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躁鬱大学 その6 躁鬱人に麻薬は全く必要ありません!

6 躁鬱人に麻薬は全く必要ありません!

 さて、今日は昨日話そうとしていたことから始めることにしましょう。
「中高生の時も好調・不調があったのに、なぜその時は破綻しなかったのか」ということです。もちろん、中高生のときからすでに破綻していたという人もいると思いますが、それでも波はありつつも、完全に寝込むまでには至ってなかった、という時間をみんな小学生くらいまでは過ごしているはずです。その「波はありつつも、まあなんとか大丈夫だった」という状態は今後の過ごし方の大きなヒントになるので、ぼんやりとでいいですから思い出してみてくださいね。ここでは僕の話を元に考えていってみたいと思います。どうにもならなくなって病院に行くまでの話です。もちろん、これは記憶していることですから、前にもお話しましたように、躁鬱人お得意の「創作」が織り混ざってます。つまり、今から話すのは「作り話」であることをどうかお忘れないように(ウインク)。
 4歳、つまり幼稚園に入ったぐらいのときです。父親が言っていたのは、気づくと勝手に一人で車道に出て横断歩道を渡って、向かいのプラモデル屋さんに入って行ってたらしいです。さらには僕は当時、福岡に住んでいたのですが、中心地である天神にある天神地下街で一度数時間迷子にもなっています。「ほっとくと何をするのかわからなかった」と父親は言っていました。別に何かを破壊したりするわけではありません。恐怖心が欠落しているらしく、一人で勝手にどこかに行く子供だったようです。でも僕としての実感は「一人でいるのをよく怖がっていた」という状態の方です。のちに19歳頃、つまり、これは大学進学のために熊本から東京に上京した後の話ですが、僕は極端な旅行を行うようになります。1960年代のボロボロの原付バイクで熊本から東京まで走ろうとしたり、一銭もない状態でギターを持って、道端で歌いながら日銭を稼ぎつつ、ヒッチハイクで熊本から函館まで行ってみたりしてました。何か思いついては、しかも、ちょっとだけとんでもないことを思いついては、それを実践することに快感を感じてました。インドで無銭旅行もしました。しかし、僕の場合は「行きはヨイヨイ、帰りは怖い」状態で、確かにそうやって出発した時の爽快感はとても心地いいのですが、すぐに一人でいることに不安になります。インドに三週間行った時は、まだ20歳ちょうどくらいのときだったので、なんでも経験してみたいと思い、カルカッタに到着してすぐ、ドミトリーの安宿に泊まっていたのですが、下のベッドに寝てたオーストラリア人からハシシ(大麻の樹脂を固めたものですね)を渡され、初めて吸って、一瞬気持ちいい!と思ったのですが、すぐに悪酔いしてしまい、二段ベッドの上で寝ていたのですが、トイレに行きたくなって、降りようと下を見ると、床まで10メートルくらいあったのでびっくりして、でもおしっこがしたいので、階段を使えばいいのに、なぜか目を閉じて飛び降りて、あやうく頭をぶつけるところでした。でもいつも間一髪で切り抜けるのですが(これも躁鬱人の特徴かと思われます)。その後、バナラシというシヴァ神の聖地では、バングラッシーと呼ばれる緑色の大麻入りラッシーを飲もうとそのオーストラリア人の友人に誘われ「サイズは?」と聞かれ「一番ちっちゃいの、Sください」と言ったらスモールのSではなく、ストロングのSだったらしく、何も知らない僕は、その真緑の液体を飲み干し、三日間、バナラシの街をさまよいました。危なかったと思います。そして、ホームシックになり、とにかく僕は小さい時からホームシックによくなっていたのですが、今までで一番ひどいホームシックになり、泣きながらインドの安宿から当時付き合っていた彼女に電話しました。ひどいもんです。その後も、行きはヨイヨイ帰りは怖いで、はじめ「だけ」恐怖心がないので、大麻の後、コカイン、LSD、覚醒剤の三種類を試しましたが(僕の体感としてはコカイン、覚醒剤は躁状態の時の過集中、時間の観念の消失・拡散、痛みを感じないなどの麻痺を呼び起こします。一方、LSDは躁状態の時の全ての物質の輪郭線が揺らぎ、どれもが粒子状に見えるという感覚に近いです)、その全てにおいて、僕はホームシックになり、強い不安を感じることしかありませんでした。生真面目な性格ですから、これも躁鬱人の特徴ですが、躁状態に「なんでもやったる、恐怖心ゼロ」になる以外は極めて真面目ですので、法律を犯しているだけで、不安になります。鬱の時は生真面目は頂点を超え、完全な堅物になります。話がまただいぶそれてますが、これも大事なことなので伝えておきます。
