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生きのびるための事務 第6講 新しい朝

 第6講 新しい朝

「これで10年分の初期設定が完了しました」
「なんでこんな方法を今までやってこなかったんだろうね」
「知らなかったから仕方がありませんよ。リフティングできます?」
「いやできない。野球部だったし、サッカーはやってこなかったから」
「ほんとそれだけってことです。リフティングだって、今からでも事務作業を徹底させたらできるようになりますよ」
「いや別にいいよ、リフティング興味ないし」
「いいですね。そうです。好きじゃないことは一切やらないでいいんです」
「生きるってことは、好きなことを継続すること、だからね」
「いい感じです。間違っても仕事をしてお金を稼ぐことなんかじゃありません」
「そんなの面白くないもんね。好きなことを継続していくことが、お金に変わると嬉しいけど」
「まあ、ゆっくりやっていけばいいですよ。どうせ最後は上手くいきますから」
「事務ってそう言えるからすごいよね。どうせ最後は上手くいく、かあ」
「事務の目的は、上手くいかせることで、それ以外はありませんからね」
「ジムありがとうね」
「はい、では僕はちょっと外に出かけますので、今度は自分でどうやってみるかの実験をしてみましょう」
「実践編ってことだね」
「はい。事務は常に実践のためだけにあります。創造は実践しなくてもいいんです。思いついたことをどんどん紙に描いたらいい。それが創造です。しかし、事務は違います。事務は何よりも実践するために存在してます。だから初期設定が終わったら、コンピューターを使うように、恭平のために編み出された事務を駆使していく必要があります」
「その都度、改良も必要になって来るんだろうね」
「はい、アップデートも必要になります」
「失敗もするのかな」
「いや、失敗は事務の世界には存在しません。あるのは、事務の方法が悪かったというだけで、上手くいくために必要なものをインストールするだけで問題は瞬時に解決するはずです」
「事務があると楽勝じゃん」
「何度も言いますけど、楽しないと、体力が失われてしまうし、気持ちも削がれますので、どんどん上手くいかなくなります。なんでもそうです。できるようになると、どんどん楽になるんです。スポーツでも楽器でも、はじめは力が入ってますから疲れます。でもどんどん楽になっていきます。だからこそ、より難しいことに挑戦できるのです。恭平はギターが得意ですよね」
「うん、結構うまいよ 」
「どこかで習ったのですが? つまり誰かの事務を使ったのですか?」
「いや、ピアノは教室で習ってたけど、ギターは完全に独学だよ」
「どうやって練習したのですか?」
「うーん、もう弾けなかった時のことは覚えてないけど、でも簡単なことだよ。好きな音楽があるじゃん、俺だったら、ビートルズのホワイトアルバムってアルバムがあるんだよ」
「私も好きですよ、あのアルバム」
「それをずっと聴いて、ギターの音色、メロディを空で口で言えるまで覚えてたから、ホワイトアルバムの楽譜を買ってね、あとはそれを使って、ひたすら弾けるようになるまで練習しただけだよ」
「練習した後に練習する前より下手になったことはありますか?」
「あるわけないじゃん。いつも少しずつだけど、それでも確実に上手くなってたよ」
「いい事務やってたんですね」
「そだね。毎日弾いてたし、ご飯食べるよりも楽器が弾きたいときは楽器を弾いていい、って勝手に決めてた」
「勝手に決めてたんじゃないですよ、それが事務です。ホワイトアルバムに絞ったこともまた」
「なるほどね!どうせ最後は上手くいく!」
「なんか嬉しいでしょその言葉」
「嬉しいよ。しかも事実だし!」
「気づいてないけど、みんな事務を実は自分で編み出してやっているわけです」
「でも、それが自分が生きていく上での仕事になると、どうしてやらなくなるのかね」
「リフティングできましたっけ?」
「いやだからできないよ」
「それと会社で働くってことが一緒になっているのかもしれませんね」
