坂口恭平100問100答 第21問まで (質問by小川和)

PART1 根
(1〜11)


1. 赤瀬川原平


鴨長明も師匠の一人に挙げられていましたが、彼らは複数の分野における制作を同時に成し遂げていたことから坂口さんの参考になっています。とりわけ赤瀬川原平の場合は、美術や文芸に取り組んでいた点だけではなく、都市に対する批評観やその実践に関しても坂口さんとの類似が見出せます。すでに多くの機会で語られているために赤瀬川との重なりを強調することもイマイチかなと思うのですが、やはり赤瀬川は坂口さんに制作のきっかけを与えた点においても重要な存在だと思います。この「制作へとつながる出会い」とでもいえるような体験について質問をしてみたいです。坂口さんの制作論に則って考えるならば、はじめにまず自分自身が何をやりたいのか、何に興味を持っているのか、自分自身の固有の「声」に気づくことが必要でした。その「声」は「死にたい」に対しての「薬」にもなり得るので、「声」のする方向に自分の制作を延ばしていきたい。しかし同時に、この最初期の過程においては、自分自身を一気に惹きつける作品との電撃的な出会いの体験が必要かもしれないとも思うのです。僕もいま文章を書く形で制作をしていると言えるわけですが、やはりある批評との印象的な出会いの瞬間があったことを今でも覚えていますし、自分の制作もいくらかその方向に向かっていったのではないかと考えています。坂口さんは、赤瀬川原平との出会いを決定的な要因として位置づけますでしょうか。それとも、そうした体験がなくとも、影響をあまり受けずとも、自分の内側から制作の芽を育てていくことができると考えますか。

答:

 赤瀬川原平さんは僕にとって、最初期の影響を受けた芸術家、作家です。赤瀬川原平のことを知ったのは、高校一年生のときです。当時、僕は熊本高校という熊本県随一の進学校に在籍していたのですが、学風としては受験勉強ばかりに集中するのではなく、比較的自由な感じがあったと思います。中でも美術の授業は、その当時から建築家を目指していた僕にとって楽しい時間でした。美術の先生は木戸先生で、彼は画家でした。木戸先生はのちに45歳になった時に、僕が熊本市現代美術館で個展を開催したとき、久しぶりに再会しました。美術の授業がすごく面白かったのは、今の自分の活動に少し影響を与えているのかもしれません。一年生の時に、もう一人女性の先生がいました。教育実習中の先生だったのか、ちゃんと勤めていたのか、その辺は忘れてしまったのですが、先生の名前も忘れてしまっているのですが、僕の友人がその先生に恋をしていたのを思い出しましたから彼に聞けば名前がわかるのですが、まあ、それは良いとして、赤瀬川原平は木戸先生ではなく、その女性の先生に教えてもらいました。
 先生がある授業で、赤瀬川原平の「宇宙の缶詰」という作品についての話をしてくれました。それはどういう作品かというと、まず赤瀬川原平がカニの缶詰を買ってきます。そして蓋を開け、カニを食べます。食べ終わると、赤瀬川原平は缶詰のラベルを綺麗に剥がし、カニが入っていた缶詰の内側に貼ります。そして、再び缶の蓋を閉じ、ハンダか何かで溶接します。こうすると、カニの缶詰の内側と外側が反転し、お腹の中にカニがあるのですから、赤瀬川原平はすっぽりとカニの缶詰の中に入ってしまっていると考えたわけです。このようにちょっと視点を変え、少し工夫するだけで、宇宙すら缶詰の中に詰め込むことができるという赤瀬川原平のアイデアに僕はすっかり魅了されてしまいました。それですぐに図書館に行き、赤瀬川原平について調べることにしたのです。何か作品集のようなものがないかと調べた結果、赤瀬川原平はちくま文庫から本を出していることを知りました。むしろ、芸術家の作品集のような形の本は一冊も彼は作っていなかったことに興味を持ちました。僕はそれまで、気になる芸術家がいるとすぐに画集を調べていたからです。赤瀬川原平さんはちょっと、他の人とは違うのだ、とすぐに認識しました。
 それで僕は「反芸術アンパン」「東京ミキサー計画」という2冊の本を買います。ちくま文庫といえば、僕は当時、浮谷東次郎の「がむしゃら1500キロ」というバイクの旅の本を読んでいたので馴染みがありました。この浮谷の本は、のちに19歳の時に、僕も1500キロの旅を原付で実行するのでそれも直接的な影響になってます。こうやってチラッと知ったことを本を読んでさらに調べてみる、ということは高校生の時からはじめてました。今、調べてみると、その赤瀬川原平の2冊のちくま文庫は1994年10月、12月発行となってます。ちょうど僕が高校一年生の時です。つまり、美術の先生がその本を読んで感動し、それを授業で伝えた、という可能性もある、と今、思いました。この2冊の本が本当に面白く、この本たちに僕はかなり強い影響を受けてます。
 宇宙の缶詰もこの本たちの中に出てきますが、僕は宇宙の缶詰だけでなく、赤瀬川原平が芸術家として活動しようとしていたが、その後作家になったことを知ります。それでさらにのちに老人力という本を書き、ベストセラーになって家を建てられるまでになったことも知ります。赤瀬川原平は最初は前衛芸術、その勢いが頂点までいくと、がんじがらめになって、それを緩めるために小説、デザイン画などを手がけるようになり、しかし、小説もまた極端になっていくのですが、それだと食べていけないから、少しずつエッセイなどを書くようになっていきます。いろんなことをしている人として僕と共通点はあるのかもしれません。僕としては、あ、こうやって人間は食べていけるんだ、と知ったことがとても大きいです。実際は、彼の作品自体からは、宇宙の缶詰以外ではそこまで影響を受けていません。彼の生きのびる方法が、本を書き続けていく戦法はとても影響を受けましたし、それは今でも続いていると思ってます。
 赤瀬川原平の本で、ネオダダのことを知ります。九州派のことや暗黒舞踏の土方巽のことも知ります。小杉武久なども知ります。今ではそれぞれ芸術家、舞踏家、音楽家として活動はしているが、胎動期は全てがごっちゃでみんなで色々やっていたということを知った興奮は今でも続いてます。僕もなんでもやろうと思ったのは、赤瀬川原平の作品によってというよりも彼が紹介してくれたこの日本の芸術活動の初期、1960年代の動きを知ったことが大きいのかなあと思ってます。赤瀬川原平よりも土方巽のように生きたいなあと思ってました当時。この2冊の本は今、手元にないので、もう一度読もうと思います。なんにせよ、芸術、ということに関して考えはじめたきっかけになりました。そして1960年代というものに強く関心が引かれました。その前に僕はビートルズのオタクみたいになってました、中学生から。当時、全曲の楽譜も友人が持っていたので、それを借りて研究してました。かといってビートルズが一番影響を受けたというわけではなく、ビートルズと赤瀬川原平と土方巽とジャックケルアックを混ぜ合わせて考えているのは、当時、僕のまわりでは僕だけでした。しかも、その芸術と音楽に、僕は建築を掛け合わせていました。石山修武との出会いは高校2年生です。芸術と音楽に建築がかけ合わさった時から、僕の思考はさらに立体的になったと思います。熊本という田舎で、やってましたが、しかし、興味深いことは、僕の思考は誰もわかってくれなかった、というわけではなく、まわりに話が通じる人が、それぞれの分野にしっかりいたことです。しかし、それらを全て混ぜ合わせている人はいませんでした。混ぜ合わせることの楽しさ、赤瀬川原平は僕にこれを教えてくれたのかもしれません。そういう意味では、現在にもつながる、決定的な要因であると言えます。のちに、僕が本を出版した時に、最初に対談をさせていただいたのが赤瀬川原平さんでした。僕は高校生時代からの影響を、その感謝を直接赤瀬川原平さんに伝えることができました。というか、赤瀬川原平を知った時に、僕はいつもそうなるのですが、影響を受けた人にはのちに出会って、僕も成長して、向かい合って、感謝できるような人間になりたい、といつも考えてしまいます。それは小学生の頃くらいからそうでした。何も影響を受けずに作品を作る、なんてことは僕の場合にはありえません。でも同時に、僕は芸術家の作品から強い影響を受けるというよりも、ここまで書いてきたように、混ぜ合わせ方に影響を受けます。作品自体は、自分の内側にしかないと思っているとも言えるかもしれません。自分の内側はしっかり守りながら、いかにして生きのびていくのかという方法を、先人の芸術家、作家、建築家たちから学びました。自分の「声」に気づくためには、このようなガイド役が必ず必要になります。僕にとって美術方面のガイドが赤瀬川原平だったわけではなく、美術や音楽や建築を混ぜ合わせることで自分独自の生きのび方を設計することができるということを教えてくれた、とても大事なガイドだったと認識してます。
 赤瀬川さんと僕とで、少しだけ違うのは、赤瀬川原平さんは恥ずかしがり屋で、自己否定が強く、僕はそうではない、というところかもしれません。赤瀬川さんは、自分の作品に対してどこか、自分みたいな人間が何か芸術なんていう高尚なものを作るなんて恥ずかしい、という精神が見え隠れしてます。僕は素直に、そんなふうに思わなくてもいいのにな、と思ってました。そこは反面教師になりました。僕は自分を恥ずかしいとは思わないでいよう、と思いました。僕は芸術を高尚なものだと全く思っていませんでした。自分の生活にとって、花瓶に花をいけるように、心地よく生きていくために必要なもの、自分を助ける大事なもの、だと感じてました。

2. 南方熊楠


 水木しげるの『猫楠』という漫画を読んでいて、実際どこまでが本物の熊楠と重なるかはわからないのですけれども、熊楠のとてつもないバイタリティに驚きます。バイタリティだけでなく、気前の良さという点でも坂口さんと共通していますね。本をたくさん読んで外からの情報を入れながらも、まずは自らのからだを実験台にして学ぶような姿勢にも同じことが言えると思います。ここで触れてみたいのは、熊楠の「粘菌」の見方についてです。人が生きていると思っているときの粘菌は実は死物で、繁殖の胞子を守っているだけであり、粘菌という生命がもっとも活動しているときには、見た目には痰のようなものとして死物に見えるという問題。実は死んでいるのに、死んでいる粘菌をみて、人は粘菌が生えたという。活性化している状態の粘菌を、死物同然とみる。ここから「死んだら何もないと考えるのはおかしい」という熊楠の考えが展開されていきます。粘菌の世界をみれば、死んだと見える状態に似ているときに粘菌はもっとも活性化している。ならば人間にも同じことが考えられるのではないか。坂口さんの鬱との関係は、粘菌の例からも説明ができるように思いました。熊楠の文士としての姿勢や態度だけではなく、細菌などを例にした細かな点においても坂口さんとの類似は見出せるのでしょうか。また、こうしたことを踏まえて南方熊楠に言及されていたのでしょうか。坂口さんと霊との関係についても、熊楠を経由して考えてみようと思いました。

答:

 南方熊楠に関しては、僕は「猫楠」よりも中沢新一さんの「森のバロック」を先に読みました。南方熊楠全集も持ってますが、それはほとんど読めていません。純粋に南方熊楠に興味を持ったというよりも中沢新一さんの視点から見た熊楠がとても面白かったということかもしれません。その前にマルセルデュシャンに興味を持っていました。彼の四次元という考え方が面白いと感じたからです。しかも、その四次元の考え方もマルセルデュシャン独自のものではなく、彼もアボットの「フラットランド」など当時の四次元についてのいろんな人からの影響だと思います。僕は「アインシュタインとピカソ」という本にかなり影響を受けてます。この本もとても面白いですよ。僕は図書館にこもって、何か気になる言葉で検索して、書名を見ながら面白い本を探すということをよくやってました。高校生の時は、熊本市立中央図書館、大学生の時は早稲田大学の図書館、卒業してからは東京広尾の都立中央図書館で。自分が今、読みたいと思う本を探すのが得意です。中沢新一さんの本はどうやって出会ったのか、忘れてしまいましたが、大学の時に入っていた寮の先輩から教えてもらった、というのが有力です。当時はマリファナを吸いながら、本を読む、みたいなことをしていたのです。若い頃のお話です。中沢新一さんの本で最初に影響を受けたのは「東方的」という本です。この中で、マルセルデュシャンと南方熊楠が同じ本を読んでいた可能性がある、と中沢新一さんは熊楠の書庫として使ってた蔵の中で思い付きます。その本が「四次元」という本だったのではないか、と中沢さんが書いているのを読んで、僕は熊楠についてもっと知りたいと思うようになりました。当時、映画監督の山本政志さんにも関心を持ってました。彼が作った「ロビンソンの庭」という今では立派な作家でもある町田康さんが町田町蔵時代に主演をしていた映画なのですが、その映画のビデオの本編の前に山本さんが完成させようとしていた「熊楠」の映画の予告編が流れました。思い出しました。熊楠と出会った最初は、中沢新一さんではなく、この「熊楠」という映画でした。町田町蔵が熊楠役をしていて、予告編だけなのに、あり得ないくらいカッコよかったんです。かつ、あ、これ、僕に似てる!とも思ってしまったんです。あれはいつ頃でしょうか。大学生のときでした。卒業間近だったと思います。その後、山本政志さんには直接会うようになりました。そして、熊楠、を完成させてほしいと、資金をアリババの社長に出してもらうために中国に行こうとした時もありました。熊本の金持ちのところに挨拶回りに行ったこともあります。頓挫してしまいましたが、あの映画の予告編は今でも僕が好きな映画の一本になってます。書いていると色々思い出します。山本政志のことを知ったのは、21歳の時でした。当時、僕はヒッチハイクをよくしていたのですが、その時に、シミさんというジャンキーが乗っていたポルシェに乗ります。彼は40歳を超えていたと思うのですが、医者の息子のいわゆるボンボンで大学生でした、薬学部に在籍していて、それでジャンキーでした。シミさんはのちにおそらくオーバードーズで死んでしまいます。彼との思い出は「しみ」という小説になりました。シミさんが山本政志という狂った映画監督がいる、と教えてくれたのです。それで僕は彼の映画のことを知り、その流れで、熊楠と出逢います。当時、熊楠のことを話題にしている人はほとんどいなかったような気がします。周りには。だから、山本政志さんと中沢新一さんが頼りになる兄貴みたいな存在でした。この熊楠を知る過程自体が、まるで粘菌のように感じてしまいますが、僕は粘菌のことを全く知りませんので、勘違いかもしれません。
 粘菌は胞子状態が生き生きとしている生で、目に見える形になった時には死んでいる、という熊楠の考え方はもちろん、僕に強い影響を与えてます。人間という体も目に見える時には死んでいる、という勝手な勘違いをするきっかけになってます。確かに鬱との関係も、こうした熊楠的思考が影響があるでしょう。のちにそれはドゥルーズの思考とも繋がりを持ち始めますが、そういうことを感じる前から、僕はあの映画の予告編を見てから熊楠がずっと心の中にいます。その後にいろんな熊楠の興味深い思考を知るんですけど、その前から予告編を見ただけで、全てを感じていたように思います。後で知ったことに関しては、そりゃ熊楠ならそう考えるよな、と納得できます。だからこそ、最初に何も知らずに、山本政志経由で知った、あの町田町蔵の熊楠の姿が、胞子状態の粘菌のように僕の中にずっと住み着いてます。後で色々知るよりも、直感で出会う、ことそれこそが一番大事だと考えてます。
 霊に関してはよくわかりませんが、熊楠の影響もないとは言えません。多分あるでしょう。でもそれも粘菌じゃないんですけど、もっとずっと前から、僕の心にあるんですね。僕は鬱の時にいつも海の上にいます。船に揺られているんです。その映像がずっと体から抜けません。それは遺伝子の記憶なんじゃないかと思ってます。霊というか、僕には先祖の面影がずっと体の中にある、それはずっと前から感じていることです。それこそ、3、4歳からずっと。胎児の記憶まであるので、霊と遺伝子と色々ごっちゃになっているような気がします。霊、というよりも、それこそ、きのこの胞子は死なずにずっと生きているという考え方がしっくりきます。ある森には、800歳のキノコの胞子が生きているそうです。そんなふうにして、人間も死なないんじゃないか、僕の先祖たちの魂も胞子のように、今も僕の体に、森のように住み着いているんじゃないか。だから、海の記憶が残っているのも当然じゃないか。そんなふうに感じてます。でも、やっぱり、そんなふうに、森の思考をする、自分の体が大自然の大きな森のように感じる、そのような感受のきっかけになっているのは、やっぱり熊楠なんだと思います。そして、その森の気配、を僕に植え付けたものこそ山本政志の「熊楠」という映画の予告編なのです。その映画に、中沢新一さんが協力していたのも山本さんから聞きました。山本さんは自由な人ですから、多額の制作費を、酒とか遊びに、気づいたら、使い果たしていたようです。本人が使っていたわけじゃないんでしょう。映画をやっていく上で、熊楠のようになっていたのかもしれません。そんな自由な状態、胞子の状態には、いつも憧れがあるし、懐かしさがあります。僕もいつもそんなふうに生きていたいと思ってます。まるで死んでいるように何一つ恐怖心もない状態で、好き勝手に生きたいなと思ってます。それは町田町蔵が演じた熊楠の自由さが強く影響を与えているはずです。僕という人間の、先祖と子孫たちの脈々と続く海の道の原風景だな、と思ってます。

3. 中沢新一


坂口さんと中沢新一の間にも共通性が見出せるかと思います。坂口さんはよく中沢さんの名前を出しますけれども、僕の見方としては以下のようになります。現代思想の文脈です。「差異」化(中沢さんの言葉で言えば「微分」)を目指す際にいつかくる「そこ=リゾーム」を捉えるのではなくて、神秘という言葉で隠されてしまっている次元を含めた「ここ」にある意識を活性化すること。そして、もはや「そこ=リゾーム」は構造としてすでに現在へと組み込まれてしまったという観点も含め、二元論的に重なった世界を一元論的に開いていこうとすること。また、態度という点でも言えることがあります。中沢さんは「中間的」という言葉で表しますが(『雪片曲線論』)、「モダンな批判理論」と「新しい形のコンサーヴァティズム」(当時でいえば浅田彰さんに見出された姿勢)の間に構えを取る。自身が前者には「ムイシュキン的な白痴」として、後者には「いっこうに悔い改めようとしない破壊者」として映るかもしれないとわかった上で、それでも両者から距離を保ちながら言論を組み立てていきます(佐々木敦『ニッポンの思想』を参照)。坂口さんは、一般的に見たら、アカデミックな知性にも造詣が深く、在野の知識人としてお金もしっかり稼げているような作家です。それでも本質的には、おそらくどちらからも距離を保ち、その中間で物事を考えようとしている。そうしていまここにある意識を活性化させるための取り組みをされているわけですよね。乱暴なまとめ方になってしまい申し訳ないのですが、坂口さんは中沢さんの思想について、ご自身の活動と重ねてどのように理解をされていますか。(中沢さんが直面した困難について、坂口さんが音楽を通して乗り越えようとしたという風にも捉えることができますので、そちらも音楽の質問のところでさせてもらおうかなと思っています。)

 
答:

 中沢新一さんの本には先述したように大学時代に出会い、大きな影響どころか、勝手に、自分のお兄ちゃんと思い込んでいるくらいです。中沢新一さんの関心が、僕の関心のいつも少し先にいます。だからいつも先越された、と思うのではなく、いつも大事なガイドとして、僕を先導してくれてます。実際に会ったのは、dommuneを通じて2009年だと思います。初めて会った時に中沢新一さんが、僕が見る限りですが、中沢さんがオウム真理教を評価していたことについて、世間からはバッシングがあったとは思うのですが、全く気にしていないように見えたところが、とても興味深かったです。僕が新政府を立ち上げたとき、僕も麻原氏と同じように熊本出身なのですが、中沢さんが新政府について本気でやりなさい、と言っているように感じました。もちろん、これらのことは僕の勘違いかもしれないのですが、中沢さんは自分では実践しないが(笑)、本気で日本を変えよう、どころか、日本じゃないものを作ろう、としている、と感じてます。僕もそうなんです。だから、現代思想の文脈での彼の立ち位置などは僕はあんまり理解ができないのですが、ムイシュキンとか人の名前なのかなんなのかさえ知りません、コンサーヴァティズムの意味もわかっていません。僕の中では、中沢新一さんは、本気で日本じゃない共同体を作ろうとしている人、という認識です。しかも、興味深いのは、自分では実践するつもりはない、ということです。実践するのは、僕の方でしょう。そういう意味では、麻原氏と僕は、中沢さんから見ると、近い存在なのかもしれません。明治期に最初に新政府に抵抗したのも、林桜園率いる熊本県人でした(渡辺京二より)。渡辺京二さんもそう考えると、自分では実践しないが、日本を変えようと反乱しようといる人の一人かもしれません。渡辺京二さんには、日本、という言葉があったのではないかと思います。僕には日本はありません。中沢さんもそれに近いような気がします。中沢さんと渡辺さんに共通するのは、どちらも、自分では実践しない、ということです。ここはとても大事です。実践しないのが悪いことではありません。実践しない人は捕まって死ぬことはないので、大事です。林桜園も実践はしてません。考え方を作った人です。僕としては、実践したいと思ってます。死んでも構わないからです。中沢さんが「ここ」に意識があるのは、つまり、日本じゃない共同体を新たに作る、ということを本気で考えているからじゃないでしょうか。もちろん、これは僕の勝手な推測です。ある実践が前提にある、ということ。実践が前提にあると、思想だけでは進めませんので、実践する上で、引っかかるところがいくつか出てくるわけです。そのための事務が必要になる。その事務をどうするか、というところまで考えているのが中沢さんだと思います。その事務手続きに僕は影響を受けているような気がします。中沢さんが考える、思想だけではひっかかってしまう、現実世界での歪みを調整する事務、これが僕がこれから先実践していく上での、かなり役立つと感じてますし、中沢さんは僕のことが見えているのではないか、遠くだろうと関係なく、見えてしまっているのではないかと思うくらい、僕が次に実践しようとしていることについてのかなり具体的な参考文献などを教えてくれます。時々、中沢さんに電話をするんです。思い立った時、ヨガをしていて出れない時も多くあるのですが、必ず中沢さんは電話を折り返してくれます。躁病者の適当な電話だ、とは簡単に判断せず、ちゃんとタイミングだと感じてくれて、先日も宮沢賢治の「インドラの網」を読みなさい、と教えてくれました。そういう一言、一冊の本、教えてくれる小さな事務に魂が宿ってます。理由は本気だから。そう僕は考えているのです。僕にとっての先人であるので、中沢新一さんに関してはある程度、見様見真似でコピーしようと思ってやっているつもりです。ですが、もちろん、全く同じにはならないです。僕の場合は、常に、自分一人で実践する、という方法が必要だから、というのもありますし、それはやらなきゃいけないことなんです、決まってるんです。だから、僕は中間、という意識はあんまりないです。思想があり、その後に実践をする、実践に移す際に必ず事務が生じる。この事務こそ、僕の中では、今こここの瞬間、を活性化させるための大事な要素です。中沢新一さんはいつもそのことを教えてくれます。もちろん、勝手に学んでいるだけですが。それと中沢新一さんの配偶者は、タンタンの翻訳をされている川口恵子さんですが、僕は恵子さんにお会いしたことがないのですが、なぜかずっと繋がっている、と勘違いしてます。変な勘違いだなと思ってましたが、僕の親友のカズちゃんという女の子は、僕が唯一鬱の時でも遊びに行ける大事な親友なのですが、彼女は日本で一番タンタンに詳しい、タンタンの恋人という仮装をして、第一回タンタン仮装大賞に参加し、世界一になった人です笑。僕とカズちゃんの関係が、まるで、タンタンとタンタンの彼女のような関係、それと中沢新一さんと川口恵子さんの関係と結びついており、もちろん、これは僕の勝手な妄想ではありますが、恵子さんは中沢さんが僕の兄であるように、姉ではないか、と思ってましたが、先日、中沢新一さんと電話で思いついて話をして、家に遊びに行きたい、と伝えたところ、実はうちのワイフが恭平のことが好きでね、とポロッと口に出され、泣いた覚えがあります。いつか恵子さんにお会いしたいです。きっとまた何か新しい道標を僕は得るのでしょう。それが粘菌人生です。

4. ドゥルーズ=ガタリ


『けものになること』を読めばわかりますが、坂口さんはドゥルーズ=ガタリの『千のプラトー』を引き継ぐというか、そのままに書き続けていくということを目指したのかなと思います。実際にドゥルーズ=ガタリが引用する作家たちの名前が坂口さんの小説の中でも頻発するからです。1文目などは、「俺はドゥルーズだ」で始まっています。そして坂口さんがこれを「マジ」だと思っていた感覚が面白くて、もう少し深掘りしてみたくなりました。過去の作家と時に感覚が通じ合うというのは知の喜びの一種でもあるかと思いますが、このような現在形における「重なり」の感覚というのはよくあるものなのでしょうか。そういう時の方が調子が良くなるというか、うまく制作に落とし込めるというような実感はありますか。単なる憑依とはまた違うのかなと考えています。自分自身をその誰かと同期させ、シンクロさせたままに書いていく。そのことのメリット、デメリットなどについても考えを巡らせています。

答:

『けものになること』について言えば、僕は『千のプラトー』が元々大好きでした。『アンチ・オイディプス』は持ってはいますが、全く読めません。頭に入ってこないのです。ドゥルーズの作品は全て本棚にあります。千のプラトー、そしてディアローグ、そして、記号と事件。この3冊がとても頭に入ってきます。ドゥルーズが大好きです。ドゥルーズを読んでいると、あ、それ、僕が書きたかったことだ!とよく思います。よくぞ、私の気持ちを、読み取ってくれた、とすら思ってしまいます。僕が読み始めた時には、もうすでにドゥルーズは自殺して死んでしまっていましたが、そのことすらよくわかっていませんでした。同時代の作家とすら思ってました。ドゥルーズの何が面白いって、ドゥルーズを読んでいると、ほとんど意味はわかっていないと思うんですよね、僕も。でも、洋楽を聞いて、歌詞の意味がわからなくても、好きになるように、それと同じ感覚で、文章を読んでいても意味がわかってはいないと思うのですが、それでも書き方というのか、そうくるか、という書き方、見方が好きなんでしょう。それはベルベットアンダーグラウンドが僕は大好きなのですが、ベルベットを聴いていると、なんで僕がやりたい質感で演奏しているんだ、と不思議な気持ちになり、嬉しくなって、それでもう一曲聴いただけで、僕はラジカセから離れて、すぐに自分なりに曲を作りたくなるのですが、実際1960年代にベルベットを初めて聴いた人たちは、ギターも弾けないのに、みんなバンドを組んだらしいです。そのように、ドゥルーズを読んでいると、どんどん自分で本を書きたくなります。僕の本『けものになること』は僕が一番、本を書きたいと思ってしまう、『千のプラトー』の中の第10章「1730年ー強度になること、動物になること、知覚しえぬものになること」を読んだ時に、閃きました。閃いたというよりも、読んでいたら、すぐに本を書きたくなった。それで、けものになること、は第10章を読みながら、書きたいと思ったまんまに書きました。読んでいると、すぐに、冒頭の文章がほぼ自動的に登場してきたのです。おれはドゥルーズだ、これは冒頭の最初の文章ですが、僕は一切何も思考せず、書きたいまんまに書いたら、こういう文章が出てきました。基本的に『けものになること』は文章を誤字脱字以外は直していません。書いたまんまです。本を読んだ時に感じた書きたいという思いのまんまに、書いただけです。書いた日数は10日間でした。初稿が350枚くらいでしたから、一日35枚、休みなく10日間、書きました。毎日、第10章を開いて、一文読むと、原稿用紙2枚くらい書きたくなるのですが、そうやって、毎日35枚、つまり、14000字書き続けて完成しました。10日間で。
 これは憑依しているとは言えないと思います。ドゥルーズだ、と書いてはいますが、ドゥルーズだ、とも思っていません。ただドゥルーズを読んでいると、むちゃんこ書きたくなるんです。どこまでも書きたくなる。ドゥルーズが僕の中の書きたい世界、僕の中にある世界をその光で照らしてくれるので、その照らされた光で浮かび上がったものを書きました。ドゥルーズが照らしてくれたのですが、書いたものは僕の世界だと思ってます。いろんなドゥルーズの本の中に出てくる作家たちの名前が出てきますが、ほとんど読んだことはありません。ドゥルーズの好きな作家と僕が好きな作家は重なるところも多いのですが。カフカ、ベケット、メルヴィル、そしてアルトー。僕はドゥルーズによる、ケルアックについての批評が大好きです。地下街の人々について彼が書いていることはいつも心を踊らせてくれるので、よく読みます。これは批評と臨床というドゥルーズの本、そういえばこの本も僕は大好きです。しかし、同時に、ドゥルーズはロレンスのアメリカ文学批評にかなり大きな影響を受けているんでしょう。このロレンスの本もドゥルーズに教えてもらいました。ロレンスによるメルヴィル論はメルヴィル論というよりも白鯨論ですが、それはいつも僕を興奮させてくれます。でも、僕は体質的にはメルヴィルではなく、マークトゥエインなんでしょうね。トムソーヤもハックルベリフィンも全く読めないのに。メルヴィルが好きですが、それはメルヴィルになれないから好きなのかもしれません。マークトゥエインと僕には何らかの共通点があるような気がします。僕と夏目漱石と同じように。どこかにエンタメが入ってる感じですかね。メルヴィルの人物評伝を読みたいですが、なかなか良いものと出会ったことがありません。メルヴィルもおそらく躁鬱病だと思うのですが。何かは似てる気がします。
 僕は作家と自分を重ねることを、やっているようで、あんまりやっていないのかもしれません。シンクロしているというか、僕のある一部分を起動させてくれる人って感じ見たいです。僕は自分と同じような全体的な芸術家と会ったことがないような気がしてます。みんなどこかの一部分だけって感じです。本当は会いたいんです。僕と同じように全体的に、何でもやりつつ、人々にも心を開きつつ、病気を抱えつつもそれでも自滅せず、健やかに家族とも過ごしつつ、それでも創作活動も多岐に全面的に何でも下手でも恥ずかしがらずにやろうとしている人を、小川くんは知ってますか? 僕はまだ出会っていません。でもだからこそ、一部分の重なりをかなり注意深く観察して、それを自分の師匠として取り入れているところは多々あると思います。僕の中で、自分の師匠をキメラのように作り上げている。どこかはソクラテス先生、でもソクラテス先生は創作をしません。どこかはピカソ。でもピカソは家族ですらほっとくくらいですからいのっちの電話はしません。そんな感じで、みんなどこかに僕は引っかかったり、批判的だったりします。もっとこうあればいいのにな、といつも観察してます。だから、完全に重なって、シンクロして興奮して、作品を作る、みたいなことは実はやったことがありません。
 けものになること、もドゥルーズだけではなく、ガタリの自伝も参考にしてます。ガタリはどこか僕に似ているところがあるように思います。ドゥルーズとガタリは、私たちを使って好きにどんどん創作していいよ、といつも僕に言ってくれているような気がします。そういう安心感があの作品を生みました。きっと10年後くらいには読み人が増えていたりして。でも読み人が少なくても何にも気にしません。僕の場合は読んでもらうことが重要ではないからです。自分が感じた、書きたい!という気持ちにできるだけ光速に、対応し、反応し、実践し、実現すること。これが僕にとっての一番重要な訓練です。なんの訓練なのでしょうか。いつもそれを考えているのですが、やはり、新しい共同体、日本ではないもの、を作りなさいという天の命令なのでしょう。ドゥルーズはそのような天命はないんだと思います。だからこそ、ガタリが必要だった。
 重なって書くことのメリットデメリットはだからつまり、僕は一部分しか重なっていないので、何とも言えませんが、つまりは一部分しか重なっていないがために、メリットもデメリットも享受せず、素直に書けているのかもしれません。ドゥルーズと重なってとても深く読んでいる研究者たちもいらっしゃいますが、彼らがあのような小説を書いたら、ちょっと読めない野暮ったいものになるのではないでしょうか。自分がこういうのも変ですが、けものになること、はそんなに野暮ったくなっていないような自己評価です。実は距離が保たれている気がします。なぜなら、そこまで深く読めていないからでしょう。深く「感じた」だけです。しかも、僕の中のある一部分だけが。僕はいつか、自分の完全な師匠になりそうな人を見つけたいと思ってます。なかなか見つけることができません。見つけるのが上手な僕なのに、不思議なことです。ブッダとかキリストとか宗教者の方が意外と近い感じがするのかもしれません。近代以降の芸術家、文学者には僕は一部分しか重なりを見つけることができません。
 もしかしたら僕の行動は芸術的というよりもどこか宗教的、原始宗教的なのかもしれません。よく知りませんが。
 供犠という言葉はよく頭の中を駆け抜けます。それの意味するところはまだわかっていません。バタイユの供儀についての本をしばらく読んでましたが、興味深かった記憶があります。今はその本も古本屋に売ってしまって手元にありません。

5. ジャック・ケルアック


『路上』には、放浪を続ける主人公、サル・パラダイスの身体の衝動が詳細に描かれていますが、この作品は坂口さんに大きな影響を与えたそうですね。『路上』はフィールド・レコーディング的だったと記されています。確かに、『けものになること』や『現実宿り』のように、坂口さんが鬱の状態をフィールド・レコーディング的に書いたかのように読める作品もあり、ケルアックの線を精神世界にまで延ばしていったのだなと理解をしました。最近では、小説内におけるフィールド・レコーディングの範囲をさらに広げているのではないかなと推測することもできます。現在を足場にして、現在形の中で過去にアクセスしていく。全てをひっくるめて、解像度の高いままに記録する。坂口さんにとって60年代カルチャーが今に至るまでどれくらいの影響を与えているものなのか、また時間が経つ中での手法の更新などがあるのかなどきいてみたいと思いました。

答:

 僕がケルアックに出会った経緯はどういうところなのか。振り返ってみると、いろいろ錯綜はしていると思いますが、二つの点からぶつかり合ったという感じがしてます。時は高校2年生です。僕は相変わらずビートルズマニアでしたが、当時、ブライアンジョーンズ(ローリングストーンズの主要なメンバー、のちに若くして変死で発見される)にも興味を持ってました。ブラインジョーンズは、ビートニクに影響を受けてました。それで、モロッコのタンジールに行くのですが、そこでベルベル人という民族の音楽に惹かれて、当時としてはかなり珍しいと思うのですが、アイドル的ロックスターでありながら、ベルベル人のフィールドレコーディングを行い、それも独自の加工処理を重ねて、「ジャジュカ」というソロアルバムを制作します。僕はこのレコードを、熊本の当時存在していたウッドペッカーというレコ屋で見つけ出し、店主にすごくいいから聞いてみなさいと言われ、購入しました。それでライナーノーツを読んで、研究しました。フィールドレコーディングを自分なりに解釈して新しいアルバムとして発表するという手法に影響を受けつつ、それだけでなく、モロッコという異国にも興味を持ち、ブライアンジョーンズはなぜタンジールに行ったのかが気になり、それでバロウズを知ります。ビートニクとの出会いはこれだと思います。しかも、僕が興味を持ったのは、そのライナーノーツにちょこっとだけ登場していた、バロウズの当時の一番の親友、恋人?だった、ブライオン・ガイシンという不思議な名前の男です。バロウズのカットアップという手法も、バロウズは文学だけでなく銃でキャンバスを撃ちまくってそれを絵画作品として発表したりしたのは、ブライオン・ガイシンの影響だったのですが、当時は情報が少なすぎて、僕の頭の中にガイシンの勝手なイメージができて、僕の一つのロールモデルとなりました。今では少しだけガイシンは脚光を浴び、作品集なども出てまして、作品をネットなどで観ることもできますが、当時はただ「ガイシン」という名前だけでした。でもそんなガイシンにきっとブライアンジョーンズは影響を受けたに違いない。だからこそ、こんなカッコ良すぎるアルバムが完成したんだと思ってました。あながち間違ってはいないと思います。そんなふうにして、バロウズは文学者として有名だが、実はガイシンがいる。そういうことを学びました。のちにケルアックを知った時も、やはりケルアックのあの書き方のもとになったのは親友だった繊細な狂人のニールキャサディの存在が重要だと感じました。僕は有名な人よりも、ついついブライアンジョーンズ、ガイシン、そしてニールキャサディが気になって仕方がありません。それは高校生の時からそうでした。脚光を浴びてなかろうが、創始者は、創作の原点は彼らなのです。僕はそういう人に脚光を当てる人になりたい、いや、僕はそういう人でいながら、渋い目立たない路線で行くのではなく、そのままメインストリートを歩きたい、そんな表現者になりたいと高校生ながらにそう思ってました。
 ここまでは一つのケルアックとの出会いです。
 もう一つは、石山修武との出会いから始まります。僕は当時17歳で進路を決める必要が出てきたので、これは先述したかもしれませんが、高校の進路指導部の先生たちからは、それなりに学内での順位が良かったので、お前は一浪して東大に行け、と言われてました。先生たちは過去の記録からそう僕を判断したのですが、僕としては、東大とかは関係なく、有能な僕が好きだと思った先生に建築を学びたかっただけですから、先生に東大にはどんな建築家がいるのですか、と聞いてみたんです。しかし、先生たちは誰もそれを知りませんでした。僕は幼少から未経験者は、たとえ年上の人であろうと、両親であろうと、未経験者なのだから、つまり未熟者なのだから、意見は耳に入れないこと、と決めてました。これは不思議なことに小学生の時からはっきりと決めていました。おそらくそれもまた天の命令かもしれません。よく知りませんが、なぜならそんなことを誰か他人に両親からですら学んでいないからです。不思議なこともあるものです。それで、僕は進路指導部の先生たちの意見を頼りにしないことに決めました。それで図書館に行くのです。熊本市立中央図書館です。現存してます。そこで書庫からGAというもう亡くなりましたが、二川幸夫という建築写真家が創設した建築雑誌があるのですが、それを全部読んでみました。そこで、僕はゲイカップルの二人のための住宅で、窓が一つもなく、十字架の形をした天窓があるだけの工場としか思えないような、玄関がシャッターだった、不思議な建築と出会います。「ドラキュラの家」という建築でした。それを一目見て、僕はこれを設計した人から学ぶと即断したのです。僕は幼少の頃から、この人に学ぶ、と即断ができてました。自分に合っていることがすぐにわかりました。理由は、両親ですら、僕の師匠だと思えなかったという少し悲しい現実のせいだと思います。両親と僕は絆がうまく築くことができておらず、幼少の頃から、何も学ぼうと思えなかったのです。おかげで、両親からどんな批判されても、未経験なことは一切耳に入れてません。両親は医者になれとずっと僕に言ってましたが、彼らは二人とも医者ではないどころか、医学部にも行ったことがないことを知ってましたので、耳に入れません。そういう意味で、絆は築けなかったが、つまり、精神的孤児ではあったが、そのために、年配者からの心無い適当な意見で、心を傷つけてしまう、という若い頃にはありがちな出来事が僕には一度も起きていません。常に自分で学ぶ先生を見つけなければならないという過酷な状態であったからこそ、僕の現在の純粋な精神は保たれているんだと思います。両親だけでなく、年配者たちに一人として恨みがありません。何言われても耳に入らなかったのですから。おかげでスクスクと育つことができました。
 それでドラキュラの家を設計した人は雑誌に掲載されているのですぐに発見できました。石山修武という建築家でした。彼は早稲田大学理工学部建築学科で教授をしていて、その大学の研究室がドラキュラの家を設計したことが判明しました。志望校はその瞬間に決まりました。進路指導部の先生にそれを伝えると、先生は少し嫌な顔をしました。先生は東大に何人合格したかだけが人生なのです。かわいそうなことをしました。しかし、僕は早稲田大学の建築学科に行くと決めてそれ以外は志望しませんでした。のちに、僕が通っていた熊本高校は早稲田大学理工学部の指定校推薦があると先生から渋い顔して教えられました。しかも、先生が嫌がることに、お前が受験する今年は、年々学科が移り変わるのだが、なんの因果か、建築学科になった、というのです。僕は受験勉強は一切してませんでしたが、なぜなら石山修武の著作を読み耽っていたからですが、テスト勉強だけは真面目にやっていたので、評定が4.7だったのですが、他の学生も指定校推薦に応募したのですが、選抜されたのはもちろん点数が高かった僕でした。指定校推薦の面接では、一芸入試でもないのに、マジックを披露しました。そして、無事に合格しました。僕はおかげで受験勉強を1秒もせずに、石山修武の著作だけを読み耽る高校三年生の受験期間を過ごすことができました。当時、僕は日本で一番建築の勉強をしていたと自負してます。のちに早稲田大学に入学した時に、僕は石山修武が設計した建築を、年代順に全て把握していたのですが、同級生は石山修武という建築の先生がいることすら知らなかったのです。彼らはただ東大とか京大とかの受験に落ちた人ばかりだったのです。日本大丈夫か、と思いました。それでも彼らはのちに立派な建築家になってます。
 石山修武の著作を読んでいると、バックミンスターフラーという人を知ることになります。1960年代のアメリカのヒッピーカルチャーに石山もかなり強い影響を受けていました。さらに、石山はヘンリーデビットソローのことも著作に書いていました。森の生活という本に出会ったのもこの時です。ソローが鴨長明に影響を受けたことも知りました。それで鴨長明の方丈記を建築記録本として読むことになったのですが、さらにソローを調べていると、ソローの著作がヒッピーカルチャーの大元のビートニクに影響を与えることを知ります。そのような流れで、僕はゲーリースナイダーを知っていくのですが、彼のことを、ケルアックは「ダルマバムズ」という小説に書いてます。僕は実際に最初に読むのは、このダルマバムズ、日本名『禅ヒッピー』という著作です。その後、ケルアックの第一作が「路上」だと知ります。そして、ニールキャサディという親友のことを知るのです。本を出版することができなかったニール。彼のことものちに映画になったりして、知っている人も今ではいるかもしれません。しかし、当時は、訳者あとがきにしか書いてませんでした。
 質問に答えられているのかはわかりませんが、このような流れで、僕はケルアックに出会ってます。ケルアックと僕は重なるところはあるけれど、ケルアックは僕にとってはあまりにも繊細すぎて、心配になった人という感じです。助けてあげたいとすら思いました。でも同時に憧れてます。でもケルアックよりももっとニールキャサディの方が刹那的に生きていました。そして、いのっちの電話をするなら僕はニールの電話を受けていたような気がします。ケルアックは意地張って、自分は大丈夫だと思って、苦しいのに、酒を飲んで、なんとか誤魔化しつつ苦しみながら行きました。ケルアックとポロックに関しては、助けてあげたかった、と今でも思ってしまってます。それでも、彼の描写の解像度の高さはかなり影響を受けていると思います。しかし、正直な話、僕は路上をほとんど読めていないんです。すぐに寝てしまいます。これはすぐに、わかる、と感じちゃいました。僕はこれをやるんだ、僕はこれを長生きしながらやるんだ、僕は麻薬なんかいらないし、女も酒もいらない、僕はシラフで平気でやるんだ、僕がやることはそれだ、と思ってました。実際、僕はコカインも覚醒剤もLSDもマリファナも全て摂取したことがありますが、それなりに効果もありましたが、どれもすぐに飽きました。不要だとすぐに悟りました。それよりも僕の躁状態の方が、どんな麻薬よりも効果があったんです。
 マリファナは僕の二十歳くらいの時に、先述したシミという素敵なジャンキーの友人たちと遊んでいた時に嗜みました。彼らは国立駅、青梅駅、谷保駅、などに住んでいた、中央線のヒッピーたちでした。僕は全然マリファナ吸わないのに、彼らは遊んでくれました。そして、彼らと多摩川沿いで遊んでいるときに、のちに0円ハウスという僕の第一作である本を作るきっかけとなる一軒の路上生活者の家と出会います。その瞬間に僕の頭の中にはフラー、鴨長明、ガイシン、ソローが同一平面上に繋がり、確かに彼らを記録しようとしている僕の目はその時、ケルアックであったように感じます。しかし、ケルアックが描いたサルパラダイスだったかもしれない、そのサルパラダイスには親友ニールキャサディの面影も入り込んでます。いつもこのように僕は、ヒッピーだけではなく、建築的視点を、建築だけでなくガイシン的ブライアンジョーンズ的フィールドワークの視点を、と常に複合的に分裂的に物事を観察する癖がありますが、その癖は具体的には高校2年生の時に始まると思います。そして、その視点の大元になったのは、僕が精神的孤児だったからでしょう。それを僕は悪くは受け取らなかったのです。読んではいませんが、感覚だけはハックルベリーフィンの精神でいました。僕はケルアックは少しロマンティックすぎる繊細すぎると思ったのかもしれません。僕が描く「路上」はサルパラダイスというよりも、僕の中で築き上げた、僕なりの孤児、ハックルベリーフィンが主人公でした。僕はいつも自分がそのような、いつ何時もへっちゃらで弱いもの、差別されているものを平気な顔で、ぶっきらぼうに適当に助けるフィンのイメージと重ねていました。僕の中のフィンはとにかくかっこいいんです。僕の中のヒーローがその時すでに僕の中に屹立してました。僕のロールモデルは外部装置としての他者の文学作品芸術作品でありながら、いつも僕の中にいました。1960年代ヒッピーよりも、もっとかっこいい方法があるだろうと思ってました。ヒッピーよりもフィンだろうと思ってました。マークトゥエインの本は読めないのに、それなのにマークトゥエインは偉大だと思ってました。そういう観点はケルアックも持っていたと思います。ヒッピーはクソだ、マークトゥエインは偉大だと思っていたはずです。ケルアックはさらに、プルーストへの憧れがあった。僕には一切ありません。そこがケルアックはロマンティックだなと思います。繊細だな、と。それは僕は憧れることはないが、それでもそんなケルアックが僕はいつもキュートだな、助けたいな、と思ってしまいます。僕はそんな柔な感じじゃありません。叩き上げの精神的孤児です。人の言うことにいちいち傷ついたりしないのです。鼻から信用できずにいつも一人でいました。群れることができないので、ヒッピーは無理でした。

6. ヘンリー・デイヴィッド・ソロー


ソローには面白いエピソードがあります。本物の自然は嫌いかもしれないという話です。ソローはマサチューセッツ州のウォーデンの森にて2年2ヶ月間の自給自足生活を送りました。そこで原生自然の価値を説いています(この森はボストンにも近くて、過去にボストンに留学した経験からすると結構都会...)。その後、さらに北上してメイン州のカターディン山に遠征をするのですが、そこでの原生自然体験というのはかなり否定的に描かれているのですよね。簡単にいったら、里山は好きでも、ガチの山は苦手だと、そういった印象で僕は捉えています。ですが、やっぱり人が自然に親しむときって、どうしても里山寄りのものになるのかなと。キャンプとかをみていてもそうで、本当の深さを持った自然の中には人はあまり踏み込んでいけません。それが現実であり、里山からみえる自然の描かれ方というものにもあえて注目するだけの価値があるのだと思います。坂口さんはというと、あくまで里山的に自然との距離を保ちながら、それでも手元の小さな自然を深く見つめているように思いました。土との関係などがそうですね。自然は恐ろしいものであるから里山的な距離感を保つけれども、それでもそこに原生自然体験を見出そうとしているかのような。ソローの中途半端さというのにも、また別の意味合いを見出せそうな気がします。坂口さんにとって、ソローの生活だったり自然との距離感というのは、どのようなものとして映っているのでしょうか。

答:

 ソローに関しては、僕も似たような感触を持っているかもしれません。そもそもその森も友人のエマーソンの所有している土地ですよね? 深く確認してはないんですけど。2年2ヶ月というのはガッツがあるとは言えます。しかし、そもそも自然と一体化しようとはしていなかったような気がします。僕としては彼はできるだけ何もないところに向かい、それで自分が生活するにはどうしたら良いのか、どちらかというと「必要な量」を調べた。そういう意味で、僕はソローの森の生活という本を、自然との一体を謳った本というよりも、経済本である、と捉えてます。それは石山修武の影響も大きいでしょう。彼もまたドアノブ一つがいくらか?ということを徹底させてました。何もないところに向かい、初めて、家が必要だと感じる、それで家というものはどのような部材が必要で、それはそれぞれどのようにして手に入れるのか、自然から勝手に0円で手に入るのか、入らない場合は一ついくらなのか?そんなことをリサーチしようとしていたのではないか。僕はそのように捉えてます。影響元が鴨長明ですから。方丈記もまた、あれは、自然との一体の風情を描いているというよりも、家とは何か、家の部材とは何か、土地を所有するとは何か、をリサーチするためにわざわざ何もないところに住んだ、というのが僕の理解です。実際、鴨長明はよく街に降りては火事で何人死んだだの調査してますから、野次馬みたいなものです。リポーターみたいな。ソローはそういう意味ではしっかり鴨長明の影響を受け、書いたのではないか、と。ソローを自然文学者みたいな感じで扱っている人もいますが、僕はそういう観点では興奮しないですね。経済文学者と考えると、面白いなと思ってます。
 しかし、鴨長明もソローもガチではないわけです。あくまでも、量を調べるための、必要な方法的な生活なわけです。そういう意味では文学作品としては一級品かもしれないが、真に迫っているかというと、そうではありません。真に迫っているのは現代の、僕が調査したのは平成の路上生活者たちですが、彼らはまさに真に迫っていました。そういう意味では僕の著作は、鴨長明とソローに影響を受けつつも、どこか批判的に見ていたような気もします。僕の師匠である、多摩川のロビンソンクルーソーこと、船越さんは徹底して「自然を放置していたら人間は死んでしまう」と言って、いつもガンガン草を引っこ抜いて、砂利を敷いて道を作ってました。こういう真に迫った言葉が僕の胸を打ちます。だからか、僕はキャンプを全くしないんです。なんか船越さんの顔が浮かぶからです。船越さんは鴨長明よりもソローよりも真に迫っている。しかし、船越さんは自分で何か書いたりしません。ニールキャサディとかガイシンみたいな人というか、もっと言うと、ソクラテス先生みたいな人。里山も人工的な場所なわけで、里山と都市にそんなに違いはないのではないかと思います。そんなこと言ったら、今原生林なんか熊本でもほんの一部です。
 僕の場合は、2年2ヶ月も人が所有している森に籠る、ということはしないけど、移動式の家に住み平地の人々の批判をする、ということもしないけど、とりあえず畑は5年目に入りました。死ぬまでやってみようと思っているんです。土ももはや自然ではありません。草も自然ではありません。土も草も虫も、この場所は人間が住んでいるところだ、という認識を強く持って畑にいます。人間がいるから、この場所を選んで、生まれてきている。そのことにはとても興味が湧きます。僕は自然とか都市とかあんまり気にしてなくて、どんなところだろうが、なんだろうが、とにかく生き延びる、ということに関心があります。だから畑も、僕がこの自然が亡くなった都市の中でカラスを先生だと思って、なんとか生き延びているけど、土も草も虫も死ぬまで一緒に生き延びようぜ、と思ってます。そういう意味で、自然を観察している、人間と自然との関係を考察している、のではなく、一緒に生き延びていく仲間を見つけた、という感覚に近いです。だから、安心してます。仲間が増えたので。しかも人間以外の仲間がいると、なんか勇気が100倍になるんです。だから、僕は鴨長明とソローに関しては、死ぬまでやって欲しかった!とやっぱり思ってしまいます。そして、それを反面教師にして、僕は死ぬまでやってみよう!と思って実験しているつもりです。実験は一時的なものではなく、永続的であるべきだ、と思ってます。僕の躁鬱がそれに気づかせてくれたと思ってます。僕の中に原生自然が存在する。それが僕の内面です。それをなんとか守るぞ、死守するぞ、と思ってます。それを守るために、畑、土、草、虫たち、都市の中で生きる先輩サバイバーたちに仲間になってもらった感じです。路上生活者だった師匠船越さんと離れて、僕は僕なりに、生きのびる技術を高めて、自分のうちなる大自然を守らなくちゃいけないんです。

7. ゲーリー・スナイダー

ゲーリー・スナイダーから話を展開してみようと思います。彼は日本で10年以上も禅仏教の修行をした詩人としても有名で(京都の相国寺や大徳寺にもいました)、ビート・ジェネレーションの作家でもあることから坂口さんとの心理的な距離感も近い。スナイダーは、21世紀と19世紀という異なる世紀の時間を組み合わせるような生活をしているそうです。生活実践も仏教由来であり、これは日本とは異なる仏教観にも依拠するため留意はしておかなければならないですけれども、「どう毎日を過ごすのか」という「知的な実践」にこそ仏教はあるのだと考えているらしいです。ここには坂口さんの制作論とも重なる部分を見出せます。自然との調和を考えながら詩を生み出していくこと。加えて、坂口さんと禅仏教との関係性や距離感についても話を聞いてみたいなと思いました。

答:

 ゲーリースナイダーは先述したようにケルアックのことを知る前に、石山修武の著作で知りました。その過程で60年代のヒッピームーブメントみたいなものにも一応は影響を受け、僕は18歳で上京してすぐにモヒカンに剃り、作務衣を着て、ギターを担いで、裸足で東京の街を歩いてました。その当時の写真は僕の手元には残っていないのですが、そんなふうに僕なりのヒッピーみたいな格好をして過ごしてました。とは言っても、別にヒッピーの仲間がいるわけでもなく、基本的に独りで過ごしてました。友人はそんなに多くなかったです。それで僕は手元にハードカバーの「禅ヒッピー」というケルアックの著作を持ってまして、とは言っても僕は当時から読書はほとんどできていませんでした。本を持っているだけで、何かその本の中の登場人物たちの動きが乗り移るみたいな感触は得ることができていたんですけど、小説というものを一度も読了したことはありません。それでも禅ヒッピーの中に登場してくるのが、ゲーリースナイダーをモデルにしているということは知ってまして、勝手に頭の中にUCバークリー校の大学構内の雰囲気を作り上げてました。いいなあ、サンフランシスコに行きたいなあとは思っていました。のちにUCバークリー校で僕は33歳の時に呼ばれて、講演をしました。その時に、歩きましたが、不思議なことに、大学一年生の時に頭の思い描いたバークリー校と雰囲気が全く同じでびっくりしました。もちろん、ケルアックもゲーリースナイダーもいないのですが。禅に興味を持ったことはありますが、しかし、実践したことは一度もありません。鈴木大拙なんかも読もうとしたのですが、本を持ってはいましたが、とにかく読書ができないので、よくわかりませんでした。それでも京都は好きでよく行ってました。相国寺の等伯の絵も見ました。あんまり感銘は受けなかったんですけど。相国寺には、若冲の墨絵もあったと思うのですが、ソテツみたいなものを描いていた記憶があります。それはとても良かったと思いました。禅ヒッピーに寒山が登場するのですが、寒山とか、そういう山の仙人には憧れていた節はあります。しかし、禅はよくわかりませんでした。利休には興味を持ち、山﨑の待庵も見ました。京都で好きになったのは、高台寺の傘亭と時雨亭です。これが好きで見に行ってました。鈍行列車で東京から京都まで行ってました。いわゆるキセルです。とにかくお金がありませんでした。

