躁鬱大学 その 15 躁鬱超人への道


15 躁鬱超人への道

 さて、今日もカンダバシの言葉からはじめてみましょう。
「資質に合わない努力はしないのが良さそうです」
 ついつい躁鬱人は努力をしてしまいがちです。それはあまりにも適当な自分をなかなか受け入れることができないからでしょう。そんな自分ではだめだ、もっと他の人みたいに落ち着いていろんな物事に取り組めるようになりたい、なんてことを考えてしまいます。僕もそうなります。例えば、僕は作家業をしているのですが、それなのに、全く本を読むことができないんですね。どうにか右から左へ読もうとするんですが、読んでも読んでも頭に入ってこないんです。説明書なら読むことができますが、小説のような抽象的なものだとお手上げです。それなのに、僕は小説も書いているんです。しかも、その読めない小説よりもさらに抽象的でわけのわからない小説を。だからやっぱりそんな本は売れません。わけがわかりませんから当然のことです。だから僕も「ノルウェーの森」みたいな読みやすい小説を書いて、稼ぎたいとか考えるんですね。そんなわけでよく「小説家になるための本」とかを読むんですよ。恥ずかしいから言いたくないですけど、読むんですよ。そこにはプロットが重要だ、とか、相次ぐ困難によって主人公を追い詰めよう、とか、アクションシーンの分量とか色々書いてあるんですけど、そして、そういう色々やり方が書いてある本が僕はとても好きなんですが、自分がやろうと思っても全くできません。いつも僕は頭に突然浮かんできた、情景と言いますか、風景なのか、とにかく現実とは別の景色が見えてきまして、おそらくそれは他の人にとっては幻覚ってことなんでしょうけど、ただそれを写真を撮影するみたいに文字で描写しているだけなんですね。そのため、会話文ではなくて地の文ばかりになるわけです。人間が全然出てこない時もあります。それでも僕は描写するだけですからどんどん書けるわけです。しかし、その小説HowTo本には、地の文7割会話文3割とかって書いてあるんですね。でも気にしなきゃいいじゃないですか。規格外の人間だと思っているんだから、小説も規格外で書けばいいのに、気にしちゃうんですね。しかも、そういう本には必ず「本をとにかく読んで読んで読みまくれ」と書いてあるんです。本を読んでその蓄積があなたの小説の豊かさになるんだと。だから名作を読め。駄作を読んでダメなところを知れ。とにかく本を読め。読まないやつは小説家にはなれないとまで断言しているんですよ。だから読もうとするじゃないですか。しかし、僕は全く読めない。それでもどうにか椅子に座らせて、毎日1時間だけ読もう、読むだけだとすぐ寝てしまうので、書き写そうと試したりもしますが、次の日にはもう嫌になってます。こんなんじゃ俺はだめだ、ってなりまして、そのままじゃあどうやって書いていくんだよ。なんだよ俺、作家で食ってるのに、作家っぽくないし、作家ができること何もできないからこれから仕事できるのかよ、食っていけないじゃないかと考え始めて、気づくと鬱になってました。
 でももうやめました。世の中に流通しているこのHowTo本は、売れてます。売れてるってことが重要なんですが、たくさんの人が読んでるわけです。つまり、少数民族に向けての本じゃないんですね。全てのHowTo本は非躁鬱人のためのものです。だから躁鬱病のHowTo本がないんです。でも躁鬱人はHowToを一切教わらずに生まれて生きてきてますので、すぐこれでいいのかってことが不安になります。答え合わせをしたことがないんですね。答えを知っている人が近くにいませんから。躁鬱人の人生に関して研究が一切なされていません。だから必然的についついHowTo本を探してしまう。考えても見てくださいよ、30冊近くも著作を書いているのに、いまだに本屋では生き方のHowTo本とか小説のHowTo本とか、鬱の時にどう過ごすかって本ないのかよって探してばかりなんですよ。恥ずかしいじゃないですか。もっとスティーヴン・キングとか読んでエンタメの真髄知った方がいいはずです。でも僕は違います。全くそういうものが読めないんです。はっきり言って面白くないんです。そもそも、そんな小説を書こうと思っても、僕はどう努力したって書けるわけがないんです。一行も浮かんでこない。悶々と机の前で困って、苦しんでます。あ、これが作家ぽい姿ですよね。苦しみながら、どうにか書く、締め切りに間に合わず、死に物狂いで書く、みたいな。
