幸福人フー  第6回 躁状態の僕に対する工夫、フーちゃんの挑戦

「恭平はいつも外ばっかり見てるから、私のおかげで元気になったと口で言われると、自分でわかってなかったということはないけど、やっぱり改めて嬉しいよ。言わなくてもわかるでしょう、ということもあるけど、やっぱりこうやって書いてくれたり、言われたりすると、自分でも感じれるしわかって再認識できるから、これどんな夫婦もやったらいいかも。注目されて嬉しい」
 いつも原稿を読んでもらったあと、こうやって、フーちゃんから感想を貰います。こうやって、毎日、僕が書いてきた原稿を、フーちゃんに読んでもらって、その感想をもらうこと自体、僕も初めてのことです。こういうことができるようになったのも、フーちゃんのおかげで、僕が少しずつ心の平安を感じれるようになっていったからでしょう。そのためには、鬱状態だけでなく、躁状態の僕と自分がどう向き合うかを身につけるという時間が必要だったと思います。

 19歳頃から自分でもコントロールできない感情の波にさらされ、29歳で躁鬱病と診断された僕ですが、現在では、月に一度の精神科の診察は今も続けていますが、薬を飲むこともなく、かなり落ち着いてます。鬱状態になることがないわけではありませんが、今では鬱になったとしても、5日以内でさっと治まり、しかも鬱状態自体も穏やかになってます。そのくらいの鬱状態であれば、元気な時に活発にしていた分の疲れを取る上で大切な休息になってますし、何よりも僕の場合は鬱状態から健康な状態に戻ってきたときに、現実がとても新鮮なものに見えます。見方が全く変わるんですねその都度。それが僕の仕事でもある創造行為、つまり文を書く、絵を描く、音楽を作る、という行為にかなり大きな影響を与えます。鬱にならないと、創造ができないとも言えます。そういう意味では、無くてはならない時間なんです。今ではそう思えるようになりました。
 夜は9時に寝るようになりました。眠れるようになりました。そして、朝4時頃に起きて、まずは本を書きます。毎日原稿用紙10枚分の文章を書いてます。その後、お昼ご飯を食べ、午後はパステル画を毎日1枚描いてます。その後は、音楽をやりたくなれば音楽をします。他に作りたいものがあればそれを作る。10枚の原稿と1枚のパステル画は毎日必ず作るようにしてますが、それ以外は気分の赴くままに好きなことをやっていいことにしてます。そして、夕方には今ある健康のもとになった畑仕事に向かいます。30㎡の土地を年間1万円で借りているのですが、僕は野菜作りがとても体に合っていたようで今年はミニトマトだけでも1000個以上収穫してます。3株だけでそれだけ収穫したんです。畑の土地主であり、僕に野菜作りを教えてくれたヒダカさんという畑の師匠からも、もう君は立派な百姓だとお墨付きいただきました。この畑仕事も二日に一回はやってます。このおかげで夜、熟睡できるんだと思います。畑も3年目に入ったのですが、何事も3年はやれ、というのはこの畑仕事がもとになっているんじゃないかと思うほど、3年目の畑っていうのは、菌類たちが馴染んでくるというのか、もうちょっとやそっとでは土が弱りません。どんなことでも受け入れてくれる安定した土壌になってます。この安定した土壌、というものが、そのまま、僕の現在の精神の安定、そして、少しずつ味わえるようになってきた「幸福」を具体的に表しているような気がしてます。
 幼少の時から、どうやっても、心が落ち着くことができなかった僕は、こうして、フーちゃんと23歳の時に出会うことで、初めて、自分の苦しみを口にして他人に伝えることを覚え、さらに、まさに幸福人であるフーちゃんの細かい一つ一つの行動や言動から、少しずつ自分なりの生活の方法を学んでいったんだと、僕はこの本を書きながら、改めて実感しました。もちろん、フーちゃんは、躁鬱病自体知らなかったのですが、フーちゃんの場合は知識があるとかないとか、そういうことではないんですね。まさに僕の畑の安定した土壌だってそんな感じなんですが、どんな状態だろうが、その都度、具体的に必死に対処するんです。鬱の時の対処は色々と書いてきましたが、僕は躁鬱病なので、同時に躁状態もやってくるんですね。いろんなことをとにかく思いつくんです。いつもフーちゃんが感心してました。よくそんなこと思いつくね、私には絶対無理、といつもフーちゃんに言われてました。恭平にはいつも驚かされている、とフーちゃんはいつも感心しつつ、笑ってました。でもそんなに笑えないことも何度も僕はしでかしてきたんです。
