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生きのびるための事務 第2講 現実をノートに描く

 第2講 現実をノートに描く

「未来に行くためのタイムマシンが、このノートなんですよ」
 ジムがゆっくり僕が持っているノートをめくりながらそう言うんです。どう考えてもおかしなやつです。白紙のノートを見ながら、未来とかタイムマシンとか言っているやつは、絶対に危険なやつです。ジムのことを少し信用しはじめてしまっていた僕は、すぐに気を取り直し、この妄言を吐く、突然やってきてドラえもんみたいに家に居座っている、ただの外国人の顔をした居候をキリッと睨みました。きっと誰でもそうするはずです。
「事務っていうのは、家計簿とかつけたりするんじゃないの? そんな未来とかお花畑みたいなこと言ってどうするの。ジム、お前はただ居候することが目的で、でまかせ言ってるだけなんだろ」
 ところが、ジムはこうやって僕が激昂しても、痛くも痒くもないような顔をしているんです。それなら良いですよ、と、そっぽを向いて、うちにある古谷実の漫画「シガテラ」を寝転びながら黙って読みはじめました。なんか悔しくなって、僕はついポロッと文句を言ってしまいました。
「この暇人!」
 そりゃそうです。僕は21歳、大学も卒業したっていうのに、まだ仕事も決まっていない無職の人間です。学生じゃなくなったので、扶養からも外れ、そもそも親は大学行ったら、就職するもんだと思っていたので、総スカンを喰らってしまっており、誰にも相談できない身です。しかも、僕、自慢じゃないんですけど、大学の卒業論文は、路上生活者の住居を建築学的に調査した大作で、なんと一等賞であるA+++をもらっているんです。僕、大学で一番の研究者なんですよ。それなのに、大学院にも行かず、就職もしていないんです。あれ、おかしいな。就職なんかしてたまるか、大学主席の天才が就職? 馬鹿言ってんじゃないよ、みたいな感じで、息巻いてましたが、実は、試験が苦手でした。試験が苦手でどこも受けられなかった。怖かったのかもしれません。でもそれでも時間は無常に経過していきます。
 それで21歳の春、僕は晴れて、無職の財布に9000円しか入ってないやつになってしまったわけです。興奮と不安がざわめきあっているように外からは見えたかもしれませんが、ぶっちゃけますと、ただひたすら不安でした。そんな不安な僕の家にですよ、ジムは居候しているわけです。一円も払わずに。しかも、料理もしないわけです。だから、僕は炊飯器で両親から、お金は振り込まれませんでしたが、お米は定期的に送ってもらっていたので、米はあるので、炊き立ての新米の上から、コンビニで買ってきたシーチキンをぶっかけて、マヨネーズをかけて、粗挽き胡椒、ここだけは料理家が使うようなやつを駆使することで、香りだけでも一流の味にしといて、あとはひと混ぜして食べると、あら不思議。ミシュラン一つ星も夢じゃないくらいの絶品海鮮丼が出来上がるのですが、それをジムも当然のように食べてるんですよ。少しは恐縮でもしてくれたらいいのに、シガテラを寝転びながら読んでいるわけです。むしろ、その勇気に僕は感動しましたよ。でも暇人であることには間違いない。だからこの文句だって、正当なはずです。
 ジムはなんか虫でもいるのかな、みたいなとぼけた顔でこちらを見ました。
「仕事ならもう終わりましたよ」
「は? 仕事?」
「はい。仕事です」
「なんの仕事をしてるんだよ。そして、なんで仕事しているのに、無職の俺が、ジム、お前の世話までしなくちゃならないんだよ」
「確かにそれはそうですね。変だとは思います」
 ジムは素直にそう言うと、持っていた小さめの、きっと子供の時から使っているのをまだ使っているのでしょう、そんな薄汚れたリュックサックから一冊のボロボロのノートを取り出しました。中にはぎっしり、英語で、筆記体で、何やら文字が並んでます。
「ジム、お前、大丈夫か? 何か病気でも抱えているのか?」
 僕はそのノートの様子を見ると、逆にむちゃくちゃ心配になりました。よく映画とかに出てきそうな、精神病院の閉鎖病棟にずっと幽閉されつつ、頭に浮かぶ妄想を文字にしている浮浪者のような人がいるじゃないですか? ああいう人が書いているノートに似てたんですよ。だから、さっきまでむかついてたのに、僕はすぐに心配になっちゃったんです。