 お金は全くないのに、それでもどんどん楽しいことはやっていきたいし、できていた。そうやって、自分なりに生きていくことは、ビートニクに学んだことかもしれません。日本のヒッピー文化を知ろうとして、スワノセ島に移住した「部族」というグループを調べたりしてました。アレンギンズバーグとかゲーリースナイダーも映画には出演していたと思います。ナナオサカキや山尾三省のイベントに参加したこともあります。みんなが同じようなヒッピーみたいな格好をしていて、なんか逆に学校の制服みたいなだな、そして、なんかつるんでないと参加しにくい、というか、一人で遊びにきている人はほとんどいない感じがして、そのうちそういうことに参加しなくなりましたが。でもそういう文化によって、僕は自分のものは自分で作る、とか、お金なんか使わなくても、全部自分でやればいいんだ、とか、とにかくお金を使わないで、最大限楽しむための方法がある、ってことを学んだような気がします。タバコだって、薬草を育てて自分で乾燥して吸えばいいんだ、とか。ジーンズしか履かなくて、洗濯もしないで、穴が空いても気にしないでいられるのは楽だなあとか。そういうシンプルなことから、僕は少しずつ学んでいったと思います。それでもアメリカで起きていた禅ムーブメントみたいなものはどうも好きになれませんでした。嘘くさいと思ってしまいました。なんかアメリカが中国とか日本のそういう仏教文化を取り入れて、エクスタシーを感じようとしていること、ドラッグよりも効き目があるみたいな感じで取り入れようとしている60年代70年代のアメリカ人たちを見ながら、この人たちは浅い思考をしているな、と当時の僕ははっきりそう思ってました。そうやっているうちにビートニクやヒッピーたちに対して、冷めていったように思います。のちに、僕は美術作品を作るようになっていくのですが、アメリカが一番現代美術マーケットは盛んなはずですが、僕は一切関わりを持とうとしませんでした。英語を話して、グローバルに、生きていく、みたいなスタイルも全く関心を持っていません。僕のその感じは、60年代のアメリカ人たちが禅文化を取り入れていることに対して批判的になったことが関係しているような気がしてます。僕はのちに現代美術のフィールドに入るとき、アメリカもヨーロッパでもなく、活動の拠点をカナダにしました。カナダのバンクーバに、それこそバロウズが毎年泊まりにくるウエスタンフロントというアートスペースがあったのですが、そこで活動している芸術家たちと仲良くなりました。彼らもまた60年代はヒッピーだったのですが、一方はそのまま芸術家に、しかし一方は投資家になり、お金を稼げるようになってました。その投資家たちは、コンドミニアムを建てて売るけれど一階は親友の芸術家に無償で提供してました。この人たちは面白いなと思いました。実際その場所には、兵役を嫌がった、フィリップKディックが逃げてきたり、僕の個展には、ウィリアム・ギブスンやダグラス・クープランドなどの作家がふらっと寄ってたり、となんだか自由な感じでした。アメリカの隣でどうやって生き延びていくかっていうのをバンクーバーはやっていたのかもしれません。その空気が気に入って、僕はカナダで仕事をするようになりました。そして、彼らのスタイルを学び、僕は今、熊本で自分で美術館を作って、それでどこのギャラリーにも属さず、独りで作品を売ってます。ま、どこまでその影響があるのかわかりませんが、そういった連続性を感じながら今に至ってます。

 アメリカが嫌いなわけではないですよ。ネイティヴアメリカンにはずっと興味を持ってますし、アメリカ人芸術家で好きな人もたくさんいます。でも時々、違和感を感じるので、そこで感じた違和感みたいなものは、はっきりと僕の仕事に投影されて、僕は僕なりにやっていこうという力になってます。

 ヒッピー文化ということでは、僕は最初の雑誌の仕事が、スペクテイターという雑誌で、シェルターというセルフビルドの本を出版したロイド・カーンとのメール対談でした。スチュアートブラントが編集長だった「ホールアースカタログ」も初版本を持ってました。この辺は石山修武の影響が大きいです。この二人は僕のなんでも自分で作るスタイルに一つの大きな影響を与えているんだと思います。でも、なんというか、ホールアースカタログから、スティーヴジョブズが影響を受け、それこそ、Googleの元にもなっているみたいなアメリカンストーリーにはあんまり関心がありません。僕の中で「馬鹿みたいに大きくするな」という声がいつも天から聞こえてきます。産業にするな。いつも手書きでなんでもやっとけ。大体は一人で動けることだけにしとけ。みたいな声です。とにかく大きくしない。僕は会社もやってますが、会社も僕と妻だけです。それだけで回せることだけやれ。無理に大きくしない。無理に有名にしない。人からの投資なんか受けない。小さく小さく。頭が良いのならどんどん小さくできるはずだ。もっと一人でいなさい。人間なんかたくさん集まるとろくなことが起きない。みたいな声が聞こえます。だから、そういうアメリカのスタイルに関しては大体批判的です。

 話がそれてしまったかもしれませんが、仏教に話を戻しましょう。僕の実家は浄土真宗らしいですが、僕の中に親鸞の影響などはゼロです。全くありません。斎藤環さんも僕と仏教の関係性について、それこそ、現在の僕について、悟りの境地に至っているのではないかという意見がありましたが(笑)、全く仏教とは関係がありません。何も学んでいませんし、禅も別にちょろっと本を読んだが、実践したことはありません。現在の宗教法人化している人たちについて、正直なところを言いますと、全員偽物だと思ってます。宗教を法人化する人間は宗教家ではない、と僕は思ってます。殊更に誰彼批判するのは興味がないので、何も言ってませんが、僕はそう思ってます。しかし、仏陀については、何か興味を持ちます。でもそれはキリストについても興味を持っているように、宗教集団化する前の、何者でもなかった頃のブッダとキリストが気になります。

 どう毎日を過ごすのかという知的な実践にこそ仏教はあるとのこと。確かにそれはそうかもしれません。しかし、それは何も仏教でなくても、全ての人間に共通しているテーマな気がします。はっきり言うと、僕にとって、制作が一番大事じゃないんですね。制作はあくまでも、毎日を心地よくするためのエクササイズです。制作のために命をかけるなんてことに全く関心がありません。自然との調和を考えながら詩を生み出す、みたいなこともやっていないと思います。自然がなくなってしまっているが、どうやって生き延びるのか、自然はもはや心のうちにしかなくなっているので、必死にうちなる自然破壊がなされないようになんとかせっせとやっているという感じです。少し仏教に対して批判的すぎるかもしれません。今、目に見えている仏教を、仏教だと思っていないからでしょう。でも、禅や仏教に対して全く無関心というわけでもありません。何か体の遺伝子的には感じていることがあるし、僕はそういう寺の軒先で雨宿をしながら寝ている幻影があります。そういう経験があるような気がします。でも、それは今の眼にみえている仏教とは違うような気がするので、そう気軽に仏教と言葉にできないのかもしれません。でも、今、僕が宗教とは何か、ということに興味を抱いていることは確かです。仏教を改善してさらに良い宗教にしようという、これまでの日本の仏教人とは違うことがしたい、と素直に感じてます。空海もなんで仏教じゃないといけなかったのか、そうじゃないと中国に渡れなかったからか、そうじゃないと食べていけなかったからか、とか考えちゃいます。僕はそんなことじゃなくて、自分の中にあるものを見つめて、見出したいとやっぱり思います。自分が芸術家ではないな、といつも思うんです。じゃあ、何者なんだ、と。僕は酋長になりたい、と思っていることは確かです。そして、共同体の起こりとしては酋長は常にシャーマンでもある。その現代の形とは一体どんなものなのか。足りない頭を凝らして考え中です。ブッダはきっとヒントになるはずだ、と思ってます。日本人の宗教家は借り物でしかやっていないので、参考にならないじゃないかと思っていますが、まだ僕が未熟者だからかもしれません。

8. レーモン・ルーセル


坂口さんとレーモン・ルーセルの関係性についても、詳しくは触れられていることがないように思います。坂口さんは『アフリカの印象』にインスパイアされてドローイング100枚を描かれているくらいなのに、外からの言及がないというのもおかしな話なんですよね。まずルーセル的な「現実との照応を持たない」という点は、坂口さんの作品と比較してもわかりやすいはずです。現実をずらしていったり、現実が立つ地面から揺らしていくことで、また別の現実を見せてしまう。次に、ルーセルの文章が持つ特性について。僕的にはこちらの方が気になりました。翻訳家の國分俊宏さんによれば、ルーセルの文章には機械仕掛けのようなところがあって、言葉を部品のようなものと捉え、部品と部品を組み立てるようにしてテキストが紡がれているというんですね。それもあえて不自然に、ぎくしゃくした感じをそのまま伝えるような文章です。やや人工的な匂いがして、無機質な感じのする文章。一方、坂口さんの文章の中で、たとえば小説作品『けものになること』について考えてみますと、その文章にもやはり部品的な感じというのも現れていると思うんです。部品を組み合わせるようにして、激流を作っていくといったイメージです。僕が気になるのは、坂口さんは『けものになること』のような文章を書かれる際に、どれくらい言葉を部品としてみているのかということです。言葉に対していくらかの距離を挟み、がちゃがちゃと動かしていくのか。それとも、もう少し細かいレベルでひとつひとつの言葉に向き合い続けるのか。これはいずれにしても大変に神経を使う作業だとも思っているので、「推敲」の質問を考えた際にも似たような話をしてしまっているのですが、ルーセルを経由して、坂口さんにこの問題についてどのような意識を持たれているのか聞いてみたいと思いました。

 答:

 レーモン・ルーセルに関してはまたこれもいくつかの方向から出会いました。一つずつ、自分でも振り返ってみることにしてみます。まずは一番、古いところから行くと、やはりこれまた石山修武ですね。石山修武は自分の手で巨大な建築物を素人なのに独力でセルフビルドしていた人を色々研究してます。その中でよく言及されていたのが、ロサンゼルスのワッツタワーと、シュヴァルの理想宮でした。どちらも僕は後に実物を見に行ってます。なんでも実物をちゃんと見ておくのは大事なことです。現場でしか味わえないものがあり、現場では常に、僕という個人に直接、感覚がやってきますので、それは僕個人とその建築との、当たり前ですが直接的な体験になるので、僕個人しか味わえない空間が発生するのです。それはまあ、良いとして、僕が好きになったのは、シュヴァルの理想宮です。シュヴァルについて説明するとまた長くなるので、それは調ベてもらうとして、シュヴァルは郵便配達夫でしたが、ある時、大きな石に足を引っ掛けてこけてしまうのですが、それを掘り起こすと、もともとそこは海だったのか、大きな貝殻だったようです。それは理想宮にも飾られているのですが、その日から彼は石を一輪車を引きながら仕事をしながら郵便物を届けるのでどこまでも歩くわけです、それで石ころを集め続けた。30年以上も。その過程で、彼にヴィジョンが降りてきて、その理想の宮殿を石ころだけでセルフビルドしていくのです。19世紀末のこと。フランスのリヨンからちょっといったところにオートリーブという小さな街にその宮殿はあります。僕はなぜかバス停で小学生のスクールバスに相乗りして向かいました。妻のフーちゃんと初めて出かけた海外旅行でした。23歳くらいだったと思います。感動してシュヴァルについて調べるようになります。そこで次に読んだのが岡谷公二さんのシュヴァルについての本で、面白かったので、岡谷さんの他の本も読もうと思ったんですね。岡谷さんは19世紀末のいろんな面白い人を取り上げていて、その一人がレーモンルーセルでした。レーモンルーセルもまたシュヴァルと同じ時期に、同じようにフランスで、しかも、プロの作家になりきれない素人といっても過言ではない状態で、本を書き続けた人で、金だけは持っていたので、自費出版してました。文章の書き方が特異な人で、まず、二つの異口同音の長い文章を見つけ出すところから始めます。そして、その片方を最初の冒頭に、もう片方を最後の文章にして、長い物語を書き連ねていくんです。僕の理解としてはそんな感じでした。つまり、最初の文章を読み上げた時に、いく同音ですから、最後の文章もその瞬間に読み上げたことになる。しかし、そんな一文を読み上げた時に、その二つの文章の間に、こんなに長い物語が、つまり、長い時間と空間が潜んでいるんですよ、ということをレーモンルーセルはなぜか命懸けで書こうと試みるんです。これが衝撃で、それはまるで赤瀬川原平の宇宙の缶詰にも似た感覚があったと思います。千利休の小さな茶室の宇宙にも似ていた。レーモンルーセルはマッチ箱に描かれた一枚の絵から、物語を生み出したりもしていた。そのような一瞬の小さな破片の中に隠れた壮大な時空間を幻視するルーセルが好きになったのです。それは当時、僕はピカソとアインシュタインを読んで、四次元の思考に取り憑かれていましたので、それともリンクしたんだと思います。そして、フーちゃんからもらった初めてのクリスマスプレゼントか誕生日プレゼントは、マルセルデュシャンのカタログレゾネだったのですが、マルセルデュシャンも四次元に取り憑かれていました。ピカソも当時、自分のアトリエでアヘンを吸いながら四次元サークルを作っていて、それがのちのキュビズムの傑作「アヴィニョンの娘たち」につながるのですが、その発表が1916年ですが、彼は1907年頃にもうすでに完成させていたようです。19世紀末から20世紀にかけて、フランスのパリを中心に、四次元という言葉をもとにして、時間と空間の変容が起きていたと僕は感じ、その時はずっと19世紀末のパリにいる気分で生活をしてました。もともと、僕は上京したとき、写真に興味を持っていたのですが、フランスパリの写真家アジェにも関心を抱いてました。石山修武を通じて、ドイツの作家ベンヤミンにも興味を持ち、なんだかそんな感じで色々僕の中で時空間についての仕事をしたい、という思いが強くなっていきます。そんなわけで、固まった現代建築なんか興味を失ってしまい、僕は先述した過程で多摩川の路上生活者の家と出会うのですが、彼らの家もまた、とんでもなく極小なのに、宇宙を感じるという時空間の変容を表現した作品だと捉えてました。この頃、楽しかったですね。僕は一人で、何か秘密を知ったような気持ちになって興奮してました。文学と音楽と建築と四次元、こんなことを仕事にしようとしているのは、僕だけじゃん、みたいな感じで高揚してました。もちろん、誰からも認められず、誰からも理解はされませんでしたが。そんな姿がシュヴァルやレーモンルーセル、それこそ、発表前のアヴィニョンの娘を描き上げたばかりのピカソとかと重なったんでしょう。そんな中で、今もまったく日の目を浴びていない、だからこそ、きっと未来には重要性が知られるだろう、無名のレーモンルーセルにどんどん興味を持つようになりました。マルセルデュシャンがレーモンルーセルの小説をもとにしてレーモンルーセルが座長を務めた演劇を見に行ったということも知り、石山修武→シュバル→レーモンルーセル←マルセルデュシャン、なんだなんだ、なんでこんなに繋がっていくのだと嬉しかったです。マルセルデュシャンとその時、一緒にレーモンルーセルのアフリカの印象の演劇を見に行ったのは、ミシェルレリスでした。ミシェルレリスは後にアフリカの印象に影響を受けつつ、実際にアフリカを旅行し、それを文章に収めた、フィールドワークなのに自分の心のうちまで書いちゃって、フィールドワークを飛び越えた、これは先述したブライアンジョーンズとも重なるところがあると思います、そんな本を出版します。そういうこともまた僕を興奮させます。後に、僕はみすず書房から出版されていた「ミシェルレリス日記」を編集した尾方さんという編集者に、誰も出版してくれなかった「建設現場」という僕が書いた800枚の小説を送ります。知り合いではなかったですけど、ミシェルレリスを出版する人だから同志だと思ったのです、これは無事に出版され、売れませんでしたけど、僕は大好きな小説ですし、尾方さんとは今でも親友です。しかも後に、僕がパレーシアという古代ギリシアの真実表明術という技術について興味を持つのですが、その興味を持つきっかけになったのが、フーコーのコレージュドフランスでの講義録の最終巻、真理の勇気という著作なのですが、フーコーもまさにレーモンルーセルという本を出版していました。本当一体、なんなんだ、このレーモンルーセルって人は、と思いますが、とにかく、まだ解明されていない時空間の変容を描いている人なんです。だから、僕の師匠とも言えます。彼はまた金はあるが海外旅行にはいきたいが、家の書斎からは出たくない、という最高の引きこもりでして、自分の書斎と全く同じ設計のキャンピングカーをつくります。これものちの僕のモバイルハウスというプロジェクトに直接影響を与えているので、レーモンルーセルには本当に感謝してもし尽くせません。
 それで次の質問に移りましょう。原稿を書くときにレーモンルーセルの影響を受けているのかどうか、という点ですが、ルーセルの「現実に存在していないものならなんでも書く」という言葉にはかなり影響を受けてます。僕はいつも変な小説を書きますが、その時の大事な教訓になっているような気はします。しかし、ルーセルが命をかけて一文ずつ時間をかけて書いたのに対し、私といえば、原稿は一瞬です。いつも一瞬です。書き直しすらしません。ただ大事なことは、頭の中に見えているものが真実であると感じていることだけを書く、ということです。その意味では森山大道さんが高校生の時大好きだったのですが、その写真撮影方法に近いです。僕の頭の中には常に、この現実とは別の世界が広がっているようです。だから、今からでも、すぐに書けるのです。山の様子、水が流れる様子、動物たちの息遣いとかそんなものですが、だから意味は全くありません。意味は、それが僕の頭の中には確かに存在していた、ということだけです。それが何を象徴しているのかとか、一度も考えたことがありません。そういう意味ではルーセルはむっちゃ考えて書いたのに対し、僕は1秒も考えずに書いてます。これは本当です。だから、毎日50枚だって100枚だって書けるのです。何百個もフィルムを1日に入れ替える森山大道と同じやり方ですから。もうファインダーなんか見ずに撮影するように書いているのです。それくらい、頭の中の世界、それも僕にとっては別の「現実」ですが、それが溢れているというわけです。書きことに困ったことが1秒もありません。一切文章を吟味したことがありません。推敲も誤字脱字を直すために一回だけ読み返しているだけです。初校ゲラだけはチェックしますが、あとは編集者に任せてます。これはいつもそうです。だからルーセルの影響としては、頭の中のことだけ書きなさい、ということです。そのことを知りました。書き方は全く真逆です。僕は1秒も考えないのです。そんな書き方ができるのかとみんなから驚かれますが、それが僕がルーセルから学んだことなんです。現実じゃなければなんでもいい、ってやつです。ルーセルってむっちゃかっこいいので、みんなも調べて読んでみてください。真面目に読むと、本気に狂う本です。だから本って最高なんです。現実じゃないものがそこに映されているから。現実なんか直視してどうするんですか、といつも思ってます。僕が幻視している世界こそ、僕にとって一番のリアリティじゃないか、そこでの時空間こそ、私の時空間であり、私の生活じゃないかと思ってます。そんな僕をレーモンルーセルはいつも、まだまだ足りない、もっと現実じゃないものだけにしろ、って厳しい先生みたいに言ってくるのです。

9. 村上春樹

著作のなかで、坂口さんが村上春樹さんのいくらか熱心な読者であるとおっしゃっていました。とりわけ関係してくるのは、作家として走り続ける(書き続ける)ための姿勢なのかなと思います。インディペンデントな姿勢の程度に大きな違いはありますが、おふたりとも創作のための安定した基盤づくりにこだわっているように見えます。村上春樹さんの他にも、そういった創作の土台づくりの点で参考にされている作家はいたりするのでしょうか。また、村上さんにおいてはランニングが書くことに大きな影響を与えるわけですが、坂口さんにとってのランニングのようなものを見据えるとき、それは何になるのでしょうか。様々な制作が混じり合う形で創作の心持ちも整えられるのでしょうか。こんな機会なので、聞いて見たいことはたくさんあります。「弱さを克服する方法」というのは、おそらく村上作品において重要なひとつのテーマであり、それは倫理的なデタッチメント(やれやれ)、記憶を切り出すように歴史を読み込もうとするコミットメント(壁抜け)、誰かとの関係性を特権化することによる穴埋めなどに現れているかと思います。「老い」を迎える中での継続可能な「土台づくり」というものがあれば、想像が可能な範囲で聞いてみたいです。弱さを克服するためのランニングは、やはり年を取るごとに難しくなってくる。現在の村上春樹作品にも影響があるかもしれません。村上さんのようにこだわった土台づくりをされている坂口さんだからこそ、そして多様な方法を重ね持つ坂口さんだからこそ、書き手の「老い」に向けたモデルの構築、準備のヒントに気づいているのではないかなと思っています。

答:

 村上春樹と出会ったのも高校一年生の頃だったと思います。会ったことはないですが、遠くはない関係のような気もするので、呼び捨てはどうかと思いますが、ま、作家なので敬称略で行きます。当時付き合っていた彼女(この方とは、のちの妻となるフーちゃんと出会う2001年まで10年間付き合うことになります)が読んでいた『ノルウェイの森』を面白いからと言って貸してくれたんです。なかなか面白いとは思ったものの、僕は恋愛小説みたいな感じがあんまり好きじゃなくて、恋愛は読むものではなく、するものですから、そういえば恋愛って、時空間変容が起きますよね、その変容はやっぱり読んで味わうものではなく、自分で恋愛して味わうべきで、今でも僕の大好きな時空間変容体験の一つとなってます(そのために、結婚をしている僕は毎度、フーちゃんと真剣に話し合わなければならないのですが汗、うちでは不倫を隠すのではなく、表に出して、それこそ子供も交えて話し合います。こういうところは村上春樹とは違うスタイルのような気がします)。それで僕は本屋に行き、村上春樹という名前だけはチェックしているので、それで単行本を買うという文化がなかったので、なんにせよ、文庫本コーナーに行きまして、新潮文庫の『羊をめぐる冒険』を購入しました。これが面白くって、本が読めない僕が読めたんです。今では本が読めるようになりましたが、昨年までは読めなかったですが、それでも村上春樹の本だけはむちゃんこ読めます。小説よりエッセイの方が読めますが、僕は村上春樹の制作論を読んでいると、いつも希望が湧きます。それでもっと読みたいと思って、次は地図が掲載されている『世界のおわりとハードボイルドワンダーランド』上下巻を買って読んだら、これが本当に自分の感覚とピッタシ!みたいな感じになったんですね。僕は幼少から本を読んでいたような文学青年ではありませんでした。読んでいたのは実の弟です。一つした、年子の弟です。彼とは親友のような仲で、彼はたくさん本を読んでました。作家になりたいとは言ってませんでしたが、本を作る仕事がしたいとは小さい頃から言っていたような気がします。僕は本にはほとんど興味を示してませんでした。いや、読みたかったけど、どんな本を読んでも、それどころじゃない、僕は自分が心が大変でそれどころじゃない、という感じで、落ち着いて読むことができませんでした。しかし、村上春樹の本だけは、その落ち着かない心が穏やかになったんでしょう。それは今でも変わりません。鬱の時は、今でも村上春樹のエッセイしか読めません。最近は、川上みえこさんの質問に答えた本も良かったです。基本は職業としての小説家ばっかり読んでます。これが鬱には一番いいです。それで世界の終わりとハードボイルドワンダーランドを読んだ時に、僕はふと、このような小説も自分で書いてみたいと思いました。同時に、このような小説なら僕にも書ける、とも思えたんだと思います。このように書けばいいんだ、自分が安心するように書いたらいいんだと教えられました。でもねじまき鳥がちょうど出た頃だったんですが、それを読んでも全然頭に入らないんです。なんか専門的っていうか、作家っぽくなったというか、高校生のときだったと思うのですが、早速読めなくなりました。だから僕の中では羊をめぐる冒険と世界の終わりとハードボイルドワンダーランドで小説の方は止まってます。あとは読了したことがありません。でも、いいんです。それで。僕に作家になりたい、と思う前に、こういう小説を書きたいと思わせてくれたので、今でも命の恩人だと思ってます。批判的なことをよくいうけど、それでも僕にとっての村上春樹は、のちに石牟礼道子と出会い、熊本で書くことを僕は見出し、仕事を継続していくのですが、道子と会う前までの僕にとっての書くことの先生でした。毎日10枚ずつ書いていくことも、完全に村上春樹によって教えてもらった方法です。朝4時に起きることも。毎日、まずは初稿を休みを入れずに書き切ることも。何も調べたりしないでいきなり書くことも。本を書き下ろして、その後に出版社に持っていくことも。それら全部が村上春樹から学んだことです。ただ本に書いてある通りに自分もやってみたのです。それがしかも体にとても合っていたのです。村上春樹はもしかしたら躁鬱人なのかもしれません。別に詮索はしないのですが。僕の創作の態度については、彼以外に参考にしている人は一人もいません。僕は村上春樹からだけ本を書くことを学んでいる人かもしれません。もちろん、内容はまた別ですが。カフカにもベケットにも学んでいる点は多いですが、しかし、彼らは自分のことを書いてくれないので、わからないのです。村上春樹だけです。細かいところまでちゃんと若い人にわかるように、本を書こうとしている人間に懇切丁寧に教えてくれたのは。それ以外の人でここまで細かく教えてくれた人はいませんでした。だから村上春樹が直接の師匠です。「書くこと」については。ランニングもやってみようかなと思って何度かやってみてます。しかし、全く続きません。ちっとも楽しくないのです。翻訳も少しも楽しくありません。それでも毎日、何かを続けなさいと村上春樹は言ってますから、僕は毎日いのっちの電話に出て、畑をやり、毎日一枚必ず絵を描き、毎日作曲しその日のうちに録音し、毎日、家族に料理を最近では娘に弁当を作ってます。彼のランニングの代わりになっているのかは分かりませんが、僕なりに見つけた毎日やることは毎日増えていってます。運動はどうやら僕には全く必要がないらしいです。すぐ外に出ていくし、どこまでも歩いていくし、元気に人と会うということをしているとそれが運動よりも調子が良いんです。原稿も3時間以内に終わりますから、ずっと座って仕事をするということがありませんので、腰も悪くなく、姿勢は悪いですが、それでも病気になったことがありません。躁鬱で全てデトックスするようです。村上春樹は走らないと太ってしまう、ということがあるのかもしれません。僕の場合は太ったら、断食すれば、三日くらいで5、6キロ落ちます。それで体重はキープしてます。とは言いつつ、僕は作家であるという自覚があまりありません。僕は書くことが好きな人ってだけです。もちろん、本を出版した2004年から継続的に書き続けていますが、今年で20周年、40冊の本を出版してますが、作家とはあんまり思っていません。ただ書くのは無茶苦茶好きです。収入は絵画販売の方が、現在では全収入の8割近くになってます。本は特に稼げる仕事というわけではありません。だから趣味でやっているようなもんです。という心持ちなので、村上春樹を師事してきたが、作家として生きて死ぬ、というつもりではありません。ただそうやって生活していたら、無茶楽になったというだけでもあります。もちろん超感謝してますが。あんなふうに全部教えてくれる人はそうそういません。僕の場合は本を書きつつ、本もエッセイ書きつつ、ハードな小説も書く、でもなんでも書く、書いていたら、満足するので、すると次は絵を描きたくなる、絵はこれまたそこまで真剣というわけではなく、一枚描けば毎日満足します。それで音楽もやりたくなって、これも一曲作れば満足します。あとは料理してとか、生活のあらゆるシーンが僕にとっては、執筆する時と同じように、制作だと思っているので、そっちもやりたくなります。真剣に生活はしてますが、作品制作に命をかけているわけではありません。村上春樹と僕とのその違いは、彼が執筆した後に、ずいぶん長い時間をかけて推敲するところにあると思います。メールも書いた日には必ず返信しないそうです。一日置いたりすると村上春樹は書いてます。僕は自分が書いた文章は、今日書いた文章は、今日の僕の責任にあるので、明日の僕が勝手に改変したらいけない、という決まりになってます。これは僕の中の決まりです。だから、推敲段階で、勝手に書き直すということをやってはいけないのです。それがたとえ下手な表現であっても、その時に考えたことだから、勝手な真似はしてはいけないと、そのまま人に見せるようにしてます。村上春樹はそうではありません。最高の工芸品を作るようにして、恥ずかしい思いはしたくないし、読者にがっかりさせてしまってはプロの資格がない、と思ってますので、最高の作品に仕上げるために、常に、彼の場合は過去の作品から必ず一歩でも成長していないといけないという決まりがあるようです、そのために強いプレッシャーを与え、どんどん書き直すのです、でも、書くこと自体が大好きだから、できているとのこと。僕は全く違います。僕は自分が恥ずかしい思いをすることに全く頓着してません。前の作品より駄作じゃんと言われても気にしません。だって、その時の私がそう書きたくて書いたのだから、今の僕には勝手な真似はできないからです。つまり、僕は自分の作品を自分の作品と思っていないところがあるかもしれません。だから、最高傑作を書き上げようなどとは一度も思ったことがないのです。そんな才能があるとも思ってません。それでも僕は自分を馬鹿にしているわけではなく、むしろ、その瞬間の自分を尊重しているつもりです。だから、僕はこの質問もそうですけど、今日初めて質問を読み、それでふと感じたことをただ書き、一度も読み返さずに、誤字脱字もそのまんま、そのまま瞬間的にアップロードしてます。そうやって、今この瞬間に敬意を払っているつもりです。そこが僕と村上春樹の大きな違いであり、決定的な違いであり、恥ずかしさを感じる点の違いです。でもどっちがいいとか悪いとかではなく、人間の体質として全く違うわけで、批判的なわけではありません。そして、もちろん、向こうは最高の工芸品を作り上げるのですから、当然のように、僕の100倍以上売れてます。でも、僕は負け惜しみじゃないですけど、そんなにたくさん売ろうとしていること自体に疑念を感じてしまいます。売ろうと思わなければ売れません。僕はそこまでするもんじゃないと思ってます。中途半端にやることもそれなりに意味があるんです。売れないことにも意味があります。売ろうとしている村上春樹に関しては少しだけ批判的です。そのために、いろんなその人の大事な周波数をカットする必要があるからです。僕は自分の至らないところ下手なところを隠さないほうがフェアなんじゃないかと思ってます。だからそのまんまです。もちろん僕は僕で極端です。村上春樹も極端ですけど。あれだけたくさん細かいところまで本に書いてくれるのに、どこか秘密主義的なところもあります。僕は僕でもろに出しすぎてプライバシーなさすぎですけど。僕が村上春樹に批判的なところはその少し隠れているところです。世界を変えるなら、隠れててはいけません。誰もがすぐにアクセスできるようなところに立つべきだと僕は感じてます。それは好き好きじゃないかと村上春樹から言われそうですが、僕は好き好きでやればいいわけじゃない、と思ってます。表現をするということは世界を変えようとすることです。それなら、隠れてはいけないのです。もちろん、それは世界を変えるならば、ということです。資本主義の世界の中の出版業の中で本を売ることが職業としての小説家の定めだと思っているのなら、世界を変える必要はないから、隠れててもいいでしょう。しかし、僕は職業としての作家ではないので、隠れててはいけないから、電話番号090-8106-4666まで完全公開し、24時間365日誰かが連絡を取りたいと思ったら連絡がつくようにしているのです。それは僕の中ではどこか親殺し的な行動なのかもしれません。表現者としての父である村上春樹に、僕は「なんだよ父さん、ビビってんじゃないよ」と態度で示そうとしているのかもしれません。