 しかし、一方ではこの躁鬱大学のテキストは1日に2時間で8000字も書いちゃってます。そりゃそうです。躁鬱人に関してのテキストは誰も書いてくれないし、言いたいことはたくさんある。何度も自殺しようとしたけど、それくらいキツかったけど、今はカンダバシの言葉と出会って、自分なりにサバイバル技術を身につけたので、書きたいことはたんまりあります。むしろ、こんな量を毎日休まず書ける人は、僕ぐらいなのではないでしょうか。躁鬱人お得意の「ありすぎるギャップ」です。そんな時にこの「資質に合わない努力はしないのが良さそうです」というカンダバシの言葉を見つけ、僕は至福な気持ちになりました。今まで僕が苦しんでいたのは、いつも、壁を乗り越えないといけないと思っていたときだったんです。しかし、僕が調子がいいのは、重力を無視して、壁に垂直に立って走り回っているときです。ルールを破って、自分の思う通りに、そのことだけには忠実に好き勝手にやっている時ってことですね。その時は、一切の努力がいらない。この講義だってそうです。なんの準備もしてません。カンダバシのテキスト一行をインスピレーションにして何十行も原稿を書けます。水を得た魚の果たしないバージョンです。そういうときだけうまくいくんです。カンダバシの努力についての言葉はまだ遠慮が入ってますが、僕はその言葉をさらに改良して「努力は敵」というシンプルな言葉に変換しました。一切の壁を乗り越える作業を回避して、徹底して水を得た魚状態でしか仕事どころか人生を送らないと僕は決めました。 
 というか、僕は本を右から左に読んで理解することはできないのですが、パッと適当に開いたところから、なぜか自分が今一番読みたい言葉を見つけることはむちゃくちゃ得意です。だからどんどん本を買ってます。本棚には気になった本がたくさん並んでます。ほとんど読了してません。でも映画監督のジャン=リュック・ゴダールの映画史は読了できました。これは大学での講義録なんですよね。こうやって人が発言した文章を集めたものは読了できるみたいです。あとは好きな作家の自伝も読むことができます。そんなわけで、僕は大学の講義風にすれば読めますから、書けます、そして、自伝、つまり、作品からは知ることができない細かいプライベートなことなら読めますから、書けます。おそらくこの躁鬱大学は大学講義風の細かいプライベートな話になっているはずです。つまり、これなら僕は得意だし、読んでも楽しいので、延々と止まらずになんの資料も読まずに準備もせずに、こんな分量の本がわずか二週間で書けるんです。ここに一切の努力がありません。毎日朝4時に起きるのも努力ではありません。ただ起きてすぐ書いていると興奮するから起きているだけです。毎日8000字書いているのも努力ではありません。ただひたすら書きたいのです。むしろ2万字くらい本当は書きたいです。でもそうすると、次の日果ててしまうので、気持ち良さって毎日味わうとさらに気持ちいいじゃないですか、だから、力を少しだけ溜めておいてます。そのこと自体がまた僕を嬉しくさせるんですよね。明日また興奮の時間がやってくるって思うだけで。
 そうやって仕事をしていくことで、僕はどんどん自分がやりたいことだけしかやらないようになっていきました。努力が必要なことは一切受けてません。全て丁寧に理由を説明してお断りしてます。丁寧に理由を説明する理由は、そうやって断ると、大抵は「わかりました」と言われ、二度と仕事のメールは来ないのですが、時々「それは興味深いですね、その理由自体が原稿になりそうですから、本を読まない理由について、もしくは僕の読書法って感じで書いてもらえませんか?」みたいな感じで依頼内容が変更するときがあります。その人は、仕事の依頼はまあ適当な理由づけで、つまり、僕に興味があったんですね。そうやって、自分に興味を持ってくれてる人=仲間を探すんです。その人は締め切りを多少遅れても文句を言いません。もちろん締め切り前に連絡をとる必要はありますよ。また自分なりの理由=言い訳を伝えればいいんです。興味を持っている人は「ちゃんとしているかどうか」なんかどうでもいいんです。僕が書いた文章の内容が面白ければそれでいい。このように興味を持ち持たれている関係では、通常の仕事の決まりごとから大きく外れて独自の環境を作り出します。この「努力を一切しない」という方法は、この興味を持ってくれる味方を見つける上で非常に重要な技術になりますので、頭に入れておいてください。頭に入れておけばおくほど、体が楽になるんですから、おそらく言わなくても頭に入れちゃうと思います。さて、またカンダバシの言葉に戻ってみましょう。
「『きちんと』とか『ちゃんと』とかは窮屈になるから駄目です」
