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1. 「中心は より深くより強く」


傘を伝って落ちる雨を目で追いながら、深く吸い込んだ煙が肺を一周し、また吐き出されていく。
この時間にこの場所から、同じ日々がはじまる。

漠然と考えていた自由とは、いったいなんだったのだろうか。社会に出ることが自由の一つではなかったのだろうか。
今となっては、私が考えていた自由という定義の浅はかさを笑うにも笑えない。

若さというエネルギーで不自由との均衡がとれていたはずが、いつからかその均衡も失われ、笑えなくなった。いや、笑わなくなったのか。
かと言って、私が何に絶望しているのかも分からない。

そんな虚無感な私は、熱を求めて賭場に向かう。
しかし、その先には、心配そうなおばあさんの隣で、千円札を溶かしていくお爺さん。
時に、おばあさんの制止を振りほどき、受け取った千円札を吸い込ませていく。
私は、自分の未来を見てるような気がして席を立った。
同じ穴のムジナ達の、僅かに残った良心が悲鳴をあげている様を見ながら店を後にする。

必然的に辿り着くのは、人生の終着駅、競輪場。
社会をドロップアウトした人や多様な人生が集まる場所。でも恐らくここが最後、これより先は進む事は出来ない、もう終点なのである。

遠くから聞こえた
「やったぞー!」
と、車券を当てた爺さんが叫ぶ声。
取り巻きが爺さんの車券を見て
「なんだ 流しかよ!」
と言い放つと
「流せる度胸もねえ奴に言われたくねえよ!」
と返す。

こんな人生の終着駅でさえもマウントの取り合いが繰り広げられ、得も言われぬ世界が広がっている。

この社会には、心の置き所はないのであろうか。
そして、目標や目的を持たない人間は野垂れ死んでしまうのだろうか。

しかし、焦りは感じない。どこか腹が決まっているのだろうか?いや、それに目を背けてはいるものの、気付いているのだ。

人は無い物ねだりであり、常に隣の芝は青いのである。
どんなに充実しているように見えても、恐らく皆、何か不自由さを感じているのだろう。

解決策なんてものはなく、解決を求める必要もないのだ。
社会の歯車の一部である事は、変えようのない事実であり、そうやって回り続ける事で何かを埋め続けているのである。
1日1日を生き抜く事は、もう既に十分に奮闘の証である。

自問自答を繰り返す今日も、人々の行き交う足音は、歯車の一つ一つが噛合うように鳴っている。

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