 僕は老いることを弱ることだと思ってないんですよね。長老みたいに経験を通じて、果てしない力を持つ人もいるのです。僕の中で老いのロールモデルには村上春樹はいません。あれではあまりにも子供のまんまではないかと少し思ってしまう。もちろん、自己実現をする上では村上春樹方式はかなり効果的でした。しかし、あれではただ資本主義のこの世界を肯定するしかないです。違う世界を作ることを考えないといけない。僕はその危機感半端ないです。その点は石牟礼道子のような成熟は村上春樹はしていないと考えてます。なんでそんなに同じことばかり書かなくちゃいけない。もういいじゃないか。作家として成功するだけが人生なんか、そんなはずはない、人々は大変で、なんとか直接的に芸術家は関わっていくことができないか、もちろん、簡単ではないが、何かそこに悶えつつ、向かっていくその姿勢だけでも見せることで少しずつ変わっていくわけですから。僕はこのままの世界でいいと思えないです。本質的に根本から変える必要がある。じゃあ、どうやって? それを形にして具体的に示すことこそ、芸術家だと思っているので、そういう意味では、今では参考にすることはできないと思ってます。もちろん、それを村上春樹に言ったら、僕は芸術家の才能があるわけではないし、ただの小説家だから、と言われるかもしれませんが、僕は真剣に、村上春樹さんと本当はどうやって世界を少しでも良くするか、苦しんでいる人を楽にするにはどうすればいいか、って、愚直に、膝突き合わせて、話し合いたいですよ。そんな対談申し込みたいですよ。手紙を送ったことはありますが、直接会ったことはありません。断られるのかもしれません。何度かの依頼は断られてます。でも僕は本当に、芸術家でも小説家でもなんでもいいのですが、そういうことを超えて、これからどうするということを具体的に話し合いたいです。小説家は良い小説を書くことだけが仕事だから人付き合いはしない、そう村上春樹は書いてますから、僕の依頼は受け入れてはくれないと思いますが、これだけ自殺者が多い社会をどうすればいいのか、って本気で話し合いたいですよ僕は。僕は、自分は作家だから本を書く、画家だから絵を描く、とか、だから、言いたくないから、作家でも画家でもないって言ってるんでしょう。困ってたらどんなことがあっても振り切って目の前の人を助ける。まさにそういうことが必要な社会が差し迫っているどころか、その真っ只中に僕は今、生きていると思うのです。

10.11. 石牟礼道子、渡辺京二

10.11.石牟礼道子、渡辺京二
世間一般には、石牟礼道子といえば『苦海浄土』の作家という印象が強いと思います。大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した本作は、チッソに代表される近代が壊してしまった古代的なアニミズムの世界へ戻る回路として読まれ、評価されました。4歳の子供であるみっちんは、近代工業主義の結果として現実の世界から疎外されてしまいます。しかし、こういった解釈に異を唱えたのが渡辺京二ですね(『もうひとつのこの世』)。みっちんが最初から果たして幸福だったと言えるのか、そこから問い直さなければならないと。みっちんの疎外は、チッソに代表されるような近代の退廃がもたらしたのではない。近代工業社会に対しそれ以前の農民・漁民の世界があるとしたら、そのどちらにも属さない異界の中にはじめからみっちんはいる。石牟礼道子もまた、自分が異界に属するものであることを知り、孤立感の中で生きていたのだと、作品に的確な批評を加えました。このように考えると、なぜ石牟礼道子が『苦海浄土』を記したのかもわかりますし、それが決して「ノンフィクション」の枠におさまらない作品で、石牟礼道子が患者の思いを一人称の文体に載せて書いていたことにも納得がいきます。彼女自身が生まれつき疎外の感覚を持ち、人間界と異界の間に生きていた。だからこそ奪われた者としての患者に深い共感を示し、その思いを文にすることができた。ここには、深いレベルでの魂の共振によって、疎外を受けた(もしくはそう感じている)者の隣に立つ姿勢、それも自分自身が異界にいる感覚を生かしながら自然に寄り添うような姿勢が見出せます。これはまさに、坂口さんが行なっていることに近いのではないでしょうか。坂口さんは度々石牟礼さんに言及はするものの、どのような形で影響を受けているのかということに関してはあまりお話になっていなかったのではと思います。影響を受けているというよりも、僕からみれば、「死にたい」の感覚に寄り添う坂口さんの姿はすでに石牟礼さんに重なっていきます。いまこうやって言葉にする中でこぼれ落ちてしまうものがたくさんあるのですけれど、石牟礼道子の達成を社会的な解釈だけに還元させない読み方、それは更に付け加えれば渡辺京二さん、坂口さんと引き継がれているものでもあります、その達成の意味合いをしっかりと読み繋いで、書き繋いでいかなければならないなと思いました。坂口さんの実践がどのように見えるかということで石牟礼道子との重なりに触れさせてもらったのですが、問いとしてはやはり、社会的な言論の規模に負けずに、このバトンをどのように繋いでいくか、ということだと思います。読み手として、書き手としての渡辺京二さんの批評観も、しっかりと受け止めていきたいです。

答:

 石牟礼道子については、僕は名前だけはぼんやりと知ってましたが、熊本に住んでいることも何も知らずにいました。渡辺京二に関しては全く知らなかったです。二人のことを知ったのは、2011年3月11日に東日本大震災、そして、その後、3月12日、福島第一原発が爆発してからです。これはたまたまなのですが、僕は3月4日にDOMMUNEという宇川直宏さんが主宰している配信番組で、山口県上関町に建設予定されていた原発について議論しようと思い、エネルギー学者である飯田哲也さんを招いて、話をしました。その中で僕は今現在、一番危険な原発はどこなのですか、と質問したのですが、すると飯田さんは間髪入れずに、老朽化が進んでいる福島第一です、と言いました。地震が起きたら危険なのですか?と聞くと、地震よりも津波です。津波が原発施設内に到達してしまうと、すぐに電源が止まり、放射性物質が漏れてしまいます、と言いました。漏れたらどうすればいいのですか、と僕は聞きました。チェルノブイリを参考にするしかないのですが、チェルノブイリだと半径200mまでは放射性物質が降り積もっていると確認されているので、とにかくまずは半径200mは逃げてくださいと飯田さん。とは言いつつも、さすがに僕もそんなことは起きないだろうと思ってはいました、でも頭には入れておいたわけです。その1週間後に本当に地震が起き、津波が発生しました。そして、3月12日に爆発が発生、僕はまるで夢でも見ているような感触でした。1週間前に話していたことが本当に目の前で、テレビで映っているのを見ていただけですが、実際に起きているようなのです。そこで、東京の国立駅近くに住んでいた僕は、妻フーちゃんと2歳だった娘のアオにとりあえず逃げようと伝え、大阪に逃げました。もちろん、放射性物質は見えませんから、政府はなんの問題も言っているし、しばらく大阪の妹の家に滞在してはいましたが、東京に戻るか、逃げるのか、しばらく考えましたが、熊本に戻ることを決めました。2011年3月20日には熊本に戻ってました。熊本に戻って仕事をするなんてことは一度も考えたことはありませんでした。僕は東京を中心に活動をしてました。当時は、0円ハウス(2004年)、TOKYO0円ハウス0円生活(2008年)、隅田川のエジソン(2008年)、TOKYO一坪遺産(2009年)、ゼロから始める都市型狩猟採集生活(2010年)と5冊の本を出版し、雑誌の連載を三つほど抱えてました。絵は、バンクーバーで知り合ったコレクターに直接、Dig-italというインクで描いた細密都市画のシリーズを売るようになってました。年収は650万円くらいだったと思います。大変ではあったが、なんとか自分で自立して生活ができるようになっていた頃です。東京を離れて生活して、食べていけるのか不安な状態のはずですが、意気揚々と熊本に戻ってきました。3月11日以降、僕は完全な躁状態に入っていたのでしょう。実家に戻ると、僕が日本政府は狂っていると口にしているのを見て、母親が一時的に発狂状態になりました。実家に住み続けるのは無理だと判断し、僕たちは自分が住む家を探します。両親は僕たちが育った十禅寺という町をでて、さらに熊本市中心部にあたる新町に引っ越してました。両親の家に近いと、彼らから嫌がられるかもしれないと思ったけれども、それでも新町のことが気に入ったのは、両親の家の近くに、明治7年創業長崎次郎書店があったからです。長崎次郎書店の建物を見て、すぐに、僕はこの書店を中心にこのあたりの街が文化豊かな様子に変貌している未来の姿を勝手に幻視しまいました。躁状態が入っていると、僕はよく幻視してしまうのですが、躁状態ですから、それが幻だとは思わないんですね。当時、長崎次郎書店は、開店休業状態で、後で知ることになりますが、社長が精神的な体調を崩していたようです。なので、店内には灯りがついていなかったのですが、僕はいつかこの書店を自分が復活させている様子まで幻視してました。躁状態も困ったものです。そして、僕はこの書店のすぐ近くで、書斎を持ち、本を書き続けていく必要があると強く感じました。勘違いもほどほどにして欲しいですが、妻のフーちゃんは優柔不断な人で、ついつい、僕の躁状態の思いつきで、それはないだろう、ということまで、つい黙って了承してしまいます。そんなわけで、僕たちは2011年3月下旬には、今現在も住んでいるマンションの四階を借ります。今ではその一階に、愛すべきアトリエも設けているので、結果的には良かったようです。今では僕以上にフーちゃんが熊本に馴染んでます。東京には戻りたくないようです。フーちゃんは実家も横浜にあるので、九州には一切住んだことがなかったのですが。僕は、これも躁状態のおかしな現象だと思いますが、不動産の物件、つまり、建物と対話することができます。もちろん、これも躁状態のときだけですが。そのおかげで、物件選びに失敗したことが一度もありません。そんなわけで、一度選んだ家にはずっと住むことになります。今年で移住して丸13年。今の家に越してきて、縁起が悪いことが起きたことは一度もありません。というか、僕の人生で、縁起が悪いなと思ったことが一度もありません。苦しいのは、僕の鬱状態だけです。僕は病気にもなりません。鬱状態があらゆる悪霊を全て追い払っている可能性はあります。おかげで、鬱状態を抜けると、とても快活な気持ちの良い毎日を過ごすことができるのです。自殺さえしなければ、僕は幸せなんでしょう。
 僕はその後、2011年5月に、何を思ったのか、まだその時も躁状態でした、突如、新政府という言葉を口にしはじめます。その新政府という言葉を使うきっかけになったのは、熊本に越してきたからかもしれません。熊本に移住すると決めた時に、僕は、友人の編集者である川治くんに一冊の本を渡されます。それは「熊本県人」という本です。著者は渡辺京二、知らない名前でした。しかし、川治くんは渡辺京二が好きなようで、この本面白いから読んだらいいよ、と本をくれたのです。僕が最初に読んだのが、林桜園についての章でした。林桜園とは熊本の幕末の思想家、国学者で、原動館という私塾をやっていた教育者でもあります。ここで、横井小楠、宮部鼎蔵、吉田松陰、河上彦斎などが学んだらしいです。林に学んだ若者はのちに、神風連の乱を起こします。明治政府への最初期の反乱で、のちにこの流れが西南戦争へとつながっていきますが、その反乱の精神的支柱だったのが、林桜園だったと渡辺京二は書いてました。僕は読みながら、渡辺京二が林桜園に見えてきたんです。熊本人がかなり早い段階で中央政府に反乱を企てたことも参考になりました。中央から離れていることが実はとても大きな力になるのではないか。熊本に移住してきたことをハンディキャップだと思っていた僕はなんとかして、その状態を少しでも良く捉えたかったのかもしれません。神風連の乱が、僕ののちの行動の一つの参考例になりました。かといって、僕は暴力革命を起こすつもりは少しもなかったのですが、渡辺京二は革命、反乱、一揆などについて現在でもそういうことを起こすことができる、と具体的に考察しているように見えました。僕にとって、渡辺京二は、いかにして、日本ではない、別の共同体を作るか、その具体的な反乱の方法は何か、ということについて、研究をしている人、と捉えてます。神風連の乱について調べていると、明治政府のことを新政府と言っていて、当たり前のことですが、江戸幕府という崩れるはずのないとみんなが思っていた世界が崩れ、新政府に生まれ変わったその明治維新のことを考えると、つい140年前のことです、パスポートも何もなかった世界があって、誰かが勝手に新政府を名乗り、江戸幕府に変わった。そんな新政府のいうことなんか信じられるかい、ということで、熊本の士族たちは反乱を起こした。この構図を見て、ほう、新政府っていう言葉は面白いと思いまして、つい僕はこういう反乱系の時は、すぐに中沢新一さんに電話しました。この時も電話しました。佐々木中さんにも電話したと思います。僕は理論が整っていないので、まあ、躁状態の思いつい、幻視、で勝手にやっちゃうわけですが、それなりに、いつも間違っていることはやっていないようだ、ということはわかってきていたのですが、一応、確認のために、彼らに電話しました。二人とも、ナイス、いいね、みたいな感じで電話で励ましてくれました。そこで僕は冗談ではありますが、一応、本気で新政府を立ち上げ、その責任を冗談のようにとって、新政府初代内閣総理大臣の役割を勝手に、一人で担うことにしたのです。痛快な感じがしました。そんなことを口にしている人は一人もいなかったので、やったーと思いました。
 それで、僕はのちに熊本県人という本をくれた講談社の編集者川治くんと組んで『独立国家のつくりかた』を2012年に出版します。2011年だけ僕は本を出版してません。Twitterするのに忙しすぎてそれどころではなかった。2008年に初めて文章だけの本を出版して、僕は2011年だけ本を出してませんが、それ以外は全て最低一冊は本を出版してます。それで、独立国家のつくりかた、これが7万部くらい売れて、僕の中では一番売れている本です。でも、一冊は七十円くらいしか印税入りませんから、7万部も売れてもたいしか額になりません。これがのちに、僕が自分で出版するようになったり、絵を売ったり(つまり一点ものを売るってこと)あとはnoteで読んでもらって、面白かったら、お金を振り込むという自己申告性印税のスタイルを生み出していきます。本が売れても金にならないジャン!という事実は僕にとっては悲しいことではなく、いつも七転び八起き人間なので、なんだよ、じゃあ、俺は自分で稼げる方法どんどん見つけます!よろしく!みたいな気持ちになるんです。友人が、今こそ、独立国家のつくりかた、読んだら、面白かったよ、今読むといいよ、と先日言ってました。僕は10年以上も読み返してはいません。みなさん読んだらいいかもです。
 それで、でも、少し僕はスピードダウンしてしまいます。躁状態が長かったので、大変な鬱状態が始まります。それが2012年だった。その時に、もうこの先何をしたら良いのかわからなくなってしまいます。つまり、少し売れた後に、また良い作品が書けるか、みたいな調子に乗ったことを考えだしてしまったわけです。ほんとバカです。この時の経験がのちに、継続するコツ、という本につながっていきます。でも僕はすぐにちゃんと自分の無能に気づけました。無能なんだから、最初からゼロなんだから、もうどうでもいいじゃん、適当に好きなこと書けば良い、と吹っ切れて、書いたのが『幻年時代』という小説です。これは僕の4歳の時に、幻視していた世界をそのまま思い出しつつ書いた小説です。担当編集者は、ゼロから始める都市型狩猟採集生活を担当していた、九龍ジョー(梅山景央)です。彼からのお題は、幼少期の遊びについて、思い出しながら書いてみて、みたいな感じでした。しかし、仕上がってきたものは、小説となり、かなり不穏な、幼少期の描写だったのです。冒頭を送ると、九龍ジョーは「回想するのではなく、その時の自分が嗅いだ匂いをそのままに、まさに今、嗅いでいるように書け」と言いました。とりあえず初稿は、一気に素潜りで、息が続くまで、書ききれ、と言われたので、そのまま、4歳の自分になって、幻視したものを、勘違いだと思わずにそのままリアリティのある世界だと4歳の僕が捉えていたまま描写することに専念しました。1日に50枚書きました。それを1週間続けて、350枚、初稿は1週間で終わったのです。鬱の後の一瞬の躁状態を利用して書きました。一度も筆が止まることがなかったです。書き終わりには涙が出ました。そういう経験は初めてでした。僕の中では隅田川のエジソンが最初の小説ではなく、この幻年時代こそ、僕が最初に書いた小説だと思ってます。
 さて、話はようやく渡辺京二につながるのですが、のちに、2013年幻年時代を出版した後、僕は熊本の明治時代からやっている古本屋舒文堂河島書店にて、林桜園の没後すぐに有志によって出版された本を見つけ、3万円で購入します。それで隣に昔あった、タイムレスという素晴らしい喫茶店で読もうと、入った時に、一人のおじさんがいたのですが、隣にいたのが僕の熊日新聞の担当編集者で、そのおじさんと目が合った瞬間に、あ、この人が渡辺京二さんだ、と紹介されずに顔も知らないのにわかりました。僕はその瞬間に泣いていたらしいです。躁状態だったんでしょう。その出会いのあと、熊日新聞の正月特番で、僕は渡辺京二さんとの対談を行いました。渡辺京二さんは僕の著作をほとんど読んでくれていて、独立国家のつくりかたを、明らかに間違っていると指摘してくださいました。痛快でした。とりあえず独立国家のつくりかたの方向じゃない道で訓練するしかないと覚悟が決まりました。同時に、渡辺さんは『幻年時代』を読んでくれていて、これは本当の文学作品だ、と言ってくれました。幻年時代は、当時、誰一人面白いと言ってくれてませんでした。独立国家のつくりかたが七万部売れたあとですから、ギリギリ出版できたんでしょう、でも、そういった売れ線の本を書くのではなく、やはり書きたいものを書く、とのちにも続く、精神はこのとき、渡辺さんが、独立国家のつくりかたをしっかり酷評してくれて、幻年時代をほめてくれたことが影響あるでしょう。渡辺さんは幻年時代を読んだ時のことを「石牟礼道子の苦海浄土を初めて読んだ時と同じ感銘を受けた」と言いました。最上の褒め言葉なんでしょうが、石牟礼さんのことを一切知らない僕はよくわかっていませんでした。それで石牟礼さんに興味が湧きました。そして、渡辺さんは石牟礼さんが入所している老人養護施設に僕を連れて行ってくれたのです。それは数年後のことでした。おそらく2015年あたりかと思います。
 石牟礼道子については、正直、僕は良い読者ではないでしょう。全集も持ってますが(橙書店に寄贈してますが)、ほとんど読んだことがありません。石牟礼道子とは本を読むことで出会ったというよりも、ただ、会った、話した、という関係です。石牟礼道子と初めて会った時に、僕が感じたことは、どんなものを書いていく、みたいなことは一切考えずに、僕の頭にずっと蠢いている世界があるのですが(だから、僕は一秒も執筆が止まったことがないのです)、それをそのまま書きなさいと道子さんは僕に言ったわけではないですが、そう僕は完全に受け取りました。道子さんと一緒にいる時に、虹が見えて、色が一つ減っていると言いながら、道子さんは猫になっていて、僕と道子さんはニャーニャー言いながら話をしていたんですが、渡辺京二さんは呆然と二人を見てました。渡辺京二さんからのちに、僕は絶縁状を受け取るのですが、その理由はよくわかっていませんが、僕は道子さんと猫語で喋っていたのが理由なのではないかと勝手に思ってます。
 石牟礼道子は僕が鬱で死にそうになっている時に、2回ほど電話してくれたことがあります。先に死のうなんて、いいですね、と言われました。あなたが死ぬ時は、私も自殺したいからストッキングがそこにあるからそれで首を絞めてください、と言われて、もう自殺するのは諦めました。道子さんは死にたいと思っている同志で、でも、死ねずに困っている同志です。頭の中にぐにゃぐにゃ世界が広がって困っている同志で、本も読めない同志で、だから、毎日、とにかく書くしかない者同志です。それ以外の影響は受けてません。水俣病に関しても、僕はよく知りません。道子さんの闘争に関してもよくわかっていません。あの時は闘争した、でも今は闘争していない、ということには僕はあんまり関心が向きません。道子さんが死ぬまで闘争したこと、それは自殺せずに死ぬまで書き続けることだったと思うのですが、僕が注目しているのはそこです。そして、道子は熊本に住み続け、そこで書き続けました。そういう人は、現在、ほとんどいなくなってます。ほとんど東京に住んでいる作家ばかりです。僕は道子よりもさらにもっと深く自分が住んでいる熊本の街とつながりながら書いていきたいと思ってます。あとは渡辺京二が僕に言った、道子と恭平は同じように異能である、世界を違う目で見ている、というのは死ぬまでの励みになるでしょう。僕は影響と言えば、それだけで十分です。もちろん全集はあるので、時々、開くことはあるでしょうし、今後、道子が何を書いてきたのか、少しずつ自分なりに咀嚼し、身にしていくのだと思いますが、僕としては作家の作品に影響を受けたというよりも、唯一の同志であった、という感じが強いです。死ぬまで会い続けてくれた石牟礼道子と渡辺京二には感謝してます。そして、今後も熊本に住み続ける、僕と橙書店の田尻久子が僕には渡辺京二と石牟礼道子の関係と重なります。久子ちゃんと死ぬまで書き続けると約束しましたし、熊本に居続けることも決めてます。作家と生まれた場所は大きな関係があると思います。日本にはほとんどそうやって、地方都市に住みながら書き続けるという文化は無くなってしまってますが、元々はそういうものが作家だったと思ってます。石牟礼道子と渡辺京二は日本でも他に例がない地方都市に住みながら書き続けた作家たちですが、不思議なことにそれが熊本で、僕が生まれた場所で、僕がひょんなことから戻ってきた場所で、偶然にも橙書店の田尻久子と出会った場所で、今も書き続けている。しかも、長崎次郎書店は再び書店としてオープンし、僕の家の周りは今ではとても豊かな文化的場所となっている。悲しいことに長崎次郎書店は再来月再び一時休業するそうですが、僕は死ぬまで書き続けると決めてますし、田尻久子ちゃんも同時に死ぬまで書店をやり続けるのではないかと思ってます。お互い助け合いながら、死ぬまでやっていこうぜ、と声をかけ合ってます。心から信頼できる、本を書く上での師二人を、さらに橙書店の田尻久子という同志と出会えたのは、奇跡的なことであり、熊本という唯一の場所でしか起きえないことなので、これは月並みな言葉ですが、何かの必然だと思ってます。世界中いろんなところを自分なりにリサーチしてきましたが、こんな都市は世界を探しても他に見当たらないのです。

