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家族と「離れた」ら、自己肯定感が上がった。

5月に自分が教育業界でのキャリアをリセットしたことをnoteにまとめた。

実はもう1つ、大きく変えたなと個人的に思っているのが、家族と物理的にも心理的にも「離れる」ということ。

面白いことに、「それまで」はネガティブ思考で自分に厳しくて、というか自分に厳しすぎて周りに心配されるほどだったのに、最近は、前向き思考になってきて、心にスペースが生まれてきて、自分に正直になってきた。(あれ、どこかのnoteで書いたのと同じ文章…笑)

上記のnoteと同時期にこちらも書き始めていたけれど、なんとか言語化と公開を試みようと思う。

すごい端的にまとめると、家族や親戚からの言葉や自分の人生の中でのいろいろな出来事の積み重ねで表向きの目指している自分像と本当の自分の違いに苦しんでいて、いざそこから物理的にも心理的にも離れてみたらV時回復で前向き人間になれている、というお話です。長文だ。自分の為に書いたと思おう。ごめんなさい。


前提、普通の家、普通の家族

まず、我が家はごくある超普通の家庭であるし、周りもそう認識してると思う。教育ママでもバリキャリ父でもない、普通の専業主婦とリーマンの家に生まれた長女だ。虐待はないし、親がアル中とかでもない。

そしてそんな私は、よくある家庭のよくいる長女で、父と飲みに行ったり、母と旅行に行ったり、妹と買い物に行ったり、叔母とお茶をしたり買い物を手伝ったり、家族全員での季節のイベントでの集まりや法事にも参加し、必ず父母妹の誕生日にはプレゼントを用意するかパーティーをする、というような、かなり、そういう意味では周りの友人知人よりは「家庭」に比重を置いている方だったように思う。SNSにも叔母たちとパーティーをしている様子や、祖父母や従姉妹に会いに行ってセルフィーアプリで遊んでる写真などをアップしていて、周りからも家族で仲が良いねと言われたりしていた。

海外(アメリカ)で働くという経験を経て国内の地方で経営者として出向し国内外で日本の水産業の振興にキャリアを注いだ父と、専業主婦として父そして我々子どもたちをしっかりがっつり支えつつも着付けなどの趣味を極め資格のようなものを得るしその知識技能を外国人留学生の着付け体験などでボランティアなりで提供する社会貢献度の高い母と、自分の意見を明確に持ちはっきりと伝えられ新卒で入社した会社でも着実にキャリアを構築でき今秋家庭を持つ妹。家族親戚全員、特徴と彼らの尊敬ポイントを全部書き出せるくらい、素晴らしい人たちの元で自分は育ってきている。


ねじれた「いい子」の定義、自己肯定感の充足元

「小学生(●歳)なのにすごいね」「さすがお姉ちゃん(長女)だね」
「まだ小学生(●歳)なんだから…」「お姉ちゃん(長女)なんだから…」

きっと私は言葉に敏感で「●●なのにすごいね」や「●●なんだから」といった言葉に反応しやすい。高校生なのに、大学生なのに、新卒なのに、まだ20代なのに、女性なのに、すごいね、といったギャップへの周りの驚きの感嘆の言葉にニヤニヤしていたし、一方で帰国子女なんだから、部長なんだから、働いてるんだから、教師を目指してるんだから…と、肩書や所属やステータスと自分の間のギャップをみつけて埋めなくてはと自分磨きに没頭する。

そのベースというか癖といったものは、小さいころから「いい子」であることを褒められ「もっといい子」を目指すが故、ついてしまったように思う。


当たり前のように小学校中学年で東京へ引っ越し、当たり前のように中学受験を始める。自分にとっては当たり前のように過ごしてきたライフイベントだが、そこら辺から、「いい子」を維持するべく家族の前で「作り」始めたように思う。もちろん学校の友達にも本音で話さなくなった頃で、周りに「好かれる」ことを求め自分に嘘をつくのが当たり前になってきた頃だ。

