに書けないということもできない。ちゃんとしなくちゃいけない。作家ならきちんと作家らしくしないといけない。つまり本が読めないといけない。書けないから死んだほうがマシだ。僕はもう死んだ方がいいくらいのつまらない退屈な人間で才能がないからまじで死んだほうがいいから、書評どころではないが、断りのメールを書く勇気もないから死んだほうがいい。

 僕の場合、躁状態と鬱状態でこれくらい違います。躁状態であれば、まあいいんですが、といっても問題はあるんですよ。なんせ本を読まずに書評を本当に書いちゃいますから。そして、そんな俺が最高ってところまで行きます。でも文章はキレッキレなので企画通っちゃいます。熱量がちゃんとあれば800字じゃなく新聞記事3段分くらいは確かに平気で勝ち取ったりします。それが躁じゃなくなり、真ん中くらい、もしくはそれより下になっていくと、少しずつ「真面目にやらなくちゃいけない、ちゃんとやらないといけない」というモードになっていきます。このプレ鬱の時には、まだそれまでの躁状態がやりこなしてきた余韻が残ってますので、いろんな仕事が舞い込んでは来るんですね。しかし実際にはプレ鬱に入ってきている。すると、微妙などっちつかずの状態になっている躁鬱人は「しっかりしないと」と考えてしまい、本当は横になって寝ていたい、もしくは自信がないので断りたい、と思っているのに、その本音が言えなくなっていきます。それでもメールの返事等は遅くなります。躁状態の時はあんなに早かったのに、です。こうなると「我慢」しはじめます。あの「わがまま」な躁鬱人が、です。「ちゃんときちんと語」を使うようになると、自然と我慢するようになります。わがままでいることが悪になります。自分が常に人より劣っているような感覚になるので、自分らしさが出せなくなります。長所だと思っていたところが全て短所であると誤認識が始まります。カンダバシはこう言ってます。
「躁鬱病は体質ですから、季節や天候(季節のサイクルや台風など)、お産や生理、そして人間関係のストレスで悪くなります。特に自分らしさや自分の長所が失われた時が要注意です」
 まずカンダバシが躁鬱病は病気というよりも一種の体質だと冒頭に言ったことを思い出しましょう。これはわれわれ躁鬱人にとって都合がいいといいますか、福音のような言葉ですので、忘れることはないですよね。そして、体質ですから、つまり体の特徴ですから、体の変化によって日々変動するんです。ここも重要です。まず心よりも体に注目しましょう。なぜなら心は確認することが難しいです。もちろん心も体の一部分ですが、なんせ正確な観察が難しいので、あんまりやっているとこんがらがってきます。ですので、躁鬱人は心はほっときましょう。苦手なんです。自分の精神状態を推し量ることが。それも知っておくといいですよ。ずっと心の中を推し量ろうときてきたんでしょうが、うまくいかなかったはずです。なぜなら苦手だからです。人の気持ちをうまく汲み取れないように、われわれ躁鬱人は自分の気持ちですらうまく汲み取れません。なぜなら毎度観察態度が変わってしまうからで、定点観測が不可能なんですね。だからできないだけです。あなたは人の気持ちがわからないわけではないんです。人の気持ちをわかろうとするあなたが常に変動しているので、その都度変わるというだけなんです。それは自分に対してもそうです。のびのび語を話す時もあれば、ちゃんときちんと語を話す時もある。気分によって使う言葉まで変わってしまいます。だから観察はできないと知りましょう。苦手だと知り、苦手なことは一切しないということが躁鬱人のまず何よりも大事な態度です。「苦手なことでも克服しできるようにならないといけない」という「ちゃんときちんと語」が生み出した考え方は鬱状態をこじらせることしかしませんので、ただ健康に悪いということだけを頭に入れておいてください。健康に悪いことを鬱状態にするのはやめましょう。せめて躁状態の時にしてください。もちろん躁状態になったらなったでちゃんときちんとしようなどとは一切思いませんので、苦手なことからは言わなくてもさっさと逃げます。だから延々と苦手なことは克服されないんです。もうさっさと諦めて次に進みましょう。
「苦手なことはできないので、一切やらない」
「克服という概念を捨て去る。できないものができるようになる、よりもできることがもっともっとできるようになってむちゃくちゃ褒められるほうがいいです」
 そんな感じでいきましょう。苦手なことができるようになっても、褒められるどころか、当然だと思われるだけじゃないですか。人から褒められる可能性が低いことはやらないようにしましょう。人から褒めれらる可能性があるものに関しては努力も自然と言われなくてもしているはずです。