「躁鬱人には麻薬は全く必要ありません!」
 もちろんお酒だって法律では認められてますがあれも麻薬ですから飲む必要がありません。躁鬱人にとってお酒はよく作用してしまうので気をつけましょう。1日にビールなら350ml缶一本で十分なはずです。はっきり言えば、水を飲んでもビールを飲んでも同じ反応です。マリファナの葉っぱを少量吸うくらいは、体をリラックスさせる効果があるかもしれませんが、その後のことを考えるとそれもほとんど不要です。なぜならはじめリラックスはしますが、酩酊すると当然頭の動きがゆっくりになります。それが鬱の時の状態と似ているように感じてしまうので、調子が悪かったときを思い出してしまいます。そうなると、あんまりうまく周りの人と話せない、みんなは気持ちよくなっているのに、僕だけ調子が悪い、みたいな感じでバッドトリップしてしまうのです。
 基本的に麻薬は非躁鬱人のためにあるものだと認識しましょう。躁鬱人の躁状態、軽躁状態を、人為的に植物的に発生させようとしているように僕は感じます。なので躁鬱人のあなたはシラフで十分です。カート・コバーン、ジャコ・パストリアスなど躁鬱人の音楽家は麻薬が必要ないのに、麻薬をやりすぎてしまい、命を削っています。躁鬱人の根元は生粋の生真面目野郎です。そして、脳みそがとてつもなく柔らかく繊細です。外部からの薬物は不要です。しっかりと脳内麻薬が自然と出てきますので、どうぞそちらをお楽しみください。躁鬱人は躁状態のとき法律を犯すことにも全く無頓着、むしろ「私がルールブックである」状態になりますが、それはしばらくのことで、すぐに生粋の生真面目野郎に早変わりして落ち込みますのでご注意を。麻薬は非躁鬱人が躁鬱人になりたいがために見つけ出した秘薬です。非躁鬱人たちはわれわれ躁鬱人たちのことを、どこかで密かに憧れているという部分もあるのかもしれません。それは太古からそうだったのだと思います。太古の昔、躁鬱人はシャーマン、メディスンマンとして活躍していましたが、彼らが麻薬を使うのは常に他の人々、つまり同じ集団の非躁鬱人に対してです。彼ら自身には必要がありませんでした。
 というわけで、躁鬱人はメディスンマンですので、薬が不要です。麻薬だけでなく精神病薬も実は不要です。ですが、これはあなたの現実、社会との関わりにおいてバランスを取っていきましょう。僕は現在、デパケンを400mg飲んでいますが、毎日同じ量を飲んでいるわけではありません。その日の体調によって、今日は200mgでいいな、今日は飲まなくていいな、今日は体調が悪いから600mgにしとこう、と0mg〜600mgまでを勝手に自分で体調と相談しながら調整してます。ここ最近はほとんど飲んでいません。しかし、躁鬱人は非躁鬱人の島に住んでいる少数民族であることをお伝えしたように、われわれは非躁鬱人とどうしても共存しながら生きていかなくてはなりませんので、そのために躁鬱人用の薬として、非躁鬱人メディスンマンである精神科医が手渡す躁鬱病用の薬を少しは飲む必要もあると僕は考えてます。その辺は自分で調整しましょう。つまり、麻薬は「非躁鬱人が躁鬱人になるための薬」ですが、精神病薬は「躁鬱人が非躁鬱人になるための薬」だというわけです。われわれはどの人も生粋の躁鬱人ですが、社会的には非躁鬱人とのハーフを演じる必要があります。だからこそ僕はこの躁鬱大学でシラフで非躁鬱人社会の中で生き抜く方法を伝えたいと思っているのです。もともとメディスンマンであるわれわれが、非躁鬱人の世界で生きるためにそっちの人たちが作った薬を飲み続けるなんて、やっぱり嫌じゃないですか。日々の生活の中での行動、さらには何かが起きた時の対応のコツを掴めば、薬と同等か、もしくはそれ以上の効果をもたらすことができます。そうやってうまくいけば、きっと薬を飲まずに日々を送れるようになれるはずです。まあ薬の話はこれくらいにしておきましょう。
