16 実例:躁鬱人の仕事の歴史(坂口恭平の場合)


16 実例:躁鬱人の仕事の歴史(坂口恭平の場合)

 さて、躁鬱大学でのこの講義もそろそろ終わりに近づいているようです。カンダバシの言葉をきっかけにしていろんなことを思いつくままに話してきました。躁鬱人であるあなたは、このあなたの体質が病気ではないと少しずつ気づいていっているはずです。最初の方でも話しましたが、きっと小学生くらいまではとても健康に過ごしていたはずなんです。僕自身も時々、落ち込んだり、突然突拍子もないことをしたりはしていましたが、高校卒業までは特に寝込むこともなく、楽しく毎日を過ごしていました。
 それが大学進学の上京し、一人暮らしを始めると突然、躁鬱の波が激しくなっていきました。それでもまだ大学を長期休学したり、ずっと部屋に篭ったままではありませんでした。そして苦しみながらですが、どうにか大学を卒業し、いざ、仕事をはじめようと思った途端、やりたくないことをやらなくてはならず、窮屈さが増大し、深い鬱を経験するようになりました。生まれて初めて死にたいと感じたのもこの頃からです。多くの躁鬱人が、学生を終え、働くようになってから躁鬱の波が顕著に激しくなり、相談できる人もいないことから、さらに解決策もほとんど確立されていないために、どんどんこじらせていきます。躁鬱人で、なんの問題もなく仕事をはじめられる人は一人もいないといっても過言ではないでしょう。そこでこの章では、躁鬱人に向いている仕事、そして仕事で得られるお金についてのことについて話してみることにしましょう。はっきり言って躁鬱人の仕事についてはほとんど考えられてこなかったことです。僕も躁鬱人万人に通用する法則を知っているわけではありません。しかし、僕自身の経験をもとに個人的な話をしてみたいと思います。もちろんカンダバシも一緒にいてくれてます。彼もカンダバシ語録の最後の方で仕事についての言葉を残してます。まずはそこから読んでみることにしましょう。
「人に親切にするのが好きで、人に好感を持たれる性格だから、人と接する仕事は向いてます。例えば営業、水商売、介護職です。人の世話や面倒をみるのが得意です」
 人に親切にすること。とにかく躁鬱人はこれに限ります。人の観察が得意ですから、すぐに心を感じ取り、その人と共鳴するようなことをすぐ話せますし、そしてお客さんからもすぐに気に入られます。僕自身は本音を言えば、性的なサービスをする仕事をしてみたいです。僕自身それが大好きだし、女の人にしてあげるのが本当に心から大好きなのです。家族からはすぐに止められますが、一度、妻に性的サービスの会社を立ち上げたいと提案したことまであります。残念ながらすぐに却下されたのですが。でも僕自身、ずっとなんらかのサービスの仕事をしているという感覚があります。
 僕は早稲田大学の建築学科を卒業したのですが、就職活動は一切しませんでした。そうやって人と並んで、競争して同じ試験を受けて、合格を目指すというやり方がどうしても肌が合わなくて、やる気になれませんでした。それでも食っていかなくはなりません。母親はいい大学に行ったのに就職もしないでと悲しんでました。しかし、もうそんな彼らが言うようにやりたくないのにやってしまうと自殺するだろうなと察知してましたから、自分がやりようにやると言い張ってました。ずいぶん両親とは衝突しました。何度か泣かれました。
 しかし、僕は自分が躁鬱の波で苦しんでいることは言えなかったです。周りにも誰にも相談しませんでした。どう相談したらいいのかわからなかったからです。あの頃に躁鬱大学があったらよかったのになと思います。誰にも相談せずに一人で、就職もせずに、でも何か感じるわけです躁鬱人は、自分の力に、ひとを喜ばせる力があると何度か感じてますから。僕も何かできるんじゃないかとは思っていました。大学の卒業論文で路上生活者の調査をして、それをまとめた論文というよりも印刷所へ行って、製本してもらい、それは自作のハードカバーの本と言ってよいものでした。それが卒業論文では一等賞を取ったのです。こうやって、自分で全部ゼロから何かを作り上げれば、窮屈になることもない、しかも自分が読んでみたい本を自分で作るんだから、なんだかとんでもなく楽しかったんです。