「私はむっちゃ健康ですよ」
 漫画みたいなその笑顔ですら作り笑いに見えてきました。
「病院、紹介しようか?」
 僕は、高校の同級生が進学校だったので、父親が精神科の病院の院長やっている親友がいたんですね。で、そこを紹介しようかと思ったんです。無職の僕なりの優しさってやつです。
「あ、お気遣いありがとうございます。でも大丈夫です。健康そのものですから。私は病院に行ったことがありません」
「えっ、病院に行ったことがないの?」
「はい。人間以外は病院に行ったことがありませんよ。ペットは違いますけど」
「そりゃそうだけどさ。それは極論すぎるだろ」
「健康保険が高すぎて、うちの実家は貧乏だったので払ったことがないので、病院に行ったことがないんです」
 ジムの過去について少し気になりましたが、今はまだ聞かないでおきましょう。大変な人生だったのかもしれません。
「あ、そっか。それは仕方ないね。じゃあ、大変だったろ」
「いえ、病気したことが一回もありません」
「それは嘘だろ」
「いえ、本当ですよ。もちろん風邪は引きますよ。怪我もします。でも病院に行っても、処置の仕方は、私がやることと変わりません。だから病院に行かなくなりました。何一つ問題は起きてません。万が一、交通事故にあったら相手側が全額保証しますから、保険証はいらないんです」
「全く参考にはならないけど、確かにそれだと病気しない、ってのはわかる気がする。ジム、お前、大変なんだな・・・」
「ありがとうございます。やっぱり私、家を出て行ったほうがいいですか?」
 いきなり、なんだか丁寧な仕草をするもんだから、僕はついつい、出ていなくていいよと言ってしまいました。
「風呂無しだけど、ごめんな」
「あ、風呂も入らないので、大丈夫です」
「えっ?」
 でもジムはとても清潔にしているように見えました。いい匂いもしてます。
「私のおじいちゃんが、ちょっと面白い人で、なんでも実験する人だったんです。もちろんお金がなかったからってのもあったと思うのですが、うちにはお風呂がありませんでした。理由はお風呂に入ると、病気するからです。お風呂に入る動物はいません。だからおじいちゃんもずっとお風呂に入ってなかったんです。それで風邪を30年も引かなかったんですよ。その代わり手でよく体を拭いてました。匂いがするときは、香水をつけたらいいと教わったので、人が嫌にならない、ほのかな匂いのする香水をデパートで探しては、試しにつけさせてもらって、買わずに帰ってました。これがうちのやり方だったんです。みんな風邪にならないように手を洗うわけですが、私たちは手を洗うと風邪になると信じられていて、手は絶対に洗いませんでした。でもおかげで風邪で学校を休んだことはありません。学校を休むときは、休んでもやりたいことがあったときだけです」
 ジムのその迷いのない爽やかな言い方に騙されそうになるんですが、ジムはどうやらかなり最高レベルの貧乏家庭で育ったようです。それなのに爽やかで、なんだか泣けてきますし、僕は変な勇気まで湧いてきてしまいました。
「で、このノートはなんなの?」
 ついつい話が面白すぎて本題を忘れてしまってました。
「これはですね。論文ですね」
「論文?」
「はい、私は事務についての研究をずっと重ねているんです。それもまたおじいちゃんからの言いつけを守ってます」
「どんな言いつけなのよ」
「おじいちゃんは、何かができるようになる努力は無駄だから一切するな、と言いました。努力が必要なことはお前がしなくていいことだ、と」
「おじいちゃんやばすぎだろ。風呂も入んないし」
「そうなんですよね。おじいちゃんが本当に優しい人でお陰でちっとも卑屈にならずにすくすく育ちました。とにかく無駄な努力をするなと言うんです。好きなことやりたいことだったら、ほっといてもルール決めなくても自由にやるしどんどんうまくなるからそれだけやれ、それ以外は人に任せろ、とおじいちゃんが毎日言ってたんです」
「で、ジムが好きだったことが事務だったの?」
