失敗とはー続・失敗の本質

失敗とは
スポーツ、料理など
何かの練習をしている中では当たり前だが
なぜか「人生」となると途端に否定をしてしまう
実におかしな言葉である。

そして人生における
個人個人にとっての成功とは
その為の練習と本番を
生きていく中で同時に繰り返す事でしか
形にしていく事は出来ないもの。

つまり結論としては

「失敗する事は挑戦したとゆう事」であり
「愚かな事ではなく、むしろ誇れる事」である

そして「本当に愚かな事」とゆうのは
「せっかくの失敗から何も学ばない」とゆう事。
そして「本当に悲しい事」とゆうのは
その失敗した事そのものではなく
「失敗から教訓を得ず
せっかく挑戦する事の出来た
抱く事が出来た夢や目標から目を背け
放り投げて諦めてしまう事」

そしてその実、放り投げてしまった事を
多くの人は人生の終わりに
最も嘆き悲しむのだとゆう事。

よく昔から
「失敗を恐れるな」
なんて言葉が偉人の名言みたいなものに
よく出てきたりするけど

恐れないかどうかは本人次第だから
その目線の言葉はそもそも野暮だなと思う

ただしかし1つ

失敗についてふと改めて自分なりに
まとまりを得た言葉が浮かんだので
書いておこうと思う

それは

失敗をするのはまず挑戦したからであり
その挑戦した自分を褒め称えるべきだとゆうこと

その後もう一度挑戦するかどうかは別として
まずはそれが初めての事であれば尚更
我が子やかわいい愛犬愛猫のように
すごいねーえらいねーってしてあげる。

そうやって自分で自分を認めてあげる事。

それがとても重要なのではと思う。

よくあるのは「失敗を責める」事

日本人は特にこれがひどい。

自殺行為を国民的な日常としてやっている。

本当に辞めた方がいいなと
ここに関しては強く思っている。

それから次に、

せっかく一度挑戦できたのなら
自分は挑戦出来る人なんだとゆう事を自覚して

その失敗を踏まえて
そこからどうせなら
何か得られるものがあるはずと
少しその失敗を観察してみて
何かを学び取ってみること。

そうすれば何か発見もあるだろうし
少し目標を変えたりとか
見え方も変わったりして
次に進むためのキッカケになったりもする

つまりは

簡単に諦めるとゆうの
そこまでの目標では無かったんだ

ではなくて

本当にこのまま終わらせて良いのか

そこを一度は見つめてみるのも
悪くはないのではないか
とゆう事

これは個人差のある事だし
その時の状況もあるだろうから
一概には言えない
などという言い訳や体裁はいらないし言わない

そんな今さら取り繕う言葉を書こうとは思わない

シンプルに、
自分自身でしか責任の取れない
自分だけの一度限りの人生で
本当にやりたい事
叶えたい、実現させたい事から
目を背けてしまってはいないか

その目線を持ってみる必要は
あるんじゃないか、とゆうこと。

何故ここまで力強く語れるかとゆうと

過去の自分も含めた多くの人は
ここを有耶無耶にしたり
適当におざなりにしたりして誤魔化してやり過ごして
「こんな筈じゃなかった」と
嘆いたり後悔してしまっている事が多い

「あの、全然幸せじゃないんだが」

と他人事の様に言い放ち

やれ家族が、友達が、恋人が、旦那が、嫁が、

などと周りのせいにして
そのスパイラルから抜け出せなくなってしまう。

繰り返しになるが
特に日本人はそれがものすごく、ものすごい。
本当に全く笑えないレベルで深刻だと思う。

だからちゃんと自分に立ち返って
失敗なんて言葉や
何より足を引っ張るような
周りのノイズはしっかりノイズキャンセルして
あくまで全ては自己完結、自己責任で
生きていくのが間違いないと確信している。

自分の価値を上げるもの下げるも自分次第

承認するのは自分自身

承認欲求を外に向けるから人生が狂う

人に騙されたり、利用される。

そこを踏まえていけば確実に

そもそも失敗とゆう言葉すら
何の意味も持たなくなってくる

惑わされず、惑わずに

地に足をつけて一歩一歩進んでいきたい

おしまい


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