見出し画像

 8月。夏休みの良く晴れた日。光司は小学校に入って初めての夏休みを迎えていた。太陽の強すぎる光が光司の住む家の庭にも降り注ぎ、庭の中央に干された光司の敷布団を白く輝かせている。
 その敷布団の中央には大きく濡れた後。
 光司は昨夜、おねしょをしてしまったのだった。年少のときにおむつが外れて以来のことだった。わざとらしく道に向けて干されているおねしょ布団を横目で見ながら、光司は庭に面したリビングの床に寝転がっていた。


Ⓒねこ⭐︎はち

 「おう、ションベンたれ、何してるんだそんなところで。宿題はしたのか?」
 意地の悪いしわがれた声で、祖父の文治が光司に話しかけてきた。
 「・・・。今日の分は終わった。」
 「そうか。じゃあ外にでも遊びに行け。せっかくの夏休みだ、天気もいい。それともあれか、寝ションベンしたのが恥ずかしくて、外には出たくないか?母親に甘やかされて育つと根性なしに育つもんだなあ。これで何度目の寝ションベンだ?立派な小学1年生様、だな。」
 そういって、文治はガハハと大声で笑いながら、奥の部屋へと引っ込んでいった。
 入れ違いに晴子がリビングにやって来て光司に声をかけた。
 「光司、出かける時間よ。」
 今日は、カテイサイバンショというところへ行くのだと、晴子から聞かされている。チョウサカンという人が、光司と話しをしたがっているため、会いに行くらしい。チョウサカンから光司へのお手紙も届いており、ひらがなで書いてあった。父親と母親がこれからのことについて話し合いをしていること、そのことで光司の気持ちや考えを知りたいこと、そんなことが書いてあった。

 晴子の運転する車に揺られながら、光司は、これまでのことを思い返していた。思い出すのは、晴子が文治と貴文にひどい言葉で馬鹿にされ、責め立てられている様子。そして貴文と晴子の怒鳴り合う様子・・・。最近の思い出は、悲しいことが多いな・・・。
                                                                 
 光司の小学校入学式の朝、まだ少し肌寒かったが、光司は不思議な高揚感に包まれており、何だか暑いような気さえしていた。晴子が着せてくれたよそ行きの服がこそばゆい。しかし光司の高揚感は、すぐに冷や汗へと変わってしまった。

 「どういうことだ?俺が出席できないだと?!」
 「お義父さん、前にもお伝えしたように、学校から各家庭2名だけだとお知らせが来ていて・・・」
 「うるさい黙れ!嫁の分際で!じゃあお前が引っ込めば済むことだろう!」

 文治が、着慣れないスーツに身を包み、ネクタイを締めようとしながら晴子を怒鳴りつけていた。卒園式のときと同じ紺色のスーツを着終えていた晴子は、文治に何かの紙を見せながら努めて穏やかに話しを続けていた。しかし文治の怒りは収まらず、忌々しげにネクタイを勢いよく外して床に投げつけた。
 「ふん!!好きにすれば良い!何が入学式だ!どうせ校長のつまらない与太話を聞いて気のない拍手をするだけだろう!勝手に行け!!」
 文治は入学式への出席は諦めたようだったが、まだ腹の虫がおさまらない様子であった。晴子へ向けていた顔をぐるりと光司に向けて、文治は言った。
 「おい!お前の母親は世間知らずのバカ女だ!良く見ておけ、お前はこういう女と一緒になるなよ!」

 どんな表情をして良いのか分からず光司はうつむいた。入学式の日は嬉しい日だったはずなのに、どうして朝から悲しい気持ちになっているのだろう。光司は訳が分からず目に涙を浮かべた。
 「ふん、泣いているのか?!ああ、ダメな母親に甘やかされて育つとこんなもんだな!」
 文治は言いたい放題言ってから、ドスドスと足音を立てて自分の部屋へ戻っていった。

 それまで洗面所でヒゲを剃っていた貴文が現れた。
 「光司、晴子、そろそろ行こうか。遅れるぞ。」
 貴文は文治の暴言が聞こえていなかったのだろうか。何事もなかったかのようにスーツの上着を羽織り、光司の手を引いて玄関に向かった。晴子は、涙で崩れた化粧を慌てて直し、後ろから小走りで追いかけてきた。

