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躁鬱大学 その12 トイレを増やせば、自殺がなくなります


12 トイレを増やせば、自殺がなくなります

 今回だけは特別に非躁鬱人も聴講することができるようになってます。とは言っても、今日も躁鬱人の特徴について話すことから始めるのですが。でも、今日の主題は躁鬱人だけでなく、非躁鬱人にも伝えるべきことだと思ってますので、こうやって、非躁鬱人の方もお招きしたわけです。はじめまして。躁鬱大学学長の坂口恭平です。さあ、今日も楽しくやっていきたいと思います。
 われわれ躁鬱人は内省、反省が出来ないと言うことは前にも書きましたが、鬱のときには内省と反省を繰り返します。一向にやめようとしません。
「なんでお前はこうなんだ、お前はダメだ、お前みたいなやつがいると迷惑だ、お前はもう消えた方がいい、お前は、お前は、もうこの世からいなくなれ、死ね」
 ここまで言っちゃいます。なぜならお前がダメだから、ではありません。全く違います。だって、僕が書いてきたこと、あなたにも当てはまるでしょ? つまり、全く同じことを僕もあなたもしています。みんな同じです。われわれ躁鬱人の嘆きは一見、その人特有の誰にも言えない闇みたいなところがありますが、実際は、みんな同じ嘆きです。同じ悩みです。はっきり言うと、個性がないです。笑ってしまうくらいに同じことを言うので、僕もついいのっちの電話で躁鬱人の鬱の嘆きを聞きながら笑ってしまいます。悪気はないんです、むしろ、ホッとするというか「もうなんでもどんどん嘆いていいよ、ウンウン、そうだよね、お前ダメだもんね、何にも出来ないし、洗濯ひとつ出来ない、人と喋れないし、何かしようとするとすぐヘマをする、すぐ物を落とすし、割るし、仕事もはじめはいいんだけど、すぐに人付き合いがおかしくなって、居心地が悪くなって、やめちゃう、いつもおどけているけど、実は暗い人間で家ではいつも死ぬことばかり考えているんでしょ!」と伝えると「え、なんでわかるんすか、予知能スカ?」って真顔でたずねる人もいますが、答えは「オイラも全く同じこと言ってるからだよ。どこまでもあなたのモノマネができるよ。なんならあなたになりきって、人生生きていくことだってできるかもしれない」からですよ!だって、おかしいでしょ。ここまでさんざん躁鬱大学やってきましたが、これ僕のただのとてつもなく個人的な日々の生活のあれこれなはずですよ。それなのに、なんでみなさんはついつい中毒になっているみたいに、水をゴクゴク飲むみたいに読んでるんですか。全く同じだからじゃないですか? これ俺? とか思ってはいませんか? 僕も正直にわかには信じられないですよ。僕が経験している細やかな心の動きが全てが、躁鬱人であるあなたと全く同じだとは。はっきり言って全く信じられないです。信じたくないくらいです。これって僕の個性だと思ってましたから。この世に立った一人しかいない僕の悩みだと思っていたんですよ。僕はいっぱしの作家でもありますから、なんて言いますか、つまり人生というものを深く読み込むことができて、だからこそ、このような悩みを抱えてしまっているんだ、もちろん辛い、しかし、これは作家である限り必要な苦しみであり、だからこそ、お前は作家なんだ、みたいな恥ずかしいことも考えたことがあるんです。しかも、一度や二度ではなく、かなり頻繁に。しかし、実際は違いました。悲しいかな、みんなと同じだったんです。ただの躁鬱人の特徴だったんです。恐ろしいことに、悩んでいる口調、ポロリと漏らす一言までピッタシカンカン全く同じだったわけです。こんなこと、どの本にも書いてません! 医者も教えてくれたらいいのに、教えてくれませんでした! だからどんどん思い込んでいったんですよ、これは自分の独自の悩みだ、誰にも言えない、もしくは言ってもわかってくれない、これは解決することができない悩みだ、ってどんどん。しかし、僕はいのっちの電話をしてますから、それこそいろんな人の悩みを耳にする機会が多いんですね、というか、毎日2、3時間、人の悩みを聞き続けてます。なんでそんなことするのかとよく質問されます。なんでそんなことするのか。はい、お答えしましょう。僕は人の悩みを研究しているんです。悩みの内容じゃないですよ。人が悩むってことを研究しているんです。だって、人はみな悩むからです。そして、悩んだ結果、もうこんな人生は終わらせたいと思って、自殺するのです。悩みがなければ自殺をしません。僕は世界中で年間80万人と言われている自殺者をゼロにしたいと思ってます。だから悩みを研究する必要があったわけです。悩みというものが一体なんなのかを知ることができたら、自殺だって減らせるのではないか。僕はとても単純な人間ですから、はっきりいうと馬鹿ですが、愛らしい馬鹿ですから、自殺者をゼロにしたいなどと考えてしまうんですね。僕の友人も何人か自殺で死にました。