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特別編 人生変わる夏だった

「共同親権ホラー」は、共同親権の導入を心配する弁護士たちが創作したホラー短編です。

作:二本松海奈

 聴いたこともない、寂しい怒りの旋律だった。
 カフェ「白猫」の店長が出勤すると、店内からピアノの旋律が聴こえた。ドアの隙間からそっと覗くと、まだ少年の面影を残した横顔が見えた。
「あっ、店長すみません。ピアノがあったから、つい」
思わず店長が拍手をしたので、指を止めた演奏者は立ち上がって蓋を閉めた。
「いいのよ、興味深い演奏だったわ。今の曲はシューマンの曲ね」
「はい、トロイメライです」
 耳まで真っ赤になっている青年は、先週から雇ったばかりの北村大智だ。
「トロイメライ。子供の情景・作品15の曲ね」
 俯いている北村に、店長は笑顔で歩み寄った。詳しく言い当てられ、北村は驚いた顔をしたものの、緊張で口を開いたまま言葉がうまく出ない。
「実はね、このピアノは私が使っていた物を実家から持ってきたの。私、ピアニストになりたかったのよ」
「そうだったんですか。俺も、そうでした」
 店長は音もなく椅子を引くと、軽やかにトロイメライの続きを弾いて見せた。
「子供の情景、そして技術は確かだけど叩きつけるような激しい音。何か、子供時代のことでも思い出したのかしら」
 店長は手を止めずに語りかけた。その旋律は、梅雨空をかき乱し、青空を呼ぶような音色だった。この音色と優しい声音に包まれると、誰もが透明になる。北村は静かに、一筋の涙を流した。

