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躁鬱大学 その13 この道一筋な宮崎駿をぶっとばせ


13 この道一筋な宮崎駿をぶっとばせ

 さて、ずいぶん遠回りになってしまいましたが、久しぶりにカンダバシのテキストに戻ってみましょう。今日は6段落目から読んでみたいと思います。
「躁鬱人は我慢するのが向きません」
 はい。これはもう何度もこの講義の中でもお伝えしてきましたよね。とにかく躁鬱人は我慢が向いてません。でも苦手というわけではないんです。むしろ、相手の顔色をよく見て、その人たちが喜ぶようにしたがってしまうので、よく我慢します。躁鬱人はこのように矛盾が常に訪れます。我慢すると鬱になるのに、我慢をよくします。そのことを我慢だと感じていない場合が多いです。自分が何かをやっている時に、どういう気持ちでやっているのか、ほとんど自分に注意がいかないからです。それよりも周りを見ている。周りをみて、それぞれの人の気分などを観察するのは向いてますが、自分の観察が苦手です。でも、そのこともわかっていない場合が多い。躁鬱人は周りを見ますから、昨日お伝えしたような人からどう見られているかという人間生来の本能がさらに敏感になってます。自分を観察しているのではなく、人と比べて自分が少し変だ、違和感がある、みたいことを感じることが多いです。実は自分がどう感じているのかということを問うことをしません。自然とはできません。だからこそ、ここでこうやって技術としてお伝えしているわけです。自分のことしか考えていないはずなのに、実は自分のことは何にも見えていない。そんなことが起きているわけですね。神田橋はここで躁鬱人のその特徴について素晴らしいアドバイスをいくつか提案してくれてます。久しぶりにテキストに戻って、僕も落ち着きました。ついついどこまでも脱線していくんですよね。もちろんそれがいい効果を生むこともありますから、無理に縛る必要はありません。でもこうやって、今の僕みたいに、時々、今日は元のテキストに戻って、ゆっくりフツーの講義をしてみよう、と一回、意識的に本線に戻してあげると、心地がいいですので、皆さんもやってみてください。ご安心ください。それでもどうせ脱線していくんです。今日、なぜこのように落ち着いて講義をやっているかというと、昨日の講義の後、僕の担当編集である梅山くんが「今日の講義もむちゃくちゃ面白かったんだけど、そろそろカンダバシのテキストもまた読んでみたいな」と言ったからです。梅山くんと言えば、僕にとっての灯台ですよね。もう一人の久子さんからは「自殺の問題がインフラの問題だと書いた人は、おそらくあなたが初めてだし、とても素晴らしいと思う」という感想でした。僕は常にこうやっていくつかある灯台の光を元に進行方向を決めていきます。久子さんはこのままでオッケー、対して梅山くんはここらでちょっと落ち着いている教授も見てみたい、という意見でした。梅山くんは少しブレーキをかけてもいいのではないかと言ってきているわけです。このように二つの灯台の意見が分かれている場合はどうすればいいでしょうか。その時は「一人でもブレーキを少しかけてもいいんじゃないかと言われた時は、受け入れて、一度、ブレーキをかけて作業をしてみる」ことを僕は選んでます。もちろん無理にかける必要はありません。久子さんはオッケーで、梅山くんも基本はオッケーと言っているわけです。でも、ちょっとブレーキを意識してみるってことです。これは今日の講義だけでなく、躁鬱人がこれからいきていく上で何度も遭遇する場面なので、みなさんにも参考になるかもしれません。調子がいい時にブレーキをかけるっていうのは、なんだか悪いような文句を言われているような感じがしてしまうので、ついムキになって「そんなことはない、俺は大丈夫だ」みたいに言い返してしまうと灯台の意味がなくなります。彼らはもちろん人間ですが、躁鬱人たちにとっては灯台です。それは光なので、光に怒ることはやめましょう。ただ少しだけ心持ちを変えればいいだけです。きっと体が少し楽になるはずです。灯台は何もあなたたちに注意をしたいわけではないのです。もっと心地よい方法があるのではと問いかけてきていると感じ取れるとよりスムーズに日常生活を送れるようになるでしょう。