「ふむふむ」
「でもどんなことでもできるようになっちゃうんですよ。事務さえやれば」
「確かに、今なら俺もリフティングですらできるようになるのがわかるよ。上手くいく方法だけやればいいんだもんね」
「そういうことです」
「早く自分の仕事でもそれを実践してみたい」
「では、また今度会いましょう?」
「えっ、ちょっと出かけるだけじゃないの?」
「そうですね。しばらくいなくなるかもしれません」
「寂しいなあ」
「大丈夫ですよ。電話もつながりますし」
「あ、そうなの?」
「はい、私の電話番号は090-8106-4666ですから、いつでも電話してくださいよ」
「それは嬉しい」
「どうせ最後は上手くいきますから。そのイメージは決して捨てないでくださいね」
「こんなに楽になるイメージはないから、絶対に忘れないよ。そんな言葉を口にしたことがなかったけど」
「言葉もまた事務の一つですよ」
「抜け目がないなあジムは」
「それではまた」
「じゃあね」

 そんなわけで僕は一人になりました。と言ってもジムとは電話で繋がることができるから大丈夫なはずです。現状の自分も把握したし、10年後の現実も描き終わりました。どうせ最後は上手くいくのです。ところが、一人になると、やっぱりそんな簡単に上手くいくはずはないと不安になってしまいました。
 というわけですぐに僕は090−8106−4666に電話をしてしまいました。ほんと弱いやつです。
「はい、ジムです」
「お、ジム」
「どうしましたか?」
「なんかさ、一人になったら突然不安になったんだよね」
「フアン? なんですかそれは?」
「そうだった、お前はなぜか知らないけど、フアンという日本語を知らなかったね」
「はい、別に知りたいとも思わないので、知らなくていいんです」
「なんというか、何をしたらいいのかわからなくなって困ってるって、感じなんだよね」
「何をしたらいいのか決めたじゃないですか」
「まあ、そうなんだけど」
「今、何時でしたっけ?」
「ん? 今は夜9時だね」
「恭平の円にはなんて書いてましたっけ?」
「えっと、夜9時はね、寝るって書いてある」
「じゃあ、何をしたらいいのかわかりましたね」
「寝るってことか」
「はい。よかったです」
「いやちょっと待って、不安だから寝れないんですよ」
「いや、逆ですよ、寝る時間なのに、決めたのに、寝ないから、それが納得いかなくて心配してるだけですよ」
「えー、そうじゃないんだけどなあ」
「でも明日から決めた通りにスタートしてみたいじゃないですか」
「それはそうだ」
「じゃあ楽しく寝れる方法教えてあげますよ」
「わあ、それは嬉しい」
「遅くまでやってる花屋とかあります?」
「ないよそんなところ」
「じゃあ、何か種あります?」
「実家から送ってきた西瓜の種しかないよ」
「あ、それでいいですよ」
「え? それどうするの?」
「もちろん、植えるんですよ」
「どうやって?」
「シーチキン海鮮丼を入れてたあの丼に植えましょう」
「土もないし」
「今から外に出かけましょう。土なら腐るほどあります」
「どういうこと?」
「恭平の家の前に桃園川緑道って道があるでしょ」
「あるよ、中野にも阿佐ヶ谷にも繋がってる道。目の前の道のことね」
「はい、そこをちょっとだけ歩いてもらって、見た感じでいいので、一番気持ちよさそうな場所に行ってください。どんぶり持って」
「はい?」
「そこの植栽が植えられている土を丼に注いでください。そんなたくさん要りません。気持ちいいくらいに」
「全部気持ちいいしか価値判断がないんだね?」
「それが一番ですから。それで、その土の上にスイカの種をそのまま撒いてみてください」
「そんなんで芽が出るの?」
「どうせ上手くいきますよ」
「本当なの?」
「でももう騙されたと思わなくてもできるくらいには心柔らかくなってますよ恭平は」
「うん、そうだね。もうできちゃうよね。行ってくるよ」
「どうすればいいのかなんか本とかネットとかで調べなくていいですから。好きにやるんですよ」
「わかったよ」