 躁鬱病は鬱の時は貧困妄想がすごくなります。もう貧乏になる以外に考えられないんですね。ですが、躁状態になると、躁鬱病ではない人には信じられないでしょうが、全く逆になるんですね。自分がお金持ちなんだと思ってしまうんです。ここでこれだけお金を使っても、また自分には力があるから、すぐお金を稼ぐことができると思い込んでしまうんです。これは結構大変です。僕の場合は、何か金額が高いものを買って散財するみたいな方向にはいかないのですが、困っている人とかがいるとすぐにお金をあげてしまいます。気前が突然、とんでもなく良くなってしまうんですね。でも借金までするってことはなかったのですが、躁鬱病の人の中には借金までしてお金を使いまくる、みたいな人もいるようです。僕の感触としては、とにかく気前がよくなる、って感じです。
 今でもこの気前が良くなるのは、変わっていません。月に10万円くらいは使っているかもしれません。先日もギャンブル依存症で有り金を使い果たしてしまって生活費に困っている二人の男性に、それぞれ5万円と7万円を振り込みました。シングルマザーで二人の子供を育てて生活費に困っている人に30万円振り込んでしまったこともあります。こうやって、何にも考えずに振り込んでいたら、もちろん僕たちの生活費がなくなってしまうわけですが、僕はフーちゃんと法人を作ることにしたんですね。お金に関しては、フーちゃんが僕に突っ込むことがかなり難しいんです。というかそもそも躁状態では、フーちゃんは僕に何を言っても、僕は何ひとつ聞き入れなかったんです。お金に関してもそうでした。僕は大事な人から頼まれたりすると、ついつい契約書も結ばずに100万円とかあげたりしちゃってたんです。貸すんじゃなくてあげちゃうわけです。そんな状態でしたが、2015年に法人を作ります。会社を作ったといっても、僕とフーちゃんだけの会社です。そうすることで、専属の税理士さんがつきましたので、フーちゃんが何も言えない時でも、税理士さんが毎度収支を見てくれるようになったんですね。すると、税理士さんがお金を振り込む僕にこう言ったんです。
「あなたは社会福祉に近いことをしているのだから、これはちゃんと経費として計上してみます。もしも税務署から突っ込まれた私が説得します」
 僕は躁状態の時にただ気前が良くなっているだけだと思っていましたが、税理士さんからすると、これは社会福祉だ、と。これにはびっくりしましたし、なんだか安心しました。フーちゃんも僕が躁状態の時に、何か直接注意するみたいなことはできない、と言ってましたが、フーちゃんは今では毎回、お金を出すときは全部、出す前に税理士さんに相談してみたら、と言うようになりました。これはフーちゃんの「何か起きたら、その都度具体的に対処する」という方法をさらにもっと具体的に対処する方法なんだと思いました。仕事として、お金を払って、税理士さんに具体的に対処してもらう、というわけです。しかも、税理士さんから視点だと、それまで、躁状態でただ興奮しているだけなんだ、と僕自身も思っていた行為が、実は社会福祉だと感じれて、僕も躁状態の自分自身を否定せずに済みました。いのっちの電話自体がそういう社会福祉だという認識が彼らのおかげで、僕とフーちゃんの中に浸透していったんだと思います。今ではフーちゃんは、いのっちの電話をやめたらいいのに、とは言わなくなりました。むしろ、大事な仕事だと思ってくれているようです。でも、鬱の時は休んだら、とフーちゃんは言います。そこまで受け入れてもらって、社会福祉だという認識が浸透していたら、僕も怒ったりしなくなっていったんですね。だからフーちゃんの「鬱の時はお休みの時間」というメッセージがすんなりと受け入れられるようになりました。今では元気な時はいのっちの電話は休みなく24時間365日やる、でも夜9時から朝4時まではちゃんと寝る、深夜の電話は朝方、折り返す、そして、鬱の時はツイッターで報告して、しっかりと休む、というスタイルが定着しました。