 作家になりたいなあとぼんやりと考えました。しかし、作家になる方法も知りませんでしたし、他に何かアイデアがあるわけでもなかったので、作家と言っても次の作品って何を作ればいいのかわからない状態でした。とにかく不安でした。でも同時にいつも意気揚々としてもいました。躁鬱の波がはっきりと躁状態と鬱状態に分かれていったのもこの時期だと思います。でもあまりにも部屋が狭すぎて、当時は家賃2万8千円の高円寺の安アパートに住んでいたのですが、部屋にじっとしていると壁が迫ってくるような圧迫感があり、鬱状態でも寝ているわけにもいかず、いつも外をぶらぶら歩いていました。
 不安でこれからどうしていくのかわからない。でも就職をするのは窮屈だ。自分には力がある。作家として生きていきたい。音楽も絵も好きだから、そうやっていろんなことができる芸術家として生きていきたい。かといって夢がたっぷりあるわけでも展望があるわけでもありません。家賃も常に三ヶ月滞納してました。よく生きてたなと思いますが、不思議と辛い思い出は残っていません。
 さあ、金がないし、就職もしないなら、とりあえずバイトだ、バイトを探そうと思って、いくつか面接を受けましたが、なぜかどれも落ちました。ヒゲも生やして、格好もボロボロの服だったからでしょうか。今でもわかりません。でも調子に乗っていたんだと思います。鬱状態で面接に行くというよりも、躁状態で面接に行くということが多かったような気がします。瞳孔が開いていたのかもしれません。
 そんな僕を最初に受け入れてくれた場所は築地市場でした。ある面接を受けているとき、面接官からこう言われました。
「あなたは不合格だけど、なかなか面白いやつだから、そんなあなたはきっと築地に行ったらいいよ。僕も韓国籍で差別されてどこも就職できずに落ち込んでる時に築地に助けてもらったから。あなたも変なやつだからきっと就職はできない。そういう人を会社にいれないようにするのが面接官の仕事だから。でも築地は違う。あなたみたいな人だって体が動くならきっと入れるから」
 躁鬱人は飲み込みが早いです。言ってしまえば馬鹿なのですが、こうやって面接官みたいな人が、面接官らしからぬ言葉を言ったりすると、ついつい鵜呑みにします。この会社じゃ使えないが、それでも僕のことを面白いやつだと思ってくれたんだろうと、自分の都合のいいように受け取り、喜び、やる気になります。でもその後、三十代になっても四十代になっても、なぜか僕はこういう人の突然の一言で、もうダメかと思っていた局面を乗り切ることになります。つまり、一定数、躁鬱人のことを理解する非躁鬱人が面接官とかバイト先の上司とかたまたま飲み屋で隣で座っていたりするということです。そんな非躁鬱人に躁鬱人は助けられます。仕事も必ずそういう人をきっかけにはじまります。
 僕は面接の帰りにコンビニに行きバイト雑誌を広げました。するとそこに一件だけ本当に築地市場にある仲卸会社の求人があったのです。電話をかけるとなんともうその電話で採用が決まりました。履歴書もいらないから早くこい、明日の午前4時にこいと言われました。所持金は2、3万円くらいだったと思います。そんなわけで僕は突然仕事をするようになりました。両親は築地で働いていることを伝えると、がっくりしてました。早稲田大学卒業の卒論が一等賞だった我が子が市場で働くという現実を受け入れることができなかったようです。しかし、彼らが食べていくわけではありません。食べていくのは僕です。僕は首の皮一枚つながりました。高級料亭などに果物を卸す「遠徳」という店でした。早朝仕事場に行くと、挨拶なんかほとんどなくすぐ、
