『15時17分、パリ行き』に関する2018年2月8日の感想

役者が演じる虚構をフィルムに定着させるのが映画だとするならば、実話を基にした内容で、その当事者が本人役で出演し、かつその幼少期を子役が演じるという現実と虚構の境界線を飛び越えた作品が現れたときに、果たして一体我々はどのような判断を下すべきだというのだろうか。

映画とは「構成する」「文章化(脚本化)する」「フレーミングする」「時間を切り取る(撮影する)」「編集する」「効果音をつける」などという、何らかの人為的・作為的な行為の結晶として存在していて、これは逆説的に言えば、人為的・作為的な行為なしに映画は映画として存在し得ないということでもある。

そういったある種の暴力的な行為によって成立している映画が、虚構という事で許されてきた事、虚構が故の改変の容認を、本人が本人役で出演し、かつ過去の自分は別の人物(子役)が演じ「物語る」というのは、結果として虚構が現実に置き換わる・すり替わる可能性を示唆している。

このスクリーンに映っている人は本人が演じた本人であり、しかし過去の本人は本人ではなく、限りなく本当にあったことに近い事が物語られているのかもしれないが、しかし決して永遠に現実になることはなく、結果として映画を観た人たちの中では、ある意味において現実として認識され後世に残され伝えられて行く。

書き換えられた自己、あるいはすり替えられた自己。まさしくチェンジリングと言うわけか。

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