 さてそれでは、カンダバシの言葉の続きを読んでいきましょう。
「この道一筋は身に合いません」
 このカンダバシの言葉を読んで、ホッとして楽になった時のことを今でも覚えてます。こんなこと言われたことが一度もなかったからです。そして、僕自身、何事もこの道一筋にできない自分をいつも責めてました。どうしてもできないのに、できないことを延々と責めていたわけです。いつもそういう時に頭に出てきてしまうのは宮崎駿さんでした。宮崎駿さんのドキュメンタリーが好きでよく見るのですが、若手アニメーターを叱る時に「お前は植物のこともなんも知らん。そのものを完全に知らないと描くことができない」みたいなことを言うと、自分が言われたようにドキッとして、苦しくなります。僕は都市で育ってますし、両親も農作業などしてきてませんから、土のことも知らないし、小刀の使い方も慣れたものではありません。そのように職人のように生きる、と言うことに対して強いコンプレックスを持っていたと言えるでしょう。宮崎駿はアニメーター一本の人生で才能も溢れ、自分が好きだったことを死ぬまでやるやる時はとんでもない力を注ぐ飽きないまださらに探求したいことがある、みたいな感じでいつも画面に映ってます。それをみるのが辛かった。辛いのに、バカだから、観てしまうんです。もちろん、僕が黙ってドキュメンタリー映画を観るのは、鬱状態の時です。劇映画だと、わざと緊張させたりするシーンがあるので、現実と虚構の境界もあまりありませんので、すぐに過敏に反応してしまうため、観れません。でもドキュメンタリーだったら観れるんですね。そして、制作風景というものを観ると、少し心が落ち着くことがわかってからは、いろんな人の制作風景を見るようになりました。中でも宮崎駿を観てしまうのです。いつも僕は彼から「お前みたいな中途半端なやつは、しかも自然のことも知らない、昔、土の中に戯れた経験もない、山里で暮らしたことのないお前はダメなやつだ」と心の中で言われてしまいます。泣きそうになってしまいます。「そんなお前だって、ただ机にカリカリやって、アニメ作ってるだけやん」と言い返そうとしますが、たかがアニメ、されどアニメで、彼はパソコンなど一切使わず、鉛筆と紙だけで格闘するのです、その人間味あふれる感じが強く僕の心を傷つけました。もちろん宮崎駿さんにはなんの罪もありません。でも僕は彼の姿を見るたびに、いつも、自分はアニメ一筋になって生きることもできない、鉛筆ひとつだけで表現できるように技術を高めたらパソコンなんかいらない機械に頼らない人生を生きていけるのに僕は違う、彼みたいに自然を知らない僕は人間失格だ、とまで感じてしまうんです。聞いているあなたからしたら、なんでなんで? そこまで感じなくてもいいと思われるかもしれません。でも、僕はずっとこの道一筋でやってきた頑固おやじみたいな人を見てしまうと、とにかく完全に自信を失ってしまっていたのです。  
 そんな時にこのカンダバシの言葉を見つけました。
 この道一筋は身に合いません。
 ふわーっと力が抜けて、正直泣いちゃいました。そんな言葉を今まで誰も僕に声かけてくれなかったからです。しかも、その言葉こそ、僕が一番知りたかった言葉でした。言葉は水となって干からびた僕の体の中にすんなりと浸透していきました。カンダバシという賢者と出会い、僕は、それまでの矯正された目指すべき人間像みたいなものから、パッと離れることができました。その瞬間に、僕に声をかける人の重要性を感じたのです。そして、僕は自分で自分に声をかけてくれる父親のような存在をカンダバシを参考に作ったらいいんだと思うようになりました。僕にも子供がいたからかもしれません。宮崎駿は自然が汚れていくこの世界を見ながら憂いてます。何も経験を得ず自然とも触れ合わない子供達を見て憂いてます。だけど、そんな宮崎駿が作ってるものはアニメです。テレビに釘付けです。おいおい、ちょっとそれはおかしいんじゃないか。僕はカンダバシと出会って、生まれて初めて、芸術方面の父である宮崎駿に言い返したのです。すみませんね、宮崎駿さんにはなんの非もないのですが、しかし、それでも心の中で僕はそう言い返す必要があったのです。