効率的に比較的安易に思考を使わず「いい子」になるのは、自分から新しいものに挑戦しそこで成果を上げるのではなく、与えられた環境や試練で成功、むしろ、それ以上の成果を上げることだ。私の受け身な姿勢はそこで作り上げられたように思う。

したがって中学受験も特に自分の意志はなく親の選んだ学校を受けている(まあ、マジョリティだと思うが)。ただ、私にとって今でも鮮明に思い出せるので、「親は私の事をわかっている、わけではないかもしれない」とおそらく最初に強く認識した出来事がある。

それなりに有名な女子中学校に落ちた帰りの電車で、窓から入ってくる日の光をボーっと見ていたら自然と出たあくび。自然と涙も出るわけなのでそれを手で拭いたら、それを見た母親に「泣いてる?」と言われたのだ。即答で「ううん」と返事しながら、そこで、私はおそらく初めて心底「は?」と思ったのだ。受験の段階で面接が壊滅的だったので「あ、これは落ちたな」と認識して別の受験校で合格なければと切り替えていたし、そもそも悔しいと思うほどその学校に行きたいともなんとも思っていなかったから、「本当は行きたかったんだよね?」に近しい意味にとらえられるトーンできかれた質問が、それはもう、驚きだった。


その受け身姿勢は父の仕事で渡米が決まったときにも表れ、私の部屋に入ってきた両親が「実は夏から渡米」と発表した時にもとても反応が薄かった。親側は「2年間受験勉強を頑張っていたから受かるまで黙っていた」らしいが、私は今でも鮮明に思い出せるが「なんとも」思っていなかった。「え、2年間の受験勉強は何だったの?」とも思っていない。「ふうん」、以上。2年間受験勉強で頑張るというのは、当たり前の物だと思っていたからだ。

聞かれていたのかもしれないが、自分自身は、「バレエを東京でも続けたいか」「中学校受験をしたいか」「どんな中学に行きたいか」「アメリカに行きたいか」自分が自分に問うようなきっかけとなる質問を聞かれた記憶が自分にはない。「東京に行くよ」「中学受験しようか」「●●中学受けてみる」「アメリカに行くんだ」、事実が、ファクトが伝えられてきて、当たり前のように受け入れていた。大学受験も当たり前だと思っていた。

「いい子として正解なリアクション」がわからず、周りを見て模倣することも多々あった。

そうやって「いい子」を目指していたから、周りの様子を伺い自分の明確な意思を持っていなかったように見えて、だからこそ自分には狭まれた選択肢が与えられてそれを自然と受け入れる流れになっていったんだろう、と今になって思う。

自分が自分で選択する力を身に着けることや情報格差の是正に大学時代から今までゆるゆる取り組んでいるのも、その反動からかもしれない。


誰も私をわかってくれないが自分でもわからない

渡米前に進学した国内の私立の中学で理不尽な時間割の組み立て方に感情を爆発させ教科書を床にたたきつけるという問題を起こした。初「脱いい子」の瞬間だ。自分は当時悪いことをしたと思っていないし、今でも当時の自分ができる感情表現としてはそれくらいしかできなかったんだろうなと思い、教師はそれをくみ取るべきだったと思うので悪いと思っていない。しかし、私の謝罪で全てがまとめられ、「アメリカに行くことが決まってるからって調子に乗って」とでも思われたのかクラスから集団無視を食らい、一気に居心地が悪くなった。当時は、もう夏からアメリカだし耐えればいいやと思っていたと思う。今思えば、この時の自分の気持ちが話せれば、大学受験時に再度親から女子校という学校形態への進学をたとえばで勧められなかったと思う。結局そこでまた「は?」「マジわかってない」と思ったわけだから。