 これもさっきの努力と同じですね。躁鬱人は根っからの適当な人間であるにもかかわらず、人の顔色を見て気持ちを伺うという矛盾した存在ですので、仕事なんかの時は、つい、適当な自分を押さえ込んで、相手から依頼された通りに、それこそ額面通りに、四角四面にやろうとしてしまいます。もちろん、適当な人間ですから無理なんですが、真面目にちゃんとやろうとします。そうすると、努力発生の黄色信号なんですね。でもその裏には、とんでもない結果を残して世界最高と言われたいという野望も隠れちゃってます。そんなわけで努力している自分も世界最高と言われるためには仕方がないと思ってしまい、努力を肯定しちゃうんですよね。でも必ず窮屈になります。そして、ひどくなれば鬱になります。そこでこう考えてみるのはどうでしょうか。
「もうすでにお前は世界最高である」
 と一度自覚するのです。ひどい話なのはわかってます。誰でも嫌ですよこんなやつ。自分のことが世界最高だと思っているやつ。しかし、努力しないためには必要な思い込みです。躁鬱人はお世辞を言われても、お世辞と思わないでそれが真実だと勘違いできる素敵な人たちです。僕が今「自分が世界最高の人間だと思いましょう」と提案すれば、すぐに飲み込んでくれるのを知ってます。でも、少しでも「俺だめかも…」と思っちゃうと無駄な努力が発生してしまいます。躁鬱人は自信を持って行動しない限りうまくいきません。少しでも怯えてしまうと全てが控えめになり、せっかく素晴らしいパフォーマンス能力を持っているのにうまく発揮できなくなってしまいます。
 あなたは世界最高です。世界最高の何かです。それが何かは誰にもわかりません。自分にもわかっていないでしょう。でもそれでいいんです。もともとこの道一筋ではないですし、まだ名前を与えられていない何かの世界最高なのです。だから周りがあなたの才能に気づかないのも当然です。埋もれた天才です。埋もれた天才ですから、決して気づいてくれない周りの人たちを怒ったり、力を誇示したりしないでくださいね。「俺はすごいんだ、なんでわからないんだ」なんて言う人は自分の力のなさに恐れている人です。われわれ躁鬱人はすでに世界最高なのですから、安心していてください、今は誰にも気づかれていなくてもいずれ必ずその才能は漏れ出てしまいます。だからこそあなたはリラックスしていればいいんです。世界最高だと心の中で感じながら、自信を持って、でも能ある鷹は爪を隠すくらいの感じで、行動しましょう。少し余裕を持って好きなことを好きなだけやるのがいいです。世界最高ですから努力はする必要はありません。あなたが持っているものだけを全て発揮すればいいんです。依頼に合わせて、きっちりやる必要もありません。カンダバシは「ちょっとだけはめを外すことがストレス解消につながります」と書いてます。依頼されたことよりちょっとだけはめを外して、提案するくらいがいいかもしれません。なんでもやりすぎると、下品です。上品にやってみようと心がけてみるのはどうでしょうか。そうすれば、指先にまで力を感じて、気持ちよく行動できるはずです。あらゆる行動が全て実は非躁鬱人にとっての練習とか努力に当たるような力を持ってます。何かのために必死に努力、練習を積み重ねるのではなく、やっている行動自体が常に努力、練習になっているというわけです。それが躁鬱人です。なんといっても世界最高なのですから当然です。何かの世界のイチローであることは間違いありません。だから打席に立つだけで、経験値が増して行くのです。どんどん経験値を増やしていきましょう。練習などしなくていいですから、どんどん外に出て行動を積み重ねていきましょう。躊躇すればするほど鬱になります。
 しかし、注意すべき点は何かのイチローではあるが、それが何かは誰も知らない、自分も知らない、と言うことです。そのためにこれが仕事だったとき、うまくいく場合もありますが、全くうまくいかないときも多々あります。一切気づかれないまま死んでしまうこともあります。それが躁鬱人の人生です。ほどほどにうまくいけばいい、なんてことは望んでもできません。ムッチャうまくいくか、全然だめかです。次の章ではそんなあなたでもそれなりに生き抜いていくための躁鬱マネジメント技術についてもお話しますが、躁鬱人は何よりも埋もれた天才、誰も知らない世界最高だと言うことを頭にいれておいてくださいね。あなたの真価は死後発掘されることが初期設定です。生きている間に成功したいなどという非躁鬱人たちの戯言に付き合うと、したくもない努力が必要になります。