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評㉞の3止~新宿末廣亭八月中席・夜の部神田伯山主任公演、3880円

 評㉞の2~新宿末廣亭八月中席・夜の部神田伯山主任公演、3880円から続く。
 ※タイトル上の写真は、歌舞伎座にあった下記のチラシよりお借りしました。

松之丞改め伯山の登場以前、低迷していた講談

 さて、評㉞の1~新宿末廣亭八月中席・夜の部神田伯山主任公演、3880円で書いたように、私の講談初体験は2019年の神田松之丞(現伯山)だ。つまり、現在一番人気の彼が比較の基本となり、講談に対するハードルはおそらく高い(素人のくせに)。
 
 神田松之丞改め伯山の登場は、その「上手さ」に加え、テレビ、ラジオ、ネットなどメディアを駆使したアピールもあり、講談など知りもしない、落語ですら聴きにいかない層に、講談への興味を呼び起こした。
 それ以前、近年の講談は低迷していたと言って差し支えないだろう。一般にそう評されているし、私も講談に関する本は読み、2019年の神田松之丞初体験以降、講談の会に足を運んだうえで改めて、残念ながらそう思う。

 松之丞時代にも本は何冊が出ており、自分がどれを読んだか不明で、さらにその本が行方不明で今、手元にない。ただ、師匠の松鯉が自由にやらせてくれた、みたいな話があった記憶。
 なお、講談師、講釈師の言い方があるが、今回下に紹介する書籍に書かれている講釈師で話を進める。

ある講談の会で感じた、現実

 講談や落語は、現代演劇の演技の勉強にもなる。張り扇(はりおうぎ)の叩き方(硬軟)、タイミング、回数も講釈師で結構違うらしい。調べると、講談の会や教室は都内ちこちで開催されている。そこで、ある講談の会に行ってみた。男女複数の講釈師が順に登壇する。

 ううううむ。んんん。
 以前に聴いた伯山の講釈が、迫力やスピード(緩急)を伴い、心地よいものだった、だから人気なのか、と改めて思った。
 講釈師によって個性は異なって当然で、同じ芸風の必要はない。しかし、男女複数いる講釈師の多くが、なんというか、自分には間のびしているように聴こえた。力が足りない。自信が無いようにさえ見える、聴こえる。そのため、聴いているこちらの心の中にすんなり入ってこない。中には、興味を持てる講釈師もいないわけではなかったが。
 プロの会だったはず。講談のプロとは。またぞろアマプロ問題が頭にもやもや。

 講談の世界、過半数を占める女性講釈師は男性講釈師と夫婦も多いようで、それは個人の自由なのだが、「内輪」で、「やあやあ」「なあなあ」的な感じもしないではなく。
 ま、芸能の世界自体「互助会とスポンサー」的でもあるが。

 うーん。これが現実なのか。これだと、確かに大入り満員は難しいだろうと正直思った。

『講談最前線』で、最前線を学ぶ

 その後買った、瀧口雅仁『講談最前線』(彩流社、2021)が手元にある。
 作者の瀧口さんは演芸評論家で、東京・向島に「墨亭」という寄席を開いているそうだ。

左が瀧口雅仁『講談最前線』(彩流社、2021)。右の落語解説本なども目は通す

 この本の目次からいくつか拾うと
 「今、本当に講談ブームなのか?」
 「神田伯山は釈場を復活させるのか」
 「貞水、松鯉に続く人間国宝は出るのか」
 「東京の講談界が二派に分裂している訳」
 「天の夕づるの“ポルノ講談”とは何だったのか?」
 「女性講釈師はどこへ向かうのか」
 「来たれ! 男性講釈師」
 「本牧亭はどんな寄席であったのか」

 ざっくり以下のような内容だ。 
講釈専門の「(講)釈場」は現在、(少なくとも東京には)ない。東京・上野の「本牧亭」が平成2年(1990)に寄席としての建物を失い、その後も「本牧亭」の看板による興行を各地で開催されたが、平成23年(2011)にはそれもなくなった。六代目伯山は、この釈場復活を目指しているという。
 
なお、2019年、大阪市此花区に講談師・五代目旭堂小南陵が講談中心の演芸場「此花千鳥亭」をオープン。
・東京は講談協会と日本講談協会の二派∔落語芸術協会(=芸協)所属(現六代目伯山は日本講談協会、芸協の双方所属)、講釈師は60人以上(らしい)。上方は30人以上いたが、三派以上分裂。
神田伯山人気だけでいいのか。伯山の功績は「男性講釈師が存在することを再認識させたこと」(神田愛山)。講談ムーブメントは到来したが、それを講談ブームにするには、メディアを席捲する人がもうひとりふたり現れ、伯山と誰それ、という形にならなければ。
講釈師は半数(以上)が女性。近年、男性講釈師が入っては辞めていく傾向があった。独自の路線を切り開く女性も多い。
・昭和48年(1973)5月、本牧亭「神田山陽一門会」で、女性講釈師・天の夕づるが、舞台に布団を敷いて長襦袢姿で「ポルノ講談」。夕づるは以前よりその路線だったが、聖地・本牧亭の高座でやったことが物議を醸し、東京講談界分裂へ。
講談界の人間国宝(重要無形文化財保持者)は、平成14年(2002)の一龍齋貞水(2000没)、令和元年(2019)の神田松鯉(しょうり)。貞水は長編講談の復活、わかりやすくするため照明、音楽等を取り入れた立体講談、速記やレコードなど本格的な講談の姿を遺した。松鯉は約500の持ちネタ、長編連続物の復活や継承、後進の指導。

