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躁鬱大学 その7 「自分とは何か?」という言葉はすぐに捨てて「自分は次に何がしたい?」と聞いてみよう。

7「自分とは何か?」という言葉はすぐに捨てて「自分は次に何がしたい?」と聞いてみよう

 さて、今日は時間割の話でしたね。早速はじめてみましょう。
 まずは躁鬱の波がありつつも、そこまでひどくはなく、毎日を健康に過ごせていた日のことを思い出しましょう。僕の場合、中学生くらいから波がひどくなったように感じます。高校生になると鬱っぽい気配も感じるようになった。しかし、小学生の時は健康に過ごしていたように感じます。
 みなさんはどうでしょうか。今は躁鬱の波にずいぶんと翻弄されているでしょうから、自分はずっと不幸だと感じている人もいるかもしれませんが、そんなことはないはずです。遡れるだけ遡ったら、きっとあります。そこまで厳密に考える必要はありません。幸福である必要もありません。なんとなくでいいんです。要は、毎日同じ時間に起きて、ご飯を食べて、学校にも行けて、授業も受けて、放課後もなんとなく過ごして、家に帰ってきて、ご飯を食べて、風呂に入って、そして何にも考えずに寝たという超平凡な日を送れた日のことを思いだせれば十分です。そんな日々がきっとあなたにもあります。とにかく躁鬱人にとって大事なのは適当に考えようってことです。だいたいでいいです。でも、今とは全く違うことに気づくはずです。そして、自分にもそうやって過ごしていた日があったと気づくことが重要です。むしろ、気づくだけで治療の一環にすでになってます。成功してなくても構いません。テストの点数が悪かろうが関係ありません。友達がいなくても全然問題がないです。躁鬱人は基本的に友達づきあいみたいなものは、適当です。ぼんやりとしか記憶がないはずです。人のことがよく見えませんし、基本的に自分のことだけ考えている体質ですから、その辺はとにかく適当に考えましょう。大事なことは、別に振り返ることもなく、自分のことを否定もせず、かと言って特別視もせず、たいしたことも起きず、そして不幸なことも起きず、ただの地球の中の虫みたいな小さな一人として、隠れもせず表にも出ず、楽しすぎるわけでもなく、悲しくもなく、あー、1日終わったなあ、さ、寝よう、と思いながら、気づいたら、寝ちゃってた、という日のことを思い出してみるんです。みんな赤ん坊の時はそうでした。反省する時間なんか1分もありませんでした。ですが、さすがに赤ん坊の時は覚えてません。そこも厳密に考えずに適当に、だいたいこの辺りのことかなあ、って見当がつくはずです。
 僕の場合は、なんとなくですが、小学五年生のある1日かなあと感じました。何にも振り返ったり、顧みたりせずに、それなりに楽しく、1日がただ過ぎていきました。確かに、そんな1日があったんだと気づくと、やっぱり驚きます。今では、どうしても「今日は上がり過ぎてるかな、鬱にはならないかな」という思考が入ってきます。そして、なんとかして多彩なことをして、出来るだけ脳みそに気持ちいい風が入ってくるようにしたいなあとか考えてます。でも、その昔、11歳の頃、僕はそんなことを一つも考えず、周囲にあるものだけで、お金も使わずに、楽に過ごせる時間を生み出していたんです。それを懐かしんだり、羨ましがるのではなく、こう考えましょう。
「その時の日課に戻せば、また同じように楽に過ごせるはずだ」と。
 ここでカンダバシの言葉をまた読んでみましょう。7段落目の17行目です。
「平穏と充実は両立します」
 これを読んで僕はとても体が楽になりました。そして、少し忙しくやることが色々あって、でもそのおかげでいろんな人に会ったり、遠くへ出かけたり、これまでやったことがないことをしたり、知らない場所へ行ったり、飛行機に乗ったり、その合間にゆっくり美味しいコーヒーをだすお店で休んだり、本を読んだり、していた時の楽しい時間のことを、それを過ごしている自分の感触がちょっと戻ってきました。