いざ渡米すると現地の生活や言語の習得に苦戦しながら、思春期・反抗期が重なり、日々の異国での出来事による情報量や感情の変化が多すぎて帰宅後に報告する体力も気持ちもなく、親とのコミュニケーションが希薄になり、もやもやがこの時期にかなり蓄積されたのは間違いない。後に習い事や体育会系のダンス部に入部したことで自分の1日のスケジュールは詰め詰めになり、また、自分の思考に空白ができなくなっていく。

大学進学というものを考えなければならなくなった時、どこかに「アメリカの大学に」と考えていた自分がありつつも、自然と家族の方向は「日本の大学」へと向いていった。自分がずっと日本に帰りたいと口に出していたからだ。母は自身が女子大出身であることから、一時帰国時に私を女子大の見学やオープンキャンパスに連れて行ってくれたが、これまた中学受験の時と同じ現象で、まったくもってピンと来ない。それでも「ここ好きなんじゃない」と見つけてくれた共学の大学に興味を抱き、合格したら家族親戚から「家から近いじゃない、よかったね」と言われて、「ぁあ、よかった」と思い、入学する。家族親戚が前向きなコメントをくれた進学先に進めた、と。

聞かれていたのかもしれないが、自分自身は、「アメリカに残りたいか、日本に帰りたいか」「何を学びたいか」「今どんなことに興味があるか」「どんな学び方が自分は好きか」といった対話を親とまじめにした記憶がない。

自分に考える余白が精神面でも時間面でもなく、会話がもともと少なかった結果、「本当は自分は…」と考える機会がなく、家族の前で何が自分の本当かわからなくなっていたように思う。だからこそ、わかってくれているかもしれないという親に期待を勝手に抱き落胆するという機会も増えた。対話もせず、起きている間はほとんど顔を合わせないのだ、あたりまえだ。


軸・余裕がない中でのプレッシャー、ストレスの増加

余白を埋めることになれていた高校生活から、大学生活でも「空白恐怖症」の傾向があり「忙しく」なる自分。学業やサークル、そして自己研鑽の活動と家族との時間や家事の手伝いを天秤に置き、優先順位をつけることもあった。大学1年生の時に設けられていた門限はどんどん破るようになっていった。そしてより親の前で本当の自分を見せなくなっていく。そこで何かしらをきっかけに親に指摘・アドバイスされると、それは「事実」ではあるから、「まずは過度に」自分自身で受け止め、その負のエネルギーを溜めこむようになっていった。

例えば、「そんなんだと彼氏できないよ」という言葉。当時彼氏がいたのを黙っていたが、後日彼と別れてみれば「私は母親の言う通りダメなんだ」と自己嫌悪の負のループにはまる。学生時代はモテ期だったこともあり二桁近くの異性と付き合ったが、ほとんど「私と付き合っても…」という自己嫌悪から自分から別れを切り出している。しかも勝手に自分一人ででメンタル落ちて離れることを決めてるから、向こうは突然すぎて驚いていただろう。正直に話せない人だった。ごめんなさい。

そういえば、元カレのうちの1人と「塔の上のラプンツェル」の映画を観に行った時、塔の外にやっと出ることができたラプンツェルが意気揚々とした直後に母(魔女ゴーテル)の言いつけ(外出厳禁)を破ったことに対して「私は最低な娘だ…」と自己嫌悪する、というのを何度も繰り返すシーンがある。このシーンがとても私っぽい、と映画館を出て最初に言われたことがある。下の動画の1:20くらいから。

