広く浅く生きる効能 その1 適当に生きるには

 適当に生きるにはどうすればいいか。なぜか適当にしてられないんですよね。ついつい本気になっちゃう。ついつい自分に文句言っちゃうんです。何か仕事で失敗した、それで落ち込んじゃう、みたいなことがあるとしますよね。なんで落ち込むのかっていうと、それは、失敗しちゃだめと思っているからで、自分が失敗などしないちゃんとしたまともな人間だから、みたいな思い込みがあるからです。たとえば、全くピアノが弾けないのに、練習もしてないのに、人前で弾かなくちゃ行けなくなって、そんなことなんかそもそもないとは思いますが、たとえば弾くとします。うまくいくわけがありません。それで落ち込みますか? 全く落ち込まないじゃないですか。みんなも笑いますか? 笑わないでしょ。笑うかもしれないが、バカにはしないわけです。弾けないの知ってますから。そうすると、誰も文句も言わないし、あなたも落ち込まないわけです。むしろ、人前で、弾けもしないのに、よく指を動かして鍵盤を叩いたな、と褒めちゃうかもしれません。

 このように最初から失敗することがわかっているようなことであれば、つまり、下手だとみんなも知っていて、あなたもしっかり下手であれば、落ち込むことはないわけです。だから落ち込むってのは、当然うまくいくと思っていたのに、うまく行かなかった場合に起きます。もしくは、周りのみんなが、あなたはできる人だと思い込んでいて、それで自分もやってみたけどうまくいかなかった、みんなはできるのに、自分はできなかった、つまり、自分はだめな人間なんだ、みたいな感じで落ち込んでいきます。

 あまりにも下手であれば、適当にできるわけです。適当にやって、適当にうまくいかなくて、それでも意外とやれた、みたいな感じで、別に自分自身の否定とかにまでは進んでいきません。

 それにしても落ち込む人が多いんです。僕は自分の電話を公開してますので、色々と落ち込んでいる方々から電話がかかってきます。本当にみんな落ち込んでいるんです。好きで落ち込んでいるんじゃないかと少し疑ってしまうくらいに落ち込んでいるんです。落ち込んでいる人を見ると、かわいそうになります。それで、どうにか次は失敗しないようにしたほうがいいとこっちも思うじゃないですか、そこで対策を考えようと思うわけです。それで、次に落ち込まないように、今どういう対策をやろうとしているのかって聞くと、これがどうにも進んでないんです。自分がダメな人間であるという落ち込みに集中しまくっていて、肝心要の次は失敗しないように練習を積む、という作業には全く向かってないんです。ちょっと僕も心配になってしまいます。こうなると、当然、練習をしてないんですから、次も失敗するわけです。そうすると、どうなるかというと、もういい、死ぬ、みたいな話になっていくんです。これには僕もびっくり仰天です。おいおい、とツッコミを入れてしまいました。自転車に乗ろうと思った、自転車に乗る練習した、こけた、怪我した、自分は自転車になんか乗れないしょうもないやつだと自己卑下がはじまった。でも、こっちは、前を向いてなくて、下ばっかり見てたら、そりゃ怖いから下を見るのはわかるけど、まっすぐ走るためには前を向いてないととかアドバイスするのですが、もう怪我するのが怖すぎて、恐ろしくて、自転車に乗れなくなっているわけですね。それなら、スッキリと、私は自転車なんか興味がない、徒歩で全てカバーする、と諦めてくれたらまだ気は楽になるのですが、自転車に乗れていない自分にかなりとどまっていて、それで自分を攻撃しているんですね。ついには自分の頭を叩いたり、不貞腐れて運動場で横になったまま、帰ろうともしません。そうなると、こっちもちょっと呆れてしまうじゃないですか。呆れて帰ろうとすると、ほっとくんですね、じゃあ死にます、みたいなことを言い出す。えー、それはちょっとめんどくさいよー、みたいになってしまいます。ま、これはたとえ話なんですが、こういう方々が結構いらっしゃるんですね。全然適当にやってくれないんですよ。無茶真剣に落ち込んでしまっているんです。