 そのあとの行でカンダバシがさらに言っているように「生活が充実してくると波が小さく」なるというわけです。逆に、生活が暇だと、この時間に何をやると決まっていないと、波が激しくなるんです。そして、前章でも書いたように、躁鬱人にとって学校とは、この「充実した生活」というものが容易に実現していた大事な環境だったわけです。しかし、学校生活は大抵が、誰かに用意されています。だから充実はしていたが、そこまで記憶には残っていないはずです。躁鬱人はやりたいことしかしたくありません。だから、学校では同時に窮屈も味わっていたはずなんです。しかし、そんな窮屈な環境であっても、細切れに時間が区切られていて、色々やることがあって、なんだかちょっと充実しているという状態であれば、押し込まれることなく、波も穏やかになるんです。そして、それを今度は、自分が窮屈を感じることは一切入れずに、全部自分がやりたいなと思うことでもって時間割を作り、それらをやりながら少しばかり汗をかいて充実するという生活を実践してみてほしいんです。というか、もうすでにやってみたくなってはいませんか? 僕もこのことに気づいた時に小躍りしました。しかも、不思議なことに僕が小学5年生の時に、とても好きだったことが、この時間割作りだったんです。当時は「1日の計画」と書いて、円グラフを作ってました。そして、何時に起きて、何をするかってことを書き出していたんです。実はその時にすでに僕は自分で自分を操縦しようと試みていたことがわかります。というわけで、僕が小学5年生だった時の1日の動きを実例として振り返ってみますね。
 まず僕は朝6時頃起きてました。この時から朝型人間でした。朝7時になると、両親が起き出してきて、食事の準備などを始めるので、僕も彼らの時間に合わせる必要が出てくるのですが、それだと落ち着かないので、両親が起きてくる前に一人で起きて、漫画を描くということをやってました。自分の机でまずやるのは勉強ではなく、学校でやることとは関係がない、自分がやりたいことでした。1時間それをやると、とても心地が良かったです。そのために前日の夜、机の上を片付けておくと、さらに心地よさがアップするということもその時、知りました。
 そして、朝7時になると、朝ごはんを食べます。朝ごはんは1日も欠かしたことがありませんでした。そして、僕は食パンではなく、ご飯が好きでした。ご飯と卵焼きと海苔があればもう大満足でした。ご飯を食べると、顔を洗って歯を磨きました。そして、小学校は制服だったので、制服に着替えました。そしてランドセルをからって、集団登校で学校へ行きました。
 学校では5時間授業でした。午前中3時間、そして昼ご飯を食べ、昼休みを過ごし、掃除をして、午後2時間授業を受ける。その後、午後4時頃から日が暮れるまで野球部で練習をしました。そして、弟と一緒に家に帰ってきて、汚いですからそのまま風呂に入って、夜ご飯を食べて、テレビを観て、夜10時頃寝てました。
 休み時間は、僕が作ったロールプレイングゲームを友達と遊んでました。漫画も描きました。ドッヂボールも好きでした。野球部は楽しくはありましたが、本当はあんまり興味がなく、みんなが野球ブームで野球部に入ったから僕も入っていただけです。本当は絵を描いてれば幸せでした。家に帰ると、弟と僕が作った野球ボードゲームをして遊びました。そっちの方が楽しかったし、上手かったです。
 遊ぶ友達は家の近くに住んでいる友達一人、そして僕が作ったゲームを一緒に遊ぶ友達4人、そして、女友達が3人いました。外で遊ぶよりも、女の子と昼休み喋るだけで楽しかったですが、女の子とイチャイチャしてると突っ込まれてしまうので、それだけではダメだと思い、ドッヂボールをしてました。宿題などは帰ってきたらすぐにささっと終わらせて、その後の自由時間を好きなことをして過ごす方が好きでした。サンリオを模した文房具の勝手なブランドを作って、ビニール袋に入れて商品っぽくしたりしてました。漫画を読むよりも、漫画を描くことが好きでした。テレビなどをただ見るよりも、自分でゲームを作ることが好きでした。ゲーム機も持ってましたが、特にうまくもなく、はまることもなく、適当に遊んでは、自分だったらどんなゲームを作るのかを考える方が好きでした。
 という平凡な1日を過ごしていたわけです。健康そのものでしたし、暇だなあと思うことは一切ありませんでした。自分とは何か?なんてことはもちろん考えません。それよりも明日は何があるんだっけ?と時間割を確認することの方が多かった。躁鬱人はとにかく自分とは何か?と考えることがとても下手です。そうやって、自分に起きていることを言葉にして感じることがなかなかできないんです。それは躁鬱人の言語が感覚だからと言いましたよね。
 躁鬱人がよく自分とは何か?と考えるのはなぜか。それはズバリ退屈だからです。充実している時は平穏です。心地いいと感じてます。その時には一切自分とは何か?と考えません。平穏な時に考えていることは唯一「次に何をしようか?」ということだけです。ゆっくり空いた時間を利用して、何も考えずにしばらくぼーっとする、なんてことができません。ぼーっとしてみたいと思うかもしれませんが、それは無理です。ですが「次はぼーっとしてみよう」と決めると、ぼーっとした感じを出すことはできます。それでもぼーっとしていると「あ、これをしてみよう」とどうせ思いついてしまいます。そして、ぼーっとするのはせいぜい5分か10分で、すぐに次の何かに取り掛かります。あなたの横で1日、鬱でもないのに、今日は眠ってたいからずーっと布団でぼーっとしている人がいると思いますが、どうか憧れたりしないでください。ついつい「そんなにぼーっとしていてはいけないよ、貴重な時間があるんだから、あれもこれもやらなきゃ」なんてことを口にしそうになりますが、ここはひとつ黙ってあげてください。怒らないこと。カンダバシは「生活を万華鏡のようにしてください」とありがたいことを言ってくれてます。われわれ躁鬱人は、布団からすぐに出て、充実の世界へどんどん向かっていきましょう。そして「自分とは何か?」と考え出した時にはちゃんと自分にツッコミましょう。