12. 保坂和志

「作為的にことばをまっすぐ吐く」ということについてお話をききたいなと思います。どれだけ細かく文章を組み立てていても、作為的になっていたとしても、読者からしたら直感で書かれているようにしか見えないような書き方があります。そして、書いている坂口さんからしても直感で書かれているようにしか見えないと、そう思い込めるくらいのレベルにまで自身を持っていっているからこそ生まれてくる結果があるとのことでした。これは小説における総合的な技術の積み重ねによって可能となってくるものなのでしょうか。それともある決まった方向に向けて小説の角度を設定していった方がいいのか、時に限定というか、研ぎ澄ませていくことも必要なのか。坂口さんや保坂和志さんが取り組まれている小説の可能性について、そして「ことばをまっすぐ吐く」ということのレッスンについて、お話をきいてみたいです。絶対に簡単なものではないだろうと承知してはいますが、どのような作為のメカニズムがあるのか、考えてみたいと思いました。(保坂さんにおいては、ひとつの場面を描くときに書き手が必ず行なっている、何を書いて何を書かないかの取捨選択、さらにはその抜き出した情報をどういう順番で、どのように再構成するかという「出力の運動」こそが小説における文体なのだそうです。)

答:

 保坂和志さんには相当影響を受けていると思います。でもその影響は2015年からのようです(ツイログを確認)それまでは全く知りませんでした。そして、保坂さんの小説は読んだことがありません。というか、僕は小説論を小説だと思っているので、それも小説だとしてますが、プレーンソングとかは読んだことがありません。僕が読んでいるのは、小説論三部作の最後の本『小説、世界の奏でる音楽』とこれは文庫本、それとKindleで読んでいる(iphoneで読むのは、鬱の時、本を読めずにiphoneでKindle本を読むからです)『書きあぐねている人のための小説入門』僕はこの2冊だけずっと読んでます。最近はあんまり読まなくなりましたが『現実宿り』(2016年)『けものになること』(2017年)そして『建設現場』(2018年)という3冊の本は僕の中では保坂和志に影響を受けて書きまくった三部作となってます。なんなら保坂和志になったつもりで書いてます。保坂和志になったつもりになるとどんどん書けることがわかったので、嬉しくなってどんどん書きました。保坂和志になったつもり、というか、保坂和志が小説論で取り上げそうな小説を模造している感じです。保坂和志が小説論で取り上げる小説ならではの、なんというか、売れないけど、ほとんど見逃しちゃうけど、確かに保坂さんが言うので、読んでみると無茶苦茶面白い、というこの運動に虜になりまして、そういう小説を書いてみました。という側面がこの3冊の本にはあると、僕は思ってます。もちろん、それだけではないのですが。保坂和志という機械を通すと、まず書くことのタブーが色々と取り払われます。もともと、僕は思いついたまんまに書き続けるということを、自分でもやっていたというのもありますが、とにかく、思っていることをそのまま書く、ということにさらに保坂マシーンでブーストがかかったという感じです。それまでtwitterでとにかく思いつくまま、どんなことでも、考えていることでも、生活のことでも、もうなんでもいいんです、とにかく「何かを書きたいのではなく、ただ書きたいだけ」という、これは一体誰の言葉でしょうか。保坂マシーンの中に含まれている言葉だと思うのですが、今や、僕が自分で言い続けているので、勝手に自分の言葉になっているような気もするのですが、この質問もそうですが、とにかく僕はただ書きたいだけなんです、とにかく書くきっかけが欲しい。そのきっかけさえあれば、この質問はきっと1000枚以上の大作になると思うのですが、しかもそれを僕は1ヶ月で書き上げようとしてます。きっと1ヶ月で書き上げることができることでしょう。質問一つにつき、10枚くらい、ただ好きに、何も考えずに書き連ねていくだけ。しかも、僕の場合は、保坂和志さんと違って、もはや作家ですらありませんので、なんと言いますか、質のことを全くありえない考えないでいいという素敵な環境にありますので、もうとにかく、質はどうでもよくて、ただ書きたいのだから、なんでもいいから書くきっかけさえ見つけて、ただひたすら書くということができるようになった時の、喜びは今でも思い出して嬉しくなりますし、もはやそれで本が売れなくても構わないどころか、本だけじゃなくて、この方法論で、絵もただ描きたいだけ、音楽もただ鳴らしたいだけでやれるようになったので、僕が保坂和志さんから受け取ったものは、最初村上春樹から受け取った先述したことよりも重要だったと僕は考えてます。僕は直感では書いていません。そんなひらめきなんか全くありません。僕はただ模写しているだけです。何を模写しているのかというと、頭の中にある、僕の中にあるずっと前から今もそこの世界の川の水は流れ続けていて、一つとして止まっていないその世界がある、その世界の中で動物が生きていますが、その動物はこの世界にはいない動物の時もありますが、大抵は似ている動物で、その動物の名前を知らなくてもいいんだと、保坂和志マシーンは教えてくれました。動物と言えば、その動物のことを知っていなくちゃいけない、その動物は自分にとって、馴染み深いものでないといけない、みたいな感じが取り払われていきました。僕はその動物をあんまり知らないのです。知らないが、見えていることは確かです。その時は、私は動物を見ている、とだけ書けばいいことがわかってきました。よく見えないなら、よく見えないと書けばいいんです。名前を知らないなら知らないと、知りたくなったら知りたくなったと、調べたくなったら、近くにいる人がいれば、その人に聞いてみる、もちろんこれは僕の世界の中にいる、一人の人ってことです。その人のこともよく知らなくていいんです。そうやって考えていると、登場人物という考え方も何もなくなって、すごく自由になりました。そうじゃなくって、保坂和志マシーンによって気づいたのは、書き方が自由になったというよりも、僕の世界の中が自由だった、僕の世界の中を自由に歩き回ることができるようになった、という方が近いかもしれません。言葉をまっすぐ吐く、というのはこのような状態だと僕は思ってます。そうすることで、僕は知っていることは知っていると、見えているものは見えていると、見えていないものは見えていないと書くことができるようになってきました。見えていないから、書けない、というのは僕の中では嘘なわけです。見えていなくても書けるようになってきた。このような思考回路、もしくは書き方、体の動かし方、自分自身への視線の移し方、みたいなことは保坂和志さん以外に、こんなことを励ましてくれる人、方法を教えてくれる人を僕は他に知りません。保坂和志さんありがとうございます。実際に、保坂さんが現実宿りを、すばるかなんかの連載で、ベケットやカフカを読むように面白い、そして、ベケットやカフカより元気がある、と言ってくれた時は嬉しかったです。ま、そのように保坂さんが喜ぶように書いた、というのも正直なところではあるのですが。でもそれは人のために書いたというよりも、僕がそう書きたいと思っていたのも事実ですし、なんにせよ僕の本領は90歳代に発揮されると思っているので、真似でもなんでも適当に自分が書きたいと思うことを具現化するためにはなんでもやればいいのだと思ってます、なので、あの頃、2015年から2020年くらいまでの僕の小説執筆集中期は、まさに保坂和志と二人三脚で歩いてました。保坂さんとは現実の世界ではほとんど会ったことがありませんし、人間的にはあんまり頻繁に直接会わない方がいいのかなと感じでいるので道子さんみたいに電話したりする仲ではありません。でも、僕の制作初期から中期の導入に際し、大きな影響を受けたことは隠すつもりもないし、それはほとんど保坂さんからの影響だと思います。いつか本当に感謝の言葉を直接会って伝えたいと思ってます。

PART2 表現
(13〜37)

13. ドライヴ


坂口さんの小説や詩を除いた著作における文体には、ある特徴があります。それは読み手の感覚を「ドライヴ」していくというものです。小説や詩においてもまた別の「ドライヴ」はあるのですが、エッセイなどに現れるここで触れたい「ドライヴ」感というのは、文の「読みやすさ」に近い話です。それも、ただ読みやすいのではなくて、自然に次の文へ、そして次の話題へ、次の本へと促されていくような効果が付与されています。「死にたい」を抱えた読者にとって、この「ドライヴ」感、さらには文の規模の拡張というものが、そのまま生きる時間の拡張につながっているのではないでしょうか。まず坂口さんが発生させてくれる「ドライヴ」に浸っているだけで生きられる心地がしてくる(同じ時間を感じる)、そしてそれが次のページへ、次の本へ、次の活動へと開かれていくうちに、読者はいずれは制作者になり、生きる時間が拡張されていることに気づくのです。この「導線」が整備されているところにも、坂口さんの総合的な活動の意味合いが見出せるかと思います。エッセイなどに見出せるこのような「ドライヴ」文体は、坂口さんも「ドライヴ」していて、それをそのまま書き写しているという感じなのでしょうか。それとも構築的に組み立てていくこともあるのでしょうか。

答:

 
 小説と詩を書くときと、エッセイや日記を書くときは、全く違う書き方をしてますね。それはそれぞれ役割が違うからでしょう。小説と詩に関しては、僕は自分が見たものを書いてます。そのまま書くんです。
 ぼんやりとしているようで、私はまだ寝起きだったからか、寝起きと言いつつ、私は寝た記憶がないので、少し肌寒くて、私は服を着ていたが、それは私が知らない服だった、誰に貰ったのかも知らないし、買った覚えはない。財布はないし、金もない、手に持っているものもない、私は何か書くものを持っていたが、筆のようなもの、それで私は何かを書いているらしい、遠くに山が、濃い紫色の墨のような山、私はその山を遠くに見ているのに、動物の動く姿が目に映っているのでそれを見ている、空は真っ白だ。夜が明けたばかりの真っ白な空、雲で覆われているから白いのか太陽の姿は見えないが、雲の奥には、それは雲に見えないで、全く空にしか感じられないのだが、その奥に巨大な太陽が光を放っていて、それは見えないのに、その薄い雲で全面を覆われた広い空の向こうに光が充満しているのは感じ取れた。
 試しに、今、見えている情景を適当にさっと書き取ってみました。僕が小説か詩を描く場合、いつも、この場所を書いてます。この場所はなんの場所かはわかりませんが、現実とは少し時間も違うようで、暑い日に少し肌寒い情景が見えるときもあります。だから少し違うとわかります。見ている当人も、僕のようで、僕じゃないような少し未来だったり、ずっと昔、太古の時もあります。僕が人間じゃない時もあります。でも、そういう場所があるので、そこで見えているものをただ素直に、それをただ直列に繋いで、書いていくのです。書くたびに、視点が変わったりします。でもそれがその場所、その世界では普通なので、そのまま書いてみます。そんなわけで、何かのドライヴはあるが、確かに、読みやすいとはまた別の感じになるのかもしれません。その時の自分の中での約束は、とにかく嘘をつかない、見えていないものを書かない、でも同時に、感じているだけのようなものも見えているとみなして全部、見えているものとして書く、という感じです。そのため、最初は「。」がほとんどなく、全て「、」で続いている文章になります。それは誰かに読んでもらおうという意識が全くないとは言えないですが、それよりも大事なことはしっかり自分が見えているものを見えているまんまに書いてみるという練習です。僕は小説を書きながら、何かの練習をしているような感じがあります。そして、僕が書いた小説は少し読みにくいし、なんでそんなものを書いているのか、と、わけがわからないところがたくさんあるのかもしれません、人はついついいろんな描写に、小説家は意味を持たせていると思い込んでいるからでしょうが、僕の場合には、書かれた描写には一切の意味がありません。ただ写真を撮るように、ただ見えているまんまに書いているので、自分でも意味がわからないことは多々ありますが、僕は自分自身にこれはどんな意味があるのか、とは問いません。風景が見えているので、風景だ、というだけです。意味はないので、人は混乱するのかもしれませんが、僕にとってはとても自然なことをやっているまでです、だから、あんまり読んでもらえていません。でもそれでいいのです。僕としてはいろんな書き方があり、それぞれに大事なのです。もちろん僕にとって、というだけなので、小説の場合、全然売れません。詩も全く読んでもらえてません。でも詩は歌にした途端、みんなに馴染み深いものになるみたいです。音楽を導入して、音楽と一緒にその風景を口にすると、みんな受け入れてくれます。でもどっちが大事とかそういうことではありません。僕は何か、ただ確認するためにだけ、作っているようなところがあります。
 それで、エッセイや日記、などの書き方、そのドライヴについての質問ですね。僕の文章は読みやすいとは思います。でも読みやすく書きたいと思って書いているわけではありません。そうではなく、僕の中で一番書きやすい方法で書いてます。自分なりの方法で書いたら読みにくいので、多くの人が読めるように、読みやすい文章を書いているというわけではなく、僕の書き方がこうなわけです。難しい単語もほとんど使いませんし、僕は本を読んできていないので、誰かが使っている言葉とかを利用するということがほとんどないのも理由なのかなと思います。僕は英語もそうですが、語彙が少ないです。中学生くらいまでの漢字だけを使ってます。でも、その少ない語彙ではありますが、言いたいことはたくさんあります。それは無限大にあるような感じがあります。そして、読みやすい言葉でわかりやすいことを伝えたいというのとも違って、僕が書きたいのは、なかなか言葉にするのが難しい、でも僕が表に現したいと思っていること、言葉にできないような感覚を、僕が持っている少ない語彙で、できるだけ言い表してみたい、という感じでしょうか。英語でも僕は延々と僕が話したいことを、30くらいの英単語で話すことができます。三歳児が哲学を話しているような感覚になるみたいです、現地の人が聞いたら。だから、僕は日記やエッセイの時は、僕が話しているように書いているってことなのかもしれません。でも面白いことに、僕は話すよりも、書くことのほうが早いです。なんなら、何を話しているかというと、僕が書くように話しているって感じです。僕は話をするよりも、まず書いている。それは幼少の頃から、そうかもしれません。僕はいつも書いてました。紙に書いていたわけじゃありません。一休さん、の寓話の「このはしわたるべがらず」という昔話を聞いた時か忘れてしまいましたが、僕の中に町があって、そこで瓦版を書く人がいました。書いていたのは僕ですが、僕はいつも自分が伝えたいと思っていることが幼少の時からあったのですが、なかなか言葉にならず声にならず、というか、話をしてもあんまり理解してくれないと思ったら、すぐに僕は心の中の瓦版に文章を書いてました。当時、話ができる人は、弟くらいでした。弟はかなり僕の理解者で、僕は弟に今起きている現象のどこが意味があるか、どこが面白いのか、どこが奇跡的なのかとかをよく弟にわかりやすく説明してました。それを聞いて弟はよく感動してくれたものです。おかげで、弟はかなり早い段階で、僕のことを、なんらかの芸術家のような人と認識してくれてました。小学生の頃にはもうそれは起きていて、中学生くらいになると、かなりはっきりと固まっていたような感じがします。弟に伝えられないものもありました。弟がずっと横にいるわけじゃないからです。横にいないと意味がありませんでした。印象的なことは現実の世界で起きますし、今この瞬間に起きるので、一緒に誰かといる時に、奇跡を目の当たりにして、なぜそれが奇跡なのかを伝えるためには一緒にいる必要があるからです。弟が一緒にいない時は、いつものように僕は瓦版に書いてました。ペンや紙を使っていたら、遅いんです。この瞬間の何がすごいのか、奇跡的なのかってことを、伝える必要があるので。そのために僕は4歳くらいから心の中の瓦版に何かを書いてました。その瓦版の一つが『幻年時代』の元になっているのですが、つまり、瓦版が今では、小説や詩になっていると思います。それは即座に僕が書いていることです。何か感じたとき、奇跡を目の当たりにしたい時、僕はそれを人に即座に伝える必要がある、伝えたい、と思ってしまいます。でも、それを即座に声にすることはなかなか難しいので、書く必要があります。僕は今、この心の中の瓦版を、僕のエッセイなどの文体の元になっていると説明したくて書いていたのですが、書いた結果にわかったのは、この心の中の瓦版は実は今の小説や詩の元になっているんだということが今の今、理解できました。それで、僕が弟に話をしていたこと、弟に伝えるように、これが、まさに今のエッセイや日記の元になっているんだとわかりました。僕はエッセイや日記は、話すように書いていると思ってましたが、ただ話すように書いていたわけではなく、「弟に」話すように書いていたんですね。弟はどんなことでも僕が話すことを理解するっていうか、あ、そういうふうに言うんだ、あ、そういうふうに物事は連関しているんだ、繋がって、しかもあのあり得ないくらい遠いところにあるものとも、確かに繋がっていて、そこが新しいね、とか、弟は現在パルコ出版の有能な編集者ですが、とにかく彼は編集者だったわけです、僕とずっと、僕もずっと作家だったんですね、きっと。僕は4歳の時に、何か伝えたいということがあり、誰も信じてはくれないですが、そんなことを言ったら、それは0歳よりもっと遥か昔の、胎児の時から、伝えたいことがあったんです。誰にも伝えたいのに、そうです、僕は最初に感じているのは一緒に誰かいてくれたら、今この目の前で起きていることが一体なんなのかを説明できるのに、そしてみんなで共有して、これはとても希望を感じる、新しい! 創造的でワクワクする!とかみんなで言い合いたいですよ、ほんとは、胎児の時だって、僕はそうでした。僕は母親と話をすることができてました。というか、僕が勝手に、読み取っていただけですが、母親に言葉を贈ることができないわけです。動いて反応するしかできない。しかし、こちらはしっかりと母親の感情が言語として伝わっていましたし、私もそれを外に表す言語を持ってました。だからほんとはその時弟がいてくれたらいいなと思ってますが、弟はまだ生まれてもいません。しかし、僕は弟が生まれる前から、うん、それ面白いね、その表現最高だよ、と励ましてくれる人がいたのです。それが心の中にいた瓦版を毎日読んでくれる僕の心の中の世界の街の住民たちです。彼らは複数いました。弟と初めて会った時、その街の住民の一人のように感じたものです。まるで「はだしのゲン」のゲンが僕で、死んだ弟進次が、僕の心のなかにいた街の住民であり、その街での僕の弟、そして、その後現れた隆太が、まさに、その後、現実世界に生まれてきた僕の実の弟のようでした。実の弟の名前はりょうたというのですがリュウタとリョウタでなんだか名前も近いのです。はだしのゲンを読んだことのない人にはなんだそれって話かもしれませんが、はだしのゲンこそ、僕が小学一年生の時に、母親が買ってくれた、僕の一番最初に全巻集めた漫画が『はだしのゲン』でした。僕の息子はゲンというのですが、もちろんその名前も中岡元から頂いたものです。息子は弦楽器の弦ですが。元の名前は弦ではなく「幻」と書いてゲンでした。妻のフーちゃんに、幻はまぼろしになりそうで不安、ということで、弦になったのですが、今でも僕の中ではゲンの漢字は「幻」です。幻年時代の幻です。ちょうどその本が出版された2013年にゲンは生まれました。平安時代、「まぼろし」という言葉は、消えてなくなる幻影という意味ではなく、まぼろ、を生み出す士ということで、幻術士のことを指していたそうです。とかこんな話を僕は今でも弟に話し聞かせたいんですよね。だから、こうやって、いろんな話が交錯するんだと思います。これとこれが繋がって、こうなる、と口にすると、弟が感動してくれるからです。僕の文体が一切ブレないのは(僕はそう思っているのですが)まさに想定している読者がブレてないからでしょう。僕が想定する読者が弟のリョウタなのです。その意味で、僕と弟は僕が4歳くらいからずっと作家と編集者の関係でした(現実の世界ではまだ一度も一緒に本を作ったことはないのですが)。僕と弟は何もない世界で、両親が毎日喧嘩する世界の中で、つまり、つまんない世界で、毎日、抜群に面白い制作の日々を送ってました。いつも僕が何かを発見したり思いついたりすることで全てが始まってました。でも同時に、いつもその発見を我がことのように喜び、さらに形にしていこうと僕の気持ちを盛り上げる編集者弟の存在がいたことはどれだけ強調しても仕切れません。弟こそ、僕のエッセイの源流です。そして、弟以前に、僕は瓦版に書いており、それこそが小説の源流です。僕の根源には小説があります。でもそれは現実世界には読者はいなくても良いのです。僕の心の中の現実に住む多くの住民のために書いているからです。彼らの読解力は果てしないです。どこまでも読み取ってくれます。弟は彼らとはまたちょっと違います。弟は僕に心の中だけでなく、現実というものが他にあることを教えてくれました。それが僕が今、付き合っている、そして、皆さんが読んでくれているこの日本社会という現実です。僕はこの現実以前に、私の中にある現実だけで生きてました。そこで僕は毎日、書き続けていたのです。小説を翻訳して弟に伝えていた。エッセイはその意味では僕にとっては自分で翻訳している感じです。読みやすくする、というよりも、あちらの現実の言語をこちらの現実の言語に翻訳しているのです。ついついみんなが読んでくれて、何かやりたくなってくれているとしたら、それはつまり、この翻訳を読んで、僕の心の中の、それこそ僕の根源的な現実なのですが、その現実のことを少しだけ、時空間としてリアリティを持って、感じてくれているからかもしれません。そして、その私の中の現実の中では、もしかしたら、読者の方だって、僕も何か作れる、と勇気を持てちゃっているのかもしれません。まさに弟がそんな気持ちになっていたのかもしれないと、それはずっと前から思ってました。それで僕と弟は現実の世界でものちに、作家と編集者として、今も変わらず作品を作り続けているんでしょう。

14. 予感

坂口さんの「読み方」についてきいてみたいことがあります。意味を理解しながら読むのではなくて、次にくる展開を、感情を、「予感」しながら読んでいくという仕方です。僕にもなんとなくいっていることはわかるというか、実際に多少認識もしているのですが、これは立ち上げられている小説世界というか言論の場に対して、自分の身体や脳が先に予備動作を始めているといった感覚に近いものでしょうか。それぐらい自分が前のめりになっているというか、誰かの文章に対して「乗っかっている」かのようなときに僕は「予感」に近い体験を覚えました。そういう読書は幸せなもので、驚かされたり、感傷的になることも多い気がします。



答:


 僕はよく読書ができないと書きます。でも、僕の家にはたくさん本がありますし、本をいつも買ってますし、そして、本を読むのも好きではあります。読書が苦手というわけではないようです。あ、でも僕は小説が読めないんですね、きっと。読み通せた小説は、村上春樹の初期作だけだと思います。あとは全く読み通せていません。読んでいると、違うイメージが湧いてきてしまうんですね、それこそ『けものになること』みたいに、ある本を読んでいると、すぐに自分なりに解釈したというか、自分ならこう書く、という方向に突っ走ってしまう。『けものになること』はその自分なりの読書の方向性をそのままでいいんだ、それをそのままやってみたらいいんだと思ってやってみた結果です。『躁鬱大学』もその流れとも言えます。あれも『神田橋語録』というネットにアップされているPDFを読んでいて、色々と閃いたことを即興的に適当に書きました。読めないというか、読んでいると、その文章で、それに喚起されて、すぐに文章が浮かんでしまう。振り返ると、それは、何も最近はじまったことではなくて、元々そうだったんです。僕の最初の本は、絵本だったと思うのですが、絵本もほとんど読み通せていません。絵本を読んでいると、その絵本の中の時空間を感じて、それが頭の中に広がっていくみたいです。それに圧倒されるのではなく、その空間の中にいるのは楽しい、楽しくて、でもそれ以上に読んでいくと、僕が絵本を最初に読んだ時に広がった空間は狭まっていくんですね。知れば知るほど狭まっていく。ガルシアマルケスが百年の孤独の書き方を模索している時に、その自分が生まれ育った場所に実際にフィールドワークをしにいこうかと考えたが、やめた、だから一切見ずに書いた、だから書けた、見たら書けなかったと何かのインタビューで言っていたと思うのですが(だから本当に僕は本は読めるんだと思います。いろんな文章の断片は無茶苦茶頭に入ってますから。ただ本を読んでいる時に、読解をしようとかそういうことは一切考えないですね)、それを読んだとき、そうそうそんな感じ!と嬉しくなったのを思い出しました。百年の孤独も族長のなんとかも持ってますが、1ページ読むくらいで満足なんです。持っていることが重要。カフカ全集もありますが、一冊も読み通したことはありません。でも巣穴という小説が好きだなあとかそういうのはあります。巣穴は保坂さんも指摘している通り、僕の『現実宿り』という小説に大きな影響を与えた、と思いつつ、ふと考えるのは、あれはいつ買ったんだっけ、と僕は自分のtwitterのツイログを見直してみると、2015年5月27日に本棚に並べてます。僕がtwitterでなんでも書いているのはこうやって後で自分がいつどこで何をしたかを確認できるからです。僕はとにかく自分の読んだものをほとんど読み返さないですけど、でも、時々、あの時、どうしてたっけ、と気になる時があるので、アーカイブしておくことが必要で、twitterに書いてないことは一つもないくらいです。だから、とにかく思いついたら、どんなことでも全部書いておきます。そして、現実宿り、というタイトルが降りてきて、原稿を書き始めたのが2016年1月6日でした。だからカフカ全集が影響を与えていることは確かですが、でもほとんど読んでいないんですね。カフカ全集がもたらしたものは、あの文章の塊であって、文章の細かいところに僕は影響を受けているわけではないような気がします。で、巣穴という小説について不思議なのですが、巣穴のようなものを書きたいと思って書いたのか、書いた後に巣穴を読んだら、無茶苦茶巣穴っぽいな、と思ったんか、どちらかなのかちょっとあやふやな感じなんです。ベケットに関してはどうなんでしょう。これもツイログを調べたら、現実宿りを読む前に読んでいたのは、モロイと短編小説集の中の「なく」でした。このようにかなり断片的な影響ですが、しかし、これもなんというか、僕はカフカとベケットをそんなに読んでいません。でも二人とも今ではほとんど全部の本を持ってます。しかし、ほとんど読み返すことはありません。正直、すぐに眠ってしまうんです。でも、一文を読めば大丈夫、それはマルケスが百年の孤独を書いた時のように、生まれた場所に戻る必要がないんです、生まれた時に見た記憶の方が重要。で、僕もカフカを一文読んで、それで広がった世界の方が重要。それを確認するために、カフカをもっと読まなきゃいけない、とは少しも思わない。で、それが僕にとっての読書、なんです。それでも、それはもちろん、読書をしたとは言いにくい状態であるかも知れない、だって、城は冒頭しか読んだことがなく、でも冒頭で、僕の中に城が広がってますから、それで、僕としては十分なんです。しかし、それを「僕はカフカの城を読んだ」と人に断言するのは違うかな、と思ってまして、一応、僕なりの誠実な態度として、僕はいわゆる読書はできない、でも、本を「読む」ことはできる。むしろ、無茶苦茶「読む」ことができる。僕の場合の「読む」は読解するのではなく、先を読む、の「読む」なんです。スライダーか直球か、次に来る球を読む、占い師のような作業。つまり、パッと開くだけなんですね。そこを読むと、次の世界が見える、というやつです。つまり、書物占いってことなんですかね。よく知りませんが。実際にbibliomancyって言葉があるらしいですね。書物占いって意味らしいです。古代ローマの時代からあるので、これもこれで正当な本の「読み」方なのかも知れません。そう考えると、僕は読書ができます!僕は背表紙を読むだけで、その本を僕が書くことができます。けものになること、みたいに、興奮することが条件ですが。書きたい本は人の本だろうと、僕も書けるという感じです。そういう読書法ではとにかくやってきてますので、大変な読書家だと言えます。一文を読むだけで、それこそいのっちの電話の声を聞くだけで、電話の向こうの相手の人間関係の作り方、働き方、財布の中身まで一発でわかるのですが、それと同じような感じで、一文だけで、その文章の書き方だけで、僕はどんどん世界が広がっていきます。それこそ、いのっちの電話についてもそんな感じなんです。僕は声を聞くと、世界が広がります。その世界の中で、僕は顔を知らないことが重要な理由なのですが、僕の中に世界ができて、その世界の中で電話の声の主が立ち上がっていきます。僕の中で人物造形が一瞬でおこなわれて、そこで電話の主が動き始めるんですね。電話口ではいろんな悩み、絶望を話してくれているんですが、僕の中では元気なその人が動きはじめてます。僕がいのっちの電話で観察しているのは、その僕の世界の中で広がった、その人の元気な営みと、電話から聞こえてくる声の元気の無さの違いなんです。それでどうやったら、僕の中で元気に動いているその人(もちろん、これは僕の世界に広がった顔であるので、実際のその人とは違うはずなのですが)の声に、電話の向こうから聞こえてくるその人の実際の声を近づけていくか、これがいのっちの電話で僕がやっている方法です。調律しているような感じなんです。基本的に悩んでいる人たちは声がおかしくなってます。声の調子が悪くなっている。僕の中ではチューニングが狂っているような状態。そして、興味深いのは、チューニングが狂っていると、かなり声の個性がなくなります。つまり、調子が悪い人は同じような声をしているんです。でも僕の世界の中に広がったその人の声は十人十色的声なんです。つまり、全員違う。しかし、たとえば、いのっちの電話にかけてきた人の中で、売春をやっている人、もしくは風俗店で働いている人、これは女性ですが、声を聞いたら、一発でわかります。外れたことがありません。その人は性的に、少し調子を崩しているわけです。そうするとみんな同じ声になります。このように、統合失調症の方も同じ声になります。集団ストーカー被害に苦しんでいる人も不思議なことに同じ声になります。親との関係が悪いにもかかわらず30歳を過ぎても両親と同居している人も同じ声です。前の職場が嫌だったから転職したにもかかわらず、転職した先が嫌な職場だったから前の職場に戻りたいと永遠に後悔している人、家を買わなければよかったと後悔している人も全く同じ声になります。もちろん、それぞれに違う声です。しかし、風俗店で働いている人はそのような声、後悔が得意な人はそのような声、と僕は声で診断している感触です。声を読んでいる、とも言えるかも知れません。僕の場合はこの現実世界に存在している他人が作ったもの、たとえば本、声もそうですね、絵、音楽などは摂取するのは少しで十分です。少しだけ他人の制作物を感じると、頭の中にとんでもない壮大な世界が広がってしまいますので、それを僕が書くというだけです。だから、今日はゆっくり読書だけしよう、みたいな一日を過ごしたことがありません。映画はほとんど見ません。情報が多過ぎて、五分で寝てしまいます。ヘビメタの音楽を聴くと寝てしまう赤ちゃんみたいになるのです。映画は息子が大好きなので、彼が喜びそうなものをとにかく必死で探しているだけです。ゲームに関してもそう。僕は一人でゲームをしたことがありません。息子と遊ぶためだけです。ゲンが喜んでいると嬉しくなるので、なんとかゲームやってますが、1時間もしていると、眠くなります。原稿を書いて眠くなったことはありません。絵を書いて眠くなったことはありません。そんな感じです。他人の制作物を摂取していると、情報が多過ぎて眠くなります。なので、僕はよかったと思います。こんな人生で。僕は朝起きたら、どんどんいのっちの電話を折り返して、電話受けて、声を少し聞いたら、すぐに頭に浮かんだ、元気な時のその人の姿を、電話の向こうのその人にすぐに伝えます。どうすれば、その僕の頭の広がった元気なその人になれるか、厳密にいうと、その人の声になれるか、を調律します。はっきり言って、いのっちの電話で、僕は相手の訴え、苦しさ、を耳に入れません。これは批判されることも多いのですが、未経験者の人ばかりが批判し、経験者であるカウンセラーや医師からは結構、なるほどと言われます。耳に入れちゃうと寝てしまうので、僕はサクッと、自分の制作をはじめるという感じです。いのっちの電話は、傾聴しているわけではなく、これは明らかに僕の創造行為、制作行為です。僕からのかなり積極的な表現行為なんだと思います。もちろん、独りよがりに思ったことを伝えているつもりはないのですが。その人の声を聞いて(読んで)、浮かび上がった、その人の本来の元気な健やかな声についての情報を、その人に伝えているのです。予知能力ではありません。現在知能力かも知れません。

