見出し画像

躁鬱大学 その3 自発的『トゥルーマン・ショー』こそ躁鬱人が到達すべき最高の状態である


3 自発的『トゥルーマン・ショー』こそ躁鬱人が到達すべき最高の状態である

 カンダバシの言葉一つ一つに対して、ついつい言いたいことが溢れてくるので、なかなか進んでいきませんが、こういうペースってことなんでしょう。こうなったら、一文ずつじっくり読んでいくことにしましょう。さて次の言葉です。
「人の顔色を見て気を使うといった平和指向型なので、他者との敵対関係には長くは耐えられません」
 前にも出てきましたが、この文章もまた躁鬱人の特徴として的確です。とにかく「自分がない」んですから、当然の動きですね。でも「人の顔色を見て気を使う」という言葉をつい悪いことのように取ってはいませんか? 躁鬱病はのほほんとして天真爛漫なところがありますが、実はそれだけではありません。異常と言えるほど、周りを伺います。とにかく外に視線を向けて、観察しようとします。近くの空間に何人かいるとしたら、その人たちそれぞれをよく観察します。まずは自分が安心できるようにと内側に視点を向けるのではなく、まずは外側に視点が向かうのです。誰か困ってはいないか、誰か退屈してはいないか、誰か気まずそうにしていないか、誰かイライラしていたりいないか。そうやって、これから同じ時間を過ごすことになる、周囲の人々たちの様子をドラゴンボールでいうところのスカウターで、それぞれの気分の値を計測しようと試みます。誰かが声を出すと、その声色を感じ取り、その人がご機嫌なのか、苛立っていないかを観察します。ご機嫌なら問題はありません。すぐにその人の観察は終了ということになります。つまり、躁鬱人たちが確認しようとしているのは、自分の周囲で、元気じゃない人はいないかということです。躁鬱人は、まずは自分自身よりも、集団という塊に目が向かうんですね。その集団が心地よく構成されているかどうかが気になります。うまくいっていないなら、持ち前の能天気さ、ひょうきんさなどを駆使してどうにも和ませようと試みます。しかも、この能天気さ、ひょうきんさは、自分一人でいる時には一切発揮されません。一人の時はむしろ、とても大人しく、静かです。躁鬱人の陽気さは、とにかく集団の中でだけ登場してきます。陽気な人ってわけではないんです。でも心配しないでください。だからといって根暗な人ってわけでもないんですよ。空っぽです。すると、また空っぽであることがいけないみたいに感じる人がいますが、ここはひとつしっかりと認識してください。それが躁鬱人の特徴なんです。僕も空っぽですし、あなたが躁鬱人ならあなたも空っぽです。おんなじです。私って空っぽな人間で、他の人みたいに一人でいる時間を楽しむことができない、ってな具合で、すぐ自分の性格の問題にしてしまいますが、その理由は単純です。躁鬱人の特徴が顕著にもかかわらず、ほとんど言語化されていないからです。だから僕はどんどん躁鬱人の特徴を言葉にしたいんです。当然のことのように躁鬱人であるみんなが暗唱できるくらいに、言葉にしてみたい。人間のあるべき生き方として、一人でいる時に充実し、じんわりと幸せを感じる、みたいなのがあるじゃないですか。家で部屋を綺麗にして、庭で野菜を育てて、縫い物なんかをしながら料理をして、自分が好きで買い集めた食器に盛り付けて、一人でも楽しくご飯を食べているみたいな人が頭にいますよね。暮らしの手帖なんかに出てきそうな、落ち着いた一人で充実している人。あれこそが人間で、私みたいな空っぽな人間は人間ではなく、だめなんだ、って思うじゃないですか。その思い込みは今日でおさらばです。あれは別のタイプの人間です。僕もそうでした。僕の妻がまさにそういう人なんですよね。一人でいても、全然苦じゃない。じりじりと全然進まない刺繍なんかしながら、一人で家事をしたり、掃除をしたりして、じんわりと生きている。