 躁鬱人は少数民族であり、さらにほとんど自らの素性を明らかにすることはありません。つまり、生き方のモデルのようなものがなかなか見当たらないんですね。そのため、非躁鬱人たちが作り上げてきた「大人とはこうあるべき」姿にかなり大きな影響を受けてます。実はそんなことしたら、躁鬱人の特性が全くなくなってしまうのに、「躁鬱人専用のモデルケースがないから」という理由だけでつい非躁鬱人の大人になろうとしてしまいがちです。しかし、そうすると、昔の僕みたいに体がガチガチになってしまうのですぜひとも気をつけてくださいね。いまだにモデルケースはありません。しかも、躁鬱人というのは、誰かみたいになる、なんてことが体に合っていません。だからモデルケースが必要ないということも言えると思います。ほっとけば、自然と自分でやりやすい形を見つけていきます。しかし、大人とはかくあるべきだ、という非躁鬱人の思考が社会全体を覆っているために、すくすく自由に好きにやるという生き方を全否定されたような気になり、気づくと、そんな愉快な躁鬱人の思考は鳴りを潜めてしまってます。これはどんな躁鬱人にもありうることです。この社会の中で、非躁鬱人たちの中で、われわれは自分の特徴を声高に主張することができません。衝突を避けるからです。人の顔色をみるのが得意だからです。そうやって周りに上手に合わせることで生き延びている。しかし、それではいつまでたっても片手落ちのままで、躁鬱人本来の生き方ができません。それでもちょっとだけ、ちょこんと肩を叩くだけで、きっと変わります。躁鬱人特有の脳の柔らかさ、感覚の柔らかさで躁鬱人はこうしたらすごく楽に生きていけるというコツをいくつか知ってるだけでいいんです。そして、そうやって自分に「声をかけてあげる」ことを覚えるんです。われわれ躁鬱人はまわりの非躁鬱人たちから忠告を受けすぎてます。彼らだって、悪気があってやっているのではないんです。非躁鬱人の大人としてかくあるべき姿があるので、それをあなたにも伝えているだけです。彼らには彼らなりの教育があるということです。しかし、それは躁鬱人には一切、体に合いません。躁鬱人にははっきり言うと、教育が必要ありません。教育など必要ないということを教育する必要があるんです。好きにやった方がいい。そのほうが実は楽に生きていくことができます。努力は敵です。やりたくないことをやらないでください。本当は、ジャングルの中でなら、サバンナの上でなら、あなたはきっとそうやって生きているでしょう。しかし、ここは違います。帝国です。非躁鬱人たちによる帝国。実はその帝国を作った張本人だけは躁鬱人なのですが。何か共同体が興るとき、そこには躁鬱人がいます。彼が興すのです。しかし、彼はすぐに疲れます。鬱になります。もしくは死にます。その後、非躁鬱人たちが共同体を運営していくことになるのです。彼らはリーダーを探す代わりにルールを作りうます。そして、リーダーのワンマンでなくても、リーダーがたとえ殺されて急にいなくなっても問題がないように、誰がリーダーでも変わらない社会を作り出します。その成れの果てが今の社会です。われわれ躁鬱人に活躍の場はそこまで提供されることはありません。そうなってしまうとまた別の新しい共同体が生まれることを非躁鬱人は無意識に感じ取り、忌避するからです。そんなわけでわれわれにもそのような共同体を破壊しないようなもの分かりの良い大人になれと言う教育がなされてきたわけです。しかし、今や共同体はもう崩壊してしまいました。それは皆さんも周りを見ればわかるでしょう。次の共同体を作らなくてはならない時期にさしかかっている。