就職活動を始めると、専業主婦の母親の意見は「時代が違う」と耳に入らず、単身赴任をしていた父とも会話が合うこともなく、「どうせわかってもらえない」と思うストレスから経営者である叔母に「Second Mom」として相談に行くようになった。しかし、ここで知った自分の家系のエリートさに、自分も出世し成功しなければならないというプレッシャーを勝手に抱いてしまう。なんせ、東大卒農水省の祖父、東北の有名な酒造の血を引く祖母、イタリアとイギリスとそれぞれ国際結婚しそれぞれの国と日本をつなぐ仕事をする叔母たち…自身もアメリカに住みMARCHの大学に進学したことから「#高学歴」「#グローバル」といったキーワードが刺さる刺さる。ちょうど教育業界でバリバリやっていきたい、と自分に厳しく武装強化に取り組み始めている時期でもあったわけだが、そういう期待を持たれているとも勝手に大げさに思っていたのではないかと思う。どうにか手に入れた新卒の会社の内定は、「ファーストキャリアにちょうどよいじゃない!」と言われて、「ぁあ、よかった」と思い、入社する。家族親戚が前向きなコメントをくれたキャリアに進めた、と。

そして、社会人になってみれば、教育業界を辞めたほうのnoteに記載した通り、1年で仕事を変えることが続き、どんどん自信喪失の方へと下り坂に転げ落ちていく。大学進学の時や恋愛の時同様、自分の本音を考える余白がないし、本音を伝えられる語彙力や自身がないし、そもそも本音がわからないしネガティブ思考。負のループにどっぷり浸かっていくわけだ。

そんな自分の精神状態がぼろぼろになっていく中で、母方の祖母、祖母の姉、弟が立て続けに亡くなり、父方の祖父も亡くなり祖母はボケてしまう。葬式含め法事の数が以上に増え、家族で集う機会が増えた。そのような家族親戚一同が集まる中で自分の話をしたくもないし振られてほしくもないし、そもそも集うところに行きたくもない。祖父母の素晴らしい人生歴やキャリアを聞かされ、「祖父母はこんな素晴らしい人生を送っていたのに自分ときたら」と悲しくなりたくない。仕事や自身の活動や転職活動などを理由に参加しなくなると親からは「参加しなさい」と怒られ、「確かに行ったほうがいいのかもしれない」と思いつつ「行くもんか」と反抗し、結局行かなかったことに自己嫌悪にまた陥る。墓参りをする時間があるなら、自分をより良くする活動に時間やコストを費やしたいという焦りもありながら、そうした家族との時間を割けない自分に「親不孝」というラベルを大きく貼り付ける。

教育業界にずっといると、「先生を目指している」=「家族と仲良くしていなければならない」という前提・当たり前が出てくる。地域と家庭と学校の協働した子どもたちの育つ住まい環境作りだとか、学校行事における親や祖父母に感謝する日のなんだとか、1/2成人式についての是非とか、家のお手伝いをしようだとか、三者面談の仕組みとか、保護者を意識した教育だとか、PTAだとかお父さんの会だとか…子どもの教育に関わる以上親はじめ家族と関わるのは当たり前で、関わる以上自分も見本となる家族との関係性を構築していなければならないと思ったりするわけだが、自分は見事に逆を進んで辛くなっていた。学生時代は学童やキッザニア、社会人になってからはベビーシッターの仕事等を始めるが、母の日イベントでカーネーションの折り紙をつくったり、お父さんの似顔絵を一緒に描いたり、仕事でなかなか会えない子どもにどうやってかかわっていけばベターなのか相談を受けたりして、今の自分と真逆の思考・出来事に受け止めていくのに心は限界を感じていた。


2016年12月18日

家の玄関で何かを言われて(記憶に残っていない)プツンと切れて以降、家族全員と顔を合わせることも会話をすることも全てが私にとって「かなりのストレス」になった。Twitterの裏アカウント(今はもう鍵付き)のつぶやきをみると、当日の夜にこんなことを書いている。

「私にかける声が不安と不信しかないから負のループが発生しているのは事実で、すべて自分に問題があるのだけれど、それに焦りや苛立ちを得るようなその言葉から逃げないと私はもうやっていけない」
「今は心から幸せじゃないから家族がうるさくなる気持ちはわかるんだけど焦らせたり苛立たせたり自己嫌悪になるような声がけを本当にやめてほしい」