「ああ、君みたいな一人で充実できる人間になりたい」と言ったところ、即答で「いや、あなたが私になったら多分退屈すぎて死ぬよ」と返されました。周りの人は躁鬱人が全然違うタイプの人間だってことがよーくわかってます。躁鬱人にはそのような落ち着いた人生は一生やってきませんので、今日限りできっぱり諦めましょう! 僕が部屋を掃除するのは、帰ってきた家族から褒められるためであり、ツイッターで写真を見せたいからです。料理をするのもそういうことです。一緒に食べる人から褒められ、しかも写真はもちろん撮りますから、それをツイッターで発表し、さらには本にまでなりましたから、さらに多くの人の目に触れます。もうこの際、断言します。僕はそのためだけに一人の時間を過ごしてます。一人でゆっくり充実した時間を過ごす夢を持ってはいましたが、なかなかうまくいかないで長い間悩んでいましたが、気づいてびっくり、ただ体質が違ってただけだったんです。僕はそんなことは全く向いていない。一人でいる時ですら、人のことを考え、人にどうやって見せたら喜ぶか、創造的にわきたつか、なんならキスとかしてもらえるんじゃないか、本になるんじゃないか、売れるんじゃないか、たくさんの人からさらに褒められるんじゃないか、ということしか考えられないんです。そうなると、すぐインターネットで自分がどうしようもない人間なんじゃないかって調べようとしてしまうんですよ。躁鬱人は特に!躁鬱人を簡単な言葉でまとめてしまうと、危険です。
「自分のことしか考えない自己チュー野郎」
 この一言で済んでしまいますから(笑)。これをインターネットに氾濫している言葉で病理的に言うと、自己愛性人格障害とかになってしまいます。躁鬱人は一説によると、世界に6000万人いると言われてます。意外と多いんですよ。そんなわけでみんなついつい、そんな一人で全く充実できない、人間らしくない自分に対して、悩んでいるようです。だからこそ、検索もしたくなります。あの虚しい時間! 「一人で過ごせない」とかで検索しないようにしてくださいね。はっきり言いますけど、今のところ、躁鬱人の特徴をうまく言い当てられているインターネットのページは、おそらく神田橋語録しかありません。だからこそ、今、僕もこの躁鬱大学を書いて、追随しようと、考えているわけです。自分が人格障害なのではないか、などと病院でもなくインターネットで診断しようと試みる、これまで行い続けてきた行為とも今日でお別れです。なんか嬉しくないですか? 僕はこのことに気づいたとき、本当に心から喜びを感じました。心配ご無用です。もちろん、僕もこの病気探しごっこに昔は入れ込んでいたものです。だから全部わかるんですよ。こんなこと誰にも相談できないことも知ってます。だから言葉にしたいんです。誰もが恥ずかしくて言葉にしてなかったからこそ。言葉になっていないこと、というのは、それが難しくて不可能なのではなくて、口にするのもはばかれる、から言葉になっていないだけなんですから。
 と言うわけで、躁鬱人は一人でいる時間を充実させることはできません。その代わり、一人でいる時も人のことを頭に浮かべながら、その人たちのことを喜ばせると思うと、どんなことでもできます。そうやって、過ごしてみてください。あらゆる時間をそうさせるのです。躁鬱人は一人で映画を観るのが苦手ですが、映画を観たあと、長い映画評を書いて、友達に送る、もしくは発表する、それを継続して、自称だろうが映画評論家みたいになる、と決めると、一人だろうが、気にせずどんどん映画が観れるようになります。今日は泣きたいから、泣ける映画を観るなんて、自分のためにしてあげることは一切できません。ところが、映画を観察し、考察し、その素晴らしさを他の人に伝える、もしくはその映画を作った映画監督、並びに、素晴らしい演技をしている俳優の方々に直接、感激した詳細な理由とお礼をメールすることは得意です。リアクションのない行為は一切することができないってことです。