 ジムの言う通り、僕は家を出て、緑道を歩くことにしたんです。5分くらい歩くと、植物がなんか元気にたくさん生えている角があって、そこが気持ちよかったので、座ってタバコを吸いました。でも僕は馬鹿だから丼を忘れたんですね。種だけゴミ袋から取り出して手には持ってたんですが。持って帰るのもめんどくさかったので、そのままその植栽がたくさん植えられているところに種を撒くことにしたんです。そっちの方が種も気持ちよさそうだなと思って。
 そうやって種を植えたのなんか小学生以来でした。そういえば、僕の大学時代の友人は、いつも小鳥の餌だと言っては麻の実を持っていたんですが、ポケットにいつも山盛り入ってて、歩きながら、毎日、放り投げて撒いてました。僕はあいつのことを思い出しました。ユースケってやつなんですが、ユースケはこの世は全て俺の庭みたいなもんだ、と言うわけですね。だから家もいらない、土地もいらない、って、同じ建築学科だったのに、設計一つしないんですよ。その代わり、どうやったら、公園の水でコーヒーを淹れても捕まらないのか、とか、放置されている空き地に椅子とかを不法投棄して、毎日座りに行ったりして、その研究結果をいつも大学で発表してました。大学の成績は最悪で、落第しましたが、結局研究内容が面白いもんだから、ベルギーの実験的な建築集団に雇われることになって、ビザもらって、ブリュッセルに飛んでいったんですね。すぐに大学はやめました。のちにレムコールハースというそれこそ世界的に有名な建築家の研究施設があるんですが、そこに入所して、英語は全く話せないのに、リーダーみたいになって、日本語を英語に通訳できる人まで特別に雇ってもらうことになったらしく、自分の彼女をですよ、かなり高給で雇ってもらったみたいで、無茶幸せそうなポストカードがうちに届いたことがありました。ユースケを思い出して、僕はスイカの種を撒いて、まだ足りないと思って、家にもう一回帰って、スイカごと持ってきて、それでスイカを頬張って、そのまま種をそのへんにユースケに捧げるような気持ちで吹き飛ばしました。植栽の下にある土が乾いてて硬くなってたので、ユースケがいつもやっているみたいに、両手で掘り返しました。ユースケはいつも公園の土もスコップで掘り返してたんですね。いつも地面はふかふかにしとけって言ってて、それでそのフカフカの土はベッドなんだ、と言い張って、よくそこで寝たりしてたんです。
 みんな変人だと言ってましたが、ユースケは風邪一つ引いたことがありませんでした。なんだかジムのおじいちゃんにも似てそうなユースケ。僕はそういうひとが本当に好きみたいですね。僕にはできないんですが、でもどこか憧れているところがあります。悲しい知らせなんですが、ユースケは後に住んでいたオランダのアパルトマンから飛び降りて死んでしまうんです。ユースケは躁鬱病で苦しんでいたと、彼女から聞きました。もう自殺者は一人も出したくありません。いつか僕は自殺防止のための活動を絶対にするんだとその時、誓いました。
 さて、家に帰ってくると、もうその頃には疲れてまして、気づくと2時間くらいなんだか作業してたみたいです。両指の爪は土で真っ黒になっていたんですが、お風呂はありませんから、かと言って銭湯にいく気力もなく、さっきまでは不安だったのに、またこれもジムの予言通り、どうせ上手くいくの精神で、知らない間に寝てしまってました。熟睡でした。スイカの神様と出会うような夢まで見てしまいました。スイカの神様の顔はユースケそっくりで、僕は久しぶりにユースケの顔を見たので、嬉しくて泣いちゃってまして、涙と一緒に目が覚めました。
 時計を見ると、朝の5時でした。
 不思議なことに不安はありませんでした。どちらかというと、やる気があるような気がします。
 なぜなら朝からやることが決まっているからです。
 ジムは「朝、目が覚めたら、まずは一番自分がやりたいことをやったらいいよ」
 と僕に言いました。確かにそれはそうです。それをやったらいいに決まってます。やらなくちゃいけないことを先にやると、疲れてしまいます。疲れない体で、何よりも先にやりたいことをやるのです。確かに僕はジムと一緒にそう決めました。一番やりたいこと。それが今は書くことなんです。僕は友人からもらった青いiMacの電源をつけて、原稿を書いてみることにしました。手書きではできませんし、やりたくなかったので、やりません。やりたいことしかやらないのです。というわけで、以下のような文章を書いてみました。