「まあ、事務ってことだとわかったのはもう少し大きくなってからですけど。おじいちゃん面白い人なんですけど、お金の計算とかが全然できないんですね。だからおじいちゃんはそもそも一切、お金を触らなかったんです。得意じゃないからと言って、だから、お金を使わない人生を徹底して考えていったんですが、そうすると、もう家族は僕しかいないので・・・」
「えっ、ジムはおじいちゃんと二人で暮らしてたの?」
「まあ、話すと長くなるので、省略しますが、そうです。両親もおばあちゃんも親戚の記憶もありません」
「それだと確かにジムがやるしかないな」
「はい。でも、お金の計算とか、払わなきゃいけないものとか、料理も自分でやるようになりました。おじいちゃんはご飯もほとんど食べてませんでしたから」
「えっ断食?」
「いや、食べれる野草と果物をたとえ人の庭だろうともぎ取って食べてました」
「それ、今だと犯罪になるね」
「いえいえ、おじいちゃんは人に好かれる人でしたし、正直な人でしたから、家の周辺の野草がある川べりを知り尽くしてましたし、果物の実がなる家の植木屋さんみたいな仕事も無償でやってましたから、ほぼ食べ放題で、火を通して料理するって概念がない人でしたので、幸せだったみたいです。晩年は小学校や中学校に呼ばれて、災害時の野草と果物たち、という題目で無償で講演もしてました」
「なんか、えらいじいちゃんだねえ。じいちゃんが今の時代にいないことを憂うよ」
「だから、じいちゃんが言った言葉は全て書き残してますよ」
「えっ!」
「はい。私はとにかく、じいちゃんが放置していた、家計のやりくりみたいなこと、書類などの記入、何よりもノートに何かを書く、ってことが小さい頃から得意で大好きだったんですね。だから、じいちゃんは僕のことを、4歳くらいの時から、作家だと呼んでました。経理、書類記入、じいちゃんがしゃべった言葉の日報などが私の好きなことで楽しいことだったから、毎日、書くようになったんです」
「で、そのノートは?」
「これは10歳くらいの時から10年間も書き続けている『生きのびるための事務』という論文です。もうこれで30冊目です」
「ジム、作家だったんだ・・・」
「はい、そうです」
「何冊くらい書いてるの?」
「この事務の論文は30巻ですがまだ完結してません。おじいちゃんが語った言葉を集めた『弥三吉証言録』は58巻で先日完結しました。あとは私がこれまでつけてきた、経理の記録集、あとは時々起こった偶然の記録集、デジャヴを感じた時の記録集、夢日記も48巻を越えてまだ連載中です」
「え、出版されてるの?」
「そういうことは得意じゃないので、やってません」
「それでお金を稼いでいるの?」
「いえ、得意じゃないので」
「それで俺の家にいるってわけか」
「そういうことになりますね」
「で、そもそも今、なんの話をしているんだっけ?」
「ノートですよ」
 僕は混乱してしまったが、ジムは一切混乱していないようで、話はすんなりと本線に戻ってきた。
「そうだそうだノートだ。未来に行くとか、バックトゥザフュチャーとかなんとかかんとか」
「はいそうです。ノートはタイムマシンなんです」
「どういうことなんだよ」
「ノートには未来が描けるんです」
「まあ、そういう夢はあるよね」
「夢じゃないですよ。現実に未来が描けるわけです」
「ノートじゃなくても未来は描けるんじゃないの?」
「いや、無理だと思います。試してみます?」
「やってみよう」
「じゃあ10年後から行きましょう。坂口さん、10年後、あなたは何をしてますか?」
「10年後? うーん、なんだろ、何してるんだろう、それって夢でいいのかな」
「なんでもいいですよ。10年後のあなたなら」
「うーん、なんだろ、何してるんだろ、おれも実は、、、作家になりたいなとは思ってるんだよ」
「はい、それで?」
「それでって?」
「それで何をしてるんですか? 作家になってますか? 今」
「今?」
「はい、今、未来のあなたは作家になってますか?」
「うーん、なってないな、未来の俺も作家になってる風でしかない」
「ほら」
「ほらってなんだよ」
「未来はノートにしか描けないんです。なんなら、現実だって、現実には描けないですよ。現実もまたノートにしか描けないんです」