どんなに細かい行為でも人に見せて、リアクションしてもらうということが重要です。リアクションだけが栄養です。それ以外の栄養はありません。自足するなんてことは全く興味がないのです。興味がないのに、そういう生き方が人間らしいんだと勘違いして追い求めると、人生をこじらせてしまいます。早速止めて、常に人のリアクションを求める人生に切り替えましょう。何も問題なく、のびのびとできるようになりますし、人のリアクションが良ければ、人生はさらに好転するでしょう。好転すれば通院する必要もなくなると思います。
 なぜ躁鬱病は繰り返し再発するのかというと、これが普通だと思い込んでいる人間らしさを追い求めてしまうからです。そうじゃなくて、面白すぎる躁鬱人の特徴をよく掴んで、言葉にして、それを暗唱できるように頭に入れて、それでも躁鬱人はコロコロ脳みそが動いてますから、すぐ忘れますので、また思い出し、忘れないように暗唱して、常に人に向けて、行動できるようになると、再発はしません、症状とも思いません。そんなもんだ、と波を理解できるようになります。僕は真剣に、躁鬱病で自殺する人をゼロにしようと今、試みてます。つまり、躁鬱病というものを「躁鬱人の特徴」という言葉に切り替えようとしてます。これまでの医学を全て否定するくらいの大それたことです。もちろん、そんなことをしようとするのも、躁鬱人の特徴です。それくらい大したことなんだ、とんでもない偉業だ、だからこそ今日も、朝5時に起きて、二度寝もせずに飛び起きて、この原稿を書いているんです。書くのも実際には一人です。一人で充実させよう精神だったら、こんな朝早く飛び起きて、真剣に書いたりできません。誰もいないんですから。でもこれが多くの人々を助ける偉業になるかもしれない、という予感が少しでもあれば話が変わってくるわけです。そんな風にして、僕はあらゆる細かい作業まで全てを常に自分のためではなく、人のために、より多くの人のためにと、自覚的にやってます。躁鬱人にとってそれはとても心地よい生活です。自発的にトゥルーマン・ショーをやっているようなものです。あれが躁鬱人の到達すべき最高の状態です(笑)。
 だからこそ鬱がとてもしんどいんです。鬱状態は常に一人です。あの大嫌いな一人で空っぽな時間だけになってしまいます。今まで読んできた躁鬱人の方々はもうご理解いただけていると思いますが、躁鬱人の特徴を考えると、鬱状態の時に常に一人でいることは毒だとしか思えないじゃないですか。そうです。まさに毒なんです。鬱状態の時に、一人でいて一人で完結する時間を過ごしていたら、ただ辛いだけなんです。カンダバシはこう言います。テキストの11行目。
「特に自分らしさや自分の長所が失われたときが要注意です」
 そもそも鬱の時は自分の長所なんて何一つもないという状態になってしまうのですが、人に見せて喜ばせてなんぼの躁鬱人が一人でいたら、本当に大変なことになってしまうのです。このまま鬱状態の過ごし方のコツについても書いていきたいのですが、まずはテキストに沿って進むことにしましょう。今、もしもあなたが鬱の真っ最中で、もう死ぬかもしれないから、早くコツを教えてくれという状態ならば、第8章からはじまる「鬱の奥義」に飛んでいってください(→87ページ)。とりあえず僕は鬱にならない、もしくは鬱を生活の中で作り出し解消する方法を書き進めていくことにします。もしも本当にまずいと思ったら、迷うことなく09081064666に電話です。躁鬱大学は常にマンツーマンでのケアサービスも同時進行してますから、安心してください。怪しいテレフォンショッピングみたいですが、なんと無料ですから、どんどん騙されたと思って、電話してみてくださいね。死ぬよりましですから。
 さて、ずいぶん迂回しましたが、人の顔色を見て気を使う、ということに戻ってみましょう。カンダバシは続けてこう言うのです。