 小学校へ向かう途中、貴文が晴子をたしなめるように言った。
 「晴子、もうちょっと上手くやってくれよ。親父も光司が可愛いんだよ。」
 晴子は、文治から怒鳴られていたときよりも悲しそうな表情をしているように、光司の目には写った。                                 

 5月、光司の小学校入学に伴って晴子がパートの仕事を初めてから約1か月が経った。幼稚園から小学校へと変わったことで光司も晴子もとまどうことがあったが、お互いに慣れてきた、そんな時期だった。
 光司は久しぶりに熱を出し、学校から晴子の勤務先へ電話が行った。ところが晴子はすぐに迎えに行くことが出来ず、退職して悠々自適の文治が光司の迎えに行くことになった。
 晴子は勤務先を早退し、光司を病院へ連れて行くために家に急いだ。
 「おい、こんなことならパートなんぞ辞めちまえ!母親のくせに、子どもが熱を出しても迎えに行かないのか?掃除も適当になって、メシも惣菜が増えたんじゃないのか?作り置きなんぞ食いたくもない!」
 文治は、息を切らせて駆け込んできた晴子にいきなり罵声を浴びせた。
 「お義父さん、お迎えに行って下さってありがとうございます。」
 晴子は文治の顔を見ないで済むように会釈をしながら礼を述べ、かかりつけの病院へ行く支度を始めた。
 「ふん!どこまでも可愛げのない嫁だ!」

 晴子は光司の手を引いて車に乗り込みエンジンをかけた。
 「光司、お熱なんて久しぶりだね。病院に行こうね、大丈夫だよ。」
 晴子がそう言って光司に微笑むと、光司は少しほっとして、ほほえみ返した。                                

 6月に入り、雨でジメジメとした日が続くようになった。
 「ねえ貴文さん、雨の日が多くて洗濯物が乾きにくいの。乾燥機能がついた洗濯機に買い替えるか、乾燥機を買い足したいんだけど、どうかしら。私のお給料も少しだけど入るようになったし。」
 「そうだなあ・・・。」
 貴文が気のない返事をしたところで、文治が割って入った。
 「乾燥機?今の嫁は手抜きが得意だな。乾燥機なんぞいらん!朝早く起きて干せば良い。何でもすぐに手を抜くな!食器洗い機を買ったばかりじゃないか。外で働いている旦那に食器を洗わせるなんぞ嫁の風上にも置けないことをしていたから、仕方なく買うことを認めてやったんだ。乾燥機まで買ったら嫁など要らなくなるぞ。」
 「・・・だってさ。晴子。俺も、最近の晴子は手抜きが多いと思うよ。それくらいなら辞めたら?パート。俺のほうが稼ぎも良いし、小遣いはちゃんとあげるからさ。家のこと、もうちょっとちゃんとして欲しいんだけど。」
 貴文は晴子の味方をすることもなく話しを終えて席を立ち、先ほどヒゲを剃り終えたばかりの洗面所に再び向かってしまった。

 一部始終を見ていた光司は、いつもよりひときわ大きな声で
「行ってきま〜す!!」
と言って、玄関を勢いよく飛び出していった。
身体に比べて大きなランドセルをガタガタ鳴らしながら、光司は、心のモヤモヤを振り払おうとしていた。
 