そして、お金をあげた方がいい、と思う人にはあげてもいい、でもその代わり、お金を振り込むのはフーちゃんに任せてます。そうすると、お金を振り込むということを事前にフーちゃんに知らせることができますから、そして、フーちゃんから税理士さんに確認して、と言われて、あ、そっかと思い出し、僕は税理士さんにお金を振り込むことを伝えます。すると、税理士さんはその年の収入の具合から、これくらいは経費として計上してもいい、という数字を具体的に僕に伝えます。それがわかれば、その中でならいくらでも振り込んでもいいわけです。振り込んだ人には「坂口劇場の出演料として」という領収書をもらうことにしました。僕は普通の法人で社会福祉法人じゃないので、社会福祉としてお金を使っても経費にならないのですが、お金を振り込んだ経緯は全てTwitterで僕は説明して、自分がお金を振り込んだことを逐一報告し、僕のいのっちの電話という創造行為の一環だと伝えているのですが、そういうわけで、僕のお金を振り込むこの行為も創造行為のための経費ということにしているんですね。もちろん税務署から口頭でオッケーをもらったわけではないのですが、今のところしっかり申告をしていて突っ込まれたことはありません。このように、僕とフーちゃんは躁状態の時をどのように対処するかということを少しずつ考え、実践していくようになりました。
 フーちゃんは自分だけで対処するのではなく、いろんな人と関わることで対処がより自由に、さらに楽になることを知ってます。それと僕自身の仕事を組み合わせいくことで、僕も楽になっていきました。同時にフーちゃんも楽になっていったんだと思います。そして、僕も鬱状態がただの落ち込みではなく、創造にとって無くてはならないものだと知覚したように、躁状態もまた、ただの思いつきではなく、人助けをしたいと強く願う体質なんだ、と認識が変わっていきました。躁状態はいろんなことを思いつき、馬鹿みたいに気前がよくなるのですが、それは症状と思われているのですが、しかし、社会福祉の仕事をしているという視点を入れるだけで、躁鬱病は病気ではなく、人助けを広く実践していこうとする人間の体質なんだと僕もフーちゃんも気づいていったのです。お金もそのために用意しているお金があれば払っても問題はないわけです。いのっちの電話も、もちろんやっていることは大変だが、やはり助かっている人がいるし、それを無償でやるという精神はたいしたものなんだ、と自分も思えたのは嬉しいです。フーちゃんも今ではいのっちの電話をしている僕に理解を示してくれているし、それで人が助かっているんだから、すごいと思うよ、と褒めてもくれます。これは本当に僕も安心しました。躁状態の時にやっていることはただの思いつきではない、とみんなが感じてくれていることが、僕の健康に繋がってます。
 フーちゃんは鬱状態の時だけでなく、このように躁状態の時に活発になっていく僕がどのように対処したらいいかを色々と一緒に考えてくれました。
 躁鬱病の人は決して困った人ではないんだ、と感じれるのは本当に嬉しいです。もちろん、だからこそ、具体的な対処が鍵となります。
 まずは躁状態になると、途端に仕事が増えていきます。不思議なもので、躁状態は社会の空気自体を変えたり、その空気自体を即座に察知して波に乗っていくからです。そのため、調子が良くなると、それを感じ取った人がたくさん仕事の依頼をしてくれます。しかし、それに全部応えていると、必ず鬱になり、今度は約束していたことを全てキャンセルしなくてはならなくなってしまいます。そうすると、仕事の相手も困るし、自分も傷つきます。フーちゃんはこう言いました。
「どんな仕事をする時も、鬱になったらどうするのかを注意書きに入れてみて、そして、そもそも鬱になることもあるけどそれも仕事をしたい人かを聞いてみて」