 練習もしないのに、ですよ。

 というと、もちろん、怒られるんですけど、ついつい僕は言っちゃうわけです。優しい人だったら、ここであんまり突っ込まないとは思うんですよね。でもそれってめんどくさいからじゃないですか。そうやって、人はさーっといなくなっていくんじゃないかって心配してます。死にたくなる人は、その前に、誰にも相手にされなくなってしまうみたいなことも起きちゃっているからです。それは寂しいので、僕はついつい絡んでいっちゃいます。そして、ついつい思っていることを全部口にしちゃうんです。

 それは悔しかったねえ、そこまで落ち込むんじゃ、ちゃんと自分なりに次はうまくいくようにしたいわけだね、と。

 それでどれくらい次のために練習しているのかって聞くと、そんなことやれません、落ち込みすぎて立ち上がれないので、となるんです。これはみんなこう言います。僕は、おいおい、そりゃ主客転倒だろう、と突っ込んでしまいます。素直に正直に思っていることを言うことしかできない人間ですから。

 つまり、やっていることは結構、適当なんですね。ほんと僕もびっくりの適当です。だって練習しないのに、うまくいくと思っていて、それで当然うまくいかないわけですが、うまくいかなければいかないで、ま、それはそっかピアノ練習してないもんな、と思ってくれたらいいんだけど、うまくやれない自分はダメだ落ち込んでしまうんです。

 実は適当な人間なのに、真剣にプロっぽく悩みすぎ状態になってしまっているわけです。

 これはもはやギャグです。笑うしかありません。

 だから、僕はこの本を書こうと思っているんです。みんなが真剣すぎだから。真剣になっていけないところで真剣になるほど滑稽なことはありません。

 しかもそれでたくさんの人が死んでいっているんです。これはギャグを通り越してホラーになってきてます。

 笑いたいけど笑えません。ですので、ここは僕も重い腰をあげて、真剣にくすぐっていく必要があるんです。

 不真面目な人が真面目に悩みすぎて拗らせて死んでいっている。これが令和ジャパンの大問題です。

 もっと適当にやりましょう。適当にやるって言っても、適当って意味が色々あるじゃないですか、適当に済ませる、とかその人なりの適当とか、ちょっとわかりにくいんですよね。いや、適当にやるってことがどういうことだか、経験している人はすぐわかっちゃうんですよ。僕はこれでもプロの適当家です。本物の適当なやつだと自認してます。だから、落ち込まないんですね。落ち込むなんてプロがやることです。できる人ができない時に落ち込むんです。僕は元々できないんですから、できなくて当たり前、でも好きだから、やる、それでうまくいかなくても楽しかった!と思えたら100点、みたいな思考回路です。

 お前は能天気だなあって思ったでしょ今?

 でもこれは能天気にしていてはできないんです。能天気にやってしまうと、つまり不真面目な人間なのに真面目に悩んでしまう状態に入り込んでしまいます。

 つまり、適当ってのは、一つの技術なんですね。自分を攻撃しないでスムーズに人生を生きる技術です。確かな技術です。

 それをわかりやすく、僕の言葉で言うと、適当とは、広く浅く生きるってことなんです。深い海溝に潜水し、底にまで潜っていくんじゃなくて、そんなのプロにしかできません、そうじゃんなくて、ビーサンでもはいて、浅瀬をくるぶしくらいまでの浅瀬です、好きに思うままに歩いていく。これが適当って感覚です。深みがあるのも知ってます。でも自分は潜らなくてもいい。潜っていく素潜りの名人たちへの敬意は忘れることなく、でも、僕は浅い海をずっと楽しく歩くことに集中していくって感じです。これが僕のいうところの適当って感じ。時には流れが強いところもあるかもしれません。その時は少し力を入れて、踏ん張って、でも大抵は浅瀬ですからそこまで警戒せずに楽しむことに集中する。でも、そこは海ですから、全て警戒心を解くというところまでは解放しない。そういう、力を入れたり、入れなかったり、でも全体としては、楽しんでいきたいなあ、というか楽しい!って感じが、僕の中の適当って感覚です。それを実現するための広く浅く生きるって方法です。