 その日の夕食時、文治はいつものように晴子の食事に文句をつけ始めた。魚の焼き加減が甘い、味噌汁が薄い、品数が少ない、彩りが悪い、昔の嫁は・・・云々・・・。晴子はいつものことだと思いつつも表情を変えず、文治の気分を害することのないように淡々と応対していた。
 ところが、珍しく貴文もそこに加わって晴子を責め始めた。
 「俺さ、晴子が頑張っているから今まで何も言わなかったけど、働き始めてから色々と適当だよね。食事はワンパターンだし、Yシャツをクリーニングに出してくれなくなったし、光司はしょっちゅう忘れ物してるみたいだし・・・。俺の同僚はほとんど専業主婦なんだよね、奥さん。晩ごはんの写真とか見せられると肩身が狭いんだよね、俺。奥さんがお子さんのことしっかり見てるから、忘れ物なんかさせたこともないってさ。ほんと恥ずかしいよ。自己実現もいいけどさ、家庭のことをもっと顧みて欲しいんだよね。」
 貴文は朝早く出社して夜遅く返ってくるのが常であり、今日は珍しく4人揃っての夕食だった。そのため晴子はパートから急いで帰宅し、貴文の好物を夕食に揃えていた。散らかった部屋も片付けながら調理をして、光司の宿題もみて・・・。帰宅してから夕飯のため着席するまでに息をつく暇もなかった晴子は、貴文からの思わぬ一言に、まるで背中から撃たれたような衝撃を覚えた。そもそも、光司の小学校入学を機に再就職することを提案してきたのは貴文だった。
 「どうして、そんな事言うの?」
 「当たり前だろう。妻として、母親としてやってることが不十分なんだから、夫として言いたいことぐらいあるよ。」
 「おお、いいぞ貴文。言ってやれ。働き始めてからますますいい気になっているからな、この嫁は。増長させると碌なことがないぞ。」
 光司は、自分の頭の上を言葉の弾丸が飛び交う居心地の悪さに耐えきれず、食べかけの夕飯を残して席を立とうとした。
 「おい、坊主、残すのか?ごちそうさまも言えないのか?母親がダメだとろくな子どもにならないな。」
 文治は、光司と晴子を順番に睨みつけながら嫌味たっぷりに言った。貴文がため息をついたとき、晴子が堰を切ったように文治と貴文へ言い返した。
 「光司に嫌味を言うのをやめて下さい、お義父さん。お義父さんのそれは子どもへの教育でも何でもない。ただの嫌がらせ、虐待です。私に対して毎日のように嫌味を言うのもやめて下さい。私はとても不愉快です。貴文さんも、どうして光司や私を助けてくれないの?光司も私もあなたの家族でしょう?」
 「虐待だと?!義理とは言え親に向かって何てことを言うんだ。こんな嫁はいらん!今すぐ出て行け!離婚だ!」
 「晴子!なんてことを言うんだよ。さすがにかばえないよ、そんなことを言ってしまっては。そもそも晴子が悪いんだろう?安い給料しか貰えないのにパートなんか始めて家のことや光司のことを疎かにしているじゃないか。それに親父だって家族なんだぞ、晴子こそ、親父をもっと大事にしてくれよ。晴子がお迎えに行けないときに親父が行ってくれてるんだし。感謝こそすれ、虐待なんてとんでもないよ。」
 「家や光司のことを疎かにしているですって?冗談じゃないわ!買い物、掃除洗濯、食事の支度、光司の宿題チェックに翌日の持ち物の確認や準備、ゴミ出し、ほとんど私がしているじゃないの!あなた、光司の身長や体重を言える?服のサイズを知ってるの?次の予防接種はいつ何をするか分かるの?お義父さんにはお迎えとかして頂いて感謝してるわ。でも、だからといって光司も私もお義父さんから悪く言われることをなぜ我慢しなくちゃならないの?」

 光司はどうして良いか分からず、ただうつむいて食卓の椅子に座っていた。誰の顔も見ることが出来なかった。見たくなかった。怒鳴り合う声も、聴きたくはなかった。3人の怒鳴り合いは、なかなか終わりそうもなかった。
「僕がご飯を残そうとしたから、こんなことになっちゃったのかな・・・。」
光司は心のなかでそう呟いた。 

Ⓒねこ⭐︎はち

 7月、梅雨明け間近の空は、まだ明け方なのに昼間の暑さを予想させる熱っぽさを持っていた。
 光司は、先日の言い争い以降、就寝前と起床直後、そして登校直前にも、学校の持ち物を繰り返しチェックするようになっていた。晴子も貴文も、文治も、「まだ1年生なのにしっかりしている。偉い。」と光司をたくさん褒めてくれた。光司は、自分が頑張ればあの日のような喧嘩を見なくて済むんだ、自分が頑張れば・・・と一人ひそかに気負っていた。