「俺がサトル、今日からお前は俺についてお得意さんを紹介するから場所と顔を覚えろ。それぞれに売る値段もなんもかんも違うからちゃんと見て覚えろ。じゃ、俺のターレの後ろに乗れ、出発するぞ」
 と言われ、仕事が始まりました。ターレとはターレットと呼ばれる市場専用の自動三輪車です。みなさんもテレビなんかで見たことがあるでしょう。あれです。あれに乗って市場内を疾走し、荷台に乗せた果物が入った段ボール箱を指定された時間に指定された場所に行き、市場内はすべてが駐車場になっていて、そこにいろんな店の車が止まってますので、注文されたものを間違わずに積むのです。僕はあまりにも早すぎる作業に混乱しながらも、一切気を使わずに繰り広げられる人と人のやり取りに興奮してました。何よりも朝型の僕にとって午前4時から仕事が始まるのは心地よい経験でした。そしてそこでは躁鬱人の躁状態がうまく合っていたのです。値段は口にしません。すべて暗号で指先だけでいくらかを伝えます。腐りそうな果物を口上と試食で腐る前が一番甘くてうまいから本日中にセールで売ればきっと稼げるというように伝えるのです。僕にこの仕事はとても合ってました。慣れてくれば、自分の裁量で相手との交渉をすることができました。気づくと、僕はアメリカ、メキシコ産の安いハネジューメロンの腐る寸前のものを安く大量に売りさばく担当になったりしてました。躁状態の誰の懐にもサッと入るところが気に入られ、もちろん売店のおばちゃんにも気に入られ、なんだか天空の城のパズーとかそんなアニメの主人公になった気分で毎日が楽しかったことを覚えてます。給料は手取りで23万円と悪くない金額。食事はほとんど築地で無料で果物を食べれましたから、それで済ませてました。両親からその後教えてもらったのですが、幼稚園の時の卒業アルバムには「将来の夢・果物屋さんになる」と書いていたようです。母親からは「お腹の中にいた時にいつも私が果物食べてたからかな、あなたは本当に果物が好きよね」とよく言われてました。図らずして、なぜか生まれて初めてなりたいと思っていた職業についていたのです。
 所持金2、3万円の人間でしたが、毎日ちゃんと働いていたので、家賃も払えるようになりました。でも貯金は一切しませんでした。どうせ働けばまた金が入るからと毎月、しっかり全額使ってました。だから大学の奨学金の返済も一切しませんでした。健康保険はどうにか払っていたものの、年金はもちろん払っていません。それでもなんとか食っていけることができるようになりました。
 しかし躁鬱人は躁状態もあれば鬱状態ももちろんあります。鬱の時は本当にしんどかったです。手元がおぼつかなくなるので、よく配達中に果物を道路に落としてしまい、商品がすべて台無しになることが多々ありました。そうすると上司から怒られます。ラズベリーを100パックすべて落とし、買い取ったこともあります。上司に怒られて泣いたこともあります。鬱になった途端、人と話せなくなります、記憶力が無くなります。まだ躁鬱病という病気のことも知りませんでした。少しずつ市場での仕事も、鬱が怖くなり、躊躇するようになっていきました。そうなるとどんどん物事は悪く進行していきます。僕は記憶力が時々なくなる、そしてよく果物を落とすやつと決めつけられ、もちろんそれは当たっていたのですが、いじわるな上司によく泣かされました。その上司は数年前、サーフィンをしている途中に波に飲み込まれ亡くなってしまいました。少しも悲しくなかったです。それくらいいじめられました。