「平和指向型なので、他者との敵対関係には長くは耐えられません」
 顔色を伺うのも気を使うのも、躁鬱人にとっては平和のためなのです。それは自分が目立たないようにしようとか、自分に意見がないとか、そういうことではないんです。とにかく平和を重んじる。みんながニコニコして楽しそうなら、躁鬱人はニコニコして楽しいんです。苦手なのは、みんなが気難しい顔をして黙っているような現場です。ついずっこけたり、大きな声を出してびっくりさせたり、したくなりますが、そして、することもあるのですが、とにかく空気を読む、いや、空気しか読んでいませんので、空気が変化しないと感じたときは黙ってしまいます。空気を読むって言うのも悪い意味で取られますよね。でもそれは躁鬱人ではない人たちにとってということです。下手な人が空気を読んだら、ろくなことにならないからです。しかし、躁鬱人は全く別次元です。空気を読むことだけに長けてます。だから、世の中の流れは全く無視して、どんどん空気を読みましょう。
 気をつけることは、空気が悪い、と感じたら、かつその空気が自分の「おどけ」や「ひょうきんさ」などで変わる余地がないほど停滞していると感じたら、すぐその場を去ることです。前にも言いましたが、躁鬱人は徹底的に柔らかいです。だからどんなに空気が悪い現場でも、変形して、なんとなくその場を過ごそうとしてしまうんですね。でもそれはとても「窮屈」なことです。そのままにして時間を過ごしてしまうと、帰りたいのに、ずっとその場にいると、二つのよくない方向に感情が移行していきます。一つは空気が悪すぎて「全然喋れなく」なってしまいます。その場にいる人の空気を全て読もうと試みてしまうので、そこでの空気がうまく読み取れていない場合、混乱が激しくなってしまいます。すると、周りのみんなは仲良く笑って喋っているのに、自分だけ黙り込んでしまう、みたいな状態になってしまうんです。そうすると、躁鬱人の特徴である「自己中心的」なところが窮屈になってくるんですね。躁鬱人ではない人には申し訳ないんですけど、躁鬱人は常に自分が話の中心になっていないと落ち着きません。あちらで数人がニコニコ話してて、こっちでは一対一で静かに話す、みたいな状態だとなんとなく物足りないって思ってしまうんです。これもあなたが自己中心的な性格に育てられたわけでもなんでもありません。あなたの両親には一切の非がありません。ただの躁鬱人の特徴です。しかし、特徴であることがわかっていないと、自分は話に加わっていない、孤独だ、結局自分は人間関係がうまくいかないんだ、なんてことにすぐに発展してしまいます。みんなにその状態を口にしたら、お前はなんて自己中心的な人間なんだとか言われそうで、怖くて、そんなことはもちろん言えませんから、さらに黙ってしまいます。躁鬱人は柔らかいくせに、躁か鬱のどちらか二極で考えてしまう癖があります。黙っていてもいいのに、黙っていると、鬱の時の自分をつい思い出し、さらに黙ってしまい、喋っていると躁が喚起されてついつい一人舞台に躍り出てしまいます。
 黙りこんでしまった時にはどうすればいいか。黙りこんでしまうと、すぐ自分は鬱だ、と言う風に流れていきますが、黙りこんでしまうには理由があります。それは「あんまり面白い現場」ではないということです。別にその場にいてもいなくてもどちらでもいいと実は感じているんです。周りの人たちのことを面白くない、などと言って酷いと思われるかもしれませんが、人に面白くないとは口にしなければいいんです。そして、人が面白くない、わけではなく、その場に自分が必要ない、と感じていることが多いです。悲しいかな、躁鬱人は話の中心に自分がいないと楽しく感じませんので仕方がありません。自分が出る幕ではないところでは静かにしていよう、ではなく、出る幕がないところにはいない方がいいんです。むしろ、そのままいなくてもいい場所に居続けると、窮屈さが満杯になって、そうなると、黙ってしまう状態から怒りに移行してしまいます。