中には僕と同じ躁鬱人もいました。それをなんとかしたいと思ったわけです。しかし、不思議なことに誰も自殺者をゼロにしようなどと思いません。今はコロナで大変ですが、死者数も30万人くらいいるようです。それはそれで大変ではあります。しかし、自殺に関しては毎年80万人ですからね。コロナだったらこんなに騒ぐのに、自殺に関しては国家は騒ぎません。ま、そこに注目しちゃうと、僕のお得意の、いや失礼、躁鬱人にお得意の世直ししなきゃならないモード、つまり、そんな俺最高かもモードに入ってしまうので、気をつけましょう。なぜなら自殺問題は長期戦です。躁鬱人は長期戦が苦手です。僕の研究によると、長期戦が苦手だ、と思い込んでいるだけなのですが。もちろん、普通の躁鬱人として生きていたら、長期戦は戦っていけません。技術が必要となってきます。そんなわけで、僕は自殺問題に取り組んでいくために(もちろん、悲しいかな、この僕の取り組みもやはり、世の中を変えたい、という思いよりも、誰もがなしえなかった自殺者ゼロを実現した俺すごいと世界中から思われたいという自己中心的な思考から始まってます)、いのっちの電話をはじめた、というわけです。大きな問題に向かうときこそ、一対一の対話を進めていくほうが体に合っていると感じたからです。それで僕は年間2000人ほど電話に出ました。今年でとうとう10年目です。つまり2万人の死にたい人と直接電話でやり取りをしました。
 そして僕はある発見をしました。
 それは「どんな人間も悩みは同じである」ということなんです。
 むちゃくちゃ当たり前のことを言っているように思われるかもしれません。しかし、これが事実なんです。真理と言ってしまいそうな勢いです。そんなの知ってるよ、とおっしゃる方もいるかもしれません。しかし、それが嘘だって、僕は知ってます。なぜなら「人は悩みを人に伝えない」からです。そりゃ「好きな人ができたんだけど。。。」とか「会社で今こういう問題があって」とか適当なことなら、人に相談します。でもそれは「私とは何か?」という問題とは別の悩みです。生きている上での悩みです。しかし、生きている上での悩みではなく「生きているという悩み」については誰も口にしません。そして、僕がやっているいのっちの電話にはこの「生きているという悩み」についての問い合わせだけが毎日かかってくるのです。つまり、僕は「絶対に人に言えない、生きているという悩みについて、毎日10件くらい相談を受けている」んです。そんな人いますか? いません。いのちの電話はありますが、あれはみんなで手分けしてやってます。しかも、そこで話した内容は絶対に口外しないことになってます。相談主も匿名です。そのため、そこでどんな相談がなされているか、誰も知ることができません。
 もちろん、僕だっていのっちの電話の内容については秘密を守っているつもりです。でも、時々、これは人に伝えたほうがいいと思う内容については相談主に、公表してもいいか、もちろんあなたの個人情報はわからないようにする、と聞きます。みんな「いいですよ、いいですよ、他の人の悩みに何か役立つなら」と言って、快く僕の要望に応えてくれます。なぜなら、悩みがみんな同じだとその人もわかったからなんですね。だからこそ、安心したし、外に出してもいい、それで助かる人がいるならと思ってくれたわけです。
 僕は、その人が一度も誰にも相談したことがないことの相談だけを10年間受け続けてきました。そして、電話をかけてきた人全てに共通することを見つけたのです。それは、
「人は人からどう見られているかだけを悩んでいる」
 ということです。僕が電話を受けた多くは日本人ですので、もしかしたら、これは日本人特有の問題かもしれません。しかし、10年間研究を続けてきた結果、僕が感じているのは、日本人だけでなくすべての人類に共通するのではないかと考えています。人間にとって悩みとは「人からどう見られているか」ということだけだったのです。それ以外の悩みはありませんでした。もちろん、人からどう見られているか、と悩んでも、実際に、見られるだけじゃ言葉はありませんから、その人が頭の中で勝手に言葉を作り出しているんですね。ときには、両親やパートナーから直接言葉を受けて、人からどう見られているか、という問題が暴力と化しているケースもあります。その場合は本当に自殺未遂を繰り返すなど、かなり悪化することもあります。しかし、それらも含めて、僕は「人は人からどう見られているかということだけを悩んでいる」と研究の結果、導き出しました。それが悩みなんです。それ以外の悩みはありません。これからは、悩みとは言わずに、人からどう見られているのかをむちゃくちゃ気にしている、と言いましょう。しかも、さらなる発見は、苦しむ人はすべて、人からどう見られているかを考え続けているわけですから、それは悩みではない、ということです。だって、みんなが感じてるんですよ。多くの人は他人を好きになったりするじゃないですか。あれと同じように、多くの人が人からどう見られているかを気にしているんです。おそらくほぼ全員気にしているんです。どんな鈍感そうな人も気にしてます。つまり、それは悩みではなく、これまた体質なわけです。しかも、これは躁鬱人に限ったことではありません。この講義で初めてのことですが、今日だけは非躁鬱人の人も聴講可能にしたのはつまりそういうことです。