つまり、リーダー、僕が言うところの酋長が必要なのです。そして、酋長は常に、非躁鬱人ではなく、躁鬱人が担います。たった一人で担います。だからこそ、僕の場合は新政府を作りました。そして、その内閣総理大臣を自称しているわけです。これは冗談ではなく、新しい共同体の酋長になるという僕からの宣言なわけです。しかし、まだ今は僕のことはお調子者、ひょうきんもの、でとどまっています。それが非躁鬱人たちからの今の段階での評価です。仕方ありません。しかし、あきらめるわけにはいきません。絶対に諦めないのが躁鬱人の特徴でもあります。なぜなら、忘れることができるからです。受けた傷が深かろうが、鬱の時にはそれが自分を殺す理由になったりもしますが、また鬱が明けたとき、すべての辛さを忘れて、再起するのです。あなたもそんなところはありませんか? 人から勘違い野郎と言われているところが。それは大事なところですので、決して諦めないでくださいね。まだ時期が早いというだけです。ただそれだけなんです。僕が言ってる新政府だって、冗談みたいでしょ。そうです。躁鬱人は冗談が得意です。それでいいんです。遊びです。何かが起きた時にだけ遊びじゃなくなります。その時事が動きます。それまでは三年寝太郎でいいんです。焦りは禁物です。その焦りを抑えるためにも教育、というほど固く真面目じゃありませんが、躁鬱人君子たる者の姿についてこれまでも考えてきたわけです。まあおさらいの意味も込めて、再びカンダバシの言葉に戻っていくことにしましょう。
⑴「この道一筋は合いません」
 もうこれは頭に入りましたね。浅く広く生きていきましょう。浅く広く生きていることに自信を持ちましょう。なぜなら、この移動する機会のない自宅待機と言われて平気で自宅待機するような社会では深く生きる事が求められますが、移動を主にしていた太古の人間は、そんなに一箇所で深く作業に集中していたら、それこそ飢え死にしてしまいます。浅く広く、木の実でも魚の頭だけでもなんでもいいですから食べられるものだったらなんでも拾って食べたほうが生き延びやすいのです。そういった狩猟採集能力を発揮するときに、一番必要な力が、この浅く広く物事を動いているものとして凝視せず適当に見る力です。
 さて次です。
⑵「(吾が・まま)で行かないと波が出ます」
 これもどうですか? 楽になりますよね。そうですよね。すぐ人に合わせてしまう躁鬱人はよく「俺、なんでもいいよ」とか言ってしまいます。事実、どんな状況だろうと、ささっと体を合わせる事ができます。人が我慢してこちらに合わせている状態がなんとなく落ち着かないんですね。それよりも自分が我慢する方を選んでしまう。しかし、これにも注意が必要です。われわれ躁鬱人はとにかく人に合わせる事ができますし、なんでもいいとつい口にします。しかし、実は「なんでもよくありません」。実はその時にどうしたいかが常にはっきりとわかっています。たとえば、家族で食事をしている時、妻が食事を作って、子供達も腹が減ったと言って、あなたが何か好きな作業に夢中になっているとします。
「ごはんよー」と呼ばれました。でも実はあなたはまだ作業に没頭したい。しかし、それはさすがにみんなに悪いなと思う。そうすると、もっとしたいのに、作業を止めて、食事に向かいます。しかし、なんとなく落ち着かない、なんてことになります。こういう細かい、一見、どうでもいいじゃん、ごはん食べてやればいんだからってことに、意外と精神的負担を感じてしまいます。それよりも「みんなで食べててね。僕は自分がやりたいことを途中でやめてしまうと体の調子が悪くなるから、まず好きな作業に集中しますね。僕のことは気にせずにお願いします。でもあと30分で落ち着くから、30分後に食べます」と伝えると、すごく楽だし、ただでさえ楽しくやっている作業が周りにもっとやっていいよと言われてもっと楽しくなります。こうやって細かいことで、ハメを外す、枠から出た作業をすると、ガス抜きになってさらに体調は良くなります。みなさんも、一度、みんなで何か作業をしなくちゃいけないってなった時に、断って自分が集中したいことに集中してみてください。