「自分とは何か?」
 その答えは、
「自分とは『次は何をしたい?』としか考えない人ですよ!」です。
 これまでやってきたことを踏まえ、さらに技術を高めていこう、なんてことは考えません。努力には一切興味がありません。やりたいことしかできませんし、やりたくないことをすればすぐに窮屈になって、退屈して、嫌になります。そのまま行動を続けると、必ず鬱になります。本当にただ素直に「次は何をしたい?」としか考えないのです。そして、それでいいんです。せっかくですので「自分とは何か?」という一度鬱を経験してから発生したこの言葉を今日限りで捨てちゃいましょう。われわれ躁鬱人は「自分とは何か?」というような、つまり、内省ってことですね、自分を省みる、この行動が一切できません。というよりも、そんなことをする必要がないんです。それは内省、反省をして、次の行動に繋げる、という方法論を取っている非躁鬱人たちに全部預けちゃいましょう。われわれには一切意味がありません。どんなに内省をしたところで、そのように自分を表す言葉を持ってませんから、なぜならそれは全て感覚でしか感受してませんので、気持ちいい! 生理的に無理〜、とかそんな風にしか表せません。頭を抱えて考えるなんてことになんの有益なことがないんです。悲しいことですか? 僕はそう思いません。ラッキー!と思った方が楽だし、なんか面白くないですか? 内省、反省が必要ないんですよ? しかももし仮に内省、反省をしたとしても、内省をするときは鬱状態である証でもあるんですが、どれだけやっても元気になった途端、それまで省みたことを全てちゃぶ台返ししてしまうんです。
「私はなんでいつもこんなことあんなことをしてしまうんだろう、どうしてこのような私になってしまったのだろう、原因があるのだろうか、そして、良い解決法があるのだろうか」
 なんてことを鬱のあなたは懲りずに何度も何度も繰り返そうとするのですが、元気になると、
「ヤッホー! またあれもこれもやってみたい、そしてその次にはこれをやって、そしてあれでしょ、あ、もうひとつおまけにあれこれそれもやっちゃおう!」
 となります。内省、反省が一切活かされないんですね。もうここは笑うしかありません。そんなわけで躁鬱人は「反省禁止」です。反省禁止の人生を送るわけですから、この反省大好きな社会において、反社会人ということになります。その自覚はしておきましょう。大事なことは非躁鬱人の前で「俺は反省を禁止しているから反省をしない」と公言しなければいいだけです。黙っておけばいいんです。僕は、こうやって書いてますが、あなたは言わなければいいんです。でも反省禁止を実践する。これは鬱がひどくなっている時に反省を強くしてしまうと自殺しかねないからです。自殺防止のための反省禁止です。躁鬱人にとっては命綱なわけです。でも社会的に見たら、不届き者です。そこらへんはうまく二重生活をお送りください。
 ついつい内省、反省について、書きたくなって書いてますが、そうです、今日こそ時間割について書きたいんです。われわれは躁鬱人であり、また別の名を日課族とも言います。海の波が満ちて引き、そしてそれが毎日だいたい同じように繰り返すことを思い浮かべればイメージがしやすいと思います。つまり、躁鬱人という言葉だけではわれわれを表すには完全ではなく、日課族というもう一つの顔を自覚してこそ、一匹の生き物として楽しく愉快に自立することができます。日課族にとっての栄養は充実です。退屈は日課族にとっての死を意味します。僕たちは退屈したら本当に死にます。僕が小学五年生だった時は、つまり躁鬱人として、さらには日課族としても安定していたわけです。だからこそ破綻しなかった。というわけで、僕の日課を作っていくことにしましょう。まず考えるのは、いや、われわれにもう「考える」ことは必要ないですよね。そうではなくただ「聞いて」ください。もちろん「何がしたい?」と。それではやってみます。自分で聞いて自分で答えるんです。これはとても大事な技術ですので、練習の意味で皆さんもやってみてくださいね。ではいきますよ。