適当にやりっぱなしで終わらせることができずに、何事もしっかりきっちり人生になります。それは躁鬱人にとっては刑務所に入れられるようなもので一番忌避すべきことです。それよりも野垂れ死で十分、好きに生きるよ、という人生を選びましょう。しかも、そうやって自由な気持ちでやればやるほど、実は非躁鬱人の目には非常に興味深く映るので、仕事は絶えないはずです。仕事がうまくいっていない人は、自分のことを世界最高だと思っていない可能性があります。劣等感は怒りしか生み出しません。怒りは躁鬱人の中で最も忌避すべき感情です。はっきり言うと、非躁鬱人には普段穏やかなままの眠っている力を発揮するために必要な感情ですが、躁鬱人はそれくらいの力は常に放出してますので、実は怒りが一切不要です。つまり劣等感も一切不要です。とにかくまずは自分が何かの世界最高であることを自覚しましょう。まずはそこからです。その自覚があれば、人に自慢することもありません、最高さに安心して、むしろ人前では少し黙っていて、やるときだけやる、少々人から文句を言われたりしても、俺最高だからなあと思っていたら腰を低く、相手の要求に応えることもできるでしょう。そうすれば、笑顔になります。余裕が出てきます。その己の幸福は周りの人になんでもやってあげたいと言う力に変わっていくでしょう。
 そのときあなたは躁鬱人ではなく、躁鬱超人になってます。躁鬱超人になるとどうなるか。とても楽になります。体のコリがなくなります。興奮してひらめきを人に電話することもなくなります。もちろんバカみたいに落ち込んで壁に頭をぶつけたりすることもなくなります。あなたは何かの世界最高のその何かに気づくでしょう。そうすると、あなたはもともと世界最高なのですから、あらゆることを心地よく実践できるようになります。
 何かを依頼されたら、気持ちよく力を発揮することができます。素直でいれば、素直に何かをすれば、それがそのままあなたの最高のパフォーマンスになりますので、まわりの人は大いに喜ぶでしょう。少しだけはめを外して、ちょっとだけトゥーマッチに仕事を返しますが、その飛び出たこと自体も喜ばしいものと受け取られるでしょう。だからこそさらに良いものにするために非躁鬱人はいくつか指摘をしてきます。世界最高の自信を持っているからこそ、そんな声にもリラックスして耳を傾けられると思います。なんならいいなりにすらなれます。あんなにいいなりになることを恐れていた躁鬱人時代が懐かしくなります。芯がしっかりとしているなら、あとは非躁鬱人が思う通りに変えても、大意は変化しないということを実感しているので、余裕を持って対応できるでしょう。それでも怒られることはあるかもしれませんが、それはその人がイライラしているだけで、それをぶつけているだけだ、とすぐに察知することができ、僕でよければ、なんでも言ってくださいと言う姿勢で接することができるようになります。それ以外の時間は全て、人にそのあなたが気づいた何かを徹底して与え続けます。躁鬱超人はそのような人生を送ります。自分の人生に気づいたとき、とんでもない平和をもたらすことができる。それが躁鬱超人です。それは躁鬱人であるあなたが到達する最終的な姿です。
 そのためにも「資質に合わない努力」はやめ、「きちんと」とか「ちゃんと」することをやめてみましょう。とにかくのびのびと好きに生きるのです。さらにカンダバシは続けてこう言ってます。
「のびのびするためには、今までやったことのないことに色々と手を出してみて、あれもこれもちょっぴりかじるだけが良さそうです。そして合いそうなことだけをするようにしましょう」
 とにかくわれわれ躁鬱人はこの現世のすでに存在しているなんらかの職業の世界最高ではありません。何かは誰にもわからないのです。今の職業の区分では見つけ出すことができません。それくらい別次元の世界なわけです。だからこそ、現実での日常生活で決まりきったことをするとすぐに退屈して死にそうになります。高校生が小学校の授業に出ているようなものです。発狂しそうになっているのは、当たり前にわかるものばかりでつまらないからです。どんどん違うことにトライしましょう。そのとき自分の体に合っているものはすぐにわかります。何か音が響くように感じ取れるからです。それはあなたが探そうとしているその「何か」に気づくための道しるべになります。ついつい非躁鬱人的言語の世界に生きてしまう、躁鬱人はこのように行き当たりばったりな行動しかできないことに悩んでしまうかもしれませんが、それなら非躁鬱人的言語の中からとっておきの言葉を選んでみることにしましょう。カンダバシの続きをさらに読んでみます。