 というわけで、僕はホームシックにすぐかかります。それなのに、大冒険みたいなことをやろうと試みることも止めません。それは4歳くらいから変わっていないようです。あと4歳くらいの記憶では昼寝の寝起きが本当に苦手でした。夕方なのか朝なのかわからないあの妙な時間の中で目を覚ますと、自分がどこにいるのかわからなくなり、それもホームシックに似たような感覚なのですが、とても不安になっていました。でも、すぐに両親の顔を見たり、兄弟の顔を見たり、家の中の空間を見渡していくことで、あ、そうか自分はこの家にいるからホームシックを感じなくていいんだと思って、少しずつ安心していきました。それでもいつも不思議な気分ではいました。家の中にいるのに、ホームシックにかかっていたからです。よく家の中で迷子(のちに僕は実際に「家の中で迷子」という4歳の時の天神地下街での迷子のことについて書いた小説を出版します)になっていると感じたものでした。そして、この「家の中にいるのにホームシックになる」という感覚がどうやら、最初に感じた鬱の症状だったようです。おかげでいまだに僕は、42歳になっても昼寝が苦手です。あの夕方に起きた時のホームシック感がいまだに忘れられないからです。一方、早朝、朝4時とか5時とかに起きても、全くホームシックは感じません。むしろ、心地よいです。何時ころ起きたら心地よいのか、ということは躁鬱人はチェックする必要があります。おそらく早起きした方がいい人が多いと思います。夜型だと思っている人も実は、相当の朝型であることが多いです。漁師やハンターは皆早朝仕事に出発します。ほとんど夜です。でも彼らは早めに寝て、早く起きているだけです。躁鬱人たちは狩人だった可能性が高いです。常に動いているものを捕獲するためには、体も頭も揺れ動く躁鬱人の特徴がうまく活きるからです。ですので、昼寝して夕方に起きたり、寝すぎて昼前に起きたりすると、その時の遺伝子の記憶が蘇るのかもしれません。「あ、やばい寝坊しちゃった! 早く起きて狩りするつもりだったのに。みんなもう出発してるのな。こりゃまた怒られるかも」とあの時のトラウマが戻ってきているのではないでしょうか。もちろんこれは僕の「作り話」ですからね。上手に咀嚼しながら飲み込んでくださいね。
 小学校の時も、突然マジックを覚えて、すぐそうやって、適当にはまりますから、それで覚えた百円玉を手の中で消すマジックを、六年生だった僕は六年生の階だけでなく、五年生、四年生、三年生……とどこまでも披露してまわりました。ですからいろんな人に知られていたのでしょうが、こちらはその時の記憶が少し飛んでいたので、よっ、とか声をかけられても、名前も知らない、よく考えたら、その人とじっくり話したことはないもんで、何を話したらいいのかわからずもじもじしたり、作り笑いをしたり、それで、なんかおかしいなあと思ったりしてました。友達と遊んではいましたが、仲良く遊ぶときと、そうではないときの差がありました。人の家に遊びにいくと、環境が変わって落ち着かなくなり、友達の家に泊まると、必ずホームシックになりました。とにかく環境が変化すると、途端に鬱っぽくなってました。だから引越しが今でも苦手です。中高生の時も、とんでもないことをするときと、静かな時の両極端があったと思います。自分が躁鬱病だなんてことは一度も考えたことはありませんでしたが、突拍子もないことをする、そして時々ホームシックみたいな気持ちになるということは繰り返してました。でも破綻はしてなかった。
 それはなぜかというと、時間が決まっていたからで、やることが決まっていたからです。高校生までは親元で暮らしてましたので、そして、親は時間がきっちりしていて、昼ごろまで寝るなんてことはしない人でしたので、遅くても朝8時には起きて、朝ごはんを食べて、お昼ご飯も定時に、夜ご飯も定時に、お風呂もだいたい定時に、そして、10時には寝てました。みんなで川の字になって寝ていたので、寝る時間もみんな同じでした。朝起きたら、学校に行くのは決まってましたし、学校でも毎時やることが決まってました。主にやることは勉強と部活だけでしたし、僕は野球部に高校一年生の時まで入ってました。その時までは確かによかったです。僕が調子を崩すようになったのは部活をやめてからです。つまり、その時間に何をすればいいのかわからなくなってからです。これはとにかくヒントになりました。もちろん学校でやることはつまらないことでしたが、それがたとえつまらなくても、やることが時間で決まっていることの方が重要だった、ということはその後のヒントになりました。そして、それは皆さんも同じではないかと思います。