2001年4月14日  今から、原稿を書いてみる。何を書いたらいいのかわからなかったのに、ジムから教えてもらったやり方で書いてみる。ジムは僕に、何を書いたらいいのかを悩んでも仕方ないと言った。これがすごく楽になった。確かに僕は、何かを書きたいと思っているわけではなく、僕の体の中に何かを書きたい気持ちだけがあるだけで、今、書いてみてるけど、パソコンの電源を入れただけで気持ちよかったような気がする。それまで僕は、作家のような文章を書きたい、僕はジャックケルアックが好きなんだから、旅でもしながら、その時に感じたことを書かなくちゃいけない、話には筋がなければならない、キャラクターたちもそれぞれどんな性格か、どんなドラマが待ち受けているのか、みたいなことばかり考えていた。しかし、それだと書けなかった!で、今、どうして書けなかったのか、ということはスラスラと書けている!僕が考えていることをそのまま書くことはできている!つまり、これがケルアックの方法でもあったのではないかとすら書けている!ケルアックは原稿用紙1000枚分くらいの路上を、なんと三日で書いたらしい。覚醒剤はやってたらしいが、それでもただ自分の頭に浮かんだものをそのまま書いただけなんだきっと。と思うと、体の力が抜けて、僕はなんでも書けそうな気がしている、今。何かの本を書くんじゃなくて、書いたものが全て本になる。僕はただ書く。それだけでいい。その練習をここでやっていこう。

 なんだか、簡単に文章が出てきたわけです。これはとてもびっくりしました。ジムの方法が効いている証拠です。これが僕に合っている事務の方法ってことですね。これは本当に上手くいくのかもしれない、いや、もうしれない、ではなく、絶対これ上手くいくはず、いや、はずでもなく、これは上手くいく、と思いました。確信を持つとも違うんですよね、自然と上手くいく、これ体に合っている、って思えたんです。続きを読んでみましょう。

 僕は無職で、金が九千円しかない。そういう状態ではあるが、10年後の自分の現実はもうすでに設計した。これをジムは事務と言った。僕も僕なりに事務を進めていこう。ピカソだって、事務員みたいに生きていたんだ。もちろんピカソと僕が同じだとは思わないけど、それでも、芸術家として生きるのに、事務なんていらないって思っていた。しかし、そうじゃないことがわかった。ジムのおかげだ。ジムは「生きのびるための事務」という本を英語でずっと書いてきているのだが、いつかこのジムの本を翻訳したい、というか、翻訳するのは苦手だから、ジムから教わった「生きのびるための事務」を僕は僕で書き上げてみたいと思う。それはこの無職の僕がどのようにして事務をやることで、10年後、本を書き、絵を描き、歌を作っているかを、ここで書き残していくことで実現するんじゃないか。そんなふうに今なら思える。というわけで、僕はここで自分の状態を研究しつつ、実践に移していく過程全てを書いてみたいと思う。

 これ、もうすでに書くことが見つかっているようにも見えますね。自分が一番知りたいことを書く、自分が一番関心があることをそのまま止めずに書く。そういうやり方をした途端、文章が溢れ出てきたんです。

 まずはバイトの予約をしておこう。幕張メッセでの徹夜の仕事で一日3万円。電話をすればすぐに予約ができるので、電話を今しておこう。今月は4回入れそうだ。これで月12万円は稼げる。家賃は三ヶ月溜めているがとりあえず貯金ができるまでは溜めたまま進めていこう。年金と奨学金の支払い猶予は済ませた。経費が合計で95000円なので、25000円余る。一応、これで生活はなんとかなるだろう。この調子で何年もやりたいのか? いや何年もやりたくはない。じゃあ、すぐに自分の仕事で食べていけるのか、いや、それもまだ難しいと思う。それを考えると、早めにある程度、収入がもらえる定期的なバイトを探した方がいいと思う。でもこの調子であと半年はなんとかいけるはず。とりあえずその間に方法を整えていこう。