 さて、さっきの落ち込んでいる方々ですけど、僕がそう突っ込むと、確かにちょっと目を覚ましてくれるんです。

 自分が落ち込むほどの練習を積んでいなかったことに。たいして能力がないのに、能力がないということに落ち込み続けて、全く練習に身が入らないという狂気の世界に足を踏み入れているってことに。で、目を覚ましてくれたら、今度は、行動を改めようとするじゃないですか。だって、失敗せずに気持ちよく達成できたら楽しいですもん。で、そのあと練習するかと思ったらですね、これがまた興味深いんですけど、一瞬、練習はやろうと思うんですが、それが全く続かないんですよ。まさに、本物の適当なやつです、いや失礼、適当な方々です。なんでかって聞いてみますと、うまくいかなかったと落ち込んでいる、ある行動があるとすると、その行動すること自体が、別に興味ないことなんです。たとえば仕事で失敗した、それで落ち込んでいる、落ち込み続けて練習もしない、でも目を覚まして、やろうと思っても、練習する気になれない。理由は簡単です。その仕事に興味がないんです。びっくりです。むしろ、嫌いなんです。嫌々やっているんです。嫌いなことなんですから、うまくいかなくて、当たり前ですよね。そう伝えるんですが、でもどうしてもそれが伝わらないんですね。みんなには普通にできてるからって言うんです。人の括り方が雑だなあ、とまた僕はついつい突っ込んでしまいそうになるんですけど、あんまり言うと、さらに落ち込んでしまいます。もう扱いがめんどくさいんです。めんどくさいというと、悪いですね、めんどくさい理由は簡単です。論理が破綻しているから話にならないんです。文句ばっかり言ってますね、僕、でも気づいてほしいので、口にした方がいいと思ってます。

 嫌いなことをしてたら、嫌いなことなんだから、練習なんかしたくありませんし、覚えなさいと言われても身に入りません。

 だから100%うまくいかないはずなんです。何かうまくいっているとしたらもうそれはたまたまです。奇跡かもしれません。

 それでも会社をクビになってないんです。僕が社長なら、僕は株式会社の社長ではあるんですが、僕が社長なら、絶対にクビです。だって、仕事が嫌いな人に仕事を任せるわけないじゃないですか。効率も悪いし、失敗もするし、失敗したって嫌いなんですから、工夫とかするわけないんですから。他のところに行った方がいいよと絶対に伝えます。しかし、この世の多くの会社はどうやら、嫌々やっている社員を雇っていることが多いです。というかほとんどの会社がそんな感じです。そりゃ会社の業績が落ちるのは当たり前です。全部当たり前です。

 だからみんな真剣に落ち込むのやめてみませんか?って話です。

 好きじゃないことしているとそりゃうまくいくわけないんです。だから、もしもそれを仕事にしていたら失敗が前提なはずなんです。

 むしろ、やるべきことは、上司から文句を言われることは当然として、文句を言われすぎないように誤魔化していく、その受け身の姿勢こそが大事です。

 しかし、多くの人は、好きでもないんだから必ず失敗するのに、自分は他の人と同じようにそれなりになんでもできるオールマイティーな人間だと勘違いし、それで確実に失敗するのですが、それで失敗したら、どうして、自分はオールマイティーのなんでもできる人間なのに失敗しているんだと落ち込み、落ち込みすぎて手直しする時間が取れず、また次も同じ失敗をする。それで落ち込みすぎて、周りからの視線も痛くなり、会社にもいけなくなり、今、死のうとしている。

 こんなホラーが現実に起きているのはもうやめにしましょう。 

 原因は適当という技術が浸透してないからです。僕も含めて、多くの人が適当なのに。

 この道一筋で生きていくことがなぜか美徳になってますが、あれは一つの奇形ですよ。一つのことだけに集中できる人間の方が少ないです。

 そんなこと目指したら、本当にみんな自殺しちゃう。それではいけない。

 ということで、広く浅く生きる効能をお伝えしたいわけです。効能があるとしれば、人は確実に受け入れてくれるからです。

 広く浅くが効能どころか、だらしない人をさす言葉だからみんな忌避してしまうんです。社会的な人はだらしない人と思われたくない生き物です。

 みんなフツーにみんなと同じように言われたことをそつなくこなすのが、フツーの人間だと思い込んでいるのもどうかと思うのですが。

 ま、文句はほどほどにして本題に入りましょう。広く浅く生きると、どのような効能があるのか。

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