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夏の終わりに

 田舎のローカル線で旅をするとき、ふと古い車両の窓枠の傷みたいなものに目を凝らすと「傷の内容が読める」ことがある。それもそうで、この傷は乗客による落書きである。読んでみるとはひふへほだの適当に平仮名が並べられているものや、見覚えのある英単語や、相合傘の下に人の名前が並べて書かれているものもある。たまにポケベルなんて単語も出てくる。内容を見ても、またこんな行為に及ぶ年齢層を考えても、大体は通学でこの車両を使っていた学生によるものなのは確実だ。もちろん鉄道車両への落書きなんて立派な器物損壊であるから、悪意の有無に関わらず色々言われてもおかしくない話である。でも一旅人としては、そんな若気の至りもちょっとは肯定したくなる。
 地方暮らしの経験、及び18きっぷで鈍行旅をした経験を持つ人なら薄らと分かることだろうが、モータリゼーションが進みきった地方において鉄道シーンの主役を飾るのは学生である。車を持った健康な大人が日常生活で本数の貧弱な鉄道を使う理由などほぼないし、他方学生は車という選択肢を持たないのでこうなるのは自然なことである。ローカル線、というかローカル線に限らず地方の鉄道路線の大半が、もはや免許返納後の年配客を除けば学生のためにあると言っても過言では無い。そんなあまり多くの人から必要とされなくなったローカル線においてこの落書きがあるというのは、ローカル線が学生にとっては生活の一部であることの象徴なのだ、と感じる。
 公共交通は人が乗ってなんぼ、わたしは普段からそう思って公共交通で旅をしている。もちろん人が少ない方が旅人の主観としては快適だが、住民からも必要とされなくなった姿というのは哀しくどこか心にひっかかる光景でもある。やはり誰かの日常の場として輝いている方が「らしい」姿であるように思う。ゆえに活気溢れる学生たちが車内を賑わせている光景というのはすごく好意的に捉えられるし、まさに青春の一部を見ている気分にもなる。近年では日の目を見なくなった鉄道たちもきっと誰かに必要とされ、またきっと誰かの青春を運ぶものであると、この落書きは語っているような気がする。

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