第3話 で、証拠はあるんですか?
「共同親権ホラー」は、共同親権の導入を心配する弁護士たちが創作したホラー短編です。
「まただ・・・。」
午前5時、寝室からリビングに来てすぐ、沙耶はそう呟いた。
薄暗く、カーテンの隙間からほんのりと明かりが差し込むリビングのテーブルには、昨夜、帰りが遅い夫の義明のために沙耶が用意した夜食がそのまま残されていた。そして、その隣にはカップラーメンのカラとひしゃげた空の缶ビール。
小さなため息と共に、沙耶はテーブルの上に残された夜食を三角コーナーへ静かに投げ入れた。
カーテンを開けて朝日を浴び、窓を開けて大きく息を吸った。
朝の爽やかな空気とは裏腹に、沙耶の心中は淀んでいるように感じられた。
「だめだめ!!」
沙耶は、両手で自分の頬を軽くはたいて気合を入れ、鏡の中の自分にむけて精一杯の作り笑顔をしてみせた。ぼんやりと落ち込んでいる暇など無い。小学校に入ったばかりの茉優に心配をかけたくないし、今日はお弁当の日だ。
週末のうちに刻んでおいた野菜や作り置きを取り出して、朝食と弁当を並行して調理していく。そうだ、洗濯も終わっているはずだから乾燥機に入れないと。夫や娘が起きてくる前に顔を洗って化粧も済ませておかないと洗面所が混み合う・・・・。
慌ただしく動き回っているうちに朝6時のニュースが始まり、茉優が寝ぼけた様子で起きてきた。
「ママぁ・・・おはよぅ・・。」
「おはよう、茉優。」
沙耶は、茉優のくしゃくしゃの寝癖をもっとくしゃくしゃにしながら頭を撫で、ぎゅっと抱きしめた。暖かくて、柔らかくて、小さくて。小学1年生になったばかりの娘は、沙耶にとって生きがいそのものだ。
沙耶がふと顔を上げると、そこにはこれ以上無いほど不機嫌な顔をした夫がこちらを睨みつけて立っていた。思わず身をこわばらせた沙耶。母親の異変に気がついた茉優は後ろを振り向いて
「なんだ、パパかぁ!おはよう!ママがびっくりしているから何かと思っちゃった!」
とはしゃぎながら言うと、夫の足に抱きついてみせた。
「ママ、パパにびっくりするなんて失礼だよなぁ?」
「パパ、熊さんみたいに大きいからかな?」
「茉優、顔を洗っておいで。」
「はぁ〜い!」
茉優がバタバタと洗面所に向かうと、夫が娘へ向けていた笑顔は瞬時に消え去り、憎々しげな顔で沙耶を睨みつけた。
「おい、何だ今のは?ふざけるなよ?何様のつもりだ。今度茉優を不安にさせるような態度をしてみろ、ただじゃおかない。身の程をわきまえろ。」
義明は、沙耶の腹部に大きな拳を強く押し付けながら、茉優に聞こえないように低く、しかし威圧的な声で、沙耶を睨みつけながら冷たく言い放った。
「・・・はい・・・。すみません・・・。」
「すみません?ごめんなさい、だろうが。いい加減にしろよ?」
「ごめん、なさい・・・。」
義明は沙耶の腹部から拳を離してテレビの方に向かった。沙耶は体がこわばったようになり、その場から動けずに立ち尽くしていた。
「ママ〜!お顔ひとりで洗ったよ〜!偉い?」
そこに茉優がびしょびしょの顔とパジャマで飛び込んで来たため、沙耶は我に返ることが出来た。
「茉優?!びしょびしょじゃないの〜。もう、忙しいのに〜。」
「ごめんなさぁ〜い!」
茉優が沙耶に絡まるようにして横を歩き、二人で洗面所へ向かった。二人の背中に向けて義明が何か口にしたように思えたが、沙耶は考えないことにした。今はこれ以上義明の声を聴きたく無かった。
午後3時過ぎ、茉優は学校から帰ってきてすぐに沙耶のところへ走り寄り、早口で言った。
「ママ。このお家から出ていこうよ。」
「・・・え?」
「だからね、ママと私で、家出しよう。」
沙耶は驚いて茉優の顔をまじまじと覗き込んだ。
「茉優、一体どうしたの?学校で何か嫌なことがあったの?」
ふふふと笑った茉優は、見たこともないような真面目な顔をして沙耶の顔を覗き返した。
「あのねママ。私、知ってるの。今日の朝、パパに嫌なこと言われたんでしょう?今日だけじゃない。いつもパパはママに酷いことしてる。ママはいつも悲しそう。パパは私に優しい顔をしてくれるけど、ママには違う。だから。」
「・・・っ。」
沙耶は溢れる涙を堪えきれず嗚咽した。茉優が心配そうに顔を覗き込んだとき、茉優を抱き寄せて更に泣いた。
「ママ、大丈夫だよ。今日の朝みたいに、茉優が守ってあげる。」
沙耶はその時初めて気がついた。今朝のこと、茉優は自分を守るためにわざとびしょびしょになってリビングに飛び込んできたのだ・・・。こういうことが前にもあった。まだ小学1年生の娘に、母親を守らなくてはという気持ちにさせてしまったこと、現に守らせてしまっていることに、沙耶は言いようのない情けなさと悔しさを感じた。
午後4時、義明の帰りは今日も遅い予定だったはずとカレンダーを見ると、本社会議という義明の字が見えた。