1年後には振り返りながらこんなことも。

「すべては親の干渉が根源。善良な言葉の羅列に誰にも相談できず自分の中で積む。むしろ余計自己肯定感が弱くなる。自立したいが経済的に不可能。だから負は積もる。だから可能な限り干渉してほしくない。だから話したくない。それだけなのだ。試みようとするだけで拒絶反応が出てしまうんだ。やめてくれ」

とにかく、「一人」の時間が欲しかったようだ。家族からの干渉は、その場に彼らが居るというだけでも、もう、自分には苦しいものだったようだ。


教師を目指すのを止めると同時に

さて、裏アカウントでは何度も「出ていく」とつぶやいていたものの、1年後のつぶやきの通り「経済的に不可能」と思い込みその場で足踏みをしていた自分。実際、上記の出来事の前にシェアハウスに住む試みをしたのだが、コミュニティに魅力を感じすぎた結果家賃が高いところを選んでしまい、当時働いていたNPOの給料では賄いきれず近くのガールズバーで夜中は働くという「ミス」をしでかして半年で戻った(ちなみにガールズバーで働いたこと自体は全く後悔していない。とても貴重な機会だったし素敵なママやお客様に出会ったと思っている)。家族と口を聞かなくなった一方で実家から出れない依存しているような自分との葛藤に苦しむ。(サスティナブル的にも実家暮らしがいいじゃんと思い始めている頃だから尚更)

そしてなにより、前述の通り教育業界で働いている自分が実家を負の感情を抱きながら出ていくなんて…という思考に自分でずぶずぶ浸かり、自分で負の感情を蓄積していっていた。自分の家族観に対しての負の感情を裏アカウントにつぶやき続ける一方で、表のSNSではベビーシッターをして気づいた子どもへの声掛けや育児方法を投稿し、周りから反応をもらっては嬉しくなる一方「子ども産まれたら本当素敵なママになりそう!」と言われると「実は自分の家庭は全然良く思っていない自分が?無理…自信ない…」とズドンと落ち込むということを繰り返していた。周りに同じような経験者を探すことももちろんこのような表向きの顔を作っているからできず、ネットで探しても見つけられず、一人で抱え込み葛藤していた。

殺意のような感情を一時的に抱き台所に行きたくなる衝動すら持ったことがあった。その直後には、「そんなんで教育者目指していいのか」「そんなんでベビーシッターしてていいのか」「そんなんで良い母親に将来なれるのか」と教育業界で歩んでいく自分が家族を大切にしていないことに対しての自己嫌悪に苦しむ。前述のラプンツェル現象だ。もう限界に来ていた。


何でもいいから自信が欲しくて、家から離れる理由が欲しくて、2020年は海外にいる=家に帰らない、を目標に掲げ、1~3月はアイルランド、5月からはアメリカに行く計画を立てた。離れれば親のありがたみがわかるとかいうことを受け入れていたのかもしれない。アイルランドでは初めての海外で一人での長期滞在となるので念のためホームステイを選択。すると結構問題なく過ごせることに気づき、自信を少しだけ得る。そして親と3か月だけでも顔を合わせないという、離れていたことに対してのストレスフリーの方が大きかったことにも気づいた。さあ、次はアメリカだ!1年以上だ、と思っていたら、コロナ騒動で自身のキャリアに何が起きたかは、教育の方のnoteで記載の通り。

アイルランドに「逃げる」前と同じ状態である。自分のキャリアはコロナでぐちゃぐちゃになり、どの方向に向かっていけば良いのかもわからない。自分の軸もブレブレで迷子なのにステイホームで実家から出られない。廊下を歩く母親の足音が自分の部屋の向かいのトイレに止まるだけで、私の部屋に入ってきてこれからを心配される声かけをされてしまうのかもしれないと思い込み、外に出たら下の階に住む親戚や近所の方に「あなたはこれからどうするの」「今何やってるの」と言われてしまうかもしれない、とイヤホンをつけて速足で出歩く。自己嫌悪は止まらない。迷いと焦りで爆発しそうだった。