 それでもいじめっこの上司以外はみんな優しく、というか僕のテキトーなところヘマをするところをバカにしつつも、受け入れてくれていたと思います。だから何事もすぐやめていた僕ですが、2年半くらい仕事が続きました。しかし、いじめがきつすぎて、鬱が治らなくなっていきました。眠れず寝ぼけてバイクで市場に通っていたので頻繁に転倒し、一度、眠ったまま赤坂の交差点に信号無視でツッコミ、危うく車に轢かれて死ぬところでした。警察官に助けられたのですが。そんなこともあり、僕は精神状態がマックスにひどくなり、本当に死にたくなりました。そんなとき、今の妻と出会いました。僕には彼女がいたのに、たまたま飲み会で出会い、そのまま意気投合し、付き合うことになったのです。でも彼女がいるなら付き合わないと言われましたので、その日に前の彼女に別れを告げました。このように一度に二人の女性を好きになってしまうということがその後も何度かあり、妻には何度も迷惑をかけています。
 妻は天真爛漫で、僕が鬱の時でも「まあ、今は仕方ないよ、いつも元気になってるから、しかも、落ち込んでる時も、私には変に見えないけどなあ」と声をかけてくれました。鬱状態の自分を初めて見せた人であり、それを見ても、大丈夫だよといつも言い聞かせてくれた人でもあります。それでも僕の鬱があまりにもひどくなったので、僕は父に相談し、彼が勤めていたNTTの専属カウンセラーを紹介してくれました。23、4歳だったと思います。生まれて初めて僕は自分がなにか症状を抱えているかもしれないと誰かに伝えました。
 男性のカウンセラーだったのですが、彼は精神科医ではありませんので、診断もしませんし、薬も処方しません。ただとてもウマが合いました。彼は僕にとても興味を持って、カウンセリングというよりも、どんなことに興味があるのかを聞いてくれました。
 彼と話すうちに僕は自分が作家になりたかったことに気づき、思い出し、持っていた卒業論文を本にすることを考えはじめます。ツテはもちろん何もありませんでした。
 僕は当時、築地市場で働きながらも、午後3時以降は時間ができてたので、その時間に売り込みをすることにしました。出版社のことは何も知らなかったので、高校の同級生の仲が良かった女の子に自分の作品を見せて、どこに持って行ったらいいかを聞きました。すると、彼女が「リトルモアという出版社だったらもしかするとあなたの本を出してくれるかもよ」と教えてくれたので、すぐ電話をかけたのです。しかし、僕はどこの馬の骨かも知らない人間です。しかも、その論文は論文というよりも写真集と言った方がよく、しかも僕は素人の写真家です。そんな作品が本になるとは思えないと言われました。しかし、自分で製本した自信作ではあってので、見るだけ見て欲しいと伝えました。何度か断られましたが、友達が教えてくれたところはそこだけだったので、何度も電話しました。すると、最後に折れてくれて作品を見せられることになり、幸運にも、と言いますか躁鬱人特有の交渉術なのか、出会って10分後には出版が決まったのです。築地市場でなんとか稼げていたので、お金の話をされて出版しないと言われるのは嫌だったので、初版分の印税100万円はいらないから、その分を印刷代に注ぎ込んでいいものを作ってくれとお願いしました。決まってから出版されるまで一年以上かかりましたが、それでも無事に出版されました。こうやって本になったのは、カウンセラーの人のおかげでした。
 それでも築地市場でのその上司のいじめというのか、恫喝が収まらず、僕は仕事を辞めることにしました。でも辞める時はみんなで送別会をしてくれて、胴上げまでしてくれました。僕は女装バーでハッチャケてバドガールの格好をしてI’m proudを熱唱しました。すると、女装バーのママがあなた才能があるからうちで働きなさいと言いました。確かにここもサービス業です。サービス業が自分の体に合っていることはわかってましたが、僕は女装バーではなく、もう少し時給の良かったホテルに転職することにしました。新宿ワシントンホテルのラウンジのボーイです。働き始めてすぐにホテルでのサービス業が体にぴったしカンカンだったと知ります。しかも、そこには僕が憧れていた絵本作家の安野光雅さんが打ち合わせでよく使っていました。僕はコーヒーを持っていくついでに、あなたの絵本を小さい時に母が買ってくれて、熟読している、僕は本を書く人になろうとしているが、それはまずもってあなたの影響が大きいということを伝えました。マネージャーには忙しいのに、ゲストと話し込んで、しかもVIPの安野光雅さんと、、、、と怒られましたが、僕は嬉しかったです。