 次に仕事である。僕は何をやりたいと思っているのか。毎日、好きなだけ文章を書いて、絵を描いて、歌を作りたい。馬鹿な話、夢想だと両親は言った。しかし、両親はそのうちのどれもやったことがないはずで、わかるはずがない。経験者じゃないと何もわからない、これもジムから教えてもらったことだ。しかし、本を書いて、絵を描いて、歌を作っているひと、ってどこにいるんだろうか。まずはそれを考えてみよう。僕はケルアックが好きだが、ケルアックは小説、詩集は出している、でも絵は描いていない。音楽はやっていないが、ジャズバンドをバックにして詩を朗読したことはあるようだ。少し参考にはなるが、完璧ではない。ダヴィンチはどうだ。文章も絵も描いている。でも音楽はやっていない。でも彼は建築はやっている。そうか、僕は建築もできる。ジャンコクトーはどうか。文章も描いている。絵も描いている。音楽に関心は高いが、自分で演奏はしていないように見える。ピアノはうまそうだ。レーモンルーセルも小説、詩、そしてピアノはうまいが、今度は絵は描かない。アンリミショーはどうだ。文章は描いている、絵も描いている、でもやっぱり音楽まではやっていない。全てをやりこなせているひとはほとんどいない。参考になる人がいない。でも、近いひとはこれだけいる。どの人も二つくらいまではできるようだ。でも三つ以上となるとほとんどいない。それは難しいってことでもあるけど、僕はそのような人間になってみたいし、どれもそこそこ悪くないのではないかと思ってもいる。で、みんなアメリカ、ヨーロッパの人なので、生活の参考にはならない。
 では日本だとどうか。僕の師匠である建築家石山修武は建築をし、文章を書き、絵を描いている。三つやっている。やっぱり僕が高校生の時に見つけた先生である。やっぱり三つ以上やる人なんだ。じゃあ、彼がどうやって稼いでいるかを知れば参考になるかもしれない。石山さんはどうやって稼いでいるのか。建築設計なのか。しかし、よく考えると、建築設計は実験的なものばかりで、そんなにお金をもらっているとは思えない。むしろ生計は大学教授で立てている可能性が高い。早稲田大学教授の年収は1200万円周辺くらいだと先輩のリーに教えてもらった。なるほどそれなら、充分やっていけるし、建築設計でも下手な仕事はしないで済む。大学教授で安定させつつ、実験的な作風の作家という空気を醸し出すために、生計のためではなく、面白い建築設計だけに集中するのも上手だ。しかも、石山さんは本も書いている。本ではより広い範囲に自分の考え方を伝えることができるからか。もしくははじめは食っていけなかったからなんでもやるしかなかったのか。やはり石山さんの人生は僕が生きていく上での一つの指針にはなるんだろう。日本で生きていくんだから、日本人の自分の参考になるケースが必要だ。
 石山さんは1944年生まれ。1966年に早稲田大学建築学科を卒業している。僕と同じパターン。その後、大学院に行っているが、僕は金がなく大学院には行けない。2年研究し、石山さんは24歳の時にダムダンという設計事務所を仲間と立ち上げている。まずは教授ではなく、法人を立ち上げているようだ。しかし公式に発表している第一作目の作品は31歳のとき。7年かかっている。それまで何をやっていたのか。初めての著作は38歳のときである。それ以来、2年に一冊くらいのペースで本を出している(初期は)。現在57歳で13冊。絵は描いているが、そこまで売れている様子はない。これは趣味に近い作業なのだろう。建築家で言えば、磯崎新の方が売れているし、それで言えば、コルビュジエの方が売れている。建築家で画家もやるってコースで考えるとコルビュジエを参考にすべきかも知れないが、コルビュジエの絵に僕が全く関心がないし、たいした絵ではないので、意味がない。そこは文章も絵も一級品であるアンリミショーを参考にすべきである。しかし、アンリミショーはフランス人なので、作品の質に関しての研究対象にはなるが、生活の参考にはならない。やはりまずは石山修武の生活をチェックすべきである。しかし、石山さんも日銭は大学教授で稼いでおり、その安定は、僕が思うに、何かの弱さに見える。僕としてはしっかりと、自分が作ったものだけを売って生活してみたい。それでこそ、気持ちよく物が言えるはずだからだ。大学から捨てられたら食っていけなくなるんじゃつまんない。そうやって人から定期的に金をもらうことを徹底的に避けていこう。それは安定を捨てることではなく、僕にとっては身を守る方法である。ジムはいつも方法を間違えるなと言った。