ある日、もう削除してしまったのでざっくりとしか覚えていないが、「文句言うならいい加減独立しろ」みたいなことを叔母(経営者で「Second Mom」と呼んでいた方)からスパッとメッセージで言われ、一気に背中を押された。


あー、出てこ、この家。


運よく鹿児島で仕事を得ることができ、「海外ではなくても国内でもいいからこの家から出ていきたい」と、「移住」した。LINE電話で内覧をする前に、もう家を決めて、スピーディーに引っ越しをした。移住にあたり行った断捨離は、もちろん自分を見つめ直すという目的もありつつ、「実家に自分が居たという痕跡を完全に無くしたい」という目的もあり、実際に空っぽにしてきた。下記noteの写真のドライフラワーが最後鞄に入らなかったのでそれと、実家の鍵を机の上に置いて、出ていった。

初めての1人暮らしで、自分の知識不足で、賃貸にするときに保証人が必要な事を知らず、家族に住所がバレてしまい、勝手な仕送りが来たが、オーガニック・有機・自炊の食事に移行している自分に添加物たっぷりのインスタント食品を送るというあまりにも合わない支援物資であることを彼らも閲覧できるSNSで徹底的に叩いて以降、来ていない。

ということで、私が何かしら家族の話をするときは、5年前の情報で止まっているし、今彼らが何をしているかは知らないし、興味がない。


いや、できるじゃん、自分

鹿児島に来てからは家族を思い出す苗字で呼ばれたくない想いもあり、「かな」やあだ名の「しあ」で名前を浸透させた。むしろ、自分の名である「かな」すら避けて「しあ」の方に比重を置くくらいだ。

そして、教育業界の方でテキストやプリントを一気に手放したように、全家族親戚との連絡を切った。SNSでは安否確認から繋がり続けたいという向こうの希望からリアクション一切禁止で閲覧のみと条件を付け、親戚からの連絡も既読または未読無視を徹底。

もうすぐ移住して1年になるが、初めての一人暮らしを実際にしてみたら、気づいたことがたくさんあった。

・料理の手伝いをしていなかったから、料理ができないと家族にも思われていただろうし自分もできないと思っていて(レタスとキャベツの違いが大学生になってもわからなかった笑)、自信がないからとABCクッキングに通ったけどパン教室にハマってしまい料理教室を全く受けず、「自分には料理なんて無理」「いい奥さんになれない」「ああ私は幸せになれない女性としてオワタ」と思っていたけれど、鹿児島市の青少年に提供する市民講座で料理講座を受けてみたら自分がいちばん手際が良かったし先生に褒められたし周りに羨ましがられた

・親のありがたみがわかるとかいうけど、ここ5年親のごはんをまともに食べていなかったし(ラーメン作って食べてた)、化学調味料無添加・オーガニックの食事に意識がシフトしたので自分で食材や調理の仕方に選択肢があることが素晴らしくて嬉しい

・エシカル・ミニマリスト生活を意識しているので、実家がもので溢れすぎていたのに対し空間がある自分の部屋が大好きすぎて家事が全く苦じゃない(実家に元々あった家具ではなく自分で必要なものを買い揃えられる自由さも最高だ!)

・人目がなくなったから部屋でぐうたらしようが好きな時間に寝たり起きたりしようが何も罪悪感や羞恥心を抱かない(結局は実家時代より早寝早起きの健康的な時間の過ごし方にはなっている)

・サステイナブルに生きたいと思っていた分、自分が使った分だけの水道光熱費の請求や食費に費やしたお金が可視化されて確実に地球に優しい生活にライフシフトができ始めている(そしてしっかり節約もできている✨)。何でも自分が決済者となり自分の選ぶ選択肢に責任を持てるし自己管理能力にさらに磨きがかかった