 夕方17時半、学童保育から晴子と光司が帰宅して玄関に入ると、上がり框に文治が仁王立ちしていた。文治は、薄茶色の封筒を握りしめながら晴子を睨みつけていた。
 「これは何だ?」
 「離婚調停の申立書です。」
 「何だと?」
 「離婚調停の申立書です。」
 「そんなことは分かっている!!何のつもりだと聞いている!!」
 「離婚することを希望しています。」
 「ふざけるな!」
 「これは私と貴文さんとの問題です。お義父さんは関係ありません。」
 「関係あるだろう!光司は渡さんぞ!!跡取りだからな!」
 「跡取りだなんて・・・。お義父さん、ごめんなさい。夕飯の支度がありますので。光司も宿題を済ませないと。」
 青白い顔をして玄関のたたきを見つめている光司の様子を見て、文治は振り上げた拳を収めつつ、忌々しげに玄関から自室へと戻っていった。
 「光司、大丈夫よ。パパとママで、これからのことをきちんと話し合って、光司が嫌な思いをしなくて済むようにするからね。」
 晴子は、光司の目を見ながら力強く言った。光司は、晴子の目を見つめ返して、深く頷いた。

 午後10時過ぎ、貴文が帰宅して、スーツも脱がずにリビングのソファへ乱暴に座り込んだ。おそらく、文治から貴文へ、裁判所から手紙が届いていることが伝わっていると晴子には思われた。
 「で?」
 仕事で疲れ切って口も開きたくないのに、というセリフが続きそうな一言だった。
 「私達、離婚しましょう。」
 「君はずいぶんと勝手だね。」
 「きっと話し合いは難しいと思いましたから、調停の申立てをしました。第三者を挟んで冷静に話し合いましょう。」
 「冷静に?話し合い?笑わせるなよ。裁判所なんて本気の喧嘩じゃないか。ああ、君が外で働くことを許可しなければ良かったな・・・。一体どこでおかしな入れ知恵をされて来たんだろうか・・・。」
 「誰の入れ知恵でもありません。私の考えでしたことです。」
 「そうか・・・。じゃあ、君だけこの家を出ていったら良いよ。光司はもちろん置いて行って。」
 「それは出来ません。」
 「なぜ?」
 「光司のことは私が育てます。生まれてからこれまで、毎日光司のことをみてきたのは私ですから。」
 「おむつも外れているし、自分で何でも出来る年齢だろう?親父で十分だよ。家事は家政婦でも雇えばいいし、親父も少しは出来るだろ。」
 晴子は、言外に自分が家政婦扱いをされたように感じ、思わず感情的になった。
 「あなたは光司のことを何も分かってない!子どもはご飯を食べさせておけばそれだけでちゃんと育つわけじゃないのよ!ペットか何かと一緒にしないで!」
 「ペットって・・・。お前こそ、俺に何の恨みがあるんだよ?親父にも散々世話になっておいて、小遣い程度の給料のために家事育児を疎かにしておいてよく言うよ!お前こそ母親失格だろう?!」
 「私は出来ることをちゃんとやっています!」
 「話しにならないな・・・。ちゃんとやっていないから、親父に小言を言われているんだろう?」

 光司は、リビングの隣の寝室にある布団の上で、気配を潜めて貴文と晴子の怒鳴り声を聞いていた。一度は眠りについていたが、何となく嫌な感じがして目が覚めると、2人の声が聞こえてきたのだった。聞きたくはなかったが、リビングと寝室の間を仕切っている引き戸の隙間からもれるリビングの明かりと共に、2人の怒鳴り声が容赦なく滑り込んでくる。
 そのうちに晴子の声が聞こえなくなり、代わりに、晴子のすすり泣く声と、貴文がため息を付きながら風呂場へ向かう音が聞こえてきた。
 光司はリビングに背を向けるように寝返りを打って身体を丸くし、膝を抱え込み、まぶたをぎゅっとつむった。

 翌朝、光司は、お尻のあたりが冷たいような感覚で目を覚ました。
 寝ぼけ眼でパジャマやシーツを見てみると、どうやら湿っているようだった。何だろう・・・と戸惑っていると、慌てたように飛び起きた晴子が事態に気が付き、光司に着替えを促すと共に、寝具の交換をし始めた。
 そこで光司はやっと、自分がおねしょをしてしまったことに気がついたのだった。
 その日以来、晴子や貴文、文治の間で険悪な雰囲気になったり、怒鳴り合いの喧嘩がある日などに、光司はおねしょを繰り返すようになった。
 光司は、自分がひどくダメな子どもなのではないかと、ふと、思うようになっていった。  