 ということで、現実の状況を考えると、僕は大学院には行かないし、僕は金がない。でも金はバイトをするから問題が解決した。これで半年は問題がない。長く問題がない方法を見つけたいが、それは追々考えていこう。これで石山さんにとっての大学教授の職を持つということが、僕にとってはすでに解決しているわけだから、それはそれですごいことなのだと思う。なんと言っても、僕は金がいらないのだから、家賃さえ払えてたら百点満点なのである。飯も金がないなら食わないでいられる。あと、路上で歌えば、大学時代は1日に一万円稼ぐことができたので、足りないぶんは路上で歌えばいい。
 今、手元に何があるか。僕は何をやっていくのかわからないのだが、本を書き、絵を描き、歌を作ることは決めている。では本は持っているのか。書いたものがあるのか。今、僕の手元には、卒業論文と称して作った、ハードカバーの手製の200ページの本がある。これは路上生活者たちの住居の本なのだが、実は本の装丁、編集方法は、全て編集者都築響一さんの『TOKYO STYLE』という本をパクっている。ページのレイアウトもなんから、全部パクっている。どうせ中身が違うんだから、問題なしと勝手に判断したし、一度、都築さんにも直接見せに行っているし、その時、お前パクるなよと怒られなかったから、なんとなく、筋は通している。都築さんの手法もかなり参考になった。まず面白い写真集がない、から自分で作った、というところ。編集者なのに、大判写真も全部自分で撮影しているところ。さらに出版社から依頼があったわけではなく、そんな面白い写真集なんて誰も想像できないんだから、まずは自分んで全部自家製の本を作って、それを出版社に持っていって、作らないかとけしかけたところ。これ全部僕の参考になった。というわけで、僕は自分で撮影し、文章を書いて、パクリではあるが編集、デザイン、レイアウト、製本までした。それで早稲田大学建築学科の卒業論文で一位まで獲得した。ここまでは作戦通りだ。あとは出版社に持っていきたいところ。どの出版社にするか。知っているのは、HOMEというかっこいい雑誌を作っているアートディレクターである角田さん。どうしたらいいかまずは角田さんに連絡してみるのが一番いいと思うし、それ以外に、面白いと思うものを僕は知らない。角田さんは全然知り合いじゃないが、今すぐ電話をしてみよう。雑誌には電話番号が掲載されているので、すぐに電話してみた。すぐ怪しまれたが、なんだか学生に毛が生えたような声で、実際に学生に毛が生えたようなものだったわけだが、何にも知らないんですけど、角田さんだけに興味を持っているので、もしよかったら電話番号教えてくださいと伝えたら、なんとすぐに教えてくれた。というわけで、角田さんに電話してみた。やっぱりあれだけ俺がかっこいいと思った人だ、やっぱり自由の人だった、なんか面白そうじゃん、すぐに作った本を持ってきなよ、と言ってくれた。角田さんは目黒に事務所があって、デザイナーの事務所とか初めて行ってみた、角田さんは本当にこの人がデザインをやっているのかと思っちゃうくらい自由な人で少年みたいな人で、僕の本を見て、すごい、と言ってくれて、お前マジでやばいかも、と言いながら、リトルモアって出版社があって、そこだと出してくれると思うよと言ってくれた。今度はリトルモアに電話してみよう。なんだなんだこんなことが起こるのか。行動ってやばすぎる。自分が一番かっこいいと思った雑誌を作った人だったから当然だ。