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「おれたちのガンダム」に縛られ続ける大人へ

悪癖と言っていいと思うんだけれど、凡そヲタクをこじらせて大人になったひとは何かしら持ってんじゃないかって思うのね。

シリーズとして長らく、って中で「ぼくの/わたしの〇〇」みたいなやつ。
とくにガンダムなんて枝葉ありすぎて、もう何がオリジナルやら。
初代アニメファーストがそうだ、なんて時系列の話じゃなくて。
たとえばアムロとシャアがいて、みたいな立て付けとして。

終わってるんだけどね、そうなってくると。
もう死んじゃってますから、どっちも。

リアルタイムの世代には、これ呪いじゃないかって思うんです。
だって言っちゃえば「おれたちが若いころには..」みたいな老害の論法だし、同じ商標ガンダムを名乗る理由にしたって市場ありきの縛りでしかないのに。

その名を冠することで、いろいろ動くカネと思惑があるわけです。

バンダイとかサンライズとか創通とか、ね。
けっきょく金の卵を産んでくれるニワトリってだけで、べつに思い入れとか微塵もないでしょう。
だから、以前にもnoteで書いたけど『水星の魔女』はガンダムじゃなくても成立しただろうし、むしろ「何でガンダムよ?」って疑問しかないの。
そもそもがアムロとシャアも、その関係者も出てこないビジネスガンダムにらしさ・・・なんて感じる余地もないと思うんです。

いまの30代くらいまでが見てるガンダムって、もう商標でしかないの。
トリコロールに塗られてなくても物語は成立するだろうし、別の違う名前でやってもやりきれるストーリーだと思うんです。

個人的には、だからユニコーンは塗られてなかったんだろうと思うのね。
あれは”ガンダム”を名乗らせる必然があったからこそ、ガンダム的な記号を秘する仕掛けとしてトリコロールカラーが邪魔だったはずなので。
らしさ・・・を語るなら、そんな象徴として戴くべきだとも。

戦争っぽくなってきたらガンダムとか、ぺらっぺらな気が。
ありきたりな戦争が必要だったのは、そのへんをやっとかないと前回までの世界観も、この下地ありきって説明をしないと先がつながらないからでは?
ここがわからんと”クワイエット・ゼロ”の意義も伝わらんだろ的な。
戦ってた勢力を考えれば、そのへんのマインドセットな気がしますけどね。

むしろソフィの「お姉ちゃんになってよ」から、エアリアルに叩きのめされ絶命する流れに明示みたいなのを含ませた前回から、グエルの「自分と父をつなぐものをなくしたくない」と続いて、”クワイエット・ゼロ”の説明。
継がされること、が共通項になってるのは主題とも深く関係ありそうだし、そのうえでスレッタとミオリネは旧い価値観を捨てて新しく生み出せるか。

価値観に当てはまるのも、まさに”ガンダムGUND-ARM”だけどね。

この『水星の魔女』って作品は、そんな旧き良き「おれたちのガンダム」に縛られ続ける大人を見限ろうとしてるんじゃないかとも思っちゃうんです。
そういう輩にはククルス・ドアンやらハサウェイみたいの用意してやっから口出ししないでくれ、みたいな雰囲気を感じるというか。
いろいろ動くカネと思惑と、旧い価値観に引っぱられて翻弄される子たち。
過去にしばられたまま暗躍する大人とか。
たとえばガンダムが呪われてるみたいに扱われるのもそう。

見れば見るほど『水星の魔女』ってのは、そういうお話に思えてきたり。
だから続きも楽しみだったり。