2016年8月11日の日記

・結局のところクオリティ保証のための異世界設定とは最後の最後で作品において(作り手の)世界と対峙する覚悟を問わずに済むという逃げの構造でしかないのであって、もちろん細々なところまでデザインされた素晴らしい作品を幾つも知っているけれども、こと自作に関して言えば「最終的に逃げること」を前提にしてきたような気がする。

・もちろん本来は「より直接的に世界との対峙を描くための戯画化」であったはずだけれども、結果として戯画を描くための描写、表現、ドラマと成り果てていき、挙句に「対峙なぞせず世界観の中で安穏として暮らせ」という出来上がってしまった制度の中で意思を埋没させなくてはならないという結果を迎えることになってしまうのだ。

・なんてことを書くと「エンタメに社会派は必要ない」というお言葉をいただくのだけれども、別に社会派な内容をやりたいとは一言も言ってなくて、単に観てくれる人たちにキチンと向き合ったものを作るべきで、そこに物理的なことを除いた妥協をしたくはないなぁ……ってくらいの心構えの話なのだけれども。

・でもこうやって「ちゃんと観客の方々に向き合いたい」と話すと何故か「現代社会は〜」とか「政治が〜」とかの話を組み込まなくてはならなくなるのは、なんらかの病理があるような気がしないでもないし、単純にバカなのかもしれないし、そういうのを許容せざるを得ない僕の力不足もあるのかもしれない。残念なことに。

・描かないことで逆に感じさせるのが演出の仕事のひとつなので、そういった意味においては「異世界感設定を作ることで目眩ましして逃げ切るという方法を取らざるを得なかった」とも言える訳だけれども、長いこと続けていると「何のこと」を「何のために」目眩まししているのかが分からなくなってくるし、目眩ましそのものが主目的だったのではないかと勘違いされ始めたりもする。つまり「本気で対峙するために用意したものによって、その対峙の機会を奪われる羽目になる」のだ。

・目眩ましを取り除いたら何が残るのか。目眩ましの集合体が奇跡的に何か感動的なモアレを浮かび上がらせることになるのだろうか。

・奇跡は1回しか起こらないから奇跡なのだ。そして既に奇跡は起きているのだ。

・与えられた戦闘で勝つのが職業としての使命なのはわかっている。でも既に僕らは戦死していたのかもしれない。僕らは今戦っているように思えて、それは戦死したことに気づかずに戦場を浮遊しつづける霊魂みたいなものなのかもしれない。

・たたかうか、たたかえるか、おびえる魂(こころ)よ。

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