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躁鬱大学 その11 灰になるまでセックスをする躁鬱人


11 灰になるまでセックスをする躁鬱人

 鬱の時の過ごし方。これが一番知りたいのですが、どこを探してもありません。医者に聞いても教えてくれません。なぜなら彼らは躁鬱人ではないからです。躁状態のことをあれこれ書いてある本ならありますよ。北杜夫先生だってたくさん書いてます。でも鬱の時のことはあんまり書いてません。躁状態のことを書いてあるのを読んで楽しい時は、あなたは躁状態ですし、躁状態になると繰り返し言っているように自己中心的な思考に入ってますので、ほとんど頭に入りません。自分が鬱になった時に備えて、準備をしておく、そんなことは一切考えないのです。そして、躁鬱人は鬱になると、途端に調べ始めます。自分が一体、どんな特徴を持っているのか、鬱になった時にはじめて気になるのです。しかし、その時は、前章でお伝えしたように、もう思考回路が故障してしまっているので、客観的な視点にも狂いが生じているので、調べようとしても調べかたがおかしくなってしまってます。そんなわけで、インターネットでいろいろ躁鬱病に関して検索をして、どうせ、インターネットには何にも参考になる文章は掲載されていませんから、躁鬱病のまとめサイトみたいなところに向かっていくしかありません。そして下手な作家のどうしようもない文章、ページビューを稼ぎたいらしい下手なサイト制作者のどうしようもないまとめを、どうしようもないと思いながらも読みしかありません。なぜそんなことを僕が知っているのかというと、もちろん、僕自身がそうだからです。今日は僕が鬱の時にどうやって過ごしているか。そのどうしようもない姿を披露してみたいと思います。
 鬱になる前に、プチ鬱の状態があります。そしてその前に躁状態が必ずあります。躁状態の時の僕は、みなさん知っている方もいると思いますが、本当にすごいです。これぞ躁状態って感じで、原稿も1日に100枚くらい、しかもそのほとんどはツイッターの中で展開されていきます。人に読ませたいんですね。自分の思考を。そして、アイデアがひらめくと、ひらめいた瞬間、いや、もっというと、アイデアを口にする前に、もうすでに誰かに電話して、アイデアが思いついたので、それを実行してみたい、という宣言をしてます。しかし、今は、僕が突然電話してくるということはおそらく躁状態だ、と相手方も把握してますので、まず電話に出てくれません。それは寂しいことですが、仕方ありません。非躁鬱人は躁状態の躁鬱人と一緒にいると、疲れますので、なんせ24時間ずっと酔っ払っている状態で、しかも酒に酔っ払っているわけではないので、寝たりせず、まあだからシャブ中に近いのですが、そんなこともあって一緒にいたくないんですね。なんか突っ込むと、喧嘩もしますし、とにかく面倒臭いわけです。と、こんな感じでこじらせていくと、ほとんど友達はいなくなります。友達がいなくなると、躁鬱人は鬱をこじらせていきます。そんなわけで僕はこうしました。
「躁状態の時に、ひらめいたことを電話する相手をあらかじめ設定しておく」
 ということです。パソコンを使う時の初期設定みたいなものです。そうやって設定しておかないと、感覚だけで生きてますから、躁状態、鬱状態の時の行動もやはり感覚でやってしまいます。毎回違うことをしたいですからそうします。そうすると、完全にまとまらない人になってしまうんですね。もともとまとまらない人なんですから、さらに脳みその動きがおかしくなると、むちゃくちゃになってしまいます。だから多くの躁鬱人は周りの人から無茶苦茶な人だと勘違いされてます。しかし、ちゃんと初期設定をすれば、大丈夫です。初期設定をしたら、紙に書いて壁に貼っておきましょう。頭に入れておいてもダメだと理解することが大事です。とにかく僕たちの脳みそはゼリーどころか、砂の城みたいなところがありまして、風が少し吹くだけで形を変えていきますので、常に外付けハードディスクを用意しましょう。