 元気な時は鬱になるとは思わないんです。絶対にもう二度と鬱はならないと思ってしまうんです。これぞ、感情の記憶が完全に分断している証拠です。そのため、一人で仕事を決めていると、鬱になったらどうするかなんか絶対に相手には相談しません。そして、相手も元気な僕を見て、鬱になったらどうしようか、とは全く想像できないみたいです。だから、僕と仕事の相手とだけで話していると、元気ですからアイデアも飛び交い、どんどん楽しい企画が決まっていきます。そして、仕事が溜まっていくと必ず疲れ、鬱になり、困らせてしまうのです。
 そこで、フーちゃんのひと声が入ってきます。それで僕はハッと気づくんですね。そして、メールを送るんです。
「トークの仕事、引き受けます。ですが、一つ条件があります。今は元気だから、自分自身も想像ができないのですが、僕は躁鬱病でして、人前に出る仕事が増えていくと、鬱になる傾向があります。そこで、鬱になった時は延期します、という注意書きを告知文の中に入れてください。それでも良ければ、ぜひ仕事をやってみたいと思ってます」
 こうすると、躁鬱に理解があるかどうかがすぐにわかるんですね。決まった仕事を鬱で休むなんてけしからん、みたいな人は、このメールを見ると、ちゃんと引いてくれるんです。
「恭平のやり方が苦手だと思った人は離れていくと思うけど、でもそれでいいよ。きっと恭平の体調も含めて理解してくれる人がいると思うから、そういう人は鬱になっても離れないから、そういう人たちとだけ仕事をしていけばいい」
 フーちゃんはこういうふうに言ってくれたんですね。僕はずっと躁鬱病であることを隠しながら仕事をしてましたから、なかなかこういうふうに言えなかったんです。そもそも人に嫌われてしまうことも怖いじゃないですか。しかも、僕は仕事としてこれをやっているわけで、完全フリーランスで仕事をしている身としては、もうあなたとは仕事を一緒にしないと思われるのは死活問題だと思っていたんです。だから最初は恐る恐るやっていたのですが、確かにフーちゃんの言う通り、僕のことを苦手だと思って離れていく人もいたのですが、躁鬱病であることも含めて面白いと思って、ずっと長く仕事をしてくれる人もたくさんいたんです。フーちゃんはいつも偏ってません。嫌われることもあることをいつも念頭に置いてます。僕は人から嫌われることを極端に恐れてました。でもこうやって、ちゃんと全部自分の状態を話して、それでも付き合ってくれる人とだけ仕事をする、と決めることで、失敗するということ自体が存在しなくなりました。そうやって付き合ってくれる人は、鬱状態になると電話に出れなくなってしまう僕を静かに休ませてくれて、その時はフーちゃんが彼らと電話で打ち合わせをしてくれます。それで本当に問題になったことが一度もありません。先日も養老孟司さんとのトークショーを鬱で中止させてもらったのですが、フーちゃんが連携をとってくれて、無事に中止にすることができました。おかげで、むちゃくちゃほっとしたのを覚えてます。養老さんからは「坂口くんは、ちゃんと体調悪いときは休んでくれるから気が楽だ」というメールをいただきました。僕は泣きました。なんかフーちゃんと養老さんがいると思うと、心からほっとします。理解してくれる人は必ずいるから、その人たちと生きていく。フーちゃんのこの言葉は、今ではしっかり僕の仕事のベースとなってます。おかげで問題が起きるどころか、仕事に関わる人たちにも安心を与えているような気もします。面白いことも起きやすいです。何が起きても、笑って、具体的に対処することをはじめるフーちゃんは、仕事としては、名前を出さずに関わりは表には見えないのですが、実はこのようにずっと下支えしてくれてます。もちろん、動くのは、恭平なんだし!とフーちゃんは言うのです。じゃあ、なんでも周辺のことをやる、みたいな感じでは一切ありません。困ったときにだけは出ていく、だから、最初に伝えるだけは伝えといて、という感じです。おかげで、僕自身が周りに任せてしまって、何もできなくなるということもなく、自分自身で自信を持つことができているんだと思います。