俺は生半可なものには興味がないし、マジで世界変えようとしているやつにしか興味ないし、飄々としているやつがいいし、生活の不安でびびっている僕なんかがビビってしまいそうな人と会いたい。会ったらやっぱり気持ちよかった。アンリミショーのことも知ってたし画集まで持ってて、見せてくれた。ケルアックの直筆の文字が掲載されている雑誌まで見せてくれて、やっぱりいいものをみてるからこそ、作品もすごいんだなあと思った。角田さんは奈良美智さんのことも知っていて、もともと予備校の先生で一緒だったらしく、絵を売っていくことがどういうことかも色々教えてくれた。そっかあ、ニューヨークのギャラリーの大半はマフィアと変わらないような人たちがやっていて、もちろん高値で売れることは売れるけど、そういうところと関わるよりももっと自由に好きにやった方がいいよと教えてくれた。ギャラリーなんかに入らなくて、自分でやってるお前の方が面白いと思うけど、と言ってくれた。元気が出た。絶対にギャラリーなんか入らないぞ。とりあえず明日、リトルモアに電話してみよう。ここしか出してくれないと思うよ。自由な出版社ってほんと今少ないから、そこがダメだったら他のところってものはなくて、そこがダメだったら、またそこに電話してみて、って角田さんが言ったとき、僕はそんなやり方があるとは知らずに驚いたけど、そりゃそうじゃん、それしかないじゃん、それだったら、必ず本が出るから、って言った角田さんに感謝したし、今はそうやって励ましてくれた角田さんについてならどれだけでも書ける。そうだ、僕は今、本が書けている。これは僕の意識のまんまに書いているからすぐ本にはならないと思う。角田さんだって、穴はまずは小さく開けた方がいいよーって言ってた。まずは建築学科卒業の人っぽく、建築関係の流れで本を出したらいいんじゃないか、って。確かに僕は建築ってことで、この〇円ハウスって本を作ったわけじゃない、僕はホームレスって言われているおじさんに衝撃を受けて、その人から教えを受けて、大学教授なんかよりもその教えが的確で、これこそ家だと思ったからだし、そんな家を探す、これは僕にとっての路上というケルアックの小説に対するアンサーだったんだけど、そんなふうに広げちゃうと本にならないから、建築学科の卒業の俺が、建築学的に路上生活者の家を調査した本ってことで、いいのかもしれない。でも違う。違うけど、穴は小さく。まずはこの本を、実際に本にして、世に問うことからはじめよう。大丈夫だ。困ったら、ジムの言葉を思い出そう。どうせ最後は上手くいく。

 文章はいつまでも止まりません。僕はこの時、見つけたんです。どれだけでも毎日10枚以上、はっきりいうと、何枚でも書く方法を。
 どうすればいいかって、簡単です。困っている自分が、どうやって、生き延びていけばいいのかを真っ直ぐ書きたいように書く。僕は出会った人、助けてくれた人、もう死んでしまったけど僕を励ましてくれた人を、そこでどれだけでも書くことができました。僕はどうやって生きていくかを考えるのではなく、全部どうやって生きていくのかを書いたんです。考えるよりも先に書きました。ジムの教えの通りです。知らぬうちに僕はどれだけでも書けるようになりました。でも、いつまで経っても本にはなりませんでした。でもジムがいたから大丈夫です。彼は何年も一生本にしない本を書き続けている天才です。彼がいるのに、僕は文句は言えません。そういう人がいるってことがどれだけ意味があるのか。ジムって人自体がそのまんま事務にも見えてきました。ユースケだって、ジムのおじいちゃんだって、そして、新しく出会った、角田さんだって、みんな僕の事務になっていったんです。
 じゃあ、絵はどうする。歌はどうする????
 僕はいつまでも書き続けました。
 この続きはまた次回に。金も何も増えていないのに、僕は自分の生活が豊かになっていくのをはっきりとこの体で感じてました。
 事務が動き出したんだと思います。ジムから巣立ち、僕は自分のジムを自らの体の中に生み出そうとしていることに気づきました。

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