「充実したい?」
「うん」
「じゃあまず何時に起きたい?」
「小五の時は朝6時に起きて、超気持ちよかったから、6時でいいんだけど、朝の時間がむちゃくちゃ好きだからもっと早く起きたい」
「じゃあ朝の3時にする?」
「それだと早すぎるから嫌だ」
「じゃあ4時でいいかな?」
「いい感じ」
「じゃあ4時起きにしよう。そうすると、躁鬱人日課族は睡眠時間が7時間と決まっているから必然的に夜9時に寝ることになるけど違和感ないかな?」
「うん、むしろ夜10時以降からはなんか自分とは何か?って考えちゃうから消したいくらいで、夜本当に嫌いだから嬉しい」
「じゃ、夜9時に寝る日課にしよう」
「はい」
「朝4時に起きて何がしたい?」
「もちろん一番したいことがしたいから、一番したいことは小五の時は漫画を描くことで、今は本を書くことだから、本を書きたい」
「一日何枚書きたい?」
「10枚書いたら、充実感感じるから、もちろん10枚で」
「それは無理ないかな? 毎日できるかな」
「必死にやれば毎日20枚書けるけど、多分無理なんで、その半分ということで10枚」
「それじゃ大丈夫ですね。小五の時は朝8時から昼12時まで午前中授業だったので、その時を執筆に当てることにしましょう。だから朝4時から朝8時まで本を書く。ご飯をその時食べたい?」
「全然食べたくない。書く前は食べたくない。書いた後に食べたくなるから食べたい」
「じゃあ休憩がてら朝8時から朝9時まで朝ごはんの時間にします。次は何をしたい?」
「書いたら満足するから、授業と授業の休みみたいな、休み時間が欲しい」
「じゃあ、朝ごはんを食べたら、9時半まで30分休み時間取りましょう。次は何がしたい?」
「編み物が好きだからセーター編みたい」
「どれくらい編みたい?」
「1時間じゃ少ないから1時間半編みたい」
「じゃあ11時までセーター編んでみて。次は何がしたい?」
「休み時間!」
「じゃあまた30分休みましょう。11時半まで。次は何がしたい?」
「順番はちょっと変わるけど昼休みの後の掃除みたいに、部屋の掃除と洗い物したい。そうやって、空いた時間にチャチャっと掃除をすると決めておくと、部屋も綺麗で心地いいし、すでに書いているから充実感あるけど、それを増幅することができるから嬉しい」
「じゃあ、30分掃除と洗い物で。次は何がしたい?」
「お昼ご飯を自分で作って食べたい。料理も写真撮って、新作の作品作るみたいに記録を取りたい」
「いいですね。じゃあ12時から1時までお昼ご飯タイムで。次は何がしたい?」
「昼休みが欲しい。長めに欲しい」
「ドッヂボール?」
「いや、女の人と話す時間が欲しい」
「仲が良い女の人がいるかな?」
「近くに橙書店といういつも原稿を読んでくれる久子さんという女性がいるから、その人と長めに会って話したい。できるだけ毎日」
「じゃあ午後1時から3時までは橙書店に行って、久子さんと話すってことにしましょう。次は何がしたい?」
「午後の授業みたいな感じで、別の仕事がしたい。僕は絵を描くのも仕事にしてるから、アトリエで絵を描きたい。陶芸もしたいから電動ろくろも買ったので、陶芸もしたい」
「じゃあ午後の授業ということで、午後3時から4時半まで絵を描いて、その後、部活ということで、午後4時半から午後6時まで陶芸部に入った感じでろくろ回すのはどうかな?」
「最高! 充実してる」
「それで次は何がしたい?」
「もう多分そこで満足してるからあとの時間は小五の時と全く同じ過ごし方がいい」
「じゃあ午後6時に家に帰って、午後7時くらいまでなんか適当に遊んで午後7時から夜ご飯を食べて、午後8時にお風呂に入って、小五の時より早いけど夜9時に寝るってことでいいですか?」
「最高!」
「じゃこれで行きましょう。どれか一つでも違和感あったら変更しますが」
「違和感がない。やりたいことだけやれてる。嬉しい」
「よかったね」

 ということで、僕はこんな日課になりました。

 坂口恭平の日課

 AM4:00 起床 すぐ本を書き始める(4000字)
 AM8:00 朝ごはん
 AM9:00 休み時間
 AM9:30 セーターを編む
 AM11:00 休み時間
 AM11:30 掃除、洗い物
 AM12:00 昼ごはん
 PM1:00 昼休み 橙書店に行って久子さんと話す
 PM3:00 アトリエへ 絵を描く
 PM4:30 陶芸
 PM6:00 帰宅 自由時間
 PM7:00 夜ごはん
 PM8:00 風呂
 PM9:00 就寝
 
 さて、あなたも自分で自分に「自分とは何か?」なんてことは一切聞かずに「次何がしたい?」と聞いてみながら、実際にそれぞれの日課を書き出してみましょう。それが終わったら、次に進みます。というわけで、今日のお話を終わりますが、日課を作ることを宿題とします。それではみなさんお疲れ様でした。ゆっくり休んでくださいね。


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