 心は観察することができない。では鬱状態の予感を感じるためには何を観察すればいいんでしょうか。容易に観察できて、しかも自分の思い通りになるものが必要なんです。まず脳はどうでしょうか? やっぱりここと同じようにコントロールできませんよね。それは鬱状態のあなたは知っているはずです。自分のことをそこまで否定しなくてもいいのにと思うのに、止められないじゃないですか。脳の動きはいくらでもコントロールできそうなのに、一切できないんですよね。考えないようにしようと思っても逆にもっと考えてしまいます。厄介な臓器です。骨もコントロールできません、胃も大腸も小腸もコントロールできません。筋肉も無理です。神経ももちろん無理です。僕たち人間が外部から容易に観察できる方法を思い浮かべてみましょう。胸に聴診器をあて、心音と心拍、呼吸の音を確認してます。つまり、心臓と肺です。この二つは観察することができます。躁鬱人の気分はどんなに変化しても、定点観測することができます。しかも観察できるだけでなく、心臓は横になると楽にすることができます。呼吸は止めることも深呼吸することもできます。つまり、心臓と肺だけは、われわれが自分で処置することもできます。ということで、自分の体、体質を推し量る最適な方法は、心臓と肺を観察し自ら処置する、ということです。これはとっても大事なことだから頭に入れておいてくださいね。しかも、躁鬱人にたびたび起きる自信のなさとか自己否定をなんとかしなくちゃいけないと思うとどうにもできなくて疲れてしまいますが、心臓と肺に注目して優しくしよう、だったら、誰にでもできるじゃないですか。僕は娘と息子が死ぬのが怖いという状態になったら、深呼吸の方法を教えてます。横になって心臓を落ち着かせて、吸うのを極力減らして、ゆっくり吐く量を増やすように伝えます。それは子供でもできます。そして一番効果があります。心の悩みだと思われるものを治癒することが、このように心臓と肺の動きを調整することによって可能になるんです。というか、心臓と肺でしかできません。どれだけ頭で言葉であなたの躁鬱の体質をコントロールしようと思ってもできません。苦手なことはしないようにしましょう。「できることをもっとできるようにする」これが重要なことです。心臓と肺だけがあなたを楽にすることができますから、それをもっとできるようにしましょう。
 躁鬱人が躁状態から鬱状態に移行していくとき、「のびのび語」から「ちゃんときちんと語」に言葉が変化していきます。まずそのことに気づいたら、プレ鬱に移行しているサインになります。そこで体の観察をはじめましょう。僕の経験ですが、鬱になる前には必ず「疲れてます」。ここはすぐ見落としてしまうので気をつけましょうね。なぜなら躁状態の時は一切疲れないと勘違いしているからです。もちろん疲れているんですよ。ですが脳内麻薬が分泌されていますので、覚せい剤をやっている時とほとんど変わらない。三日くらい徹夜麻雀が余裕できるわけです。でも本当は疲れている。脳内麻薬だって麻薬は麻薬ですから、切れたら、疲れがどっと出てきます。疲れがマックスになると、必然的に鬱に移行していきます。「窮屈」によって躁鬱人の動きが縛られていくと、さらに無理に躁状態で動こうとしてしまい「疲れ」てしまうわけですね。「窮屈」を解放させるためには、これまでの章でずっと書いてきましたが、次は「疲れ」に対しての対策が必要になるわけです。そして、疲れへの唯一の、かつ一番効果のある対策が「心臓と肺の観察・処置」なわけです。
 それでは実際にどうやって観察・処置を行うのかを説明していきましょう。
 まず、仁王立ちして立ってみてください。躁鬱人は百人いたら百人、体に力が入りまくってます。力を抜いてくださいと言っても抜くことができませんので、ここはイチローの打席に立った時のリラックス法を活用してみましょう。肩の力ではなく、膝をガクッと折って、膝の力を抜いてみてください。がくんと体が沈んで肩の力まで抜けていくのが実感できると思います。力抜いたら楽になったでしょ? それくらいぐっと力を入れて躁鬱人は生きてます。ただ生きているだけで疲れてます。実は。だからこそ脳内麻薬が頻繁に分泌されているわけですね。もちろんこれは全部僕の予測ですよ。間違っても医学的証拠はありません。そんなことどうでもいいんです。そんなこと言ったら、躁鬱病ってものが何かという医学的証拠だってないんですから。とにかく心臓と肺を観察するしかわれわれにはできないんです。力を抜いた瞬間、心臓と肺、胸のあたりが、楽になるのが確認できますかね? これは何度かやればわかると思う、もしくはちょっと意識すればすぐにわかるはずです。心臓と肺辺りに意識を集中して、また膝の力を抜いてみてください。どうですか? わかりましたか? つまり、力を抜くと、まず心臓と肺は喜ぶってことです。それでもまだ力が入ってます。どうしてかというと、それは立っているからです。躁鬱人は常に立って動きたがります。躁状態では寝ていることは退屈な一番忌避すべきことになります。興奮して眠れませんし、眠りたくないんです。そのため一日のほぼ全てを立って過ごします。ここで筋肉がどうやって動くかを考えると、血管を通して、肺が取り込んだ酸素を心臓から送り込んだ血液に載せて運搬していくからです。立っていると、ずっと体の筋肉は休めません。心臓と肺ももちろん休めません。24時間オープンのコンビニになってます。