沙耶は、いつものように帰宅時間と夜食の用意が必要かどうかを確認するLINEを送信した。すぐに義明から返信があった。
「遅くなる。8時は過ぎる。夜食はどっちでもいい。」
沙耶は、急いで茉優と自分の必要最低限の荷物だけをまとめた。義明の帰宅が遅いことは分かっていたが、過去に何度か、急に早く帰ってきたことがあったためだ。沙耶は自分の心臓がうるさいくらいに脈を打つのが分かって、ますます気が動転した。
「ママ、晩ごはん、お外で食べよう!」
茉優は普段めったにしない外食が出来ると予想して無邪気に喜んでいる。
そんな茉優をみて、沙耶は少しだけ緊張の糸がほぐれたような気がした。
「そうね。ちょっと奮発しちゃおうか?」
「いいね!!デザート食べていい?」
「もちろん。でも、ご飯の後よ。」
「はぁ〜い。」
二人は少し微笑み合って、それぞれの荷物を背負って玄関を出た。
家を出た当日、義明からは大量の着信とLINEが来ていた。
実父を通じて、もう戻らないこと、離婚を望んでいることを伝えたところ、翌日から着信もLINEも途絶えた。
茉優は実家近くの公立小学校に転校した。友達が一人も居ない学校への転校だったため沙耶は心配したが、親の心配をよそに、あっという間に新しい友だちが出来て、一緒に登下校をして学校生活を楽しんでいた。沙耶は心底ほっとしていた。
沙耶自身も新しい仕事が決まり、あとは離婚するだけ、弁護士に相談するかどうか、お金のこと・・・と考えを巡らせながら買い物から帰宅した。
居間へ向かうと、実母が不安そうな顔をしながら見慣れない茶色の封筒を指さして
「あんた、これ・・・。」と告げた。
「裁判所・・・?」
沙耶が震える手で封筒を開封すると、義明が、沙耶に対して茉優の引き渡しと茉優の監護者を義明に指定するようにと裁判所へ申し立てたことが分かった。申立書には、弁護士の名前もある。申立ての理由には、沙耶が茉優を連れ去ったこと、子の連れ去りは犯罪であり監護者にふさわしくないこと、沙耶が茉優の転居や転校を単独で行うことは「急迫の事情」が無いため違法であることなど、仰々しい言葉が並んでいた。
「俺には弁護士の知り合いがいるからな。」
義明の口癖を思い出した。茉優が生まれてから、義明は意見が合わないときなどに念仏のように口にしていた。本当に弁護士の知り合いがいたんだろうか・・・。
沙耶は急いで地元の法律事務所へ相談に行った。義明は、交際中はまめに連絡をよこして優しかったが沙耶の妊娠後に豹変したこと、沙耶の食事に手を付けずカップラーメンを食べて「この方が美味い。おまえの料理は家畜の餌同然。」などと暴言を吐かれたこと、家を出るきっかけになった出来事など、細々とした事情を説明した。
弁護士は表情を曇らせて
「で、証拠はあるんですか?」
と面倒くさそうに言った。
「証拠は・・・ありません・・・。」
義明は身体的暴力をふるったことがない。ただ、低く、ドスの効いた恐ろしい声で、如何に沙耶が間違っているのか滔々と述べ、沙耶が誤りを是正しなければ沙耶に不利益を被らせるぞという脅しめいた言葉を言うことが多かった。その他は、沙耶の作った食事をわざと食べなかったり、沙耶の好きなアーティストや俳優を貶めるようなことを言うことがあった。沙耶への人格否定を含む説教は長時間に及ぶこともあり、録音でもしようかと考えたこともあったが、もし義明に録音していることが知られたら・・・どのような罵詈雑言を浴びせられるのか検討もつかず、恐ろしさからついに録音をすることは出来なかった。
日々の些細な出来事や、そのことに対する沙耶の気持ちを日記に書くこともあった。しかしそれは数年前に自ら捨ててしまっていた。
ある日、沙耶がふと義明への不満を、それとは分からぬようにSNSに書いたことがあった。その投稿が義明の目にとまり、沙耶は夜明けまで長時間の説教をされることになった。説教は一晩で終わらず、翌日も、SNSの投稿を削除していないことを責められた。二度目の夜明けを迎えたとき、義明はこう言った。
「本当に迷惑だ。俺はおまえと違って仕事をしているんだ。それなのにお前のどうでもいい投稿のせいですっかり睡眠不足だ。どうするんだ、これ?落とし前つけろよ。お前。時間を巻き戻せ。」
その時、沙耶は臨月だった。
証拠の無いことと共に、当時の辛い記憶が思い出された沙耶は、なぜ証拠がないのかを説明するだけの余裕を失っていた。
「ありません・・・、か。では、厳しいですね・・・。」
沙耶は、弁護士の声が義明の声に聞こえたような錯覚に陥り、目の前が真っ暗になったように感じた。
共同親権ホラーは、離婚事件やDV事件を扱う弁護士がかわるがわる不定期に作成するシリーズです。本事案は、下記の意見書の事例9を参考に作成しました。
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