 僕は前にもお伝えしたように、文学、美術、音楽とそれぞれ自分のひらめきを形にする分野の仕事をしてますが(ま、これも治療の一環なのですが)、毎日大量の作品を作ってますが、毎日担当の友達に添付ファイルとともにメッセージを送信してます。毎日、ひらめいたことを分野別に友達に伝えているわけですね。中でも、橙書店の久子ちゃんには一番お世話になっているのですが、彼女には、あらゆるひらめき、行動する前に連絡するね、と伝えてます。彼女は「何時でもいいから連絡しなさい」と言ってくれました。出来るだけエネルギーを放出する先を一つに限定しましょう。どうせあなたの思考は無限に拡散してます。一つしか放出先がなくても、そこで流れさえできていれば窮屈にはなりません。しかし、そのためにはその放出先になる人が、あなたに関心を持っている人でないといけません。躁鬱人はとにかく人の気を引くのが得意ですから、おそらく一人はそういう人がいるはずですが、鬱の時はそんなことも忘れてしまっているので、この初期設定は鬱じゃない時にしてください。じゃあ今はどうするんだよ、とおっしゃる人は僕に電話しましょう。鬱の対策は鬱になっているときにはできません。まずこの鬱になる前の対策がいかに重要かを頭に入れておいてください。と言っても、今、鬱なあなたはそんなこと言っても今がきついんだよ、となるし、躁のあなたなら全く持って僕の言葉は耳に入りません。次、鬱になったらなんて恐怖心は全くなくなっているので、効果がないんですね。
 さらに僕は鬱の時のためにもう一つ準備をしました。鬱になると全く外に出られなくなります。皆さんも知ってますよね。外に出られない理由は、もちろん体が動かないということもありますが、それだけでなく、むしろ、人の目が気になるんです。はっきりいうと、体は動くんです。あ、でもこれは非躁鬱人には言わないでいいですよ。実は体は動く、なんてことを言ってしまいますと、じゃあ皿洗ってよ、とか仕事に午前中だけでもきてください、とか、ちょっとしかことを頼まれてしまいますので、絶対に避けてください。鬱の時はちょっとした頼まれごともしないように。もちろんやりたいことならやってください。やりたくないことはちょっとでもやってはダメです。で、体のことなんですけど、そうです。実は動くんです。もう布団から出れないとか、体を起こせない、死人のように寝そべっている、とかいろいろ言うんですけど、それはそうとしかできないのではなく、そうしたいだけです。寝てたいんです。布団から出たくないんです。体を起こしたくないし、死人のように寝てたいだけです。死にたいと言う言葉もつまり、死んだように寝てご飯も食べないでお風呂も入らないで人にも逢わないで仕事もしないでただ寝てたい、ということです。このことに気づくと、少し、鬱の時の過ごし方が変化してきますので、皆さんもまず「自分ができないところ」を書き込んで、それを、全部欲望の現れなんだと再確認してみてください。

【鬱語】→【意味】

 外に出れない→外に出たくない
 布団から出れない→布団から出たくない
 死んでしまいたい→死んでるみたいに何もしたくない
 自分には何にもできない→何にもしたくない
 簡単な掃除とかもできない→掃除がしたくない
 人生には意味がない→人生には意味があるとすぐ興奮する自分に疲れて、今は人生はほどほどでいい、ぼちぼち生きていきたい。

 と言うわけで、あなたに実は何もできないことはないんです。非躁鬱人がこれを聞いたら、じゃあ、お前動けよ、みたいなことしか言われないので、注意してください。そんなことわかってるなら、すぐ動けよ、みたいな非躁鬱人の論理はただこじらせるだけなので、断固耳に入れないでください。そのためにも決して「実は体は動くんだけど、今は布団に寝ていたいから、死にたいとか言ってる」とかポロリしないでくださいね。つまり、今のままでいいんです。今までの自分は間違ってなかったんです。間違っているのはあなた自身ではなく、鬱語の読解だけです。つまり、語学の問題です。躁鬱大学は心技体、様々な分野の学問が集結している大学ですが、僕の専門は語学です。専門分野は鬱語の研究です。鬱語は人に理解される必要がありません。なぜなら鬱語はあなたの本当の思いが、日本語を通過して変形していった言葉だからです。一見、日本語のようですが、そしてその言葉は非躁鬱人にはちゃんと日本語として聞こえていきますが、実際の意味は違います。