帰宅部だった人は躁鬱の波がより出やすいかもしれません。とにかく躁鬱人は暇だと鬱になります。はっきりいうと、鬱は暇だということです。退屈すると鬱になります。やっている内容よりも、やる時間が決まっていて、ほどほどに忙しい、かつ、勉強だけでなく、部活など、全く別の活動が多彩に含まれている場合が大変よろしい。学校は1時間毎で時間割ができてます。2時間連続で図工するときが幸せでした。早く終わる土曜日の三時間授業の時の特別感はとても心地よかったですし、日曜日だからといって、ずっと寝てるわけじゃなくて、その時はいつもより朝早く起きて、漫画を描き、ゲームを作って時間を過ごしました。どれ一つとして、一貫性を持って、やり遂げることなどはせず、どれも適当に中途半端、でもやりたいだけやってました。かつ、成績が良かったので、それは褒められていた、学校には男子校は無理ですが、僕は共学だったので、とにかくきになる女の子、優しく相談に乗ってくれる女の子、つまり、女の子がいました。と、いうように、自分が調子が崩れてはいなかった、むしろ、調子がよかった、あの18歳くらいまでの時間の使い方に注目しましょう。そこにこそ、あなたが楽に過ごすためのヒントがあります。
 というわけで、僕は「4歳から中高生までもしっかりと躁鬱の波があった。そして、それは上京して一人暮らしをしてから波が強くなり、破綻し始めた」わけです。最高だなと思っていた時間は小学五年生の時でしょうか。中学二年生の時もよかった気がします。高校に入ると、部活がつまらなくなったので、やめてしまいましたが、部活をやめてからおかしくなりました。カンダバシもずっと下の段に書いてます。
「受験勉強をするからといって、部活や遊びを減らして生活を狭くするのは逆効果となります」
 本当にそうなんです。でも、ついつい一つの大きなことを完遂させたいと焦るあまり、他のことをどうでもいいことだから、やめた方がいい、受験に受かることには、部活は全く関係なく、意味がない、ためにならない、などと考え、イライラして、やめてしまいます。しかし、そのことで、うまく多彩な活動をすることで、躁鬱の波を拡散することができていたのに、それができなくなり、波が窮屈なところにおびき寄せられ、鬱になってしまいます。躁鬱人はすぐ、これは意味がない、俺がやろうとしていることに直接、関係ない、時間が勿体無い、俺はもっとこういうでかいことがやりたい、と思ってしまうので気をつけましょう。躁鬱人にとって重要なのは「何をやるのか」ではありません。そうではなく「どれだけ多彩か」ってことだけです。それがなぜ重要なのかは、第12章の「躁鬱人は酋長である」にまとめて書いてますので、そちらを読んでもらうとして、まずは「やっていることの重要性よりも、多彩であることの方が重要である」ということを頭に入れておいてください。たとえ稼ぎにならないとしても、それが多彩さを生み出しているのなら、それだけで躁鬱人にとっては有益なことです。体が楽になるのですから。そんなわけで、学校生活はやっている内容は窮屈極まりないですが、実のところ、その細切れな時間の使い方、受験もあれば、部活もあること、異性と出会う可能性が高いことなど、とにかく躁鬱人にとっては、安定した土壌なのです。これ以外と感じる人もいるかもしれません。決め込まれた学校生活なんて躁鬱人にとっては不自由そのものだと感じる人もいるでしょう。ですが、あなたの小さい時を思い出してみてください。きっとみんな躁鬱の波をうまく拡散できていたんです。学校生活は、実は非躁鬱人にとっては窮屈なところですが、躁鬱人にとっては不思議なことに、その後の生活の基盤となる「日課」の作り方を教えてくれる格好のモデルケースなのです。もちろんやっていることはつまらないかもしれません。しかし、やってきたことなんかどうでもよくて、その時間の使い方、興味関心も分裂具合に着目してみてください。
 つまり、あなたの躁鬱の波がうまく拡散されていた過去の時間こそ、一度躁鬱病と言われ破綻したあなたが再構築する生活の元になります。楽にするための方法論がもうすでに存在しているんです。嬉しくないですか? 僕はとっても嬉しくなりました。
 次回はそれを元に、どのように僕が時間割を作っていったか、ということを話してみたいと思います。それではまた明日。


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