 さて、読書の話に戻りましょう。そんなわけで、僕の読書は、右から左に筋を読むのでは全くありません。だから、予感とも違うかも知れません。予感というと、その次に何がくるかを感じながら読む、ということですが、私は一文だけで十分で、予感どころか、はっきりとした世界が頭の中に広がって、風が吹き、水が流れ、動物たちは息をしていることに気づきます。だから予感ではないんです。それはどちらかというと確信であ理、はっきりとくっきりと世界であり、その世界が現実とは別に明らかに存在しているということが嬉しくなって、本なんかほっぽり出して、さっさとiMacの前にたちなさい、座りなさい、早く書こう、早く物語なんかじゃなくて筋でもない、早くその世界、その環境自体全部を書いちゃえ、と思っているので、なかなか落ち着いて本が読めないんです。でもむっちゃ占いのようには読んでいるはずです。なんといっても僕は本が好きです。本に囲まれているだけで、嬉しくて、馬鹿みたいに本を描きたくなってしまいます。読んでいる暇があったら原稿を書きたい。人の本は程々でいい。興味がないわけではありません。みんなのことは大好きです。

15. 小説が解決する問題


この質問集の中でも僕が坂口さんの作品を社会の話と結びつけて話している箇所がありますが、決して坂口さんの小説がそれだけで収まるわけではないことにもここで触れておきたいと思います。社会的な問題は、あえて小説で解決しなくても良い。解決のための方法を小説の外側に多く持っている坂口さんが書く作品からは、そのような姿勢が感じられます。経済的な問題は解決できる。他も含めて様々な問題が解決していった先にそれでも残る問いとは何なのか、これこそが小説で追及されているものではないでしょうか。当たり前だという回答が返ってくるかもしれないのですが、坂口さんが小説に向かい合う際に思っていること、小説でどこに向かっているのか、どこをみているのかについて聞いてみたいです。

 社会の話ですよね、僕はあんまり興味がないんですよね。どういう社会にする、みたいなことを考えようと全くしてないかも知れません。そんなこと話をしても仕方がないんだと思ってます。だって、元がおかしいんだから。社会とは、ある地面の上に発生します。僕が感じているのは、この地面がおかしくなっているということです。つまり、それは僕が小さい時に感じたこと、土地を所有し、誰かが占有し、勝手に使っている。お金を持っている人が家を建てて、お金がない人は家から追い出される。そのこと自体がおかしいと思っているので、この地面の上で社会の話を延々としたところで、同じことだと思います。自民党が〜とか、野党が〜とか、すみませんが全く関心がなく、社会福祉が〜とか、自殺問題が〜とかすら何にも関心がありません。元がおかしいのです。と、僕が感じているだけですが。他の人はおかしいと思っていないんだと思います。だから、僕がおかしいんだと思います。僕は選挙には行きませんから。妻が必死に投票している姿を見て、ついつい同情して投票しにいくことはありますが、書くことは、お前らは間違っている、としか書いたことがありません笑。妻、ごめん。まあ、いいんです。それで僕は新政府を作りました。水面下で勝手にやってます。中国でこれをやって本まで出版すると殺されるそうです。ロシアでこれをやると毒を盛られて死ぬそうです。ロシアと中国が好きです。こんな直接的に、感じた恐怖への抵抗を行動に起こす国は、素直でいいです。それに比べ、ヨーロッパはなんですか。人を監視し、殺しまくっていたのに、今や、なんだかそれを反省して、環境問題まで気にしちゃっているらしいです。自由の国らしいです。僕が新政府を作ったことを伝えると、素晴らしいとヨーロッパ人に言われました。助成金が出るからグラント申請しろって言われました。ザ・ヨーロッパって感じですね。芸術家ってことにしたいんでしょうね私のことを。申請するわけありません。ガチなんですから。ロシアと中国の方がマシです。アメリカは金を稼ぐしか道がありません。起業家ですよね!どんなものを開発してもいいんです。お金が稼げれば。最高ですね。そして、でっかくなったらたんまり金が稼げて、しっかり政府ともつるみます。あんな国で成功したくないですね。英語なんか使いたくもないですね。グローバル!バンザイ!私は熊本でいいです。ここが天国です。私は国を信用してません。元がおかしいんですから。なので、一番しょうもない国こそ、一番チャンスがある、と考えてます。ロシアと中国で活動すると即座に殺されます。ヨーロッパでは多額の助成金がもらえ、さらにノーベル賞の可能性も出てくるでしょういのっちの電話に関して、しかし、そうすることで芸術家として慈善家として取り込まれていきます。僕としてはこのしょうもない国、世界で一番しょうもない国の代表である日本こそ、一番脆弱で、やっつけやすい政府だと考えてます。えっ、みんな、日本が貧困化するとか不安感じてたりしないですよね、逆にぶっつぶれた方がいいと思ってますよね? あ、違いましたか。それは僕だけでしたか。社会は地面の上に発生します。元が狂っているので、現在、社会は存在してません。僕の認識ではそうです。そして、一番しょうもない国でこそ、穴が開けられます。僕の視点ではそれが日本です。日本という国では有名にならなければ、政治家にならなければいいんです。そうすれば暗殺されることもありません。監視体制は脆弱です。なぜならこれは僕の視点ですが、アメリカの奴隷なので、僕の父親はNTT、当時は電電公社でしたけど、当時から、まあアメリカの言いなりなわけです。アメリカは中国を監視したい、だから、僕は福岡の電電公社でアメリカ人がいたのを見てますが、彼らが電電公社を使って、いろんなものを作ってたわけです。電電公社は当時(1978年)からスカイプやってました。中国だけ見てますから、日本人は完全に無視されてます。日本人は馬鹿だと思ってます。英語もできないどうしようもないやつだと思われているので、とても好都合です。そんなわけで、僕が新政府を作ったと本を出版したのですが、本来で言うと、これは内乱罪なわけです。死刑です。中国とロシアは真面目な国ですから、そういう本を出版すると、すぐに捕まり、刑務所で不慮の事故で殺されます。しかし、日本では素敵なことに、余裕で出版できます。地下出版とかではありません。おかしなことに、日本有数の出版社である講談社から出ちゃいました。最高です。お金もたくさんもらいました。ありがとうございます。朝日新聞も馬鹿なんで、『坂口恭平、新政府を設立、初代内閣総理大臣に就任する』という見出しまでつけて記事にしてくれました。日本ってすごいと思いませんか? 僕には可能性しか感じられません。飯はまずいし野菜もまずいし魚はしょうもないのにハリボテみたいなホテルとかマンション立ち並んでそれが何億円もして給料安いのに、みんなまっすぐ東京に向かいます。日本政府も馬鹿なら、日本国民も大方馬鹿で、しっかりうまくいきました!何にも起きない国、日本。反乱が全く起きないことになってます。それでいいんです。そのままでいいんです。そのまま腐っていきましょう。完全に腐らないと、元がおかしいことが判明しないので。私が見るに、このように、世界のどこを探しても、日本ほど、気楽にいられる場所はありません。日本の東京以外ならどこでもいい感じがします。できるだけ離れておくこと、それが僕に課した唯一の方法でした。僕が選んだのは、九州熊本、僕が生まれた場所でもあります、明治政府に反乱を起こした人たちが住んでいた場所でもあります。オウム真理教という日本政府を潰そうとして失敗した教団が生まれた場所でもあります。おっかない場所です。興味深いことに、新政府を立ち上げたと僕が言って、笑う人がこの熊本では少なかったです。当然ばい、と言う人の方が多かった。ま、それもどうでもいいのですが。

 社会の話じゃない、小説の話なのに、ついつい、社会の話ばかりしているように思えるかもしれませんが、そうじゃなくて、社会など存在しないと僕が思っているということを言いたかっただけです。おそらく僕は狂っているのかもしれません。僕自身としてはとても落ち着き穏やかな気持ちで話しているのですが。言っていることは無茶苦茶です。もちろん僕もそう思われるだろうということは認識してますので、狂っていると言われても、ごもっともとしか思いません。まあ、口では小説と言ってますが、僕の中では小説、ではないんだと思います。それはどちらかというと、詩に近いのかもしれません。僕の認識ではどんな国も発生するときに、社会の枠組みなんか発生してません。そんなのはずっと後のことです。まず発生するときに、一人の人間が発生します。それは絶対に複数ではないと思います。一人の人間が発生する。そして、その一人の人間が、別の次元の世界をのぞいている。そして、その別の次元の世界をのぞいている様子を口にします。口にするのは、他の人には最初は、訳のわからないもの、話が繋がらないもの、知っている言葉を使っているが、組み合わせがおかしいもの、狂っているもの、出鱈目なものに映ります。感じられます。だから、肯定も否定もできないものとして、それが逆に、避けたいものとして浮かび上がってくるでしょう。なので、その人はいつも一人です。無視され、川辺に追いやられて、その前の社会から弾かれてしまうでしょう。だから一人です。いつも一人です。ですが、別の次元の世界が見えてます。見えているものをそのまま描写します。それが詩です。でも最初は詩だとは感じられないでしょう。出鱈目だと笑われるでしょう。ですが、その一人は殺されない限りは永遠にやめません。その描写は次第に量を重ね、一つの世界として、少しずつ以前の社会に形を見せ始めるでしょう。そして、それは少しずつ詩という魂に、肉片や骨がまとわりつき、神話となっていくのかもしれません。そして、神話が完成したとき、それは一つの共同体にとっての重要な新しい時空間として、人々の前にようやく生き物として姿を現します。そして、共同体はその一人が死んだのちにクニを作るかもしれません。そのクニは一つの社会を形成するでしょう。しかし、僕は生きてますので、そのクニについてはあんまり考えません。僕がやろうとしているのはこのような一連の流れを、この世界一しょうもない脆弱な日本で延々と死ぬまで行動してみようと思っているのです。だから、社会とか小説とかそういう区別ではないのです。私はまず誰からも笑われながら詩を歌うでしょう。歌っているつもりです今も。もちろん、しっかり笑われてます。大丈夫です。今のところ、台本通りなはずです。そして、私はその詩を重ねて時空間を形成しようと、今年からさらに、行動の質を変えているつもりです。次に僕が向かっているのが神話の制作です。そして、私は晩年一つの共同体を形成するでしょう。どうせ僕が死ねばクニになります。そして、また僕が死んだらクソな社会が出来上がるのです。それが素敵な生き物の循環なんでしょう!

16. 小説が迫る現実


小説の魅力のひとつに、たとえそれが起こりえないようなことであっても、いちど書いてしまえば起こったことになるという小説内現実の効果があると思います。ガルシア=マルケスに接続のできる文脈です。ではそのような小説という土壌において何を書くのか。批評の場合、狙って何かを書きにいくと、その結果は現実よりも小さなものにまとまってしまうのではないかという感覚があります。社会の言葉を使っているのに、むしろ普遍性からも離れていくかのような感覚です(もちろん普遍的な説得力を持つことは大事になるのですが…)。一方で、小説においては感じたものをそのまま提出できるというか、坂口さんのなかで起こっている反応がそのまま外に出る。面白いことに、その小説の言葉の方が現実を捉えている。だから小説には2重の構造があって、そもそも書けば現実になるのだけど、書かれるのを待っているものもまた現実なのかなと。そして、この構造に安易に頼ることなく、いかに現実を現実として出すことにひたすらこだわれるかが重要だと思っています。小説において現実を書くために意識されていることはありますでしょうか。


答:


 さっき、ガルシアマルケスについて、読書の項目で、同じようなことを書いたかもしれません。とにかく自分が考えていることを書くと、自分から出ることができないんで、自分が考えていることを書かない方が得策です。しかし、自分が考えないで書く、これは難しいです。人間は考えてしまいます。考えたことを書こうとしてしまいます。考えないで書くのはどういうことでしょうか。自動筆記のようによくわからないことを書けばいいのでしょうか。それも違う気がします。それで僕は何度もここで書いてきているように、とにかく、今、目の前に見えているものをどこにも行かずに調べもせず、ネットも検索ただひたすら書いてみるという実験をしています。誰かが使っている言葉は極力使いたくありません。でもそうやっていると、コミュニケーションが取れません。それでもいいのですが、別にコミュニケーションを取りたくないわけではありません、僕としてはできるだけリアリティ、真実味があることを書きたい、それしか書きたくない、心の中にあるものを、なんにも着色せずに、そのまんま出したい、いつもそう考えてますし、そうやってきたし、マルケスの、現地に行かずに、そのまま見えているのを書いた、百年の孤独の執筆方法についてのインタビューは、新しい発見ではなかったですが、自分がやってきたことのまんまでいいんだ、と自信にはなりました。小説には二重の構造がある、書けば現実になる、書かれるのを待っているのも現実になる。しかし、僕は書けば現実になるとは全く思っていないかもしれません。書いても、それが嘘なら、嘘だとわかってしまうからです。マルケスの小説の中で、僕はそう感じるところがあります。だから、マルケスにハマることができないんでしょう。少し遊んでいるように感じてしまいます。切実じゃないようなところがある。そういう意味では、マルケスよりも、僕としてはフアンルルフォのペドロパラモ、そして短編集の燃える平原、これらの著作の方が参考になります。この2冊は嘘じゃない感じがします。現実、と言っても自分が感じた現実なわけです。それこそ、それぞれの人に現実というものがありますから、一つの現実というものはないわけです。なんというか、僕の感触としては、マルケスは一つの現実というものがある、という認識でそこからズレているものを書いている、という感触があります。彼が新聞記者だったことも影響あるのでしょうか。意外と、奥深い人ではないな、という感じがあります。百年の孤独にたいした影響を受けていないのでそう思うのかもしれませんが。フアン・ルルフォはいくつもの現実があるということをしっかり感じていると思ってます。つまり、小説を読むと、書いてある内容というよりも、僕としてはその人の「現実とは何か」ということの体感的な思考を感じるようです。それは複数で多面的で多次元で多時間で多空間であると感じると、僕はワクワクします。そうだよな、そんなもんじゃないよね、僕が自分で考えているくらいなもんじゃなくて、もっと複雑で心地良いよね、と思って嬉しくなって、自分の時空間、自分の現実も広がるような思いがします。実際に広がります。そういう経験が面白いと思ってます。カフカもそうでしょう。ベケットもそうだし、彼ら二人はやっぱり現実に関しての深い考察があるように感じます。同時にそれでも思うのは、もっと行かなきゃダメなんじゃないか、ということです。どうしても、社会の枠組みの中に収まってしまっているような、もちろん、僕もまだまだです。僕もまだ自分が感じている本当の真実味のある現実に書き迫ることができていないなと思います。悔しくはありませんが。これからどんどんやっていけばいいんです。もっとやっていきたいです。批評だろうが小説だろうが、特に違いはないと思います。エッセイだろうがなんだろうがいいんです。自分が感じている現実を、それはきっと複数のはずです、そこには目の前の社会を生み出した現実もあれば、私の心の中の現実もあるし、記憶の中の現実もあれば、遠く先を見て感じる現実もあるし、それは今の今の今、私が感じている全ての現実だと思っているので、それらを全部ひっくるめて、なんか書けないか、と思っていると嬉しくなります。書きたいんですから当然です。だから、自分の作品とかどうでもいい。終わらなくてもなんでもいい、読んでもらえなくてももはやどうでもいい、そういうことじゃなくて、もっともっと現実っぽく書きたい。とはいつも思ってます。それが僕がやりたいことです。40冊書いてもまだ書き終えることができません。twitterで毎日毎日書いてもまだまだ足りません。何十万枚書いてもだめなら何百万枚書いても無駄だということではなく、何千万枚も書きたいなと思います。だから、一冊の本では収まらないはずですし、そりゃ、カフカの城とか、なんかそういう傑作みたいなものは切断面として生まれるとは思いますよ、でもあくまでも切断面ですから、そういうことじゃなくて、もっともっと広く、もっと遠くまで、そうやって、今の目の前のむちゃんこ隣のこの皮膚と触れてる今の今の現実を、なんとか遠い未来書いて見たい、死ぬ前に書いたと思いたい、でもそれってもう文章だけじゃないじゃないですか? だからパステル画も毎日描いてます。音楽だって、まだまだ足りませんよ。そうやって考えると、もっと作れるじゃないですか。そうやって自分を盛り立てているってことでもあると思うんですけど、もう文章とか絵とかじゃなくて、もう生きているその生活そのもの、それこそ、自分そのものが、その複数に入り乱れて時間も空間も食べたり飲んだりして咀嚼して栄養だけ抜き取って排泄したところにある地面にまた芽が出て膨らんで花が咲いてその花を見て昔のことを思い出してる女性のうなじとか見ながらさらに太古の記憶をふっと眼前に体験するみたいな状態のまま、生きていきたいです。そうやって現実を「書こう」とするな、現実を生きよ、といつも思ってますよ。

17. 日記


今回自著の中でカフカに触れたことから、日記について考えるようになりました。カフカもかなりの量の日記を残していますが、坂口さんの場合はさらに膨大です。小説以外に日記や断片的なメモの中から重要な記述が見つかることもカフカの特徴なのですが、このあたりにも親和性があるかと思います。坂口さんにも(これでもまだ)本の形になっていない断片がたくさんありますよね。小説の枠組みで書きたいこと、日記の枠組みで書きたいこと、それぞれに違いがあることはもちろんだと思います。日記においては「何を書くか」はそれほど意識しなくても良いのかもしれません。小説と比較した際、日記の中にどれだけ坂口さんの思想が色濃く入り込むものなのだろうと、その塩梅が気になりました。テキストとしての比重はどのようにお考えですか。

答:

 今ではたくさんの本を書いてますが、僕はもともと一切文章を書いたことがありませんでした。小学生のとき、しばらく坂口恭平日日新聞という、別に毎日書いていたわけではありませんが、学級新聞とは別に、僕は自分で原稿を書いて、連載小説を書いて、挿絵も書いて、小学校の事務室で印刷して、同じクラスのみんなに配っていたことはありますが、本はほとんど読んでおらず、自分で文章を書いてるみたいなこともやったことがありませんでした。中学生になっても書いたことはありません。女の子と交換日記みたいなものをやろうとしましたが、手紙をもらうのは好きでも、手紙を書いた記憶はほとんどありません。高校生になって村上春樹を読んだ時、僕は自分でも小説が書ける、という謎の確信はありましたが、実際に書くことはしませんでした。字は綺麗でしたが、文章にしようとはしなかったようです。大学生に入ると、レポートを出す機会があり、それで少しだけ原稿を書いたりはしましたが、その頃には手帳に何か思いついたことを書いたり描いたりしてはいましたが、文章ではありませんでした。論文も出来上がったのはのちに0円ハウスの元になる本を手作りで作るのですが、そこでも文章はキャプションのみで、長い文章は全く書いていません。大学を卒業しても何にも書かないままでしたが、0円ハウスを出す、ということが決まってから、僕は当時はパソコンを持っていなかったので、それは2004年のことですが、高円寺に住んでいて、駅近くのインターネットカフェへ行き、ブログをはじめます。そして、毎日、日記を書き始めました。それは今では『坂口恭平のぼうけん』という本になってます。2004年3月25日から書き始めました。その時はカフカの日記のことは何にも知りませんでした。本を出すことは出すが、誰も僕のことは知らないだろうから、自分を知ってもらおうと思ったことは確かですが、それよりも僕がブログを書き始めて思い出したのは、幼少の頃に、心の街の中で書いていた瓦版のことでした。書きながら、これは知っている感覚だと思いました。あ、あの頃から書き続けている瓦版だこれは、と気づいて嬉しくなって、その日から僕は、体調が悪い時は休みましたが、2011年までほぼ毎日ずっと日記を書き続けてます。しかも2011年3月11日からそれはtwitterに移行し、今も続いてます。もう20年も書いてます。カフカは14年しか書いていないので、もうそれよりもずっと長く書き続けてます。僕にとっては小説と日記とエッセイと三つに分かれてはいません。すべて日記という感じです。僕が書いているのは、その時、その日に、その瞬間に感じたことです。小説も、その日その日に書いてます。書いたものを後日書き直すという作業をほとんどしたことがありません。小説ですら、後日推敲することはあっても、基本的な流れは変えたことはありません。文章を並べ替えしたことがないのです。誤字脱字を直すくらいです。理由は、前日の僕は現在の僕と全く違う存在なので、敬意を払って変えていないのです。他人だと思ってます。他人の文章を今の僕が勝手に改変することはできません。つまり、僕は文章の構成よりも、何よりも大事にしているのが、その時の僕が書いたことを変に手を入れないということです。小説としてまとまりがなくなるとか考えていません。そういう意味では作品という結晶を作り上げようという感覚がそもそもないのかもしれません。つまり、小説も僕の中では日記というものに近いような気がします。今、出版はされてませんが、僕の手元に2000枚の『カワチ』という長編小説があるのですが、これは100日間、毎日20枚の小説を書き続けたんです。その時は、日記は書きません、その時は毎朝、僕は起きると、すぐに、何をするよりも先に、書斎へいき、小説を書き始めます。何度も言うように、小説といっても、僕の場合は主人公がいて、物語があり、展開があり、終わりがあるみたいな感じでは全く書けなくて、書けないと言いますか、それは僕の言葉では書いていることにはならなくて、それは作っているという感じで、書く、というのは僕にとっては、作り上げるとは違うようです。僕にとって書くということは、日記なんです。その日の記録。その日に見たものの記録。朝、僕はiMacの前に座って、ちょこっと目を瞑って、自分に見えている世界を、ただ描写します。それだけなんです。見えなかったら、見えないまま書くんです。モヤがかかっていたらそのままで、名前も分からなければ分からないと、登場人物もコロコロ変わりますし、登場人物の性格も一定ではなく、男だったのが女になったり、死んだり、生きたり、時間も進んだり遡ったり、とにかく見えているままに書くのです。それを僕は日記だと思ってます。僕の主張は入ってない、僕はそこにいなかったりする、そこを見ている話し手になる人物も僕じゃなかったりします。そういうことにできるだけ忠実にやっていく。それが僕にとっての書く、ということです。だから思想は入っていない、とは言えないかもしれません。その時その時にその見えている世界の中で出会った人々の思想は入り込んできていると思うからです。それにしても日記はとても僕に合っている。それは突然、違うことを書いても、問題がないとみんなが思ってくれる土壌だからですかね、一日で、ただ1日という時間の区切りだけで、ブチ切ることができる、繋がってなくても問題がない、というか、繋がっていないということで繋がっている。そういう日記のあり方は僕の全ての制作物に影響を与えていると思います。最初に書いた文章でも、起きた出来事だけでなく、その時に聞いていた音楽の名前も記録してます。かつ、日記は何のために書いているのか、というと、ツイログについても書きましたが、ほとんど振り返ることのない僕にとっての重要なアーカイブとしてです。アーカイブとしてのみ機能しているような気もしますが、いや、それだけじゃないかな、日記の中で、幾つもの要素を幾つもの方向性で、多面的に、時には平面的に、表面だけの感じ、深みのある感じ、奥行きの違い、みたいなものも日記だと、平易な文章で表すことができる。平易であるのは僕にとってとても重要です。平易というのは、みんなが使う言葉って感じです。高校生くらいの常用漢字だけでやっていく。その理由は、それでビートを刻みながら、上物に色々乗っけていく、で、平易な言葉はみんながある程度、使い倒しているので、言葉に疑問がないんですね、疑問がないために、僕がその言葉を全く違う角度から焦点を当てて使っていても、読んでくれるんです。そうやって、また別の次元の音楽に繋げていく、みたいなことがやりやすい。小説みたいに銘打ってしまうと、読む人が最初から、構えちゃうので、言葉が自由に動きにくくなる。意味を読み取ろうとしてしまうわけです。こっちは意味なんか示したくないわけですよ。音楽の意味、なんか言っても、ちゃんちゃらおかしいですから、なんか心地よいとか、なんか気持ち良い、なんか心が動く、くらいで十分なんです。そういう土壌として、日記が活きてきます。それで、どんなことでも書いていい、唐突でも、時間軸だけで、みんな疑問に思わずつい読んじゃう。だいたい、どんなテキストもこうやって僕は作ってます。思想が入っているかということでは、つまり、こういうことをしてること自体が僕の思想ってことなんですかね、そう考えると、思想は全体に染み渡ってますが、僕は何を書こうか、これは書かない、これを書く、みたいな選別は全くしていないような気がします。わかってないこと、見えていないことは書かない、見えているものは書けるだけ書く、結局、書かなかったものは、めんどくさくて書けなかったものでしかないです。それでも書けなかったものがありえないくらいあるんですよね。そういうのをできるだけ舐め回すように書きたいんです。だから日記として、もう20年間、ある意味では1日も休まず書いているんでしょう。まだまだ書き足りないです。あと45年は毎日書くのでしょう。書きたい感覚があります。その感覚をそのまま書き表せたことはありません。だから、毎日やります。