真逆の意味であることが多いです。しかし、それを口にしてしまうと、声となって、あなたの頭にも響いてしまうために、ついついその日本語の意味をそのまま受け取ってしまうんです。出来るだけ声にしないようにしましょう。それでも非躁鬱人から質問されます。「外に出たくないんだよね」と聞かれたら、頷けばいいだけです。スパイだと思って、行動しましょう。簡単に自分の本音をぶつけないようにしましょう。理解できない人から、ただの怠惰な人間だと烙印を押されてしまいかねません。寝てたい時は、今まで通りに「苦しくて、布団から起き上がれない」と小さく呟きましょう。でも実際は違うということも思い出す。これが今日覚えた技です。常に同時通訳するつもりで、今の鬱のあなたと話してみてください。きっと体は動くはずです。確認してみましょう。僕の場合はすぐオナニーをします。鬱で落ち込んでいるはずなのに、なぜかオナニーをすることはできます。はっきり言うと、綺麗なお姉さんがやってきて、裸になってくれて、全身を優しく撫で回して、それでパジャマを脱がせてくれて、口でくわえて30分ほど舐め回して、その後、僕は寝てるままで、上に乗ったお姉さんが自由に腰を動かして、昇天することができたら、多分僕は、もちろん、これは僕限定の話ですが、すぐに鬱が明けます。つまり、体は動きます。性欲も実はあります。でも窮屈なんです。バカみたいに羽を広げて、自分が思い描いているように世界が動いたら、すぐに鬱は治ります。そして、そのお姉さんとしばしの間、好きなだけ快楽に身を委ねて、元気になって、仕事を頑張ろう!君がいてくれたならとか思うことでしょう。しかし、なかなか世界はそのようにはできていません。だから窮屈なだけなんです。それを自分が悪い、ダメなやつだ、とかなんとかいって自分自身を攻撃しないようにしてくださいね。それは鬱語を全く理解していないことからはじまります。別に攻撃したいわけではないのです。力自体はあるんです。だからこそ体は動かすことができる。でも、その方向には動かしたくないってだけです。だから今日だけ、特別に、性格とかほっといて、とにかく体のウマが合う、異性、もちろん同性愛の方は同性、がただただ奉仕してくれるようなエッチをしたら、多分すぐに治ります。あ、これは僕の場合ですね多分。しかし、妻はそんなことを許してはくれません。だから隠れてするしかないのです。躁鬱人は仕方がないですが、そのままに自由に生きたら、流石に非躁鬱人が困ってしまいますので、かつ、非躁鬱人はその自由な姿をつい非躁鬱人に見せびらかしてしまうところがありますので、それだと人生を踏み外してしまいかねません。だから、出来るだけ黙っておきましょう。やりたいことやれればいいじゃないですか。別に人に言わなくても。人に言いたい癖があるのはわかりますが、言って自由が利かなくなるのと、言わないで好きにやる、二択の必要もないのは理解できますか? 言うから窮屈になるんです。どうせ躁鬱人には奇跡的に良心とかもほどほどです。はっきり言うと全くありません。なんせ全てにおいて念頭にあるのは、自分が気持ちがいいかどうか、だけだからです。人のことを考えて我慢して、その人に奉仕してあげるなんてことは全くできません。人にしてあげる、と言うことがそもそも苦手なんです。もちろん、それは人にしてあげることが気持ちよさに繋がるなら、話は変わります。われわれ躁鬱人は徹底してセックスが好きです。カンダバシもこう言ってます。
「この道(SEX)ばかりは灰になるまでです」
 なんだか最近は、男女の関係でもそんなにセックスを求めずにやっていく、みたいな、なんだかセックスだけしたいみたいなのは、ただ動物的すぎて、しゃれた人間には合わない、セックスだけ求めるって、昭和!とか言われたりしますが、それらは全て非躁鬱人たちのたわごとですので、無視しましょう。われわれ躁鬱人の栄養はやはりセックスです。しかも、やりたいようにするセックスです。結婚しているからこの人とセックスしなくちゃいけない、なんて気分になると、それは我慢になりますので、やめておきましょう。セックスレスではないです。その人がセックスの相手ではないだけです。セックスレスと言う言葉はおかしいです。その人は一つの家族を形成する同じメンバーかもしれませんが、セックスはそういうことではありません。