 ホテルのラウンジは、そこで稼ぐというよりも、とにかく宿泊しているゲストの気持ちが朗らかになればそれで十分だと僕は勝手に自分で判断し、楽しく仕事をしました。もちろん僕は作家になりたいと思っていたので、家に帰るとまだバイトを続けないといけない自分自身を見て、がっくり落ち込むことも度々ありましたが、それでもホテルの仕事は合ってました。いつか金を稼いでホテル王になりたいという野望まで持ちました。給料は築地と同じくらい。働く時間もやっぱり早朝のモーニングから昼過ぎまででした。そして、午後は自分の作品作りに専念するような態勢が始まりました。今の日課にも通じるスケジュールだったと思います。年金は払わずに、奨学金も支払猶予を申請しました。その二つさえなければ、それなりに余裕で食べていけていたと思います。シフト制ですから、好きに自分のペースで仕事ができました。早朝は誰も働きたがらないので、いつも空いてました。
 そんな中、本が出版されました。話題にはなりませんでしたが、僕にとっては奇跡のような出来事でした。新聞にも載りました。敬愛する赤瀬川原平さんが書評してくれました。でもお金にはなっていません。僕はホテルでバイトをしてお金を溜めて、本を海外に売り込むことにしました。大学卒業したての頃、僕はよく自分の作品をいろんな人に見せにいくということを躁状態にかませてやっていたのですが、そんな時にフランス在住の中国人キュレイターと出会っていて「お前は面白い、本ができたら俺のところにもってこい、一緒に仕事をしよう」と声をかけられていたからです。まず僕は貯金をはたいて、パリへ飛びました。そして彼に会いました。彼はいろんな美術館のディレクター、書店を紹介してくれました。そして、次の年にベルギー、ブリュッセルで開催される美術展に僕の写真を展示することを決めたのです。でもギャラは0円でした。本の営業ですが、リトルモアは1円もくれませんでした。お願いもしなかったですが。自分でやりたいんだから、自分でやる、自腹でやる、というスタイルはこの時から変わっていません。慣れない英語で美術館を周り、書店を周りました。みんな日本から自腹で来ていると言うと、好意的に受け入れてくれて、たくさんの書店が僕の本を数冊だけですが、注文してくれたのです。ロンドンにも行きました。一度、戻って、また金を溜めて、今度はドイツ、フランクフルトでの世界的な本の見本市にも行きました。全部自腹です。貯金なんかなかったです。でもそうやって自分が得意としている本を仲介に人と出会うのは幸せな時間でした。フランクフルトではすでに僕の本のことを知っている人までいました。営業をやればやるほど、ちゃんと効果があるということをこの時学んだのです。もちろんお金にはなりません。でもパリの雑誌にも何ページも掲載されました。もちろんこれもお金にはなりませんでした。それでも最終的には、僕がいつか展示をしたいと思っていたニューヨーク近代美術館MoMAに僕の本が並びました。躁鬱野郎のなせる技です。どこまでも作品を持って飛び回ることができます。でも旅行中何度も鬱になりました。こんな風にして上がったり下がったりして、訳も分からず生きていくのかと思うと、一人でホテルで泣き出してしまいました。
