9年前の11月3日の日記

恐らく無意識なのであろう差別発言や、単なる自己承認欲求を満たすためだけに行う、自分と異なる意見に対する攻撃を目の当たりにするたびに、心底うんざりする。無意識っていうくらいだから、たぶん気づいていないか、もしかしたら自己正当化しているのだろう。

言い負かせば世界が変わるなら、世界は何度も変わってるんじゃないかと思うのだけれども、実際に変わっていないということは、言葉遊びだけでは世界は変わらないってことじゃないかな。いや本当は変わってなんか欲しくなくて、言葉遊びで充足してるのだから、そんな空間の邪魔をしないでくれってことなのかな。なんてモラトリアムだ。

己の立場を正当化することに固執する言葉遊びは、世界の『空気』の正当化の裏支えに過ぎない。自分たちが改革者・真実を伝えるもの・正統的な存在であるという、単にロマンチックなだけに過ぎない勝手な物語に酔っている限り、自分たちは世界の一部に過ぎないということに気がつくこともないのだろう。

そんなモラトリアムから発生した『空気』が世界に与えるものについて、そこで遊んでいる人たちにとっては、自分たちとは全く関係のないことだと思っているのだろう。気がついたら出現していた状況を前に「自分たちの知らないところで」「世界を裏で操っていた階層が」勝手に作り上げたと被害者のふりをするのだろう。

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