実は、ちゃんと理由があって、集中したいので参加できないと声に出したら、ほとんどの場合は受け入れられるんです。それを受け入れられないと勘違いして、自分を捻じ曲げてきてしまっている躁鬱人がかなり多いですので、ぜひ試してみてください。家で音楽を作りたいのに、会社の同僚に飲み会に誘われたら「僕、音楽家ってわけではないんですが、今、オリジナルアルバムの録音をしていて、もう少しで完成するので、今日は飲み会はお休みして、家で作曲してきます。もしも完成したら、皆さんにも聞いてもらいたいです」と言いましょう。ちょっと変なやつみたいな顔をされると思いますが、どんどんされて構いません。こいつは飲み会にはほとんど参加しないんだなと思わせるとどんどん楽になります。どうせ非躁鬱人の会社の愚痴とかを聞いていても、退屈ですから、愚痴というものは本当に退屈なのですが、非躁鬱人にとって愚痴というのは、やりたくないことをやっているストレスを緩和させる大事な作業なんです。もちろん彼らには大事なことですが、躁鬱人には一切関係なく、効果もなく、退屈でしかありませんので、参加しないようにしましょう。あなたが主役となって、バーで音楽について語れる飲み会にだけ参加すればいいのです。とにかく「あいつはそういう人だ」と思わせる事が重要です。多少変な人と思われても構いません。変な人、ってのは、ただの褒め言葉です。他の中に夢中になっている人のことを非躁鬱人はつい「変な人」と言います。躁鬱人は人のことを変な人だとは言いません。何かに夢中な人を見つけると、つい気になってしまうからです。徹底した快楽主義者でもありますから、面白そうなことならなんでも首を突っ込んでみたいんです。そんな人を排除することなんか考えもしません。そういう変な人と言われている人を見つけたらぜひ声をかけてあげましょう。きっとあなたの新しい楽しみを提供してくれるはずです。
 さらに進んでいきましょう。
⑶『「私さん、私さん、今何がしたいのですか?」と自分の心身に聴いてみながら行動すること』
 これはすでに僕の血肉となっているため、この講義でもなんども言ってきましたからあなたたちももうわかってますね。常に自分に聞くんです。なぜなら「なんでも良くないからです」実はあらかじめやりたいことはもう体が知っているからです。それでもつい人のことを優先してしまいますので、ここはひとついつも自分に「今何がしたい?」と聴いてみてください。
⑷ 自分の生活を狭くしないこと
 これもカンダバシの言葉ですが、もうすでに僕の言葉になっているところがあります。ついつい受験に集中するあまり、部活を止めようとするが、やめなくていい。できるだけ多彩に生活を送ること。ここでもなんども言ってきたあのことです。人は大学に行くと、高校の友達と遊ばなくなり、仕事が始まると、大学の時の友達、昔バンドやってた仲間とは会わなくなっていきます。それが年をとったということだ、という人もいますが、それはみな非躁鬱人です。非躁鬱人は少しずつ、自分たちの生きる領域が決まっていき、定位置で生きて行くようになります。なぜか? それはその方が楽だからです。しかし、躁鬱人は全く違います。真逆です。一箇所にいると窒息するので、出来るだけ移動しましょう。もちろん移動すると心臓が疲れるので、よく横になるのは忘れずに、草っ原でも石の上でも道路の上だって横になるのが本来好きなはずです。トムソーヤみたいな感じで生きると、すごく心地よくなるでしょう。引きこもりのトムソーヤはいません。勉強ばかりしてたらおかしくなります。仕事もして、料理もして、家族サービスに明け暮れ、友達と釣り、週末にはバーベキューの準備をしてあげて、困っているお年寄りをどんどん助けましょう。感謝の言葉を聞くことが何よりも治療になります。思いついたことはどんどんやってみましょう。やることが増えれば増えるほど楽になります。疲れていたら、その場で昼寝を1時間しましょう。そうやって途中に昼寝をいれるということを忘れなければ、はっきり言いますと、思いついた瞬間になんでもやっていいです。嬉しいでしょ? その代わり休憩を挟むんですよ。横になって。トムソーヤみたいに木の枝を加えて心臓を休めてください。あとは生活は出来るだけ広げてください。生活を浅く広く思いつくままに広げるのです。それがあなたにとっての健康的な最低限の生活です。