Ⓒ入れ子構造

「お母さん、すごいよ、俺、フランスに行けるかもしれない」
 学校指定の斜め掛け鞄を振り回しながら、13歳の北村は小さなアパートの部屋に息せき切って帰って来た。
「うるせえぞ、階段は静かに上がれって言ってるだろうが」
 いつもは怯えてしまう1階の得体のしれないおじさんの怒鳴り声もこの日は気にならなかった。
「フランスってどういうことよ、大智」
 狭いベランダに無理矢理に干した家族3人分の服を取り込んでいた母親が、怪訝な顔で振り向いた。
「それがさ、うちの中学校ってフランスに姉妹都市があるんだって。もちろん、パリじゃないよ。でもさ、結構賑やかな街なんだって」
 洗濯物をベランダから投げ込みながら、母は耳だけを北村に向けている。
「見てくれよ、このプリント。夏に交換留学をするんだって。1週間だけど、うちの中学からその姉妹都市に5名が行って、代わりに5名のフランス人がうちの中学に来るの。フランスでは行く学校も選べて、音楽コースのある学校も行けるんだって」
 ベランダに割り込んで、母の眼前に北村はこれでもかと大きくしわくちゃのプリントを広げた。母の顔色が夕日に染まって明るくなった。
「まあ、凄いじゃない。費用も市が負担しますって書いてあるわ」
「俺、これでピアノを再開できるかな。フランスで1週間でも音楽を習ったら、そこで才能を認められるかもしれないよね。お父さんだってきっとピアノまたやらせてくれるよね」
「お父さんに頼らなくてもピアノはフランスでできるわよ」
 夕日のオレンジが母の顔から薄れた。北村が空を見ると、太陽は光を投げかけるのを諦め、半身を隠していた。
「どうしてお父さんはピアノをやめろって言ったんだろ」
「そんなこと、気にしなくていいのよ。交換留学、素敵じゃない。申し込みなさい。同意書にお母さんが印鑑押してあげる」
 母は片耳にウエーブの取れかけた長い髪を掛け、ベランダから茶の間に戻った。弟の智弘がそこにまとわりつく。
「こら、智弘、お母さんは書類作ったらすぐにお仕事に行かないといけないからお兄ちゃんと遊んでなさい」
 まだようやく小学生になったばかりの年の離れた弟は、意味が分かっているのかどうなのか、北村に歓声をあげながら飛びついた。
「おっ、やるのかこの大怪獣め」
 北村はいつもより陽気な声で弟をくすぐった。弟はますます嬉しそうに何度も飛び掛かってくる。どこにでもある家庭の風景。ただ、そこに父はいない。
 3歳から9年続けたピアノを両親の離婚を機にやめて、狭いアパートに引っ越した。住み慣れた家にはあったピアノが、新しい家にはなかった。北村はそれまで、どこの家にもピアノはあるのが当たり前と思っていたので、それが常識ではなかったことにまずショックを受けた。
 北村はずっと、自分にはピアニストになる以外の人生はないと漠然と考えていた。いつか、ヨーロッパの大舞台でピアノを弾きたい。きっとできる、とピアノ教室の先生はいつも励ましてくれていた。
「その先生とも、ピアノを辞めてからはずっと会っていません。父と離婚した直後の母が、ピアノ教室を辞めると挨拶に行った時も、何とか続けられないか父に直談判に行くと言ってくれたそうです」
 トロイメライが柔らかく流れる中、低い声が感情を押し殺して響いていた。
「それで、あなたは交換留学に」
 店長の声が歌うように混じった。
「行けませんでした」
 学校に書類を持って行った北村だったが、担任に呼び出された。
「ご両親が離婚していることは知ってる。でも、今は共同親権の時代だ。お母様の同意書だけじゃ足りない。お父様の同意書も必要なんだ」
 言いにくそうに生徒指導室で担任は同意書をもう一枚差し出した。
 どうして生徒指導室なんだろう、北村は殺風景で湿っぽい部屋を少し見渡した。離婚している家庭なんて、うちだけじゃないのにと少し怒りが湧いてきた。生徒指導室に入っていくところをクラスメイトに見られるだけで、後ろめたいことをしたのではないかとあらぬ噂を立てられる。北村自身、何もしていないのに、両親の離婚を恥ずかしいことだろうから聞かれないようにしてあげよう、という担任の配慮がかえって「お前は普通ではない」と言われたようで気持ち悪かった。
「お父さんに反対されないと良いな」
 生徒指導室を出る時、憐みを浮かべている担任の顔を今でも北村は忘れていない。
「父は、稼ぎは良かったようです。でも、自分のためにしかその金を使えない人だった。子供に金を使うことを嫌っていました。学校は公立しか行かせない、習い事なんてもってのほかという考えだったんです。まあ、これは中学生のころは知らなかったことですが」
 滑るような軽やかな店長の指から少し目を逸らしながら北村はつぶやいた。
「お父さんとはどんな関係だったの」
「苦手でした。仕事を理由に、帰りも遅くて、小さい頃は起きてるうちに父が帰ってきたことはなかったので、遠い親戚のような感覚。子供にとっては、一緒に過ごした時間が全てです。どう接していいか、分からなかった」
 店長は一瞬手を止め、次の曲を躊躇わずに弾き始めた。
「明るい曲も弾きましょうか。ラプソディ・イン・ブルーなんて、ありきたりだけど私は好きだわ」
 母が父に会いに行き、同意書を渡すことにした。締め切りまであと3日と迫っていた。
 アパートの玄関から出て、交差点が見える共用廊下で母の帰りを北村は胸を弾ませて待っていた。茶色のトレンチコートを着た、小さな母の姿がどんどん大きく見えてくる。
「お帰り」
 つい大声で手を振ったが、母は顔を上げないままアパートの階段の真下まで来た。待ちきれなくて、一段飛ばしで階段を下りた北村が見たのは、顔の半分を青くした母だった。
「どうしたの、お母さん」
 すぐには状況が飲み込めないほど、北村は子供だった。
「ごめんね、交換留学、行かせてあげられない」
 母の説明は、最後は嗚咽に変わった。そのまま膝をついて泣き崩れた母を、北村は混乱したまま抱き起した。
「うるせえぞ」
 こんな時もあの1階のおじさんは叫んでくる。その時、北村はこのアパートには味方が誰もいない、そう言われた気がした。
「ねえお母さん、どうしてお父さんは交換留学に反対したの」
 母が少し落ち着きを取り戻したところを見計らって、北村は切り出した。ほとんど色が付いていない薄い緑茶を母の前に置いた。
「大智が、お父さんにあんまり会いに来ないからだって」
 母は濡らしたハンカチを頬に当てて冷やしながら言った。
「何だよそれ」
 声が裏返った。
「だって、お父さんはピアノの発表会も一度も来たことがないじゃないか。たまの休みにも、俺が家でピアノ弾いてたら出て行って聴いてくれない。俺に興味ないのはお父さんの方だろ。会いに行くったって、行っても話すことなんてない。お父さん、今は別の家族が一緒に」
「やめて」
 母が金切り声で叫んでハンカチを投げ付けてきた。
「何すんだよ、お母さんまで」
 二人の騒ぎを聞きつけて、弟が昼寝から目を覚まして近寄って来た。
「悪いのはお父さんだろ。知ってるんだよ、智弘と同じ年のもう一人の弟がいることも。お父さんは、その女の人とずっと付き合っていたんだ。お母さんと離婚してすぐにその人と再婚したことも俺は知ってるんだよ」
「誰から聞いたの」
 母の目が吊り上がった。北村は一瞬だけ怯んだが、自らを奮い立たせた。
「お父さんの方のおばあちゃんだよ。だからうちにお金も送れないって」
「何てことを子供に言ったの、あの人たち許せない」
 母の涙はますます勢いを増し、それに怯えた弟が泣き始めた。
「うるせえぞ、いい加減お前ら静かにしろ」
「うるさいのはお前だ、黙れ、黙れ、黙れ」
 北村の口からこれまでにない咆哮が発せられた。その異様な剣幕に、2階まで上がって来ていたおじさんは尻尾を巻いて逃げ出した。階段の途中で足を滑らせて派手に転ぶ音がしたが、北村にはそれが世界の崩壊の音に聞こえた。