 「人類皆、人は人からどう見られているかということだけを悩み続けている」
 それが悩みであり、しかも、人類皆それを悩んでいるので、もはやそれは悩みではありません。むしろ、それは人類に共通する特徴であると言えるでしょう。つまり「人間とは周りからどう見られているかを気にし続けている動物である」ということです。だからそれに悩み続けるってのは、人間であることに悩み続けるってことですので、ナンセンスなんです。答えがないんです。繰り返すんです。解決することはできません。だって、それが人間だもの。なので、この世に悩みというものは存在しないのです。人からどう見られているかと気にすることは、おしっこっとかウンコをするようなもので、人間に備わった特性です。本能です。どうしておしっこするんだろうって悩んでいるようなものです。やめときましょう。人からどう見られるかを考えるのは当然のことです。でも、なぜか人からどう見られるかってことを自分だけ考えていると思ってます。でもうんちだって、人がうんちしているところ間近で見ないじゃないですか。それが好きな人もいますけど多くの人は人のうんち見ないでしょ。だから人からどう見られているかを気にしていることを人に伝えるのもなんとなく言いにくいのかもしれません。でもこれまでこの講義を聞いてきた人はわかってきたかと思いますが、僕が言っていることって、僕だけの症状とか悩みじゃないですよね? あなたも同じなんです。今日は非躁鬱人の方々もいらしてますけど、非躁鬱人の方だって同じなんです。だって本能ですもん。おしっこですもん。確かに少しは色や味は違いますよ。食べてるものが違いますから。体の器官が違いますから。でもおしっこはおしっこです。つまり、あなたの悩みだって僕と大体おんなじなんです。これやばくないですか? つまり、悩みってものが存在しないってことなんですよ。ただ人からどう見られているかだけを考えているってことです。しかも、それが本能だから、みんな同じなのは当たり前ってことです。しかも人のウンコを見たことがないように、人がどう人からどう見られているかを気にしているかを見ることができません。それでも俺だけじゃないよな、うんこしてるの、って思えているのはなんでかわかりますか? 簡単ですよね。トイレがあるからですよ。トイレ休憩なんて言葉まであるくらいです。連れションとかね。スカトロの話はここではやめておきましょう。でも深い意味があるはずです。ま、それはいいとして、すみません、今日は非躁鬱人の方々も来ていただいていることをすっかり忘れてました。下ネタ厳禁でいきますね。失礼しました。
 そうなんです。ウンコはトイレがあるから、トイレに入っていく人を見ると、あ、あの人はこれからおしっこかウンコをするんだ、すごい困った顔をしながらお腹を抑えてたから、多分あの人はウンコだ、間に合うといいなとか、感じます。人のウンコは見たことがないけど、人がウンコしていることははっきりとわかってます。そして、自分もウンコをします。でも他の人もウンコするって知ってるから、肛門からとんでもないものが飛び出してきて、さらに鼻をつく臭さだろうと、気にしません。ついには、少し臭いと思っていた、お尻のほのかな臭さになんとも言えない郷愁を感じてしまい、つい、好きな人の肛門周辺をクンクンしてしまうなんてことが起きたりします。あ、失礼しました。いけません、今日は真面目な私の大発見の話なんです。ニュートンも万有引力をペストで自宅待機中に導き出したらしいですが、それと同じように僕もまたコロナで自宅待機中に必死に考え、こうして今日大発見を発表することになったわけです。真剣になって先へ進みましょう。
 ウンコにはトイレがあります。出す場所があります。しかし、人からどう見られているか気にしまうという生理現象に関しては、このトイレがないんですね。子供の時からありません。両親が優しくきてくれる人だったらぶっちゃけることができますが、多くの親が「人からどう見られているか気にしている」と弱気な発言をすると「人からどう見られているかなんか気にしないでいいんだよ」と言います。優しさを持って言ってくれてますが、ウンコもおしっこも出さなくてもいいんだよって教えているようなものです。ナンセンスです。はっきり言うと非常識です。むしろ害悪かもしれません。人からどう見られているか気にしてしまうことは、れっきとした生理現象なのです。