18. 翻訳


坂口さんは今後実際の翻訳のお仕事はされないのでしょうか。坂口さんの「憑依」的な現象について考えていると、坂口さんの翻訳はとても面白そうというか、読んでみたいと強く思いました。実際の、と前につけたのはすでに小説の形で翻訳は存在しているからです。坂口さんの言葉でたとえば『千のプラトー』が翻訳されていると考えることができる。そういった体験に対して、実際の翻訳はかなりの縛り、制限を坂口さんに課してしまうものなのかなとは思います。町田康さんが『口訳 古事記』を書いたように、坂口さんの口訳古典があったら面白そうです(読んでみたいとか面白そうとかは禁句ですよね、自分ではじめればいいのですから)。それはいま気軽に言葉にしてしまっている僕の勝手な意見であり申し訳ないのですが、石牟礼道子さんの影響も含め、坂口さんにとって「訳すこと」というのは大きな役割を持つように思えます。坂口さんを語る上で、様々なレベルにおける「翻訳」性は見過ごすことができないと思います。

答:

 翻訳については、もとが村上春樹育ちですので、やってみたいなとは思うんですよね。村上春樹繋がりで、柴田元幸さんも可愛がってくれて、僕にMONKEYという雑誌にいつも短編を書いてみて、と声をかけてくれます。毎号、僕の短編と絵を掲載してくれます。しかも、驚くべきことに、柴田さんは僕が書いた短編をほどオンタイムで、サムマリッサさんに翻訳を頼んでくれます。これは大変なことだと思います。サムさんの翻訳がまた素晴らしく、そのことについてはMONKEY第31号の「読書」特集での柴田さんがローランドケルツさんにインタビューした記事を読んでもらえたらと思ってます。このように僕の原稿はとても素晴らしい翻訳者に恵まれていて、短編小説は、ほぼ全て、鬱の時に書くのですが、鬱の時に、漂っている空間世界をそのまんま書いてます、これが僕の中で唯一オンタイムで翻訳されて英語圏の人が読めている、という現状がとても興味深いです。僕はどんなふうに映っているのでしょうか。そういう楽しい仕掛けを企ててくれる柴田さんには感謝してますし、いつか、柴田さんに、僕が英語圏の本を日本語に翻訳した原稿を送ってみたい、なんてことを思っていたりします。英語の本で翻訳しようとしたことはないことはないんです。僕が持っている英語の本は2冊だけで、一冊がケルアックの『地下街の人々』です。これはドゥルーズの批評と臨床で、この地下街の人々についての言及があり、興味を持って、新潮文庫で翻訳があるにはありますが、自分でもやってみようと、しかも薄い本ですので、できるかなあ、なんて思ってましたが、やってみたら、退屈しちゃって、やめました。読んでいたら、やっぱり自分で書こうと思ってしまうからです。あとはデビット・フォスターウォレスというまさに僕と今、同い年にあたる46歳で自殺してしまった、僕の好きな小説家の最大最長のとんでもない長編小説『INIFINIT JEST』を「永遠にバカ」というタイトルで、翻訳しようとしましたが、これも途中で飽きちゃってやめました。でもまたやってみようかな、とちょっと思いました。でも、今は時間があると、すぐ自分の原稿を書きたくなってしまうので、読書自体、なかなかできません。それが本は読めるようになったんです最近。そのことについては、書きましたかね。書いていないかもしれません。またあとで書きましょう。それで、もう一つは古典の現代語訳ですが、これも本当はやってみたいんですが、方丈記とか、道元の正法眼蔵とか、をやってみたいと思ってますが、何かきっかけがないと難しそうですが、やったら本になると思うと、やればいいのにな、なんて思いますが、やっぱり今は、翻訳という意味では自分の体の翻訳をしたい、というのが一番強いです。この質問箱も、そういう意味で、自分の体の記憶の心の経験の翻訳、という意味合いが強いかもしれません。あ、思い出しました、一つ、僕は翻訳をやっていたのを思い出しました。というか、これまでやってきた翻訳をちょっと、ファイルを開いてみましょう。書いて以来、全く振り返っていない原稿です。楽しみになってきました。ファイルを探します。

ファイルが見つかりました。まずはデビット・フォスター・ウォレスの「永遠にバカ」の翻訳をお送りします。


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 『永遠にバカ』  デビット・フォスター・ウォレス  翻訳:坂口恭平


     1 うれしかった一年    


 ぼくは職員室にいて、名前も知らない何人かの変な顔と体に囲まれたまま、椅子にすわっていた。猫背だってのに、まっすぐ伸びた固い背もたれに、背骨をおしつけた。十一月のこのクソ暑い日を忘れるくらい寒い部屋で、豪華な板張りに二重窓、外のチンケな受付からは想像もつかない場所に、チャールズおっちゃんとミスター・デリント、そしてぼくが座っていた。ここまで来るのに、ずいぶん手間取った。  

 それでもぼくは今、ここにいる。   

 しかめつらした三人組が、アリゾナの午後の光でテカテカになったマツの会議テーブルを横切ると、夏用ジャケットを脱ぎ、ウィンザーノットで結んだネクタイを緩めた。  

 学長と教務部長と体育学部長らしいが、ぼくは誰が誰なのかさっぱりわからない。  

 ぼくはちょっと偏ってて、楽しそうな人って思われたり、笑顔を見せることすらできないんだけど、このときはできるだけ普通に見えるようにしていたし、むしろ感じよくしていたと思う。  

 ぼくは慎重に脚を組むと、ズボンの膝のところで手を合わせた。交差した両手の指はXの文字に見え、これから身に起こることを映し出しているように感じさせた。面接には他に人事課の職員もいて(それはつまり大学の創立委員であり、テニスチームのコーチでもあったぼくの隣にいるミスター・デリントなのだが)、さらに他にも、ぼんやりとしか見えないが、立ったり、座ったりを繰り返す人たちがいる。ミスター・デリントは小銭をじゃらじゃら鳴らしながら学部長たちと向かい合っていた。それはさっきから匂う、この部屋の臭さを追っ払うための仕草に思えた。ただでもらった高性能トラクション・ソール付きのナイキスニーカーを履いたぼくの右にいる彼は、ぼくの腹違いの兄の母から借りてきたローファーをどうにか履いてお願いした通りに座ってはいたが、彼のこの大学でのテニスコーチとしての地位と同じように揺れ動いていた。  

 向かって左の黄ばんだ学部長は作り笑いをしながらそり返っている。なのに、足元を見ると、靴を踏みならしていて、どうせ協力なんかする気ないんだろう。最近わかってきたことだが、こういうやつは、なんでもやってあげるとか言いながら、何をお願いしても「忘れてた」とか言って返事しないまま放っとくんだ。真ん中に座ってる毛むくじゃらのライオンみたいなやつも、マークシートにあれこれ言いながら笑顔で目を通している。


「あなたがハロルド・インカンデンザさんですね。十八歳。あと一ヶ月ほどで高校を卒業し、マサチューセッツ州アンフィールドにあるアンフィールド・テニス・アカデミーの寄宿学校に入学予定とのこと」  


 ライオンのメガネはほぼ長方形で、上と下の縁だけ少し丸い。


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冒頭の冒頭しかできてませんが、今読み返すと、いい感じでした。面白い!もっと読みたくなりますね。さて、次は、ケルアックの地下街の人々の翻訳です。

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The Subterraneans

地下街の人びと

ジャック・ケルアック


 昔、僕は若かった。何をやりたいのかはっきりわかってた。頭はいつも冴えてて、こんな前置きなんかせずにどんなことでも細かく全てを一気に語ることができた。とは言いつつ、これは自信がなくて自己中心的な男の物語でもあるから楽しい話にはならないと思う。ま、とりあえず話をはじめよう。本当に起こったことだけを語るのが僕のやり方だ。ある生ぬるい夏の夜、あの子はジュリアン・アレグザンダーと一緒に車のフェンダーに腰掛けてた。ジュリアン・アレグザンダー。そう、まずはサンフランシスコに住む天使の話からはじめることにしよう。

 ジュリアン・アレグザンダーは地下街の人びとの中の天使だ。「地下街の人びと」ってのは僕の友だちの詩人アダム・ムーラッドがつけた名前。「地下街の人びとは口下手だけど物がわかってる人たちで、古臭くなくて、知的でエズラ・パウンドのことも知り尽くしているが、見せつけることもせずいつも静かで、キリストみたいだ」とアダム・ムーラッドは言った。ジュリアンは確かにキリストに似てる。僕はラリー・オハラと通りを歩いていた。興奮と狂気のサンフランシスコ生活を送っている間中ずっと一緒にいる古い飲み友だちだ。僕は酔っ払うといつもニコニコ愛想振りまきながら友だちに酒をたかってしまう。若い頃からそんな悪い習慣身につけちゃダメだ、なんて誰も言わなかった。でもたぶん僕のたかり癖には気づいてたと思うけど。みんな僕のことを気に入ってくれてた。「君のガソリンを求めてみんながやってくる。たかられてるのは君かもよ」サムはそんな感じのことを言ってた。で、ラリーオハラはいつも僕によくしてくれた。この頭のいかれた男はアイルランド生まれの若いビジネスマンで、彼がやってる本屋の奥にはバルザック風の書斎があり、そこでハッパを吸いながら、ありし日の偉大なるベイシー楽団やチューベリー楽団たちについて語り合ったもんだ。彼についてはあとでまた話そう。というかあの子は彼とも付き合っていた。というか、みんなと付き合ってた。なぜなら僕が不安定でちっとも落ち着かず心がいろんな状態に移ろっていたのを知ってたからだろう。僕は自分の悩みや苦しみを打ち明けたことがなかった。ほっとくとどこまでも話が広がっていくけど、どこまで話したっけ、そうだ、そんなことを思い出そうとしていたんじゃなくて、僕はまっすぐ家に帰って、家といっても四方から壁が押し寄せてきそうな憂鬱な狭い部屋で、サラ・ヴォーンとゲリーマリガンのラジオの番組でも聴こうとしていたときだった。彼らはモンゴメリー通りの「黒仮面」って名前のバーの前に停めた車のフェンダー、ちょうど前輪の上あたりに座っていた。ジュリアン・アレグザンダーは若いキリストみたいに痩せて髭もじゃで黙ってる。その風貌はアダムだけでなくおそらく君だって終末に現れた天使とか地下街の聖者だと口にするはずだ。確かに彼は今この瞬間、完全なスターだった。そして、あの子、マードゥ・フォックス、僕が一番最初に角にあるダンテ・バーで彼女の顔を見たとき「まじすげえ、絶対にあのかわいい子とつきあわなくっちゃ」と神に誓った。彼女が黒人だったってのも大きい。しかも彼女は僕の妹が小さかった頃の友人リタ・サヴェジと同じ顔をしてた。当時の僕は彼女のことをあれこれいつも妄想してて、特にトイレに座ったときは自分の股間を見ながら、彼女の美しい唇とネイティヴアメリカンみたいに優しく締まってる高い頬骨を思い浮かべていた。リタよりももっと甘くて黒い顔、そして純真な小さな目はいつも情熱的に光り輝いてるマードゥは真面目な顔でとんでもない言葉をロス・ウォーレンシュタイン(ジュリアンの友だちだ)に向かってテーブルに深くもたれかかりながら話していた。「僕は彼女と付き合うんだ」僕は彼女の陽気でセクシーな目を見つめようとした。彼女は一度も気づいてこっちを見ることもなければ、僕なんか視界にすら入ってなかったと思う。



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 これもなんか良くないすか?もっと読みたい。確かに僕は翻訳をした方がいいかもしれません。調子に乗って、柴田さんに送ってみようと思います。世界で一番すごい人にメールを自信を持って送ることができる。おそれもなしに。それが僕の長所です。さて、柴田さんにメールを送ってみましょう。送ってみました。


 柴田さんお久しぶりです。 ふと、冒頭だけですが、翻訳してみました。 デビットフォスターウォレスのINIFINITE JESTとケルアックの地下街の人々です。 どうですかね? こんな世界一の翻訳者に読んでもらうなんて厚かましいですが、 翻訳やってみたらいいですかね、向いてるかどうか、単刀直入に言ってください! 柴田さんだけ僕に小説を書けと言ってくれるので、つい甘えてメール送っちゃいました。 よろしくお願いします。  坂口恭平


 さてどうなるでしょうかね。返事が楽しみです。そして、もう一つ、僕は南方熊楠の現代語訳をやろうとしてます。それもおそらくどこかにファイルがあるので、見つけてきます、今から行ってきます。


 ありました。すぐにコピペしてみます。


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熊楠自伝


大体、おれのことを勘違いしているやつばかりで、困る。どいつもこいつも通り一遍な見方、おれの一つの面を、いかにも観察しきったというような気取った名文風の文字で書き連ね、ただの奇人であると世の中に広めてやがって。馬鹿野郎。迷惑な話だ。もうこうなったら、自分で書く。はっきり言っとくが、おれは伝記に書かれてあるような、変人ではない。あれは自称ジャーナリストたちが書いたデタラメである。我慢ならんおれは、とにかく今生きる人間に乗り移ってでも、ちゃんと自分のことを説明せんといかんと思った。そういうわけで誰でもよかった。生きている人間ならば、誰でも。幸い、一人のよくわからぬ人間を見つけた。しかも無駄な教養を身につけていない正真正銘の素直な阿呆だ。しかも、何もすることがなくて退屈なのだろうか、おれが乗り移っても文句一つ言わず、やるっていうのである。頭の中を調べたが、本当に空っぽで、逆にこちらが不安になってしまった。こんな空っぽな状態で、生きているってのは一体、どんな気持ちなのか、少し調べてみたくなってしまったくらいだ。しかし、そんなことをやっていて、いつあちらのほうへ連れていかれるかわからん。とにかくおれは、こいつの体を使って、おれのことを書いてみることにする。自伝なんてものは本当につまらんと思う。しかし、誤解され続けるのもつまらん。いつか、おれのことをちゃんと理解してくれるやつが現れると思っていたが、いつまでたっても、自由にゲロを吐いただの、幽霊と喋れただの、サーカス団で恋文代筆してただの、おれが吹いた法螺ばっかり特集し続けやがって、本来、おれが考えていたことなんか、誰一人として、探ろうとしておらん。なんだか研究書みたいなものもたくさん出てるらしいが、おれを研究してどうするんだ。おれは研究対象にはならん。研究しちゃダメなんだ。おれは一つの装置みたいなもんで、体に装着して、それでもって思考し、自由に現実を歩けるようにならんとダメだ。そのためにいろんなことを書き残しておるんだが、どうも研究者っちゅうもんは、頭でっかちでいかん。生前、会っておったら、絶対、むかついてゲロを吐いてしまいそうなやつばっかり墓の周りをうろうろしている。というわけで、今からおれのことを書きます。


 おれは慶応3年4月15日和歌山市に生まれた。親父は日高郡に今も30軒ほどしかない、とにかく寂れた村の庄屋の次男だった。13歳のとき、こんな村の庄屋になってもしょうがないと思い立ち、御坊町というところの金持ちの家の丁稚奉公に出る。力が弱い親父は、沢庵をもってこいと言われると、夜中ふんどしを解いて、梁にかけて、漬物石を動かし持っていったそうだ。その後、和歌山市に出てきて、清水という家で長い間、番頭として店を仕切り、主人が死ぬとその幼子をしっかりと守り、成人すると南方という家の入婿となった。南方家は雑賀屋といい、今も雑賀屋町といい、近頃まで和歌山監獄署があったその辺りが昔の雑賀屋の家だった。おれはそこで生まれた。


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これも面白くないですか? もっとやった方がいいかもしれません。南方曼荼羅の翻訳もありますよ。


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南方曼陀羅(土宜法竜書簡より)



意訳 坂口恭平





 子分である法竜コメムシくんへ                      

  



                                 金粟如来第三仏 南方熊楠より



 不思議なことが起きると、人は不思議だと言う。しかし不思議って一体なんだ。おれはいつもそう考える。不思議とは、この現実の中にあらわれる別の場所や時間なのではないか。そんなことを言ったら、この目の前の現実もまた不思議だ。この世界は次の五つの不思議で成り立っている。


 1 物不思議

 2 心不思議

 3 事不思議

 4 理不思議

 5 大不思議


 まず物不思議についてだが、これはつまり科学が解明しようとしてきた領域のことだ。今日、物不思議についてはあらかた片付いていることになってる。しかし、法則とか原理とかって大袈裟に言ってるが、実際のところは、ただ不思議を解剖して、順番通りにざっと並べているだけだ。

 心不思議とは文字通り、心の世界のことである。心理学って学問があるが、あれは脳や感覚器官から離れずに研究しているので、物不思議と変わらない。つまり、心ばかりの不思議についての学問というものはいまだ存在していない。坂口恭平だけが研究中である。

 現在、どうしようもないことに、物と心をバラバラに研究している者しかいない。そんなことだから、不思議だなあ、と馬鹿みたいにただぽかんとするだけになるのである。不思議だと感じた時は、本当は現実とは別の、見えなかろうが、実在する、別の世界に触れている。常に、物と心は交じり合っているのである。バラバラで存在していることなど一度もないのであって、おれはいつも同時に全てを感じているのだから、分けて考えることなく、いつも同時に全てを考えている。物と心が交じり合うとき、事が起きる。それが事不思議である。そこにも世界があるってことだ。

 事不思議については、数学者や論理学者たちによって今も研究が進行中である。ド・モールガン、ブールという二人の学者は数学、論理学の両面から精緻な研究を行っているが、悲しいかな、目の前の手柄に目が眩んでおり、うまくいっているとは言い難い。よって、事不思議もほとんど明らかになっていない。

 そういえばおれは一昨日からずっと眠っていない。イギリスに急いで送らないといけない論文書いてて、これがまた長文で、直してたら、また書き足したくなっちゃって、書きたいことを覚えておいて、あとで書くみたいなことが全然できなくて、書いている時にしか浮かばないもんだから、眠らずに書くしかない。三日も寝ずに生きていられるのは変だと思うやつもいるかもしれないが、前田正名氏なんかもこの徹夜の流儀を語ってたことがあった。寝ずに書き続けられる自分をすごいなと思ってはいるが、そもそもこの手紙を読んで理解できるやつはあんた以外にいない。正直言うと、さすがに今は眠い。でもおれは馬みたいに一回休むと、なかなか起きないから、濃い茶を飲んでどうにか書き終えたい。九ヶ国語で書いてるから、精神弱ってて、誤字脱字もあると思うから、見つけたらすぐ聞き返してね、すぐ答えるから。

 去年、パリで話したけど、易経とか禅の公案なんかは、粗くはあるけど、おれが書いてきたような不思議についての思考の跡が残っているから、感心するよ。

 さてさて、物心事の上に理不思議ってのがある。これはちょっと今は言わない方がいいかな。さっきも書いたけど、精神が疲れてるからたぶんうまく言い表せないから。


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 いいじゃん、僕、翻訳できてますね。これ。もっとやったらいいと思います。僕は翻訳が好きです。多分向いてます。なぜなら、その人の声が聞こえてくるからでしょう。僕は声を聞くだけで、自分がその人にその人そのものになれます。古典現代語訳もできるし英語の翻訳もできるし、そういうことが好きで、僕じゃない自分になれるのも楽しいし、というか、自分じゃない人になっているのではなく、その人の中に含まれている、僕の成分を見つける感覚です。その感覚で、僕の成分があると感知した作家や芸術家や哲学者はどこまでも、僕はかけます。その人に成り代わっているのではありません。それは嘘の感覚だと思います。そうじゃなくて、憑依などないのです。そうじゃなくて、その人の、死んでしまった人の、中に、自分自身の成分を見つける、その研究者、科学者のつもりです。熊楠によると、僕は誰もまだ手をつけたことのない心の科学者らしいです。そういうことを言ってくれる熊楠がカッコ良すぎて、でも熊楠は生きている僕に、今生きていることに嫉妬しているそうです。いいなああ、今、生きてるのはいいなあ、と言ってます。熊楠のためにも僕は頑張りたいなと思ってます。

19. 風景


『現実宿り』では、現実の時空が少しずつ歪んでいくような体験が描写されているかと思います。それは「雨宿り」の経験に重ねられる。軒先に逃げ込んだ瞬間、外の雨も、からだについた雨粒も、何か温度を持った別のもののように感じられてくる。そのようにして時空が変化する体験がたしかにあります。そしてそれについて考えることは視界を、風景を引き連れてくる。自分が感じている時間の風景と他者が感じている時間の風景、その2つがあったとして、描写の際にそれぞれに変化をつけるために意識されていることはあるのでしょうか。それとも、時空の歪みは人間誰しもがある程度似たような経験の形で持つことができていると考えますか。

 答:

 他者が感じている時間を、僕は書くことができません。できるのは、自分が感じている時空間だけで、それは他人とは全く違うものだと感じてます。だから、他者が感じている時間を想像して書いたところでそれはハリボテの世界にしかならないのではないかと思ってます。勝手に想像して書かない、勝手に他人はこう感じているんじゃないかと勘違いしないようにしていこうと常に思ってます。僕が一人で特異な状態であると感じているわけではありません。そういう自分に対する特別意識はないつもりです。でも明らかに僕は他人と違っている。そして他人もそれぞれ明らかに違っている。僕にできることは、とにかく自分が感じていることに忠実にやってみるということです。それでも、勝手に想像してしまうことが多いです。勝手に想像して、勝手に言葉を使ってしまう。空の色も勝手に既存の色になぞらえて、心があると思い込んで、小説というものはこういうものだ、はじまりがあって終わりがあると思い込んでしまいます。何度やっても、なかなか、この勝手な想像から抜け出すことは難しいです。ついつい自分が感じていることを、時間の流れを、人も感じているものだと思ってしまいます。僕は推敲はほとんどしないとは言ってますが、一応、読み返すことはします。読み返しながら、勝手な想像が入り込んでいないか、他者はこう感じているに違いないと思い込んでいないか、ということは確認しているんだと思います。厳密にそういうことだけをチェックしているわけではないのですが。というわけで「自分が感じている時間の風景と他者が感じている時間の風景」というものの書き分けはやってません。他者が感じている時間の風景を描くために、作家は想像力を働かせるものだ、という方法では執筆してません。僕はある意味では、想像力を一つも利用していないのです。僕にとってはそう考えたほうが自然だなと思ってます。創造行為は想像力を駆使するものであると思われているかもしれませんが、僕はそう考えていません。想像力はできるだけ使わないようにしよう、といつも心がけてます。つまり、ある場面を書いていて、次の場面を書くときに、もっと面白くしたいので、次に何を書くかを考える、ということを極力しないようにしてます。ある場面を書いていて、次の風景が見えてきたときだけ、次の場面を書くのです。見えなかったらどうするのか。見えなかったら、想像力を駆使する代わりに、書かないでやりすごします。書くのを止めたらいいんだけなんです。それでしばらく散歩でもする。しばらくすると、また次の風景が見えてきます。それは前の風景と何一つ繋がりがなさそうに見えます。時間も全く違っていて、場所も違う。そこで歩いている人も、今まで出てきたない人です。でも、それが次に見えたのだから、僕はそれをそのまま書きます。前のと繋がりを持たせようとして、また想像力を使いたくなるのですが、それをやめました。やめたのがその『現実宿り』という小説を書いたときからです。それはどういうきっかけから始まったのかというと、やっぱりこれが鬱の影響なのでしょう。僕の小説作品としては『隅田川のエジソン』2008年、そして『幻年時代』2013年、『家族の哲学』2015年、そして『現実宿り』2016年と繋がっていきます。『隅田川のエジソン』は路上生活者であった隅田川に住む鈴木さんを調査したフィールドワークをもとにしてます。同じ年に『TOKYO0円ハウス0円生活』というこっちは形としてはノンフィクションの鈴木さんについての本を出版したのですが、その調査をしていたら、ちょっと不思議な感覚を覚えました。もちろん、僕がやっているのはフィールドワークで、鈴木さんという人は本当に面白い人で、ぜひとも本を読んでほしいのですが鈴木さんは東京の墨田区という場所を、普段過ごしている僕たちとはまるで違う感覚で生きていて、それは都会というよりも森の中で暮らしているように僕には感じました。どこで何を採集してそれを換金して食糧を得ているその姿が、のちに本のタイトルにもなりますが、その都市型狩猟採集民に見えたんです。鈴木さんの家も同様でした。それは他者から見れば、ホームレスのボロい掘立て小屋です。しかし、実際に中に入って、鈴木さんとその場所に座っていると、狭い家の中のはずですが、部材ひとつひとつに鈴木さんは拾った時の記憶を僕に話すんです。「この柱は花火大会の後、屋根を作って放置して帰っていった人がいてその時に見つけた部材で、、」とかひとつずつ全部記憶が残っているんです。その時に、どこに使うかは決めていない、でも、何かに使えるかもしれないと思って拾っているわけですが、その時には体のどこかの部分はもうすでに、あそこに使う、とわかっているような感じがある、と鈴木さんは僕に言うわけです。それがとてもワクワクしました。そうやって家を見ると、それぞれの部材に時間がくるくると織り込まれているような感じがしました。柱を触ると、その時間がオルゴールみたいに流れててくるような不思議な体感をしました。その時に、僕は、鈴木さんの話を聞きながら、鈴木さんの家を、全く違うように感じていると知覚したようです。だからフィールドワークをしたあとノンフィクションの本を書いても、物足りなかった、それで、僕が鈴木さんの話を聞きながら、体感した時空間を書く必要がありました。それで、TOKYO0円ハウス0円生活を書き上げたあとすぐに僕は『隅田川のエジソン』という小説を書き始めたんです。鈴木さんを一人称にしつつ、僕が感じた時空間を描きたい、と思ったのが動機でした。それと同時に感じたのが、僕は0円ハウスを2004年に出したあと、建築学科出身の路上生活者研究者みたいに見られていたんですね。なんというか、それが他者が感じている僕という人間という時空間を含んだ生き物でした。でも僕が自分で感じている僕という時空間を含んだ生き物は違うんですね。全く違っていた。僕は研究者ではないし、写真集だったけど、写真家でもないし、建築学科出たけど建築家と名乗っているけど、いつか建物を設計したいけどとりあえず路上生活研究しました、というわけではなかったんです。もちろん、今から見れば、それは幾分伝わっていて、僕が元々、路上生活者の家を調べたりしていたことすら知らない人もたくさんいると思うんですけど、当初は全然違いました。なんというか、他者が感じている「僕」という規定があるような気がしたんです。それが窮屈でしたから、早めに僕は「自分が感じている僕」を全面に出していこう、と思いました。まあ、それはどうしようもなくやり始めたわけではなく、とにかくそれが自然ではあったのですが。2004年に僕は『0円ハウス』という写真集を出し、まずは本の出版について色々経験を積もうとヨーロッパに営業に行き、ヨーロッパの方では美術方面にもアプローチし、ブリュッセルで展示もするようになります。そのおかげで美術に関しても伸ばせると嬉しくなって絵を描き始め、絵はバンクーバーの方でコレクターを獲得し、絵を売るという仕事もはじめます。バンクーバーで出会った仲間たちからはお前と話しているとジャリを彷彿とさせると言われてました。四次元についていつも話をしていたからでしょう。熊楠の南方曼荼羅、マルセルデュシャン、そしてレーモンルーセル、と四次元の感覚が僕にいくつもの仕事の芽、感覚の芽、時空間の芽を伸ばしてくれました。そうやって少しずつ「他者が感じている僕」から「自分が感じている僕」そのままのまんま、そのような作品を作るだけでなく、そのように「生きる」ことを実践していこうと思うようになりました。そんな活動を始めて20年、今では、もうほとんどが自分が感じている僕の生活になってきているのではないかと思ってます。このような視点が先にあり、それが現実宿りのような作品に結びついたのではないかと考えてます。