躁鬱人はそんなセックスをすると、すぐに鬱になりますので気をつけてください。不倫をしてはまずいとお考えの人は、出来るだけ得意の創造力を発揮して、慣れてしまった非躁鬱人のパートナーの方とのセックスを充実させる工夫が必要となります。僕の場合は、工夫とはすなわち、興味がないのに、興味を持つように工作するってことですから、その行為自体が鬱を呼び起こすようです。だから、工夫をするくらいなら、セックスしたい人と思う存分セックスをします。それでいいんです。もちろん何回かバレました。僕だって昔はついつい口に出していたというか、妻に紹介したこともあります。しかし、いろんな紆余曲折を経て、ようやく、ですが、多分僕は成長が遅いんですね、でも、そのおかげで、僕とセックスの関係を妻に伝えることができるようになったところもあると思います。非躁鬱人はやはりルールを守らないとだめだ、ってなります。しかし、躁鬱人はルールを守ると鬱になりますから、とにかく非躁鬱人にバレないようにルールを徹底的に破る必要があります。破らずに非躁鬱人のいいなりになり鬱しかない人生を選ぶか、やりたいことをやるか。これを二択にするから思い悩むのです。冗談のような話ですが、実際に好きな人がいるが、家族がいるので諦めたが、もう死にそうだ、と思って本当に死んでしまう人がいるのですが。それが躁鬱人です。少し諦めて、ま、人生なんてそんなものだよな、とか思いながら、自分にできることをやらなくちゃいけないことも含め、ぼちぼちやっていくかあ、みたいな感じになると、躁鬱人は鬱になります。悲しいかな、われわれには多彩で精力溢れる生活がやっぱり大事なんです。だから問題は起きます。もちろん問題は起きます。しかも、問題を起こすと鬱になります。じゃあ、諦めるんですか? そうじゃないでしょう。一つ一つ考えるんです。自分が何をやりたいか、を。今の婚姻制度だけが正しいわけではないんです。でも、今の時代はそうなんですから、ルールを破ると罰せられることもあります。ま、しかし、違法ではありません。なので、出来るだけ自由な精神で、セックスにのぞみましょう。本当は、躁鬱人だけの集いがあって、気が合った人とサクッと気楽にしかも後腐れなくセックスができる会みたいなのがあって、家族も妻も理解してくれている、みたいな奇跡の展開があれば、自殺者は減らせるか、もしくは全くいなくなります。われわれ躁鬱人が自殺するとき、われわれはルールに敗れているのです。しかし、ルールに抗うと、短期集中しかできない躁鬱人は必ず長期戦に持ち込まれ、これまた負けてしまいます。ルールを破らずにルールにコントロールされずに、いかに生きていくか。これは躁鬱人永遠のテーマです。僕のケースをお話しておきたいところですが、これは講義であり、あらゆる非躁鬱人も見ている可能性があります。だから、詳しくは話せません。察してほしいです。でも簡単です。もっと気になる方、どうすればいいのかわからず、窮地に立たされている方、僕に電話すればいいだけです。対応策をお伝えできるかと思います。大事なことは一つずつ丁寧に考えること。常に自分が何をしたいかをたずねてあげて、そうじゃない道はまずはじめに消すこと。例えば、家族がいるのに、好きな人ができてしまった→別れてその人と付き合う、ってなると、打撃が大きい→じゃあその人と別れて、家族を取るかと聞くと、なんかそういうどっちを選ぶとかじゃない、と都合のいい感じになる→結局ばれた、やばい→でも別れるとかそういうことじゃない、家族とも楽しく死ぬまでやっていきたいし、でもこの好きになった人もまた、真剣ではあるすまん→だからと言って諦めるわけにはいかん→と言うことで、家族は運営しつつも、ある程度は我慢は必要だが、その人と別れるということも選ばずにそれぞれに納得する付き合い方を見つけていく。と一つずつ考えて対処をするんです。すぐにばれたやばいごめん別れるみたいな感じになると、まじで鬱になります。やめましょう。もちろん、そのような建前は必要ですし、非躁鬱人の前ではわれわれは本当にルールを平気で破る狂人になってしまってますので、そんな時に、自分には非がない、などと声高に叫んでは、人間関係が崩壊してしまうでしょう。そこは持ち前の笑顔とユーモアで、常に相手を喜ばせながら、その隙を見て、とにかく自分がやりたいことを黙って遂行するのです。