Ⓒ入れ子構造

「こんなに楽しい曲、俺が弾いたのはいつが最後だっただろう」
 ラプソディ・イン・ブルーを聴きながら、北村は座り込んだ。
「それで、ピアノは」
 店長は曲調とは裏腹な物悲しい声で尋ねた。
「結局、もう再開できませんでしたよ。ああ、学校の音楽室で隠れて何回か弾いたっけ。でも、もうコンクールも出られないし、音大にも行けないのに、何やってるんだろうって虚しくなって、それもやめました。父にも会っていません」
 最後まで弾かずに、店長が手を止めた。
「えっ、やめちゃうんですか」
「続きはあなたが弾いてほしいわ」
「いや、弾けるかなあ。もうずっとこの曲は弾いてないし」
 ぎこちないながらも、力強いラプソディ・イン・ブルーが午前9時の明るい店内に広がった。
「あの夏、交換留学に行っていたからって、ピアノの才能をたった1週間で見いだされてピアニストになれたとは思ってません、今では。そんなに世の中甘くない。でも、そんな人生もあったんじゃないかって、時々思うんです。特に、悲しいことがあった時や、こうして就職したような、人生の節目には。あの夏が、人生を変える夏だったんじゃないかって。いや、きっとそうだったはずだ、なんて」
 店長は黙って椅子に腰かけて目を閉じている。
「ストリートピアノとか、馬鹿みたいに今でも挑戦するんです。でも、もうあの頃みたいには弾けない。技術じゃなくて、無邪気にピアノが好きだったころ、ピアニストになれると信じていたあの楽しい気分で弾けない」
 天窓から差し込む光がスポットライトになって北村をまばゆく照らしている。その自然のライトに気付かず、北村は指を運び、曲を紡ぐ。
「父は、その後も色々と同意を拒みました。やりたいことはほとんど阻まれた。だから、俺は高校を出てすぐ、働こうって決めたんです。弟は好きなことをさせてあげたい。父は、相変わらず何でも弟のしたいことに反対するでしょう。でも、お金で不自由をしないように、俺は自分の夢を捨ててもいいから、弟のために働きたいんです」
「夢をそんな簡単に捨ててるようには見えないわ」
「そんなことは」
「弾く手が今、止まっていない。それが証拠じゃないの」
 テンポを上げて激しい曲が静寂を裂いていく。
「あなたはもう成人している。つまり、共同親権の呪縛から逃れられたってことよ。確かに、あなたと父親の血縁が消えるわけじゃない。でも、あなたは自由になれたのよ、やっと」
「もう無理ですよ、ピアニストは。音大も行けなかった」
「じゃあなぜ、あなたはここに就職したの。うちはそんなにお給料もいいわけじゃない。弟さんのためなら、他の仕事でも良かったはずよ。ここにピアノがあることを知っていたからじゃないの」
 鍵盤に涙が落ち、ラプソディ・イン・ブルーに一音を添えた。
「私がピアニストを諦めた理由、それは交通事故よ。後遺症が残って、指が前ほど自由に動かなくなったの。さっきの曲、聴いたでしょう。弱々しく、情けない音を。もう、あなたのような強さで弾けない。あなたは、まだそれを持っている。あなたの才能はどんなに父親が反対しても消せるものはない。努力する気持ちまで、父の面影に蝕まれて消さないでちょうだい」
 ますます曲は早さを増した。ぎこちなさは消え、指が鍵盤を縦横無尽に走り回っていた。最後の一音が鳴り終わると、店長は大きな拍手をして、北村の両手を包み込んだ。