20. 即興


近年でいうと、『土になる』は原稿用紙30枚程度のボリュームを推敲なしでnoteに掲載する試みから生まれています。坂口さんも、漢字をひらがなに開く、開かないといったことも考えずに、ただ書き連ねていったのだと。しかもこれまでの訓練として結果的にそうなったとおっしゃっています。小説以外に目を向けても、坂口さんにとって「即興」というのが重要な意味を持っていることは明らかです。即興だと始まりと終わりが勝手に決められてしまうのでそこから生まれる作品もあるとみる立場、始まりがあって終わりがないからこそ可能となる表現があるとみる立場、いろいろな考え方がありますけれども、ここではある小説の可能性について考えてみたいと思います。小説における「思い出す」機能についてです。とりあえず思い出し始めてみて、そこからどんどんと「思い出す」が派生していくのですが、このとき過去から過去へ、過去から未来へ、現在へと時制が入り乱れるかと思います。「思い出す」力で時間を、現在、過去、未来をジャンプしていくイメージです。この時に「即興」の力がより強く発揮されるように思えるのですが、例えば「思い出す」のような、「即興」の磁場と強く結びついた言葉、表現に関して坂口さんはどのようにお考えでしょうか。たとえばある地点からスタートして、ずっと思い出し続ける、その生々しさをありのままに描写する作家としての保坂和志さんがいて、坂口さんにも似たところがあるように感じました。

答:

 最近は、また書き方に変化がでてきたのかもしれません。土になる、は、気持ちよく書けましたね。畑を始めたという楽しい喜びを見つけたからでしょう。楽しみを見つけると、当然ですが、僕は嬉しくなります。その喜びが発生すると、原稿を書きたい、って思うのです。元気になる感じです。元気になると、何を書こうかということを、ほとんど考えなくなります。何を書こうかということよりも、もうなんでもいいから書きたい、という状態になります。これは不思議なことに、鬱の時もそうなんです。この時は、楽しい、という感情ではありませんし、喜びもありません。逆に、苦しいという感情が大半というか、全てを占めていて、とにかく書いていないと、頭がおかしくなりそうなんです。頭がおかしくなるというのは、どういうことかというと、自己否定の運動に飲み込まれてしまう状態です。飲み込まれてしまうと頭を抱えて、立っていられなくなって、寝ていても、ずっと飲み込まれてしまうので、ぐるぐるしてしまいます。そうなると、死ぬしかないとなってしまいますので、そうならないために、なんとか体を起こして、普通は体を起こすのも難しいかもしれませんが、しかし、僕は死にそうになっているので、それよりもマシだ、と思うようになります、というわけでうつ状態であるにもかかわらず、僕はとにかく体を起こし、僕はうつ状態の時には、ずっと家から出て、下の階のアトリエの書斎に布団を敷いてこもっているので、立ち上がりさえすれば、頑張って布団を少し横にずらしさえすれば、書斎の椅子に座って、すぐに書き始めることができます。そうやって、最近の180日間のうつ状態でも、原稿用紙600枚分のよくわからない原稿が出来上がりました。このとき、実は元気な時よりも、執筆する速度は早いです。書いてある内容は、とても読めたものじゃないんですけど、でもその原稿も今年出版されることになりました笑。不思議なものです。でもそのことに気づいたのはとても大きいです。うつ状態の時に、なんでも実は書けるってことに。ある意味では夢中になっているんです。「なんで、僕は何事にも夢中になれないんだ」ということを夢中になって書いてます。こういった鬱の時の原稿執筆の方法が、元気になった時のあの夢中になって即興的に原稿を書いている状態の訓練になっているのかもしれません。とは言いつつ、僕はたいした原稿は書いていないわけで、これは一流の人間の質疑応答ではないので、そこは確認しておいてください。まず、何よりも、僕は、自分の原稿執筆の技術を高めようとあんまり思っていないところがあります。高めてしまうと、逆に書くことの速度が落ちます。良いものを読者に届けなければというプレッシャーがあると、どうしても、思うままには書けない、書いたものもすぐに発表するなんてとんでもない、となってしまいます。大抵の芸術家はそうなっていくんだと思います。そして、それでいいんだと思います。そうやって、傑作を書いてくれたら、僕たち平凡な人間はありがたいわけですから。僕は、そのような傑作を書くみたいな使命はゼロです。これは謙遜ではありません。傑作を作るためには、つまり、それは作品ですから、初稿を書いたあと、プロダクションしていく必要がありますが、僕の場合はそのプレッシャーをゼロにするという技術の持ち主だと思います。つまり、傑作なんか書かなくても、自分で自分のことを受け入れることができる。下手なところを見せても、人に笑われたり馬鹿にされても気にせず自分の仕事に集中することができる。そういう自分への愛情の持ち方に特徴があるかもしれません。僕の場合は、できるだけ、オンタイムで、自分が今感じていることを、今、実はこの質問の執筆ですら、twitterのスペースで公開しているのですが、執筆自体を公開している作家はあまり見たことがありませんが、僕としては、その瞬間瞬間をいかにして、形にするか、いかにしてその瞬間自体を読者に届けるか、そのことに気持ちが集中してます。だから、僕は傑作を書かない人ではあるが、三流の作家のまんまでいいと自分を捉えているわけではありません。これまでの、作家が命をかけて一冊の傑作を作るべき、とされていた仕事を僕がやりたいわけではないということです。僕がやっていきたいのは、一冊の本を、後世にも読まれるような完璧な物語を書きたいという意識はゼロです。そうではなく、僕がやりたいのは、今、考えていることをそのまま文章に置き換えるということです。そのことがなぜか重要だと思っています。なぜそれが重要なのか、ということを考えてみたことはあんまりないのですが、なぜ重要だと思っているのかを今から少し考えてみることにしましょう。僕の場合は、その本を書くときに、どれだけ準備したかを見せずに、どれだけ文献を駆使したかを見せずに、どれだけ書く時に苦しんだかを見せずに、作品を作ることを良しとしません。自分の良いところだけ、つまり、それが傑作には必要なのですが、そのプロダクションした良いところだけを抜き取って、完璧な作品を作ることを、僕は嘘と呼んでます。で、僕は嘘をついてはいけないと自分に課しているようです。嘘をつくよりも、下手なものでも「今回、今はこれしかできませんでした」という正直な態度をとれ、と誰かから言われているような感じがするのです。誰からか、というのはまだわかっていません。体の内側からか、と考えると、体の外からそう言われているような感じはします。僕がどのように作品を作っているのか、その時の僕の動き自体がとても重要で、それこそが、僕と読者の間の信頼関係につながっているのではないかと推測してます。そう考えると、僕の場合、作品を作るときに、できるだけ準備しない、というか、ほとんど即興でやることが前提としてあるのかもしれません。土になる、というnoteの連載でいえば、毎日30枚、書き下ろしを、編集者も通さず、なんなら僕自身も一回も読み直してしていませんが、その状態で、書いた瞬間にネットにアップする、それを読者自体も気づいてます、そういう行為自体が、僕にとっての執筆活動のようです。それをまとめて本にする時には、正直、僕はもうその原稿からは魂が離れてしまってます。ずっとゲラと向き合って考え込む、みたいなことは人生で一度もやったことがありません。そのために、僕の本はハイプロダクションではありませんので、たいして売れません。そして、たいして売れないことは意味があります。もちろん、売れることにも意味があるのですが、売れる意味は売るために人が作っているというだけです。村上春樹は売るために推敲してます。もちろん、それは尊敬すべきことです。それによって傑作が生まれるのですから。しかし、幾つも嘘をついているはずです。それは僕の世界ではあり得ないことです。つまり、僕と村上春樹は、そんな比べられるほどの能力は僕にはないのですが、まあ、それはそれとして、作家であることは共通してますが、作りたい世界はまるで違います。それも当たり前です。いろんな人がいていいんです。でも僕が三流作家ではなく、僕には僕なりの方法があり、今のこの執筆態度にも確かな意味があるということです。僕にはまだその意味がはっきりとはわかっていないのですが。僕の執筆は、即興なのかどうかということですが、それはちょっと判別が難しいのですが、僕の頭の中にはこの現実よりも、かなりはっきりとした、しかも自由に動ける時空間があるようです。それで書く時には何度も言ってますが、この時空間の中に入って、というか、中にはずっと入っているのですが、そうすると、その時に、見えたものがあります。それを書いているだけです。今のこの質問も、一見、ただ質問を答えているようにしか見えないのですが、実はこの文章もその世界の中から見えたものを書いてます。だから、考えたことのないことも、書けるわけです。見て書いてますから。意味がわからないかもしれません。でも、先に進みましょう。そうやって考えると、つまり、始まりも終わりもありません。でも始まりの時間と終わりの時間はあるという感じです。書こうと思ってから、もうこれくらいでいいやと思うまでの間、僕はその現実よりも僕にとっては確かな世界、その時空間に身を委ねてます。だから即興というよりも、写真家の森山大道のように、ファインダーも見ずにただスナップしているという感触に近いです。
 次に「思い出す」ことについてですが、僕も色々思い出すことをやってはいます。『幻年時代』という小説は、一応、4歳のとき、幼稚園に初めて行く日の記憶を元に書いてます。あれはどんな感じで書き始めたのかというと、幼年期の遊びについて執筆してくださいという軽いエッセイの依頼から始まりました。自分が大人になった今、幼年期のことをそうやって、どんな遊びをしていたかと思い出し、それを今の視点で書く、みたいなことをしようとしていたのですが、僕の中にずっと、これは記憶なのかわからないのですが、4歳の時に見た景色がずっと思い出すまでもなく、ずっとその現実よりも確かな僕の世界の中にあるんです。それはどこか辺鄙な場所にあるわけではなく、地層のようになっていて、僕のその僕だけの現実の世界の地盤のようになってます。だから、それは思い出すというよりも、今もずっとあるので、これは現在でしょうか。僕としては、それを記憶と簡単に言えないんです。そして、それは事実の記憶でもないんでしょう。僕が感じた感覚の記憶、というか、感覚の元になっている体験、元になっている時空間、みたいな感じでしょうか、書きながら、やっぱり、記憶じゃないな、と思ってしまいます。記憶というよりも、僕はあの4歳の時に経験したことを、言葉にしてみたい、いや、僕の中に残っているものはみんな全て、いつか言葉にしたい、というものの集まりな気がします。こういう出来事があったなあと思い出しているわけではなく、4歳の時に、あ、これは言葉にしたい、しなくちゃ、これは誰かに伝えなくちゃ、とはっきりと感じた記憶はあります。そして、それが先述したように、体の中の街の瓦版となっていくわけですが、その瓦版は言葉で書いているわけではないんですね。僕の中の言語と言いますか、それも言葉ではあるんですけど、色もついてますし、音楽もついてますし、空間も時間もくっついてます。それが僕の言語で、そう考えると今思いついたのは、僕が作っているもの、現実の人からみると、いろんなことをやってますね、多岐に富んだマルチプレイヤーみたいに言われたりするのですが、なんか恥ずかしいですけど、でも、実際は僕の体の中の言語、僕にしか通じないこの言語は、このように言葉、時間、空間、立体物、建築、音楽、絵画、ガラス、セーター、織物、書、歌、そんなものが統合されたような不思議な言語です。僕はその言語を今も話してます。僕の体の中で。だから常に僕は今日本語に翻訳しているだけです。僕の言語を翻訳している。だから即興では実はないのです。同時通訳的に、僕の言語を日本語に翻訳している、翻訳家、通訳の人なのかもしれません。

21. 並走してくれる作家


坂口さんにとって、自分の「死にたい」の感覚と並走してくれるような作家はいましたか。また、この文脈においてはどのような文学を読まれてきたのでしょうか。僕にとってはカフカがそうで、カフカが持つ答えを出さない感じというのが、自分が抱えてきたやり場のないモヤモヤ感と相まってときに読みやすくすらあったのですよね。また、ブローティガンは一度辛くなった際に自分のコミュニティ全てを捨てるつもりで遠くへ引っ越すのですが(まるで移住のように)、移住先での限界にも向かい合い、悩んだ末に再度原点へ戻って人生に向かいあった作家といえます。ぼくは海外で暮らせばいいと何度も考え実践したこともあるのですが、やはり日本でしか叶わない活動というのもあるわけで、今は日本で暮らしています。坂口さんの場合はもっと制作的な文脈が色濃くなるのですかね。「死にたい」と文学の関係についてきいてみたいと思いました。坂口さんもまた、多くの人にとってそういった「並走してくれる作家」のように見えているはずです。

答:

 僕の場合は、躁鬱病なので、ずっと「死にたい」わけではないんですよね。「死にたい」と感じるのは、今までの中で見ると、長くても1ヶ月くらいでしょうか。10年くらい前は3ヶ月くらい続くこともありましたが、躁鬱病との付き合い方が少しずつ上達してくるに従って、期間は短くなりました。本当ここ数年では2週間以上続くことはほとんどなくなり、最近は、1ヶ月に五日間、まるで女性の生理のような感じでしょうか、そんなふうになってきました。とは言いつつ、昨年は半年間鬱が続いたのですが、、、。この半年間の鬱は今までとはまるで違うもので、少し比較するのは難しく、これはこれで別に話をした方がいいと思います。この半年間の鬱は、どちらかというと、自ら向かっていった鬱でして、しかも、そこから逃げるような態勢を一度も取らずに、しっかり鬱のまま、鬱とは何かを考える時間でした。だから、鬱ではありますが「死にたい」とは思わなかった、もちろん、鬱は苦しいですから、口では死にたい、とつい漏らしてしまうこともあったのですが、実際、僕は一度も死のうとはしなかったです。それで鬱のことがさらにわかってきました。鬱の時、僕は、頭と首と背中を丸めて布団の中にうずくまっているのですが、これはつまり、胎児の状態なのではないか、と僕は最近思うようになっていたんですね。鬱といえば、自己否定ですが、つまり、社会で色々とストレスが溜まって自分を否定するようになってしまってそれで落ち込んでいる、みたいに、僕も考えてはいたんですよ。元々。ところが、元気になると、そんなことは全く感じないんですよね。元気になると、忘れてしまう。元気になると、何が問題だったのかすらわからなくなってしまいます。それで元気になると、また何か取り戻そうとして、必死に頑張るんですね、ちょっと僕の場合だとそれ日本一やりすぎじゃないってくらいにやりすぎてしまっていました。やりたいというよりも、やらなくちゃいけない、という感情の方が強かったですね。まあ、ちょっとその話を広げすぎても仕方がないのですが、徐々に、僕は鬱の時に、実は一番重要な問題に向かっている、これは目先の社会での自分とかそういう問題ではなく、この布団の中の僕がまさに胎児の体勢であるように、なんらかの出生前後の問題であろう、と思うようになってきました。それで、今回は半年間かけてじっくり、元々胎児の頃の記憶がありましたので、つまり、その時に、生まれる前にしっかりと意識が芽生えているわけです、なんらかの危険があったのだろうと、そんなふうに考え、半年間かけて、じっくり、タイムスリップしようと思って、自ら鬱の穴に向かいました。しかし、これは質問に答えていない感じがしますね、で、そんな時の、鬱の過ごし方について、今回は書いたら良いのかもしれませんね。
 鬱の時、つまり「死にたい」と思っている時、どのように過ごしているか。はっきり言いまして、僕は本が読めません。カフカ全集も持ってはいますが、そして、鬱の時は必ず手に取るのですが、全く読めません。カフカの日記を読むことは読みますが、カフカのように、何か文学作品で傑作を残そうなんていうモチベーションも僕にはないので、読んでいると、大抵落ち込みます。「巣穴」という中編小説は、何か僕の鬱の時の状態と近いような感じはしますが、それでも読みにくいなあと思ってしまってすぐに読めなくなります。本を持っていると、うとうとはするので、睡眠薬代わりにはなるかもしれませんが、死にたい時に読書しようという気持ちにはあまりなれません。それでもいくつか読める本はあります。それを思い出してみることにしましょう。なぜなら鬱の時以外はまた僕は本を読もうとしないからです。どっちでもあんまり読まないですね。基本的には書くことが好きなんです。読むことが好きなわけではなさそうです。なんというか、自分の直感をかするような文章はないものかといつも探してはいるのですが、そのため、家にはたくさん本はありますが、しかし、たくさんと言っても、五段の本棚が二つあるだけですが。そこに入り切らなくなった本は、汽水社の方に持っていき売ります。
 今回、鬱の時に読んでいた本をご紹介しましょう。
 まずは①雑誌『MONKEY』第31号です。この中に「ローランドケルツ インタビュー」が掲載されているのですが、この中でケルツさんと柴田元幸編集長が僕の文章を絶賛してくれてます。英訳にするとさらに僕の短編の文章が光っているようです。これは自分を励ますために読んでました。僕のことを文章にしている人はほとんどいないので、どうやら僕の本を読んでいると人から知られると恥ずかしいように見えます。なぜかは知りませんが、それで誰も僕の文章のことを話題にしてくれないんですね。まあ、それは別にそんなに気にしてないんですが、書いてくれてると嬉しいってだけです。だから、小川くんの本も嬉しかったんですけどね。このケルツさんと柴田元幸さんが僕のセンテンスについて書いていて、それがどこからどう読んでもお世辞に読めなくて感動しました笑。やっぱりお世辞はすぐに分かりますもんね。続いて2冊目。河出書房から出ているポール・ウィリアムス②『フィリップ・K・ディックの世界』です。これはディックのインタビュー集なのですが、これを読んでいると、僕は少し落ち着くことができます。他の人には効くのかは分かりませんが。ディックはなんとなく書き散らしまくっていたというところも含めて、シンパシー感じます。生前理解されていなかったところも含めて。僕は現在、全く理解されていないと自覚してます。本が売れてなくはないのですが、僕がやろうとしていることを理解されているとは思っていません。次は、寝る前は必ず読んでいた③『天才たちの日課』という本です。これは僕にとって安定剤です。女性版の芸術家たちの続編も出てますが、これはKindleで持ってます。僕は本を持つのがきつい時はiPhoneでKindle本を読んでます。次は④バーンズ博士の『いやな気分よ、さようなら』これは自己啓発本風ですが、僕は違うと思います。自己否定をやめるために必要なかなり重要な指摘がされてます。これを僕はひたすら書写してました。書写していると安心できました。辛い人はぜひ。実際ベストセラーにもなっているようです。僕ののちに書くことになる『自己否定をやめるための100日間』の参考図書でもあります。さて次、意外と読んでいるかもしれません。⑤『みみずくは黄昏に飛びたつ』これは村上春樹と川上未映子の対談集ですが、これも効きましたね。基本的に僕は村上春樹の本読んでいると鬱が落ち着くのかもしれません。そう考えると、並走している作家と考えると、やっぱり春樹なんですかね。最近の小説なんか全く関心がないのですが、仕事を進めていく姿勢としてはとにかく参考にしてます。誰よりも参考にしているかもしれません。あと、ちょっと悩んでいること自体をバカじゃないのと思えるのは、山下澄人さんの⑥オンラインの質問箱です。『おれに聞くの?』という本にもなりましたよね。あれはどうやら、僕が鬱の時に、山下さんのオンライン質問箱を熟読していて、それで本にした方がいいと言ったから本になったみたいなことを山下さんが言ってました。鬱の時は山下さんに電話するのが一番いいのかもしれません笑。でも正直、本で読むより、オンラインでスマホで読むってのがなんか体に合ってるので、いまだにオンラインで読んでます。⑦トーマスメレの『背後の世界』これは躁鬱病の作者、ドイツ人のメレさんの文章ですが、少し真面目ではありますが、鬱の時、僕は彼の鬱の時の文章を読んで少し落ち着かせます。でも、対処法としては僕の方が一枚上手かな、とか思ってます。そういう意味で、少し申し訳ないが、この人でも本になっているんだから(いや、この人はドイツでも有名な凄い人なのですよ)、お前も大丈夫だと少し自分があげるために、下に見ているかもしれません。これは鬱の時だけの視界なので許してください。⑧エンリーケ・ビラ=マタス『バートルビーと仲間たち』これも僕は落ち着きます。僕は書けなくなってしまった作家たちが大好きなのですが、その人たちの大特集してます。鬱で困っているメルヴィル、みたいな文章を読むのが大好物なのです。鬱の時に落ち着くから。あとはいつも読んでいる『ベケット伝』上下巻ですかね。これは鬱の僕がいつも手に持っている本です。確かに本が読めないと言いつつ、ずっと手に持っている本はありますね。基本的に、どこの誰がどんな悩みでどんな日課を持っていて、それでどんなふうに苦しんでいたか、を読んでいると安心します。どんなふうに、切り抜けたか、はあんまり興味がありません。僕が苦しいのですから、苦しくなくなった人には興味がないのです。他の人がどれだけ苦しんでいるかだけに興味は集中します。鬱の時ですが。それで考えると、苦しさでいうと、僕はベケットが一番参考になります。ベケットと僕は自閉状態の時、似ているのかもしれません。そのため特に小説に影響されているわけではないのに、ベケットと僕の文章はどこか似ているのです。ベケットを模倣しようと思って書いたことはありません。ベケットも自殺しなかったんだから僕も自殺せずに生きていこう、と思ったので、並走している作家はベケットかもしれません。村上春樹は日課の参考になったり、作家として生きる上での参考にはとてもなるのですが、彼の苦しいことについての何も言わなさは不安にしかなりませんので、書くことは並走してくれてますが、生きることの並走者ではありません。生きることでいうと、ベケットに近そうですが、ベケットほど僕は自閉的でもないんですよね。そう考えると、全体的な並走者はやっぱりいないかもしれませんが、いくつかの側面でそれぞれに並走者を立てているのは事実だと思います。絵画に関しては、ピカソはちょっとブレブレしすぎて、マティスだとなんか気持ち通じなすぎて、ポロックだと、そこまでやると苦しいなあという感じで、マークロスコも自殺しちゃったし、自殺したけど、作家のデイビット・フォスター・ウォレスはどこか並走者では合ったが、46歳、今の僕の年齢で自殺してしまったので参考にならないし、石牟礼道子は熊本で生きるという意味では並走者ですね。でも僕にとっての一番の並走者はやっぱりどんな苦しい時でも、原稿を書いて送りなさい、って言ってくれる橙書店の久子ちゃんじゃないかなと思います。絵に関しては、どんな苦しい時でも絵を描いたら送ってきなさいと言ってくれる、キュレイターズキューブというギャラリーのギャラリストであり親友の桝村旅人くんかなあ。僕は作家と並走するのではなく、このように僕の作品を一緒に作り上げようと励ましてくれる仲間が並走者かな、と思ってます。
 僕も鬱が苦しい時は、熊本にいたくない、ってフーちゃんに漏らしたりするんです。フーちゃんはその時、鬱の時はいつも言ってるけど、こんなに恭平のことを好きでいてくれる町はそうそうないと思うよ、移動してもいいけど、と言います。僕も分かってはいるわけです。場所が問題なわけじゃない、って。この半年間の長い鬱はそういう場所を移動しようとする僕に対しての、観察期間だったとも言えます。結論は場所は関係なかった、でした。それどころか、僕にとって、熊本で生きている、というのは、生まれた場所、というだけでなく、石牟礼道子と出会えた場所というだけでなく、久子ちゃん旅人くんという二人の並走者が住んでいた場所、というだけでなく、もっと大事な何か、僕はまだ言葉にできませんが、僕の体の奥の奥が選んだ、場所というものもまた大事なのです、それを僕が選んだ、ということを自覚するきっかけになりました。死ぬまで僕はこの今の場所、新町という場所から移動することもないと思います。僕はここで生きて、文章を書き、制作を死ぬまで続け、電話に出続け、人々と会い、新しい都市を作る、と腹が決まったようです。海外に移住したいとは一度も思ったことがありません。でも時々海外のホテルで原稿を書いていると、とても心地よいです。時々、移動するくらいがちょうどいいんでしょう。僕の現場はやはりここ熊本・新町四丁目のようです。
「死にたい」と文学の関係ですが、僕の中ではまだまだ甘いのではないかと思っています。文学者たちはまだ本当の死にたいに向き合っていないのではないか、どこか作品を作る、傑作を作る、ということに囚われているのではないか、僕自身もそうだと思いますが、まだ今まで作られてきた文学では、その死にたい、に向き合えていないのではないか、そんなことも思います。孤独で一人自殺していく人たちが、手にとって目が開かれるような本をいつか書いてみたいと思ってますし、僕が本を書く動機はやはりそれなんだと思います。


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