「気分屋が基本気質ですから、気分屋的生き方をすると気分が安定するという法則を大切にしましょう」
 そうです。気分屋です。一見、人をバカにするための言葉のように見えますが、それでもこういう言葉がこの非躁鬱人世界に存在するんですから、なんでも使えるものは使い倒しましょう。「俺、気分屋なんですよねえ」と言えばいいだけです。そうやって、気分屋を身に纏いながら好き勝手に思いつくままに、自分の関心領域を宇宙の端まで広げるのです。飽きたらやめればいいだけです。それはあなたには必要のないことなんです。しかし、それでも他のことをやるだけであなたの体は楽になりますからそれだけでもお得ってことです。カンダバシはヒントをくれます。
「コツはくだらないことを遊び半分でやることです。価値のないこと、無駄なことから始めましょう。そうすれば中途で止めてもガックリ来ません。価値あることをしてしまうと、しんどくなった時に途中でやめられなくなるから、損です。逆に無駄なことをどんどんやるのは、治療に役立つから無駄ではありません」
 毎日、目先を変えて生きていきましょう。あなたは何かの世界最高なんですから。それを探す旅をずっとしていくのです。旅が先へ進めば進むほど、非躁鬱人世界から脱却していきます。つまり、体がとても楽になります。躁鬱病だと思って病院に行くことも減っていくことでしょう。薬も減らせるか、やめられるかもしれません。行けるところまでどこまでもいきましょう。探求を止めないでください。俺の人生こんなもんだと思わないでください。とにかく暇さえあればいろんな無駄なことをして、どんどん脳みそに多様な風を送り込んでください。カンダバシは注意してます。
「しようかと思ったことをしないでいると、ストレスになります。法に触れないことならなんでもしてみましょう」
「自分の気持ちが動いたものにフッと手を出す、これが大事です」
 つまり、われわれの体はすでにあなたが必要な新しい刺激のことに気づいてます。それをやらせないのは非躁鬱人世界であぐらをかきすぎたわれわれの堅くなった頭です。できる限り柔らかく生きましょう。そして、体が求めるままになんでもかんでもあっちフラフラこっちフラフラ気分屋として好き勝手に思うままに法に触れなければなんでもかんでも気にせず好きにやってあげましょう。そうやって、体に水やりをするのです。毎日水やりをしてあげてください。
 あなたの適当さに耐えられない人は去っていきます。もちろん悲しいことではあるが、人間皆兄弟ではないのです。この世界は躁鬱人と非躁鬱人、そして、躁鬱人のことに興味を持っている非躁鬱人の三者に分かれます。純潔の非躁鬱人とはうまくいきません。彼らと仲良くできるのは諦めましょう。近づきすぎるといじめられたりします。できるだけ離れておきましょう。嫌われても自分のせいにはしないでください。嫌われる人からはいつか嫌われるから早い方がいい、と言ってあげてください。そんな中途半端で毎日コロコロ考え方が変わるあなたにも興味を持つ人がいます。とにかく仕事はその人とやるんです。そうじゃない人には近づかない。どうせあなたは気分屋ですから最後まで完遂することができません。だから食べていくことも難しかったりします。そこは次の躁鬱マネジメントでお伝えすることをいくつか守っていただければきっと最悪の事態だけは回避することができるはずです。しかし、問題はそこにはありません。われわれ躁鬱人が目指すべきは躁鬱超人であり、あなたが何の世界最高であるかを探し出すことです。だからこそ、鬱の時の「自分とは何か?」と執拗に迫って追い込んでいく問いも決して間違いではないのです。
 それを探す旅、つまり、あっちフラフラこっちフラフラし続けると心に決めたら、あとは引き返さないこと、歩みを止めないこと、それさえできたら、きっと死後にはあなたは偉人となっているでしょう(笑)。そのための充実した人生なら生きるってこともそう悪くはないはずです。ちょっと充実しただけで「幸せだあ!」と思えるのがわれわれなんですから。ちなみに非躁鬱人は私の人生は不幸だ、終わりだ、絶望だと強く落ちていかない代わりに、「生きてて今とんでもなく幸せだあ!」とわれわれが時々感じるあの感覚がないらしいですよ。われわれ躁鬱人は幸福とは何かを追い求めることができる、希望を狩猟採集する、ハッピーハンターなわけです。生まれてきてよかったね。

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