2016年4月27日の日記

僕のやっていることは、所詮ロボットプロレスだし怪獣プロレスでしかないのだけれども、その中でいかにそこに存在していると仮定する生命を、存在しているが故にするであろう行動を描くことに腐心し、その結果として戦争を描いているのであるが、だからと言って僕自身が戦争を描きたくて描いている訳ではない。

まぁエヘクト作画に多大な影響を受けてアニメーションというジャンルを選択した自分にしてみれば、お前は庵野秀明のプロトンビーム・エフェクトに感動しなかったのか? 板野サーカスに心を奪われなかったのか? と問われたら、ええ奪われましたが何か? としか言いようがないのだけれども、だからと言って戦争が好きな訳でもないし、人が死ぬ描写についてもこの年齢になるとホイホイとエフェクトとして見られなくなっているのも確か。

もちろんフィクションとしての戦争映画は必要だと思うし、それをこの先に演出するかもしれないけれど、その戦争映画というものが、これまでの枠組みの中に押しとどまるものだとしたら、果たしてそこに、僕が興味を持てるのだろうか。ロボットを出すなら戦争をするのが当たり前だ、という呪いみたいなもの。ロボットをイデオロギーの仮託先として描写することの古臭さ。それを踏まえながら、しかしなんらかの形でその呪いを打破することが出来るアイデアなんて存在するのだろうか。この数日、こんなことばかりを考えている。もちろんやらなきゃいけない仕事は進んでいない。

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