 でも日本に帰ってくると、今度はホテルに夢中になるのです。ワシントンホテルのサービスの質じゃ物足りなくなって、外資系に行きたいと思うようになり、隣にある、新宿ヒルトンホテルで働くことにしました。ここが一番合っていたと思います。僕が考える、儲けるサービスではなく、とにかく笑い泣きするサービスをという勝手な方針が、ホテルの方針と合っていたのかもしれません。僕はオーストラリアから来た家族の7歳の女の子がこそっと耳元で僕に「お母さんが今日誕生日なの」というと、勝手に築地市場で仕込んだ果物への目を悪用し、クラウンメロンという一番高いメロンをカットするようにシェフにお願いし、オーダーが入っているように偽装し、それを彼らに無償で提供したりしてました。もちろん、それはゲストが帰ったあと、すぐにばれます。だから同じ従業員、マネージャーからはよく怒られました。でも楽しい方がいいじゃないですか。またここでも肉体派のシェフたちにいじめられましたが、彼らだってゲストの前に出れば、いい顔をするので、僕はバックヤードにはほとんどいず、いつもラウンジの前線でゲストの世話をしてました。VIPのお客さんでは貴乃花親方、優作の妻である松田美由紀さんなどがいました。チップもすごくて、一度、30万円を病院長の未亡人からもらったことがあります。全て店に還元する決まりでしたが、チップはチップです。もちろん僕の懐に黙っていれときました。そうやって貯金を覚えていきました。松田美由紀さんとはその時、龍平と翔太の喧嘩を止めたりするサービスもしていたのですが、のちに新政府を立ち上げた時に会う機会があり、ヒルトンの話をしたら面白がってくれて、なんと松田優作事務所(現オフィス作)に所属することになりました。もちろん松田美由紀さんはこのわけのわからない人間をどうコントロールしていいかわからず、仕事もなく、結局僕は辞めることになるのですが、面白い経験でした。
 ヒルトンでのチップをとにかく少しずつ貯蓄していくことにしました。当時28歳くらいだったと思います。その頃、ようやく貯蓄を覚えたんですね。奨学金もようやく返済できるようになってきました。年金はまだ払ってないですね。その頃、僕は0円ハウスという本を出したはいいが、次の作品なんか一切考えられずに悶々と過ごしてました。でも海外に行って展示とかはしたんだから、美術家としての側面もあるのかもしれないとは思っていました。そんな時バンクーバー州立美術館から個展をしないかとの声がかかったのです。無駄かと思われた海外での本の営業が1年半くらい経って、ようやく実を結び始めました。
 というわけで、バイトをしつつ、2006年僕はバンクーバー州立美術館で生まれて初めての美術館での個展を開催したのです。ギャラは30万円でした。しかし、何よりも僕はバンクーバーという土地がとても合ってました。たくさんの有数なコレクターがもともとヒッピーだったりしていたので、彼らがお金のないアーティストを支援しているという素敵な循環を行っていたわけです。そんな世界で躁鬱人の僕は大歓迎を受けました。何をしているのかわからないそのわけのわからなさが、彼らには最高!と映ったようです。彼らは0円ハウスの写真だけでなく、他にも何か作ってないのかと聞いてきました。しかも東京・西荻窪の僕の家まで飛んできたのです。そこにあった鬱状態の時に外に出られないので、描くしかないと思っていた絵がベッドの下にあったのですが、それを見せると、すぐ買ってくれました。ポスターサイズのケント紙にインクで描いた絵が50万円になりました。貯金が80万円になりました。さらに、一枚売れると、何かが変わったようで、彼の友人のコレクターが俺にも一枚くれと言ってきたのです。同じ値段で。そして貯金が130万円になりました。もう十分です。僕はバイトを全て辞めることにしました。2007年、個展開催の翌年です。これからは作家として美術家としてやっていくぞ、と決めました。でも、何を? それは意外と決まっていませんでした。でもその頃、0円ハウスを取り上げてくれた週刊朝日の編集長がAERAの副編集長に異動し、彼女から何か記事を書いてくれと言われ、僕は当時出会っていた隅田川に住む鈴木さんについての記事を書いたのです。何枚でもいいと言われたので、もちろん羽目を外して8000字書きました。