そうなると、二度とその現場には戻りにくくなってしまいます。本当は躁鬱人は徹底した平和指向型です。だからたとえそれが正義であるとしても、怒りを持って訴えるみたいな行為が得意ではありません。いや、多くの躁鬱人はそうやって訴えることが得意だと勘違いしているところがあります。でもそれは得意だからではありません。何が原因かと言うと、話の中心になろうとする自己中心的なところがつい顔を出すのです。不思議なことに、正義を正そうと思っているわけではありません。正義を正すことであれば、そうやって怒りを発奮させることができるからついそれをやるのです。もちろん、あらゆる政治の現場で、泣き寝入りするのではなく、間違ったことを間違っていると訴えることは重要です。デモだって大事でしょう。インターネット上で政治家に文句を言うことだって大事なんでしょう。しかし、それは躁鬱人以外の人だけです。躁鬱人には全く大事ではありません。躁鬱人はついつい話の中心になれるチャンスを常に伺っているところがあります。そして、その根元には怒りがあり、怒りを発奮できるところ、こう言ってはなんですが、はっきり言えば議題はなんでもいいから、発奮だけしたいと思ってます。しかし、躁鬱人は結構賢いです。うまく正義を正すことを見つけ出し、その発奮行動を始めます。だから、言い返しにくいんですよね。周りの人も、やりすぎだとは思いながらも、ギリギリのギリ、正義が根っこにあると感じるので、そんなに激烈にならなくてもと諭そうとしても無理です。本当に躁鬱人の特徴は、うまく非躁鬱人の普通の行動の中に紛れ込ませているので(そうやって、どうにか遺伝子を受け継いで生き延びてきたのでしょう)、一見、正しいことのように見えがちです。しかし、怒りを発散すればするほど、その分量だけ、つまり出せば出すだけ、深い鬱に陥ってしまうのです。しかも、元々はただ話の中心になればよかったんです。それだけなんです。そうやって人を喜ばせるのが目的だったんはずなんです。窮屈な現場で、その行動を行うと、正義を担保に、怒りを爆発させてしまうので、躁鬱人の人は気をつけましょうね。悪い政治を正したい。はい、確かにそれは必要なことです。でもそれは非躁鬱人に任せましょう。他にもいろんなことができるはずです。躁鬱人は喜劇役者です。あらゆる批判は常に笑いの中に紛れ込ませて、まずは人を喜ばせるのです。しかも、躁鬱人たちが感じる、どうにかしないといけないという政治的態度の陰には、常に「話の中心にいたい」と言う欲望があるのを忘れないようにしましょう。僕はそのことを否定しているわけではありません。むしろ、それのどこがいけないのか、それでいいじゃないか、いや最高じゃないかと感じているところがあります。あなたは答えも知らないのに、はいはい手をあげて大声で叫んでいるあの小学生なんです。微笑ましいじゃないですか。その力をうまく利用してあげましょう。批判や怒りに使うとろくなことが起きません。それはもう少し冷静で読書なども落ち着いてできるタイプの非躁鬱人に任せておきましょう。こちらはとにかく人を喜ばせるのです。腹を抱えて笑って泣いて、何に怒っていたのか忘れてしまうくらいに、人々を笑いの渦に巻き込みましょう。きっとそれだって生きる力になるはずです。いや、僕はそれこそが生きる力だと確信しています。
 話の中心になるために、正義を盾に怒りを発奮させる直前に、ある兆しがあります。それが「その場にいて黙り込んでしまう」という真逆の控えめな状態です。それをうっちゃるために、怒りを使って話の中心に向かおうとするのです。だから多くの人たちと同じ場所にいて、窮屈を感じ、黙ってしまったときこそが、チェックポイントです。そこで鬱の予感を感じます、だからこそ、力を発揮しようとしてしまう。しかし、それではうまくいかない。じゃあどうするか。むちゃくちゃ簡単なことです。
