2023年4月3日の日記

晩年の(この書き方をする事自体が残念なのだけど)政治的スタンスと行動を批判している人は、80年代から90年代にかけての坂本龍一の文化的なポジションのエッジさ、日本を含めた先端の思想との共鳴度、並びにその影響力の大きさを知らない層なのだろう。

もし批判される必要があるとするなら、氏の政治的スタンスではなく「時代の気分・お気持ち」を感じとれなくなってしまった事であるように思う。それは以前ドリカムが日本で流行っていた時に「こんな音楽は簡単だ」と批判的な発言と共に自らポップス作品を作って、そして大きく売れなかった時から始まっていたのだろうけども、理解しておくべきは、それだけエッジにいた人でさえも時代と乖離してしまう可能性があることで、そしてそれは坂本を批判している人を含めた我々全員にも起こる可能性があるという事である。

思うに晩年の坂本が批判されたのは、その政治的スタンスでも行動故でもない。それに存在しているように感じ取られた「傲慢さ」であるように思う。

ある種の傲慢さとは何らかの発言や行動をする際には逃れられないものではあるけれども、それが人々に「傲慢」に映るのは、その発言主の意見そのものにではなく、その社会的ポジションの高さに紐付けられている。そして恐らくその発言主の自覚と他者から見たポジションの差異が原因なのだろう。恐らく坂本は世界のサカモトと称されながら本人の思う社会的立場はそんなに高いものではなかったのではないか。

そのセルフチューニングは本人以外に行える者はいないけれど、じゃあ坂本が人間として駄目だったかと言えばそれは違うと思う。たぶんそれは歳を取れば誰にでも起こるし、誰もがやらなきゃいけないし、そして誰もが必ず成功出来るものでもない。もちろん僕が出来る・出来ているという自信もない。僕が言えるのは坂本でさえも陥った差異から逃れるためには、人間は相当な努力が必要なんだろうなって事くらいな訳で。そんな事を幼少の頃から追いかけ続け、影響を受け続けた音楽家の死を前にして思いました。

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