             *   *   *                                    
                                   
                                  
 全体的に白っぽく味気のない、机と椅子の他にはめぼしいものがない空調のほどよく効いた部屋。そこで光司は、初対面の中年女性から様々な質問をされていた。物心ついてから今までの暮らしぶり、父親はどのような人か、母親はどのような人か・・・。


「それでね、光司君。お父さんとお母さんは、それぞれ別々に暮らすことを考えているようなんだけれどね。光司君は、どうしたいかな?」
 光司は、言葉に詰まった。
 本心では、あの家にはいたくない。晴子と2人で暮らしたい。しかし、それが父親と文治に伝わったら、どうなるのだろうか。晴子が、貴文と文治からなじられている光景が浮かんだ。
 「・・・・わからないです。」
 調査官は、そう呟いてうつむいた光司を優しく見守りながら、改めて質問をした。
 「じゃあね、お父さんとお母さんが別々に暮らすことは、どう思う?」
 「それは、いいと思う。」
 「その時、光司君は、お父さんとおじいさんと一緒に暮らすのと、お母さんと一緒に2人で暮らすのと、それとも今までと同じようにするのと、どうしたいかな?」
 「・・・・今と同じは、いやです。じいちゃんに、ションベンたれって言われるから・・・。」
 「そうかぁ・・・。」
 光司は、「ぼくがおねしょなんかしたから・・・。ぼくがちゃんとしなかったから・・・。」と涙をこぼした。
 調査官は、何か言いたげにしつつも、それ以上の質問をすることをやめた。

<解説> 
改正民法824条の2
(1) 親権は、父母が共同して行う。ただし、次に掲げるときは、その一方が行う。
一 その一方のみが親権者であるとき
二 他の一方が親権を行うことができないとき
三 子の利益のため急迫の事情があるとき

現行民法818条3項は「親権は、父母の婚姻中は、父母が共同して行う。ただし、父母の一方が親権を行うことができないときは、他の一方が行う。」と規定している。改正法民法824条の2は、同条の趣旨を明確化するものであると説明されている。
改正民法824条の2のうち、「子の利益のための急迫の事情があるとき」については解釈の余地がある文言となっており、人によって受け止め方が異なる可能性がある。父母間や同居親族間における葛藤が高まり、日常的な口論がある等して子の心身に影響が出ているような場合に、母親が子を連れて別居することが「子の利益のための急迫の事情があるとき」に該当するか否かについて、当事者の認識が異なる場合、適法な子連れ別居であるか否かが離婚そのものとは別の新たな法的紛争となってしまう。
 晴子としては「光司がおねしょをするようになったのは夫婦喧嘩等が原因であり、子連れ別居は適法」という認識となり、貴文としては「光司のおねしょは晴子が母親として不十分であることが原因であり、自分や文治が共に子育てに関わるべきだから、子連れ別居は子の利益に反しており違法」という認識になることが予想される。
 ハラスメント等の被害がより深刻なケースでは、主たる監護者であっても配偶者からの非難を恐れる等のため、子連れ別居を行うことそのものを躊躇してしまい、子の心身の被害が更に深刻なものとなる危険性がある。
 本事案で、光司はおねしょをするようになっているほか、忘れ物をしない
ようにと過度に確認を繰り返しているほか、父母等の口論の原因が自分の言動にあると感じるようになっている。もし、このまま同居を続けた場合、光司の心身に対してより深刻な影響が生じることが懸念される。
 そこで、「子の利益のための急迫の事情があるとき」とは、「父母の協議や家庭裁判所の手続きを経ていては、適宜に親権を行使することができず、その結果として、子の利益を害する恐れがある場合」と解釈することが適切であると考えられる。モラルハラスメントや精神的DV、性的DVのように客観的な証拠を確保しにくい場合であっても、本件のように子どもの生活に有害な影響が出ているような場合に主たる監護者が子を連れて別居をすることは、親権の共同行使違反にはならないとすべきである。

 共同親権ホラーは、離婚事件やDV事件を扱う弁護士がかわるがわる不定期に作成するシリーズです。本事案は、下記の意見書の事例1を参考に作成しました。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?