鬱状態とはそんな眠らない都市に侵入してきて都市の機能を眠らせるウイルスのような役目を果たしてます。では、自粛要請を出してみますね。自粛要請って言葉はおかしいんですが、われわれは自粛要請を自らの体には出すことができます。どうすればいいか? これも簡単です。ただ横になればいいんです。そうすることで、足の先まで必死の血液を送り、さらに戻って来させる必要がありません。横になれば高さが同じになりますので、重力に逆らって血液を送り込むという作業がなくなり、心臓の負担が格段に減るんですね。ということで、次に横になってみましょう。そして、あなたの得意な感受性でもって、どう変化したかを感じ取ってみてください。躁鬱人はイメージするのが得意です。必死に東京タワーの上から下まで荷物を階段で上り下りしながら運んでいた労働者のイメージ、それが横になると、大きな平屋の家になるわけです。荷物を運ぶのが楽なのはどっちかってすぐわかるでしょ。横になるとき、そのイメージをしていてください。より際立って心臓と肺の楽になるっぷりが感じられます。心臓が温泉に浸かった時みたいに「プハー」とか言いながら、力を抜いて楽になるのがわかります。さて、あなたもやってみて、体験してみてください。躁鬱人は体験こそ命ですので、体験が好きですし、こうやってまた一つ知らないことを知ると、それだけで鬱が楽になります。知らなかったことを知るだけで治療になっているんですね。どうですか? なんで今まで立っていたんだと思うくらい楽になりませんでしたか? これが観察と処置の重要な例です。今、あなたは楽になってます。楽になった理由は横になったからです。横になると、心臓と肺が楽になります。もちろん膝の力を抜くでも、楽になりましたよね。躁鬱人たちは幼い頃によく、わざとこけてみんなをびっくりさせたりしてまうが、あれも膝の力を抜く、そして横になる、という行為を自然とやっているわけです。自然治癒力を自ら試そうとしていたわけです。これが躁鬱人の神秘です。久々に思い出して、ふざけてこけて床に伏せてみましょう。
 力を入れて立ったときと横になった時とでどれくらい楽になったのかを観察してみてください。どうですか? そしてこう聞いてください。
「ねえねえあなたは今、立っていたい? 横になっていたい?」
 もしもまだ立っていたい、という答えの人は躁状態が続いていることを表してます。脳内麻薬も出てますし、寝ていても落ち着かないでしょうから、どうぞ外に出て好きに暴れてきてください。どうせ止めても止まりません。好きにやるしかできないのです。どうぞ好きにやってください。でもその代わり時々ふざけてこけてください。
 しかし、あなたがもっと横になっていたい、と答えたならば、あなたは疲れている可能性があります。たとえ気分はまだ悪くはなくても、疲れてます。これがとても大事なポイントで、疲れに前もって気づいてあげて適切な処置をすれば、鬱になる前に平穏になれます。しかも鬱であっても、力を抜くと、力が入っている状態よりも、楽になります。
 寝ながら、さらに力を抜く方法があります。今は仰向けに寝てますよね? そのまま両手、両足を広げてみてください。その時にどう変化するかイメージしてみてください。そうすると、どういう体勢が一番楽かがわかります。僕は両手両足を思い切り、広げていた方が楽です。しかし、これは人によって違うようです。人によって当然ですが心臓と肺は違いますから、あなたの心臓と肺が一番楽な横になった姿勢を見つけてみてください。僕の場合は仰向けよりもうつ伏せの方が楽になるときもあります。仰向けでも、腰の下にタオルを丸めた棒を入れて、腰だけ少し高くした方が楽な場合もあります。そうやって、自分なりにアレンジしてみて、自分なりの最高の横になった姿勢を見つけてみてください。そして、常にやる前とやった後の気持ちの変化、心臓の負担具合の変化、まあ楽になったかどうかを、確認してみてください。このビフォーアフターを常に観察するということが、そのまま治療になります。これも「新しく何かを知る」という躁鬱人の好物だからです。どうですか、なんだか楽しくないですか? こんなに簡単に自分の医者になれるんだと知ると嬉しくないですか? はっきりと言います。実は躁鬱人とは実は「医」の人なのです。今、あなたは自分を治すという行為を通じて、みんなを治す医人になろうとしている講習会に参加しているようなものなんです。それもまたイメージしてみてください。あなたは医者なんですなんて言われたら、躁鬱人は嬉しくなってしまいます。嬉しくなるのを僕は知っているからこう言っているだけです。つまり、嬉しくさせることで治そうとしているのです。面白いでしょ。もしも面白いと思ったのであれば、それだけで鬱が楽になっているはずです。そのことも観察してみてください。今日はこれくらいにしておきましょう。次回は医人となった僕が、心臓と肺を楽にする様々な処置について伝えたいと思います。それではみなさんお疲れ様でした。今日も楽しく楽な一日を過ごせますように。また明日。

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