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5. ニヒリズムをぶっ壊した運命愛…ニーチェなんて知らねーよ



「世紀末の詩」というドラマを見たことがあるだろうか?様々な愛をオムニバス形式で描いたドラマである。
放送していた当時の私は、野島伸司だからいつおっぱい出てくるかなーと期待して見ていた。20歳で再び見た私は、単純に作品として涙した。そして30歳で三度目に見た私は、愛なんて弱き人間の逃げ道だと存在を否定した。

共働きの親から生まれ、父は気づけば単身赴任をし、母は夜帰ってくるようないわゆる鍵っ子だった。かなりの放任主義であり、物心ついたときには、会話はなく、反発を繰り返し、意地を張り続け、なかなかの捻くれ者だった。詳細は省略するが、かなり迷惑をかけた。嘘をつき続けても気づかないフリをしてくれ、叱られることはあっても強制させることはなかった。謝ることはせず、親が折れるまで意固地になり続けた。無意識に甘えていたのだ。
今思えば、親からしたら私は見返りを求めない唯一無二の存在なのだろう。

何年か前、8割勢いとニュアンスで結婚をした。特別に美人というわけではなく、良く言えば少しふくよかだ。かなりの意地っ張りであり、自分の非を認めず、謝ることを知らない。メンヘラ要素たっぷりに全力で感情をぶつけてくるヤバい奴だ。昔の私なら即ブロックだ。犯罪が許されるなら殺しかねない。だがしかし、私は嘘をつかれても気づかないフリをし、指摘はしても押し付けることはしなかった。彼女のド級の甘えを受け入れている。
きっと私からしたら彼女は見返りを求めない唯一無二の存在なのかもしれない。

40歳目前の現在、定期的に私は両親とよく会食をしたり、安否確認で実家に行ったりしている。会話も普通にする。なぜか放任していたころを謝ってきたりする。親孝行というよりは純粋に大切にしている。
冷めきった性格であり虚無感によく襲われていた私を変えたのは妻だと思っている。ただ、馬が合うだけだが、不思議なもので考え方や価値観も変わっている。どこかの寺がよく説法で、みながまわりに生かされて生きてるなんて言っていたの思い出した。すべてを受け入れ、自分をも受け入れて、感謝を忘れずに生きていこうと思う。

さて、長々と小っ恥ずかしいことを書いていたらもうこんな時間だ。大嫌いな家事でもしながら夜勤の妻を待つかな。

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