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・今日の周辺 2023年 とつとつと いくつもの夜と朝

○ 今日の周辺
朝、買い物に行って、祖母に荷物を送る。
朝ご飯を食べて、温かいお茶とスープを飲んで、薬を飲んで、座って、祖母が畑から大量に送ってきてくれたスナップエンドウの筋を取りながら、ニュースを見ていたら、ようやっと気持ちが落ち着いてくる、外気も室内外も、こう寒暖差が大きいと身体にこたえる。

図書館に隣接した公園にカワセミがいた!
東屋のある小さな池があって、その周囲を飛んだりとまったり、水浴びをしたりしていた。羽の青がきれいで、飛んだときにはお腹の黄色に気づいて、かわいらしく見えた。カワセミの鳴き声を知った。あちこちに飛んでとまって、何かを咥えて真っ直ぐに飛んでいった。

葉の間を通ってきた光が、異なる形を絶え間なく本のページに映し続ける。
用務員のおじいさんがあちこち歩き回って木の枝をばしばし切っていく。座って本を読んでいる人にもお構いなし、なかなかの長さの枝もばすんと切り落とす。その一連に規則性がみえないので、もはや何かパフォーマンスのようだった。

○ 最近のこと
スズメバチの羽音に驚く、目が合う。

IWAKAN podcast「男性性を探求するための準備運動」、眠る前に聴く。
マイノリティとされるメンバー(シスジェンダーの男性はここにはいない)でジェンダーやセクシュアリティについて話すと、これだけマイノリティの中の個別具体的で多様な意見を耳にすることができる、のだとあらためて。
少数とされる属性はコミュニティの中に1人いるだけでは、その人自身のことを話すことは難しく、その人が持つ属性(例えば、括弧付きの「女性」)について代弁することしかできず、3割を超えるとようやく、属性の大枠の意見を超えて、個人の意見を口にすることがしやすくなるという。
中でも、アンドロメダが話していた、多くのゲイの人がDIVAと呼ばれる例えばビヨンセやレディガガにどうして惹かれるのかといえば、社会の中でゲイの人たち自身の中の女性性が否定されてきたからじゃないかと思うと言っていて、そういったこと、ゲイの人が自身の女性性、あるいは与えられた男性性以外の面に抑圧を感じている側面を持っている、ということを私の立場から想像することは難しい。それはひとつの考えであって、異論はあるとしても、そのようなことは自分には想像できなかった。これまで特定のコミュニティ、守られた関係性の中でしか話されなかった、打ち明けるように話される考えや思いのなかに、思いもよらない岐路を見つける可能性が含まれていると思う。
そして誰もの中に、「これまで話していなかったこと」があることに、何かほっとして眠りにつく。

職場に意見書を書いて面談を重ねたりしていたら6月、その後の調整に7月、そうしていたら2ヶ月があっという間に過ぎた。
働きにくいなあ、と微かにフラストレーションを抱えながら仕事をしていたのが伝わったのか、黙れと目配せされていた。その反面、本音を口にしろと言われる。黙れと話せの両方に共通するのは、「この場に都合よく」だとわかる。わかりやすく、起こりがちなダブルバインド。
誰もが仕事をしに職場に来ている。一緒に仕事をする、ということは、偶然隣り合った人のどのようなものかわからない「生活」を続けていくことに互いが関わり合う、ということだと思う。和を乱すようなことはしなくていいし、仕事はなるべく和やかに円滑に運んだ方がいい。
定時で帰りたいなら、ロスタイムを減らす、ノイズを減らす、考える時間を減らす、それでいいのは、現状のルールに納得して共有できている側であって、とか思ってしまう。考えない、ことが前提になっている場所で、わざわざ意見を口にすることのハードルは高い。
極端にいえば、困りごとを表せば黙ってと言われ、摩擦を起こさないようにすれば、刺激され意見を求められる、の繰り返し。正直疲れる。
こんなふうにこの労働環境におけるちぐはぐなコミュニケーションの仕組みを言葉にすれば明確になるけれど、問題はそのことに悪気があるわけではなく、一応こうなっていることの理由はあるらしい、ということで。
どうして現状に困っている方(大抵立場の弱い側)が、時間と労力(業務時間外)をかけて考えて働きかけ、総意を得るところまで果たさなければならないのだろうとはどの社会運動の起こりを見ていても思うこととしてある。
上司間のコミュニケーションの齟齬や軋轢は、下って、部下やアルバイトなどの立場の弱い人のところへ形を変えて転がり落ちてくる。
まずは、自分が与えられている立場の責任を果たすことができていないということを自分で見過ごし続けていることが職場の働きにくさに直結しているということを自覚する必要があると思う(どうしても難しいということはあるのだから、そのことも含めて周囲の人を頼ったり、人員を増やしたり、ということで解消することも検討されやすくなるといいと思いながら。個人の能力の違いを否定するつもりはありません)。

もちろん、ようやく働きやすい環境を得つつあることには、自分が思っても、できないことを、その意図を汲んで慎重に運び実現できるよう手伝ってくれた人があっての現状であるということは忘れることがない。
逆境を糧に、自分のいいところ、伸び伸びと、生かしていける好機にしてしまうからね。

IWAKAN Podcastに通勤時間を助けられてる。
属性や立場が近いからこそ深く細かな差異について話し合うことができる、少し踏み込んで打ち明けるように口にする話、職場でそのようなコミュニティを形成している途上にあるけれど、心細くなることもあって、本音を言うことを控えるということが続くと自分の意見や考えは自分の中にさえも見えにくくなってしまう。

○ あれこれ
三人の日記『集合、解散!』(植本一子・金川晋吾・滝口悠生)届いて、すぐに読んだ。

昨年の今頃に出版された『往復書簡 ひとりになること 花を送るよ』、は大切な1冊のひとつ。そういえば、トークイベントにも足を運んだんだった。
往復書簡は今回の日記に近い要素もありながら、ところどころに互いが書いたことへの応答が挟まれ、相手へ向けて口語で書かれているという形式が好きだった。
滝口さん「他人の日記に生じる尊さはその日記を書いた人のものだけれど、誰かにとっての尊さを確かめることが、他人の書いたものを読む意味、つまりは本を読む意味じゃないだろうか。」
他者の日記の中の、私からは離れた時間が、日記を読むことで自分の中に繋がるとき、他者を自分のように感じられる瞬間だ。
人にとっての必然性、その人にとって何が危うく、何が安全であるのかということは言葉や考えや振る舞いに現れる。そのこと自体に優劣はなく、ただそれが近しい人とは付き合いやすいとは思う。
肩書きの異なる3人を一時連ねたのは、そのようなものの近さなのではないかと思えた。

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イ・ランさん、「強くならないと生きられない社会」で問う。「あなたはどうやって生きているんですか」読む。

悲しいことやどうにもならないことに向き合いたいと思うことは、回り道になる、うんと遠回りをして結果的に時間がかかったとしても大切な過程と思う。
最近気がつけたのは、自分の中でなかなか顔を出さないでいる言葉に耳を傾けてじっと待つことや、その言葉の切実さに向き合おうとした経験は、自分に対してだけでなく、他者のそういったことに対しても有効であるのだということ。


ころころと激しく変わるこの寒暖差、気候は人にも影響を与える。
人が地球環境に与えてきた影響が、人に影響を与え返す、無茶苦茶で利己的な振る舞いがそのまま人に返ってきている、ように思える。

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