 僕は現在、家族で暮らしている家がマンションの4階にあるのですが、2年前からそのマンションの1階にアトリエを作りました。朝4時に起きると、そのままアトリエに降りていきます。アトリエには三つの部屋があり、1つ目は本棚とパソコンを置いて、本を書く部屋にしてます。気持ちいいと感じる部屋にパソコンだけで置いていれば、もう僕は自動的に原稿を書くことができます。1時間で原稿用紙10枚を書き終わります。二つ目は楽器と音楽機材を置いて、音楽を奏でる部屋にしてます。それぞれの楽器にはマイクをつけているので、録音ボタンを押せばその瞬間に全部録音することができるようになってます。僕は毎日弾きたい楽器が変わるので、そこにはクラシックギター、エレキギター、サックス、チェロ、ピアノ、シンセサイザー、ドラムを置いてます。そして三つ目の部屋は、絵を描くために画材を並べてます。元々は家の6畳間でそれらを全部やっていたのですが、一人になる時間が必要だと思いましたし、全ての作業を全部待機状態にできているので、いつも思いついたものから自然と作っていくことが可能です。でも家から離れると鬱の時に動きにくくなってしまいます。外に出られなくなるので。そういうわけで、同じマンションにもう一つ別の仕事部屋を作ったことも心の安定に繋がっていると思います。アトリエの家賃は8万円なのですが、その代わり、創作量はアトリエを持つ前の3倍以上になっていて、結果的に投資してよかったなと思いました。しかもこのアトリエは、鬱になると、家に帰らずに篭れる避難所でもあります。鬱の時に、僕は家だと少しの雑音で反応してしまって、子供たちがいるとイライラしてしまっていたので、申し訳ないと思っていたんですが、アトリエが出来てからは鬱になった時にさっと三日くらい家に帰らずこもれます。静かな一人の時間を過ごすことができ、しかも、寂しくなったらフーちゃんに連絡をして、少し顔を出してもらえるんで、これはかなり助かってます。もしかしたら、アトリエを作るというよりもこの避難所ができたことが僕の安定につながっているのかもしれません。
 その後、僕はまた躁状態になり、家の近くの築100年の歴史的建造物である大正時代のコンクリート造ビル内の物件を二つ借りて、美術館を作ることを決めました。躁状態がいきすぎると、フーちゃんに相談することをついつい忘れてしまいます。相談しても、躁状態だと全てがうまくいくということが前提で進んでいくのでなかなかフーちゃんが僕を説得することができません。
「とにかく躁状態の時は、口がうまいから、全部言いくるめられてしまって、何も言えなくなる」
 とフーちゃんが僕が落ち着いてくると言います。でも大丈夫なのは、ちゃんとその後に鬱になるんです。ある意味、鬱が僕にとっての警告機能でもあるようです。
「やっぱり鬱になった。美術館なんかできないよやっぱり。なんで止めなかったんだよ」
「えー、止めれないもん。。。鬱の時は私の意見も聞いてくれるけど、躁状態の時は本当に全く何にも聞いてくれないから。でも、一つずつ対処していけば大丈夫だよ」
「でも、もう美術館を始めようとしていることを考えるだけで気分が滅入ってくるから、全部キャンセルしたい」
「もう敷金礼金も払ったし、工事もお願いしたのに?」
「うん、とりあえず全部一度、止めたい」
「じゃあ、わかった。とりあえず、止めてみて落ち着いて考えよう」
 そこで僕は不動産屋さんと工事屋さんに鬱になった状況をいつものように伝え、払った分は戻さなくていいから工事も止めて、あと借りることもやめるつもりであると伝えました。こうやって、いろんなキャンセル料を払うことは躁鬱病の僕にとっては、そういう可能性があることも考慮しているので、それはそれで経費で払えばなんとかなるかな、という考えでした。それでも全てをキャンセルすると、本当に体が楽になるんです。それもまた確かなことでした。
 少しずつ僕が落ち着いてきたある日、フーちゃんが話を切り出しました。
「あの、美術館計画についてなんだけど」
「うん、どうした? あれはもうストップさせるでいいよね?」
「いつもだとそれでいいって私も思うはずなんだけど」
「えっ、はずなんだけど、なんなの?」
「あのね、、、。あそこ築100年の大正時代のビルで、私、むちゃくちゃ好きなんだよね。あんなところを借りれるなんて、考えもしなかったけど、躁状態の恭平のおかげで、突然借りれることになったわけじゃん」
「そうだけどね、やっぱり躁状態だったんだよ、僕は絶対運営できないと思うから、キャンセルするでいいよね? もちろんいい物件だし、あんなビル、熊本にはもう一件も残ってない貴重な場所ではあるけど」