「話の中心になれないところでは、自分の出る幕はないと諦め、適当な話をしてその場をやりすぎすこともできないので、さっとその場を立ち去る」
 本当に、このむちゃくちゃ簡単な結論のために、この長い章を書き続けたのですが、人の顔色を見て気を使ってしまうために、その場にいたくないと思っても、ついつい気にして、その場にい続けてしまい、窮屈をさらに倍感じてしまい、黙り込むと言う鬱の予感、そこからのうっちゃりとしての怒りの発奮、という展開になるわけです。僕はたとえ、ある飲み会が盛り上がっていたとしても、僕としては居心地がどうも悪いなあ(つまり、話の中心になれていないと感じた場合ってことですw)と感じたら「満足したので帰ります!」と言って、感じた瞬間に立って外に出るという実験をするようになったのですが、これがとにかく効果てきめんでした。そして、さらなる結論に達しました。それは「躁鬱人は、大人数での会合は全く必要ない」ということです。2、3人の会合、いやはっきり言えば、一対一で会うことが一番楽です。もちろん大人数の視線を集めるということも好きなんですけど、つまりそれは「一点」に集めるということだけです。自分オンステージなら大人数でも問題ありません。なんて自己チューなんだと非躁鬱人の人からは思われると思いますが、仕方ないです、これが躁鬱人の特徴なんですから。というわけで、僕は普段の生活では、一対一だけの会合だけを頻繁に行い、複数人での飲み会は一切出ないようになりました。僕が見つけた方法は自分が「午後9時に寝る人」だと知らせたことだけです。そうすると、当然ですが、夜の飲み会には誘われません。躁鬱人にとって、酒は楽しいものですが、飲み会をやっても騒ぐだけで、もしくは中心になれていないと落ち込むだけで、全くいいことがありません。それより、楽しく一対一で自分が紹介した最高のお店で美味しい料理に舌鼓を打ちながら、シェフとの対話しながら対面する一人の友達をとにかく楽しませるということの方が楽で楽しく、そして、心地よいようです。しかも夜9時に寝ると、躁鬱人にとっての生活の上での最大の敵は「睡眠不足」ですので、睡眠も安定して取れて一石二鳥です。もし飲み会につい参加してしまったとしても、9時に寝ることをみんなが知っているので、ちゃんと9時には帰ることができます。むちゃくちゃ楽しく話の中心になっていれば、延長していればいいんです。そして、大人数の前で注目を浴びるという欲望のために、時々、人前に出て、歌をうたう仕事をしています。この時は常にオンステージですから、他の人と世間話をする必要がありません。やりたいように話したいように話すだけ話して帰ればいいんです。打ち上げも僕はしません。オンステージで満足するので、あとはゆっくり帰って、早く寝るんです。皆さんも、ああ、なんか居心地悪いなあ、面白くないなあ、と思った瞬間にまずは立ち上がってみるところから練習してみてください。そして、それがどれくらい心地がよかったかを確認してみてください。躁鬱人は体感すれば、必ず心地がいい方に体が動いていきます。ただ知らないだけなんです。ちゃんと経験をしていけば、自分なりの操縦法を見つけていくんです。自己中心的な人間は人間ではない、みたいな言葉が広がりすぎているので、顔色を伺ってなんでも言うことを聞いてしまう躁鬱人はつい、それが自分だ、だからダメなんだと控えめになってしまってます。大胆になって、人前に出ろと言っているのではありません。大胆になって、さっとその場を離れてみることを練習するのです。そうすると、自分にとっての話の中心になる場所が見えてきます。離れることが見えるのです。そこがあなたの場所です。好きに歌って踊って話して、喜びを人々に提供してあげてください。そこにいる人々はあなたのユーモアを全て受け取ってくれるでしょう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?