この躁鬱大学講義一回分、つまり毎日僕が今原稿を書いている量ですね。それを1日で書いて送ったら、そのまま翌週のAERAに全文が5ページぶち抜きで記事になったんです。原稿料は8万円でした。半分鈴木さんにあげました。それを読んだ大和書房という出版社の編集長が、もともと講談社であしたのジョーを担当していた腕利きの人で、彼からお前は単行本一冊分原稿が書けるから、書けと言われました。バイトもやめて背水の陣ですから、必死になって書きました。一ヶ月半かかりましたが、350枚を書き上げました。これが僕が生まれて初めての書き下ろし原稿です。一日10枚書きました。それを日課にしました。その時からこの今でも続く日課が始まっていたのです。僕は妻と結婚してました。妻も仕事をやめて自分でオリジナルジュエリーを作ると言ってました。でも辞めた日に判明したのは、のちにアオと名付けられる赤ん坊が授かっていることでした。結婚式は150万円をかけてバンクーバーでやりましたのでご祝儀もありません。貯金は妻のも合わせて残り150万円くらいでした。妻は仕事ができません。僕も仕事がありません。あるのは書き上げた原稿だけです。二人で無職で貯金150万円。お腹には赤ん坊。これが30歳の時の僕でした。躁鬱の波は相変わらず、でも、一人で仕事をするようになり、そこまで深く落ち込むことは減ったかもしれません。仕事が少しずつうまく行っていたのも自信になりました。でもお金を稼ぐ方法は知りませんでした。ただ書くしかない。絵も描くしかない。そういう状態でしたが、思い出すと楽しいことしか思い出せません。でも実はかなり切迫していたはずです。
 その後、僕は1日10枚書くという日課をとにかく続けます。そうやっていくついに、少しずつ単行本の依頼が来るようになりました。2008年に初めての単行本「TOKYO 〇円ハウス〇円生活」を発表します。これが15000部くらい売れました。一冊1500円だとして印税は10パーセントですから、225万もらえたということになります。大変ありがたかったですが、書くまでに一ヶ月、出版されるまで半年、そこから売れるまで数ヶ月、印税が振り込まれるまで数ヶ月かかりますから、そんなにウハウハではありませんでした。さらにお金が必要なので、僕はこの原稿を元に、小説も書きました。青山出版社から出た「隅田川のエジソン」という小説です。これは全然売れませんでした。しかし、映画監督の堤幸彦さんがAERAの記事を読んで、映画を作ることになり、その原案に僕の本がなったので、この時も300万円くらい入ってきました。と言いつつ、このお金が入ってきたのは2011年なのですが。。。本を書いているうちに、雑誌で連載をする仕事も得ました。絵も50万円で売れるようになっていきました。当時の確定申告が2007年が350万円だったと記憶してます。2008年が450万円、2009年が500万円と少しずつ伸びていきました。しかし、僕には貯蓄という概念がまたなくなっていて、そりゃそうです。いつお金が入ってくるかわからない生活なのですから。子供は成長しますし、お金は出ていくばかりです。2009年に僕はとうとう手元にある10万円だけしか持っていないという状態になりました。そして、躁鬱の波はこれまでで一番最大になり、僕は死ぬ寸前にまで行きました。好きにやっていくのも大変なわけです。そして、この時、僕は初めて心療内科を受診します。そして、躁鬱病という診断を受けました。31歳、アオは1歳、家族三人で手元にあるお金は10万円でした。作品は生まれてましたし、数少ないですが理解者もいました。しかし、時折やってくる鬱のおかげで全てがおじゃんになってしまうことを繰り返してました。もう終わりかと思ったとき、僕の高校の同級生の友人が、お前の原稿面白いから俺のウェブサイト用に書いてくれよと依頼を受けました。それはあんまり口にはできないのですが、出会い系サイトのための原稿で、官能小説みたいなものを書くという約束でした。