・アドバイスされるがままに病院に行ったり、ニキビひどいから、生理痛重いから、これ飲んだらと言われて勧められるがままにサプリメントを摂取していた生活から、自分と向き合う時間が増えたから自分に意識が向き、自分の体と向き合い、どこのどの部分がどう痛いか、自分には何が足りていないかなど細かく考えられ言語化できるようになり、自分に合う予防法・治療法(最近は自然療法寄り)などを選べるようになった(そして実家時代は毎月通院していたのに移住してからは一度も病院に行っていない)

・とにかく自分に選択肢が多い、自分はどれをどうしたいか考えられる、選べられる、最高すぎる

もちろん同時に教育業界から離れたこと、完全個人事業主に働き方を変えたこと等もあるだろうが、自分の生活面においては「私全然箱入り娘じゃなかったじゃん」「終わってなかったじゃん」という事実に自分自身が驚く日々が続いた。

自分の生活スタイルに余白を作ったことも絶対大きいが、自分の中で少しずつ自信を得られるようになってきた。ポジティブ思考になってきた。

「いい子」を捨て、「自分」を大事にし始めたら、自己肯定感が正しい方向で上がってきたように思う。

今は自分の言葉で「幸せ」と言える。

「和解」「元に戻る」といったワードは全くストンとこない。仲直りとか喧嘩とかそういう話ではなく、実際自分の目でも見ることができない「血の繋がり」というものを単純に認識しなくなったというだけのような。だから、今は問題ないと思えているので、このままになることもある。



「家族の在り方は多様だ」と、離れたことに対しても教育業界で歩んでいくことをやめたからか、前向きにとらえられるようになった。

SNSなどで調べてみれば、家族と仲の悪い人は世の中に沢山いて、「親を結婚式に呼んでない」という体験談もたくさん見つけた。「成人になってから起こる反抗期のようなもの」という説もみつけた。でもピンとこなかった。「家族と仲良しであることが正解・アタリマエ」という考え自体、定義によっては”マジョリティ”ではないかもしれないし、今後崩していくべきもので、「家族ですら他人であって、価値観など合わないものは合わない」のだと思うようになった。家族と相性が合わないとか、仲の悪いことが「よくない」とは誰が決めたのか。生物学的、DNA的に類似的な特性や外見があるだけで、価値観や思考や経歴、視野は周りの別人たちと同様で全く異なるではないか。「夫婦別姓」や「妻の苗字を継ぐ」や「離婚」がそれなりに当たり前になってきた世の中に、この部分でも家族の在り方の多様性を認めてもよいのではないか。「血縁」になぜそこまでこだわるんだ。

(ちなみに調べてみると、親から虐待を受けていたり、両親がアル中だったりといった理由で家族と縁を切っている息子娘側のの証言が沢山みられる。そこまでいかなくとも、親と離れる理由はいろいろあってよいと思う。)


外に出てみれば、家族の話をされることは普通にある。特に地方ではそうだ。連休に帰省するの、とか、東京行った時に実家に戻るの、とか。でも、前だったら「そうだよね帰省するもんだよね」とか自己嫌悪に陥ってたかもしれないけれど、さらっと「帰省しないよ」「帰らないよ」「5年以上話してないからわかんないな」と答えたら、「家族は大切にしたほうがいいよ~」というリアクションを返され全然深入りされない。それでもいい。

今の私に家族親戚とのつながりは自身で勝手に増築させて爆発させていたストレスの要因であったことから距離を置きたい→不要・なくてもやっていける、というフェーズになっており、今後戻りたいとか連絡を取りたいとも何にも考えてもいないし感じていない。自分の心は「今」で十分満足している。


一番大事にしていくべきなのは、自分自身であって、自分らしく生きていくこと。

これからも自分と向き合っていく。

自分を大切にしていきます。



Special Thanks このnoteを公開するにあたり色々壁打ちしてもらいました


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写真はUnsplashからAnkush Mindaさんの物を拝借しました。




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