「そんなわけで、お父さんも気にしちゃうんだよ、お母さんも気にしちゃう、すぐ恥ずかしくなっちゃうし、すぐ自信なくしちゃう、ついつい周りと比べて、自分なんて、みたいにちっぽけな気持ちになってしまうんだよ、それはね生きてるってことで、ちゃんとウンコが出てるってことだよ、快便ってことなの。だからあなたもちゃんと成長しているのね、安心したー、でもね、それを言わないで黙ったままにしていると、便秘になって悩んじゃうから、早めのパブロンってことで、すぐ人からどう見られているか気にしたら、口にしていいんだよ、そして恥ずかしがることは恥ずかしくない、むしろ、そうやって人の目を気にして緊張することこそが、やってやろうと言う気持ちにも変化するし、その緊張こそが、最高のパフォーマンスを生み出す、大きな力になるんだよ」とぜひお子さんに伝えましょう。
 つまり、いのっちの電話とは、ウンコで言うところのトイレです。トイレってのはいつでも使えないとマジやばいです。刑務所にもくっついてるくらいです。しかし、今、24時間いつでも使える人からどう見られているか気にしていることを吐き出すトイレが世界中を探しても、僕の電話しかありません。多くは混雑していて、繋がりません。トイレが二つもある家ならあるのに、この人からどう見たレテいるかを気にする生理現象に関しては家どころか、公園にも、会社にも、学校にも、どこにもありません。トイレ不足に困っている。現在は深刻なトイレ危機なのです。自殺者が増えているのは当然のことと言えるでしょう。ウンコを出せる場所がなくて、野糞できるスペースもなければ、腸が破裂します。つまり、自殺問題は死にたい人の精神的な問題ではなく、徹底的にトイレ問題なのです。つまり、精神衛生面でのインフラの問題です。はっきり言えば、トイレを増やせば自殺が減ります。僕のいのっちの電話の重要性について、気づいていただけたでしょうか?
 詳しいことは添付資料の「孫正義への手紙」を読んでいただけたらと思います。そこに今、どれくらいトイレが必要なのかと言うことを試算しております。予算をいくらつければ可能かも見積もりだして導き出してます。
 トイレさえあれば、人からどう見られているか気にしていることから始まる、皆さんが困っている「悩み」というものは完全に消え去るわけです。しかもトイレは正直言うと、誰でも作れます。ま、野糞ってことです。つまりその辺で出会った人に、ま、友達が一番いいですが、しかも、優しい友達ですね、その人に一度、自分がいかに人から見られているかを気にしているかってことを話してみてください。優しい人ならきっと「それ私も」と言ってくれるでしょう。悩みじゃないよ、生理現象だよって実はみんな知っているんです。しかし、なぜかそのことをみんな自明の事としないのです。あたかも可愛い人はウンコをしないと妄信する中学生の男子みたいに、ちゃんとしている人は人からどう見られているかなんか気にしない聖人君子なんだ、と思い込んでます。中坊だけじゃなくて、この世界の人々みんながです。今日を限りに皆さんそんなウンコを腹に溜め込んで破裂寸前の聖人君子なんて
やめて、ぶっちゃけてください。そして、周りのぶっちゃけたがってる人のトイレになってあげてください。スカトロと言われようがいいじゃないですか。そこにこそ希望があります。みんなが正しく聖人君子で健康で悩まない社会を、だなんて馬鹿です。そうじゃなくて、みんな人からどう見られているか気にしてばかりのちっぽけな人間ってことが初期設定だと言うことをお互い伝え合わないと大変なことになります。僕はいのっちの電話を10年間やってますから、つまり、10年間、人のウンコを食べ続けてきました。その結果、ウンコには大した味の違いはなく、確かに臭いが、だからと言って避けたいと言うよりも、ほのかに郷愁を感じ、愛おしくなりました。なぜならそれは僕のウンコと同じだったからです。もう悩みのやめようぜ。悩むって、それ、ただ便秘で溜まってるだけだから、そこに何か精神的意味とかないから。すぐトイレに行って出してこい!ってやつです。頼むから溜め込まないで、破裂したら大変だ、ちゃんと肥溜めにためて、土の栄養にしましょう。あなたのおしっこやウンコだって、誰かにとっては栄養になるんです。
 僕がなぜ悩んでいないかは明白です。
 なぜなら自信を持って人からどう見られているかを気にしているからです。これこそが人間です。人からどう見られているかを機に知るから、人に優しくすることができます。人の体調を感じ取ることができます。人が喜ぶようなこともできます。躁鬱人はこの「人からどう見られているか気にしてしまう」ことの達人です。なんなら名人です。だからわれわれ躁鬱人は、あらゆる全ての人類のために、人からどう見られている気にしてしまう生理現象のためのトイレになるべきなのです。
 ご静聴ありがとうございました。
 私の発見は以上です。
 それではまた明日。

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