「広く広く手を出すこと。頭は賑やかにして」とカンダバシも言ってます。
⑸「あっちふらふら、こっちふらふらがよろしい」
 カンダバシの怒涛の楽になる言葉が続きます。あっちふらふらこっちふらふらばかりで何やってるの!とかしか言われてきませんでしたよねわれわれ躁鬱人は。これも先ほどの浅く広く、そして生活を狭くしないこととつながってますね。これはわれわれの特徴です。今の社会ではそこまで求められていないかもしれませんが、太古の昔では先陣切ってました。必要でした。でも今だって、必要とされることはたくさんあると思いますよ。普通の会社で働くのはちょっと大変なところもありますが、営業では好成績でしょうし(波はあると思いますが)、介護サービスなんかもいいでしょうし、僕のところに電話してくる人では風俗業界で働く女性なんかも多いですね。自分の体を駆使してお客さんを喜ばせるなんて躁鬱人にとっては最適かもしれません。僕も一度、添い寝をしながら女の子を励ましてあげるという「パブリック・ピロー」という会社を立ち上げようと妻に企画書を提案した事がありますが、断られてしまい、企画書だけが今も残ってます。とにかくシャキッとした人ちゃんとした人になるのは今日を限りに綺麗さっぱり諦めましょうね。とにかく一流の中途半端な人、器用富豪を目指しましょう。なんでもできるはずです。適当ですけど、雑ですけど、だいたい、感覚でなんでもできます。そして極めようとも思わず、やって楽しかったらそれでよく飽きたら終わります。飽きたら会社も辞めたらいいんです。必ず次にまた面白いことを見つけますから。会社だから三年くらいは通えって親父が言ってたなとか非躁鬱人の言い回しはほとんど躁鬱人にとってはこう言っては悪いですが、有害ですので、気をつけてくださいね。あなたは荒野にいます焼け野原です。でも、その代わり自分で自分なりの操縦法を見つけて、一人で自立するのです。ルールはいりません、毎日変わるんですから、ルールも毎日変えましょう。
「やってみてよくなったら止めたら良いだけです。生活が広がるほど波が小さくなります。用心のためと思って、それをしないでじっと我慢していると中々良くなりません。窮屈がいけないのです。ひとつのことに打ち込まずに、幅広く色んなことをするのが良いでしょう」
 カンダバシシャワーをみんなで浴びましょう。そうです。この言葉たちが僕たちをほぐしてくれます。なぜかというと、われわれ躁鬱人は今まできっとそうやって生きてきたはずなんです。ところが、少しずつ、大人になっていくに従って、非躁鬱人の大人のルールみたいなものを耳に入れてしまったんです。それで行動を変えてしまった。躁鬱人に大事なことはそれです。人の意見で行動を変えないこと。人の意見は常に「無事にその行動を実行できるために」だけに取り入れてください。何かをしないようにするために人の意見を取り入れてしまうとそのまま窮屈な人生です。そんなの躁鬱人にとっては人生ではありません。ただただ自由のために、好きに生きるために、のびのびと生きるために、浅く広く、そして、人々からの意見も灯台として耳に入れ、先へ進んでいきましょう。後ろには全く興味がありません。反省できない躁鬱人は猿以下の生物です。それでいいんです。しかし、何か大きな危機がみんなに社会に世界に訪れたとき、躁鬱人はその時になって初めて自分自身が酋長という、躁鬱人が一番得意ないろんな事がそこそこできるためにうまく適材適所ができる職業の末裔だったということに気づくのです。そしてそれは100年に一度くらいしか起きません(笑)

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