Ⓒ入れ子構造

「ありがとう、こんなに他人のピアノに嫉妬したのは初めてよ」

 カフェ「白猫」の名物は、優しい店長とのおしゃべりである。心を誰もがほぐされる、不思議な魅力がある。そして、最近そこに、新人店員のピアノの生演奏が加わった。もの悲しい中にも、生きる希望を感じると言われている。
 父が誰であるか、法律がどうであるか、それは自力で変えることはできない。しかし、抗うことまで、人生の全てを奪うことはできないのだ。    (了)

<解説> 
改正民法824条の2
(1) 親権は、父母が共同して行う。ただし、次に掲げるときは、その一方が行う。
一 その一方のみが親権者であるとき
二 他の一方が親権を行うことができないとき
三 子の利益のため急迫の事情があるとき
⑵父母は、その双方が親権者であるときであっても、前項本文の規定にかかわらず、監護及び教育に関する日常の行為に係る親権の行使を単独ですることができる。
⑶特定の事項に係る親権の行使(第1項ただし書又は前項の規定により父母の一方が単独で行うことができるものを除く。)について、父母間に協議が調わない場合であって、子の利益のため必要があると認めるときは、家庭裁判所は、父又は母の請求により、当該事項に係る親権の行使を父母の一方がですることができる旨を定めることができる。

 共同親権が適用されてしまうと、「急迫の事情」にも、「日常の行為」にも該当しない事項については、父母の共同決定が必要とされる。父母の協議で決まらない場合は、裁判所に申立てをすることができるが、ひとり親家庭に、そうした特定事項のために法的手続きをとらせることは、非現実的であり、多くの場合、子どもは夢をあきらめることになることが予測される。
 本件は、〆切まで間がないため「急迫の事情」があるとも考え得るし、交換留学は「日常の行為」であると解釈する余地もある。しかし、事後的に違法であると評価される可能性がある以上、学校などが慎重に対応し、父母双方の許可を得ることを条件とすることも予想されるところである。
 共同親権は、子どもの自由を増やす制度ではなく、同居親に対する不信感に根ざした監視・監督の制度である。父母の教育方針が異なることが離婚の原因になっているような場合も少なくないが、そのような場合でも、裁判所が共同が可能であると判断すれば、共同親権が強制される可能性がある。共同親権が適用されれば、その後は、別居親におうかがいをたて、意見が別れれば、説得する必要が生じる。「ハンコが欲しければ頭下げに来い」をはじめとする嫌がらせが続くことになりかねない。そういう親は確実に存在する。
 本作品は、法律が絶望的な状況をうみだそうとも、人生をあきらめないでほしいという願いがこめられている。

 共同親権ホラーは、離婚事件やDV事件を扱う弁護士がかわるがわる不定期に作成するシリーズです。本事案は、下記の意見書の事例2を参考に作成しました。


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