「協調性」についてのあれこれ(協調・同調)

 「協調」という言葉は「性格や考えなど立場が異なる者が互いに協力しあうこと」や「意見や利害の異なる者が譲り合ったりして調和を図ること」という意味ではありません。

あくまで「協調」という言葉は「他の者と調子を合わせることや意見や態度を同じくすること」、加えて「他の者と懇意になったり、打ち解けたりするなどして仲良くすること」という意味です。

なので「協調性」というのは、「自分や自分たちと異なる者や仲良くならい者と上手く付き合っていく性質」をさすのではありません。「協調性」というのは、あくまで「他の者と同じようになったり、打ち解けたりする性質」をさすものです。

 そして「協調性」というものを発揮するためには「違いへの寛容性」というものは不要です。

「協調」という言葉があくまで「性格や考えなど立場が異なる者が互いに協力しあうこと」や「意見や利害の異なる者が譲り合ったりして調和を図ること」という意味なのであれば、「違いへの寛容性」がなければならないということになるでしょう。

「違いへの寛容性」がなければ、自分や自分たちと異なる者と協力していく事も共存していく事も不可能でしょうし、意見や考えが異なった時に途端に敵対状態になったりするでしょうから。

 が、しかし「協調」というのはあくまで「他の者と調子を合わせることや意見や態度を同じくすること」、加えて「他の者と懇意になったり、打ち解けたりするなどして仲良くすること」という意味です。

「違いへの寛容性」など不要です。「同じになること」に「違い」はあってはならないものですし、そして「異なる者」はうまく付き合っていくべき相手なのではなく、あくまで「敵」なのですから。


 「協調性」は大事です。ですので児童にその「協調性」を持っている証明やそれを養う事を求めて、他の児童らと「仲良くさせる事」はとても大事な事です。

無理に仲良くさせる事が、児童ら同士を不必要に接近させて「いじめ」などの問題が起こることになっても仕方のない事なのです。何故なら「社会」では「協調性」が大事なのですから。

 それに「いじめらる」というのも、周りと調子を合わせることや周りと同じになることが出来なかったり、うまく打ち解けたりすることが出来なかったりするなどして「協調性がない」ために、そのような目にあうのです。ですので、当然の結果なのです。

 そして、また単独で過ごしている児童が、自分の事を社会不適合者であるとか、落伍者であるとかと思いこむことは当然の事なのです。

何故ならちゃんと周りと打ち解けられておらず「協調性」がないのですから。社会で必要な「協調性」がないのだから、そういった者たちが自分自身に否定的な評価を持ったりして、心を病んだり、居場所がないように感じたりする事は仕方のない事なのです。

 
 そしてこの「他の者と調子を合わせることや意見や態度を同じくすること」、加えて「他の者と懇意になったり、打ち解けたりするなどして仲良くすること」という意味を持つ「協調」という言葉、そしてそういった性質を指す「協調性」という言葉を使っていくことによって人の尊厳を奪う事は許される事なのです。

「協調性がない」といって、公共の場においても、自分や自分たちと異なる者との協力や共存を拒絶してすぐに攻撃的となる事は良いことなのです。

 そして「『協調性』がないとされる者」が精神を患ったり、引きこもったり、自殺したりする事は、やはり仕方のない事なのです。
むしろ、そういった「『協調性』のない者」は社会から取り除くべきなのです。

 この「同じである事や馴染む事を求める意味の協調」は「呪文」です。そしてこの「呪文」によって多くの人の尊厳を奪い、それを代価にして、自分たちの居心地のいい環境を作る事が出来るのです。

 しかしこの「呪文」を唱えているからといって「人の尊厳を奪っている者」とはなりません。この「呪文」によって他者の尊厳を奪っていく事は合法であり認められているのですから、非難される理由もなければ、「人の尊厳を奪っている」とも自覚する必要もないのです。


 そしてまた、「協調」という言葉を「他の者と調子を合わせることや意見や態度を同じくすること」、加えて「他の者と懇意になったり、打ち解けたりするなどして仲良くすること」という意味で使う者は「技術者」ではありません。

もとから「協調」という言葉の意味はそういったものであり、拡大解釈したり、意味を歪曲したりするなどの知恵などはまったくに働かせてはいないのです。まったくもって「技術的なこと」はしていません。ですので「技術者」ではないのです。決して「技術者」ではありません。


 万が一、「『協調』という言葉の意味を間違えて認識しているのではないのか」という質問が日常で多くあがるような事となって何らかの問題となったとしても、それは「協調」という言葉を「他の者と調子を合わせることや意見や態度を同じくすること」、加えて「他の者と懇意になったり、打ち解けたりするなどして仲良くすること」という意味で用いている者が悪いのではありません。

そういった者に一切の責任はありません。悪いのは疑いを持つ者なのです。

 もちろん、教育の場などにおいて「協調」という言葉の意味を考えなおしたりする必要もありません。

 そして「協調」という言葉を考えなおしたり、確認しなおしたりするように言う者がいたならば、怒りをぶつけたり、または冷淡に無視をするのが重要な「技術」なのです。

 そして「協調」という言葉の意味を考えなおそうとしたり、確認しなおしたりする行為そのものを「人迷惑な行為」として存在させるのも重要な「技術」なのです。

これによって常に「協調」という言葉に疑いをかける者を「人迷惑な行為をしている」と言って追い払う事が出来るようになるのです。


 「協調」という言葉はあくまで「他の者と調子を合わせることや意見や態度を同じくすること」、加えて「他の者と懇意になったり、打ち解けたりするなどして仲良くすること」という意味です。

「性格や考えなど立場が異なる者が互いに協力しあうこと」や「意見や利害の異なる者が譲り合ったりして調和を図ること」という意味では、決してありません。
勘違いなさらぬようにお願いします。

と話される夢を見たのです。    



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