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吐息

 男性会社員のFさんから伺った話。
ある夜、仕事の帰りに山の中を通る道路を車で走っていたという。
遅い時間だったし、もともと車の往来が少ない道ということで対向車もほとんどない。
同乗者もいないので、Fさんはラジオをかけながらのんびりと車を走らせていた。
道路の両側は鬱蒼と木々が立ち並んでいる。
Fさんはふと視界の隅に何かを捉えて、そちらに注意を向けた。
車の左側に広がる森の中に、女性らしき人影が立っている。
肩ぐらいまで髪の伸びた女が車道の方に背中を向けているのが見えた。
ヘッドライトの光で水玉模様のスカートを穿いているのが見て取れた。
Fさんの車はそのまま女の横を通り過ぎる。

こんな時間に山の中で何をしているのだろうか。
怪訝に思ったFさんが引き返して声をかけてみようか、と思った時──。

再び、左側の森の中に人がいるのが見えた。
「…え?」
車が人影に接近した時、Fさんは思わず声が出た。
あの女だ──。
間違いない。
水玉模様のスカートとセミロングくらいの髪。
先ほどと同じように、こちらに背を向けて突っ立っている。
Fさんは頭が混乱しそうになった。
最初に女が立っていた場所から少なくとも百メートル以上は離れている。
どうして女が急に移動しているのか。
それに森の中はほとんど真っ暗なのに、妙に姿形が鮮明に見えた気がする。

自分は見てはいけないものを見たのではないか。
そんな不安が湧き上がってきた。
(そんなものはいない)
Fさんは不安を抑え込むために心の中で自分に言い聞かせた。
誰だって見間違いくらいする。
(さっき見たものは、きっと目の錯覚か何かだ)
そう念じた瞬間、ふうっ、とFさんの首に誰かが強く息を吹きかけた。
「うわあっ!!」
Fさんは驚いて急ブレーキをかけた。
幸い、後続車はいない。
ゆっくりと車を路肩に寄せてから、恐る恐る背後を振り返った。
無論、後部座席には誰の姿もなかった。

「確かに、誰かに息を吹きかけられたんです」
窓は全て閉めていたし、車内のエアコンなどもつけてはいなかった。
Fさんによれば、ヘッドレストとシートの間の隙間から後部座席にいた何者かが突然息を吹きかけたような印象を受けたのだという。
「何というか生暖かくて…。間違いなく人間の吐息でした」

Fさんはその山中の道路は、なるべくならもう通りたくないということだった。

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