 この本だったか、松之丞の本だったか、講釈師はジャーナリスト、キャスターだ、みたいなことをどこかで読んだ。落語は会話なのでやや異なるか?
 起きた出来事を(作り話も含めて)、その語り口で真に迫った風に伝える。その意味で、語りの稽古はもちろんだが、世間一般の物事への視野が広く、洞察力があり、引き出しが多いことが講釈師には求められるのではないか。

 この本を読む前か後か、松鯉の講談を聴く機会があった。高座に入る前に廊下ですれ違ったが、穏やかな優しそうな感じだった。お弟子さん発表の後のトリなので、悠々と余裕の話しっぷりだった記憶。

講談の人間国宝、神田松鯉

 さて、以上の「学び」の上で、再び新宿末廣亭八月中席に話を戻す。
 
 中入り前に、神田松鯉(79)登場、勿論神田伯山の師匠だ。
 重複するが、2019年、重要無形文化財「講談」の保持者として「人間国宝」に。2021年4月、春の叙勲で、旭日小綬章受章。
 穏やかな語り口である。水戸のご老公にまつわる一席。
 
 ただ、どどどどど素人が感じたところを正直に書かせてもらえば、言葉の間が空き過ぎるようにも感じだ。ピーク時の若き、あるいは壮年の松鯉を観ていないので、あくまで、この夜の感想に過ぎない。

 人気歌手が晩年になると、ゆっくり溜めて歌うことがある(賛否両論)。
 そのように年齢が上がったからの変化か、昔からその語り口なのか、それこそ個性なのか、自分には全く見当がつかない。

 とはいえ、話の中身はわかりやすく、きちんと頭に入ってきた。そこはさすがであると思う。前掲書『講談最前線』には「聴き手に合わせて硬軟自在の高座を読み聞かせてくれる」と書いてあるので、その日に合わせた仕様であった可能性もある。
 この日は「伯山デー」であったのだから。

主役、伯山がぬうっと

これは前座さんの登場時。これよりもっと「ぬうっと」感の伯山

 最後に、六代目神田伯山(39)が、ぬうっと登場。畳の上の座布団の上のでかい身体、でかい顔、が、既に客席をにらんでいるかのよう。
 顔がぐうーっと、身体がぐうーっと前にのめる。
 眉の下、少し奥まった目。俳優の市原隼人に似ているようにも思う、それが、やや下を向くことで陰影を作る。照明の当て方か。からの凄み?
 でかい身体の横隔膜を使った迫力と勢いのある発声、身振り。
 脂ののった人気者の自信、だろうか。こちらの先入観だろうか。とにかく、物理的にでかい。それまでの出演者より。あ、そうか、肩を落としていないか?

怪談「お紺殺し」

 前ぶりは「伯山ティービー」や芸協の話、今日はポカスカジャンが客席を温めたこと。二ツ目・桂南楽のいじりも確かちょろっと(可愛がられているな)。
 今日の演目、怪談の電気の点け消し、以前は「お茶子さん」(スタッフ)がやっていたが、長講が何十分も長引いて大変なので、今は前座の梅之丞がやるそうだ。今日も緊張しているらしい。

 さて、演目は『新吉原百人斬り』の「お紺殺し」。
 電気が点いたり、消えたり。伯山の顔がぼうっと浮かび上がったり。
 男に梅毒をうつされ、無残な顔になって捨てられたお紺。何年かの後、女乞食となったお紺が男を待ち伏せしがみつくものの、男の言葉にころりとだまされ、ほだされる。

 伯山が、お紺をやったり、男(次郎兵衛)をやったり、ひとり二役。伯山の中に、ひとりの女とひとりの男がいる。
 初めて聴いた話で筋は知らないが(後から検索)、男がお紺をだまし殺そうとしていることは容易に想像がつく(怪談だし)。この男は、嘘をついている。だまされつつある女と、絵空事と言いながら殺しを胸に秘めた男が、伯山の中にいて、少し向きを変えると別の顔が現れる。
 
この辺、伯山の顔にあたる照明効果もあって、なかなか見ものだった。それもやはり、鍛えた横隔膜から発する迫力あるどす黒い声のせいだ。これは、女性講釈師にはなかなか難しかろう。
 ……そして、お紺は殺され……という話。拍手。

ライバルが欲しい、比較のために

 さすがの伯山だった、と思う。東京で講釈師数十人というニッチな市場で人気者に躍り出て、その後、テレビやラジオ、Youtubeを駆使してアピールし、自分だけでなく、講談や芸協を盛り立てていこうとする姿勢は素晴らしい。多くの人が応援するのもわかる気がする。

 ただ、伯山ひとり人気では限界があり、伍するライバルがあとひとり、ふたりは出てきてほしい。これは、『講談最前線』の瀧口さんと同じ思いだ。
 ただ、瀧口さんほど講談を聴いていない自分としては、まず、比較するために、ライバルが欲しいのだ。
 そう、伯山が本当に上手いのかどうか、天邪鬼な自分にはよくわからない、といったら怒られそうだが。多分、間違いなく上手い。しかし、それを自分に心から納得させるためにも、同時代で伍するライバルが欲しいのだ。と言ったら、わがままだろうか。

 末廣亭が末永く続きますように。

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