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もっぺん考えてみたほうがいい「善悪の彼岸」

ニーチェの著書で、副題は「将来の哲学への序曲」です。
べつに読んだことがあるかなんてどうでもいいんだけれど、まずニーチェが過去の哲学者または哲学者が語った道徳性について、批判の視点がなかったこと、とくにキリスト教ありきの道徳を捨てて新たな価値観へ進むべき、と説くもので、だからこそのタイトルだってのを前置きにするとして。

かなり驚きました。
メディアに出ていて顔を知られている方がなくなるニュースも増えました。
なかには「あのひとが、どうして?」と思ってしまうひともいて、私の中でryuchellさんは、そうだったんだろう気がします。
て、まだ27歳だったんですね。
言葉を選ばずに言えば、見ず知らずからタコ殴りにされて耐え続けるのにはしんどかった年齢だと思います。
殴り掛かってたひとたちは、ふりおろした拳をなかったことにしてるらしいですが、そりゃまあズルいわけだけど..せめて反省からだと思いたいかな。
申し訳ないことを書いてしまった、と悔い改めてのことならそれを批判するのも違う気がします。マジかやべえ! って輩も相当数いるんだろうけれど。

SNSだから、削除できるから。
それで何かあってそうした動きをするひとに「もう遅い」は正しいのかな?
次からは、もうしない。
そう決意した意思表示であれば、頭ごなしに否定するものでもないような。
許されるかどうか、とは別の観点じゃないかと個人的には思います。

SNSしかりインターネットでの責任て、発信者が担うべきで。
だから個人が発信したものであれば、その個人が責任も担うべきなんだけど希薄なのは否めなくて、何故かって極端には自身を軽んじているからなわけだけど、たとえばインフルエンサーであろうとなかろうとイチ発信に際してタコ殴りにされる可能性ってのは少なからずある。
その、自分だって拳をふりおろされる側にある自覚は必要なんだよね。
思い至るタイミングはそれぞれだとしても、どこかで気がつかなきゃダメなのは間違いなくて、ずうっと気がつけないままよりはマシでしょう。

ryuchellさんが亡くなったことで..なんて美談にする気はありません。

ただ、それとは別に「間違っていたと思いなおす」ことまで批判するのは、論点が違っちゃっているし、削除したからなかったことになるわけじゃないなんてことは、削除してる本人たちだって思っちゃないでしょう。

亡くなってもまだ凶器を突きつけてられるほうが異常。
そう考えるほうが自然だと思うけど?
言わせてもらえば、凶器をおろしたひとを批判するほうもどうかしてる。

ひとつ、ニーチェが『善悪の彼岸』で書いている名言に「怪物と戦うものは戦いながら自分も怪物にならぬよう用心したほうがいい」とあります。
そんなことを思い出しながら悲報を聞いていました。

残念だなあ。
ご冥福をお祈りいたします。