 今回はセックスについて話をしましたが、これは何もセックスだけの話ではありません。あらゆることにおいて、われわれ躁鬱人は現在のルールとの葛藤があります。だからこそ怒りがあるわけです。しかし、その怒りでもってルールを破壊しようとすると、死が待ってます。躁鬱人はルールの中で生きていかなくていけないだけで、死と冗談ではなく隣合わせなのです。なんでそんな簡単なルールも守れないの?と非躁鬱人たちは思うでしょうが、そもそもルールという概念が、定点観測的な決まり事なので、非躁鬱人的思考なので疑問に思わないのですが、躁鬱人にはとんでもない壁になってます。なんで気が向かない時にも会社に行かないといけないのか。なんで好きな人といつでも一緒にいれないのか。なんですぐに席を立って帰りたいのに、上司と飲んでるとできないのか。なんで今日は誰とも会いたくないのに、正月の集まりに参加しないといけないのか、なんで学校とか嫌いなのに保護者会に行かないといけないのか、そういう細かいところに至るまで、われわれはどこまでもルールに監視されてます。しかし、われわれ躁鬱人は無意識にルールに従うことはありません。ちゃんと立ち止まるんです。一度は。ちゃんとおかしいと感じる。ちゃんとこれが自然なことではなく、非躁鬱人たちが勝手に平均値の人間を作り出し、それに従わせるために作り出したのがルールだってことがわかります。非躁鬱人には毎日なぜ会社に行くのか、学校に行くのか、少しも疑問に思いません。そういう決まりだから、で終わりです。しかし、躁鬱人はすぐに気づきますし、その反応こそが、鬱なのです。
 鬱になった時にまず調査する必要があるのは、あなたがどんなルールに対して細かく反応したのか、ということです。必ず、あなたの自然な振る舞いとか違うことを、外部から要請されたのです。ウイルスが侵入しているんです。だから発熱をして、体に知らせている。その熱が鬱だってことです。鬱のこと話したいのに、ついついセックスのことについて熱が入ってしまいました。つまり、僕に今このセックスについてのルールというウイルスが侵入してきてるんですね、多分。そういう時に無視することなく、一つずつ考えてみましょう。ちゃんと向き合う、とかは言わないでいいです。ちゃんとがダメですから、そうではなく、一つずつの局面で「本当はどうしたいの?」って聞いてみるだけです。それがたとえルールを破っているとしても、あなたがしたいと思うのなら、させてあげる必要があります。そのやり方はどうするかってことを真剣に考える。それが生きるってことです。躁鬱人にとって生きるとは「いかにルールに縛られず、かつ破ることなく(つまり、ばれずに)、誰も悲しませずに(ま、何度かは仕方がないが、全体的には周りは笑って済ませられる)好き勝手にやりたいことをやる」ってことです。それが最終的に到達する躁鬱道です。きっとできます。それができるから、あなたはそれを欲望しているわけですから。できないことは欲望しません。鬱だからと言って、欲望を押さえ込まないでください。欲望がなくなったら、躁鬱人は死にます。この欲望こそが僕たちの血です。血流をよくしたければ、欲望に忠実に、でもばれたり、怒られたりせずに、全て実現することです。実現しようとする心意気が重要で、失敗しても、その心意気さえ消えていなければ、再度チャンスがあります。好きな人ができても、夫がいるから、妻がいるからって簡単に諦めないでください(笑)。やり方は無限です。生き方だって無限にあるのです。誰かの決まりきった退屈な生き方の型に自分をはめ込むのだけはやめてください。それは死を意味します。われわれ躁鬱人は実は死にたくなんかないんです。思いのままに草原を駆け抜けるように自由に人々と動物と触れ合い風を感じながら、素っ裸でみんなで抱き合って、ユーモア満載で生きていきたいのです。一人で家の中でこもりたいのではありません。僕はそれを知ってます。だからこそ、臥龍であるみなさんに声をかけているのです。
 それが僕の欲望でもあるのです。

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