「それでね、私考えてみたんだけど、、、、恭平ってさ、いつも躁状態のときに新しい誰も考えたことがないことを実現しようとするじゃん」
「うん、それでいつも頓挫するけど」
「で、そのこと自体はすごくいいと思うわけ。でも自分一人でやると大変だから、これまではほとんど実現しなかった」
「うん」
「でも、今回、私、ふと、自分のお店をやりたいって思ったのよ」
 それは突然の話でした。しかも、初めて、フーちゃん自身が自分でお店をやりたいと言ったのです。僕の頭はまた突然切り替わったのです。
「えっ、どういうこと。その借りた物件で、美術館じゃなくて、フーちゃんのお店をやるってこと?」
「うん、今まで一度も自分でやれるなんて思ったことなかったんだけど。。。この前、始めたバイトではパワハラに遭っちゃって、それ以来、バイト先に近づくことも怖くなっちゃって。バイトもできないし、自分でお店をやれるとも全然思えなかったし、でも、恭平からはいつも、自分の力を試してみたら、って言われてたのに、私、自分でできる気がしなかったの」
「おれはずっとできると思ってたけど。フーちゃんがつくるジュエリーは僕の知り合いに見せても喜んでたし、フーちゃんの友人たちだって好きじゃん。きっとお店を出したら、うまくいくと思うよ。あとは自立して、自分の力でやるってことに恐怖心を感じなければ、ばっちり」
「あの場所だったら、やってみたい、って思えたの」
「えーそれはなんとめでたいこと」
「だから、美術館をやめて、私のお店をやらせてくれないかな」
「もちろんいいよ!」その時には鬱はもう明けてしまってました。「しかも、、、」
「しかも??」
「二つ物件借りたから一つはフーちゃんがお店を出しなよ。それでもう一つの部屋で僕が美術館をやる。フーちゃんが近くにいてお店をやってるなら、僕が鬱で動けなくなっても大丈夫じゃん」
「えっ、そっちはキャンセルしようと思ったけど、恭平もやるの?」
「だって鬱もう治っちゃったもん」
「じゃあ、恭平こうしてよ。美術館は恭平が立ち上げるけど、店番とかはしないってのはどう?」
「じゃあ、店番はどうするの?」
「最近、恭平のお父さんも会社の役員に入ってもらって、毎月給料を払うことにしたじゃん。それは親孝行だし素晴らしいことだと思うの。で、その代わり、お父さんに店番してもらったらどうかな?」
「それはいいじゃん!」
「絶対、恭平が店番とかして人に会わない方がいいと思うの。でも、お父さんならいいし、お父さん以外にも二日間くらいなら人を雇うこともできると思う。それだったら、恭平に全く負担にならないじゃん。美術館自体を作るのは私もいいと思うの。みんな恭平の絵を好きでいてくれるし、きっといい場所になるはず」
「お、いいじゃん、それなら本当に実現するかも!」
 というわけで、僕の躁状態がきっかけになって、今度は、フーちゃん自身が自分のお店を持つという挑戦が始まったんです。
 フーちゃんは僕と出会ってからずっと、僕が精神的に落ち込むことがあったり、逆に元気すぎて、どんどん新しいことに挑戦したりするので、それに二人の子供の子育てもやってましたので「落ち着いて自分のことを考える時間はほとんどなかった」と言いました。でも、時間が経過し、僕がフーちゃんからの助けを借りながら、自分なりの躁鬱病の操縦法を練習しては失敗しつつ身につけていくうちに、フーちゃんにも少しずつ心の余裕ができてきたようです。そして、いよいよ今度は、フーちゃん自身が、これまでに試したことがなかった、自分の力を試す、という挑戦に向かう時がやってきたようです。さて、フーちゃんの冒険はいかに? という話をしていきたいところですが、その前に、僕が躁状態の時にしでかしたことをいくつか書いておく必要もあると思います。それでフーちゃんが辛く苦しんだ時もありました。僕とフーちゃんで離婚の話をすることも、正直何度かあったのです。そんなわけで、次回は、僕の失敗などを話しつつ、そんな状態の時、フーちゃんはどんな反応をしたのかということについて書いてみましょう。


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