「なんだよ、こんがらがってきたよ、ジム、わかったわかったよ、お前はおじいちゃん直伝の貧乏家庭のどん底からノート一つで這い上がってきた日本一健康そうなやつだから、ノートの使い方半端ないってことはわかった。もうちょっとわかりやすいように教えてくれ」
「一回一回、私を試すからこんがらがってくるんですよ。もっと素直に私の言葉を聞いてください」
 ジムのその言葉がナーンか突き刺さったんですよね。確かに僕はジムのことを疑ってばかりいました。ジムのことを信じるわけではないですが、ジムの言葉を素直に全て一旦聞き入れてみる気になっていた僕は、言い返すのをやめようと思いました。
「じゃあ、まずは現実を描いてみましょう」
「オッケー、やってみる」
「ノートを開いてください」
「開いたよ」
「日付を書いてください」
「2001年4月13日、と」
「では、ノートいっぱいに正円を描いてみてください」
「まんまるを描くのね」
「はい」
「描いたよ」
「では、今の時間から、24時間遡ってもらいます」
「今が、、、午後4時だから、4月12日の午後4時ってことだね」
「何してましたか?」
「えーっと。昨日の午後4時は、、、何もすることなく、ぶらぶら高円寺の商店街を歩いて古本屋で立ち読みしてた」
「何時までですか?」
「午後6時まで」
「そのあとは?」
「腹が減って、家に帰ってきて、シーチキン海鮮丼をまた作ったよ。焼酎飲みながら午後8時までかな」
「はい、それ書いて。そのあとは?」
「銭湯に行った」
「で?」
「午後9時からはマイルスデイビスのエレキ時代のアルバムを聴き比べしてた」
「何時に寝ましたか?」
「12時だね」
「起きたのは?」
「5時くらいかな。朝方だから」
「起きて何をしたんですか?」
「と言っても何をしたらいいかはわからないから、本を読んだり、画集を開いたりして、時間を過ごしてた」
「何時まで?」
「午前9時かな」
「その後は?」
「なんかみんなが会社に行く時間になると、俺なんもしていないのが不安でね、そのまま外にでて、会社に行く人みたいに電車に乗るんだよ。定期はまだ残っているから、高円寺から新大久保までの間だけど、それで好きなところで降りて、何もすることないからとフィルムカメラを持って行って、気になる風景を写真に撮ってる」
「何時まで?」
「ま、暇だからさ。それで午後1時くらいまで動いちゃう」
「そのあとは?」
「先週撮影した写真を見ながら、色鉛筆で絵を描くんだよ。そのあとギター弾いて売れもしない歌を作る。ま、楽しいからいいんだけど。それで午後4時までだね」
「すると、、、ほら」
 ジムが言った通り、確かにノートに僕の今のこの瞬間までの24時間の現実が描き出されていた。

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「これが今のあなたです」
「なるほど。簡単だけど、こうやって、厳密に自分が現実で何をしていたのかと考えたことなかったかも」
「考えても無駄です。人間は時間を考えることができません。すぐ忘れてしまいますし。現実はノートに描くに限ります。一生消えません」
「なんか面白くなってきた」
「では下に所持金9000円っていうのも書き足しておきましょう」
「ふむふむ」
 僕はもうこの時点でとても素直になっていたんだと思います。楽しいことがもともと好きですから、楽しければ素直に聞きます。ジムに対して素直に接すると不思議なくらい、彼がわかりやすく話をしていることまでわかってきました。さすがたたき上げの人です。回りくどいことは何一つありません。
「あなたはどんな人ですか?と聞かれたら、このノートを差し出せばいいんです。私は作家になりたい人です、って答えるんじゃなくて。あなたは朝5時に起きて何をしたらいいのかわからなくて本を読んだり画集をめくったりして朝の4時間を過ごす人、なんです」
「言っていることがよくわかるよ」
「よろしい。では次に行きましょう。もう未来を描くことの意味はわかりますね」
「ラジャ。同じようにこの円の中でどんな時間を過ごしているかを具体的に書くってことだね」
「物分かりがよくなってきましたね。素直になってきた証拠です」
「早く描いてみたい」
「いい兆候です。でははじましょう」

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