ギャラは100万円と言ってくれたので、やるからすぐ振り込んでくれと伝えると、翌日には100万円が振り込まれました。また首の皮一枚のところで助かりました。しかも、それで気を良くした僕は、官能小説など一切書かずに、さっと自分の仕事に戻ったのです。はっきり言えば詐欺です。しかし、その友人は今も金を戻せとは言ってきません。さらにキャンバスの絵を50万円で購入してくれました。彼は命の恩人です。そして、その後、僕はこれまで書いてきたようなやり方を少しずつ身につけていき、自分なりの方法を探していくようになりました。この時以降、僕は一度も金が底をついていません。
 参考になるかはわかりませんが、これが僕が躁鬱と付き合いながら実践してきた仕事の歴史です。現在ではなんだかんだしてて、2011年から2019年までの年収はほとんど変わらずに1000万円です。上にも下にもなりません。本を休まず書き続け、絵を休まず描き続けてますからそれを売って生活してます。本の印税が毎年350万円くらい。絵が売れたお金も同じくらい。そして連載やトークなどのギャラが300万円くらい。そうやって生きてます。一応、子供が二人できてからは貯蓄型保険のようなものには入ってましてそこに800万円ぐらいあります。一切触らないお金です。貯蓄が下手なのでそうしました。今手元の通帳には200万円入ってます。世界はどうなるかわかりませんが、僕の場合は徹底的に組み込んだ日課を元に世間の流行とは別に生きてますので、コロナだろうが地震だろうが不況だろうが、何も変動がありません。毎日10枚原稿を書き、絵を5枚くらい描き続けているだけです。
 躁鬱人は仕事をしていくことが難しい、続けるのが難しい、鬱の時にどうすればいいのかわからなくなる、躁状態の時にお金を使い果たしてしまう、と思っている人がほとんどだと思います。もちろん、その一面もあります。そして躁鬱人とお金というものは因縁の関係でもあります。しかし、とにかく躁鬱人は方法さえわかればきっとすぐに飲み込んで、どんどん働きます。働くことがお金を稼ぐためでは人を喜ばせるためにあるということを感じると、さらにもっとどんどん働こうとします。
 今日は僕のとてつもなく個人的な話をしてみました。とにかく個人的な話を知る機会が全くないからです。躁鬱人にとって大事なことはとにかく知ることなのです。知れば飲み込んで鵜呑みにしてどんどん行動するからです。知らないといつまでたっても非躁鬱人のスタイルを受け入れてしまい、体はどんどん歪んでいくだけです。とにかく躁鬱人はどうやって働けばいいのか。まずは僕の話をしましたが、次の講義では、じゃあそれを一般化する何か法則はあるのか、あるのならそれは一体、どんなものなのか、ということについてお話してみたいと思います。ちなみに、僕の月の活動資金はお小遣いも含めて、5万円です。それを現金で妻から渡されます。それ以外は使いません。1日1700円くらいです。本は経費で落とすので、別会計です。画材も別会計です。先月のクレジットカードの決済は、家族分も全て合わせて7万円でした。これが僕が立ち上げている合同会社ことりえという会社の経費になります。つまり、いま、皆さん僕は躁状態にあると思われていると感じますが、このように一切お金を浪費していません。躁鬱人はとにかくお金を浪費します。お金だけでなく性欲も浪費し、話したいので脳みそも喉も舌も浪費します。その挙句、疲れます。僕も昔は、福島の子供達を無料で夏休みに熊本で休ませたいからと自腹で一度に200万円を数回払ったりしてました。友人が金がなく困ってたら100万領収書なしで即金であげてたりしました。しかし、今は一切ないです。お金も使いません。そのこともどうやってやるのかについても次回お話ししてみたいと思います。
 

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