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【韓国留学記】韓国語を話せるようにしてくれた「人」

こんにちは。mamiです。
日本生まれの韓国人です。
母国語は日本語。
幼いころから韓国語に接してきました。
でも日本語訛り?な韓国語。
話せるけど、伝わるけど、
自信を持って話すことはできませんでした。
でも、韓国の大学である人と出会って、
彼女のお陰で話せるようになりました。

私が韓国に留学したのは20年も前のことです。
現在とは全く状況が違います。
5年間の個人の留学の体験記です。


幼少期

おしゃべり好きな子どもでした。
長女でしっかり者、勉強もちゃんとするし、お手伝いもする。
言いたいこともはっきり言う。
そんな毎日。
でも小学6年生学校の授業中、
「もう手を挙げないで、答えないで」と言われました。
その後、人前で話すことが恥ずかしくなり、
あまりしゃべらなくなりました。

高校時代

目立たず、人の目に触れず過ごしたい。
そんな気持ちで学校に通っていました。
別にいじめられてるわけではない、
可もなく不可もなく、なんとなーくすごした高校時代。
卒業後の進路も真剣に考えておらず、やりたいこともない、できることもない、アルバイト続ければいっかーそんな気持ちでいました。

高校卒業後

高校卒業後、韓国に留学しました。
ある日父が持ってきた韓国留学の情報。
すでに申し込み期限は過ぎていたにもかかわらず、今日中に返事すれば受け付けると。
で、行くと答える私。
何がそうさせたのかはわからないけど、
3月中旬にその話があり、4月から韓国での生活が始まりました。

국제교육진흥원(国際教育振興院)
在外韓国人のために韓国語を教える政府機関。
(現在は国立国際教育院に変わりました。)
韓国人、日本以外にもいろんな国に住んでます。
中国やアメリカ、南米、ロシア、フィジーから来ている子もいました。
日本以外の人たちは大抵話せました。
その子達の両親が海外に移住したから。
でも書けない、読めない。
そんな人たちのための学校。
日本からの人たちは、韓国語、ほとんどできず
話せる人が3,4人いたかな。
だから先生たちは基本的に日本語も英語も話せます。
レベルチェックをしてクラスを分け、韓国語を習う。
そんな学校でした。

私はレベル一番上のクラス。
日本からきた人はおらず、皆中国の方。
クラスでは中国語が飛び交ってました。
一人だけイントネーションも発音も違うから、
授業中、私が話すとヒソヒソなにか言ってるのが聞こえる…
中国語だからわからないけど、いい気分ではありませんでした。
勉強としての韓国語はできるけど、
結局会話の自信がつくことはなく、
余計に話すのが苦手になっていきました。

この機関での教育は1年単位。
4月から2月まででした。
韓国の大学は、3月入学です。
後期に入ると周りで大学進学の話が聞こえてきました。
え?進学するの?
親に相談したら「やってみれば?」
「じゃあ、やってみる」
で2校受けました。
梨花女子大学 社会科学部と韓国外国語大学 英語学科。

韓国の大学入試、日本でもニュースになるくらい激しいのですが、
在外国民特例入学があります。
テストが違います。
しかも年によって変わるらしく、(今はどうだかわかりませんが、)私が受けた年はものすごく甘かった。
梨花女子大学は韓国語での作文。
外国語大学は韓国語での面接。
(英語学科なのに、英語のテストもない。面接で”韓国人男性と日本人男性どちらが好みですか?”ってすっごく変な質問されました…)
で、どちらも合格。(甘すぎる…)
進学先をどうするか。
親は一人暮らしが心配だからと梨花女子大学を勧め、
先生は「良い結婚したいなら梨花女子大学、キャリア目指すなら外国語大学」とわかりやすい教え。(笑)
そして私は仕事に興味がなかったし、面接で変な質問されたこともあり、
梨花女子大学に通うことにしました。
(こんな形で進学を決めるなんて、必死に勉強して大学進学してる人たちに失礼だなと思います…)

梨花女子大学のこと

韓国で1番の女子大。
(大企業の娘をコネで入学させたりでニュースになったけど、今はどうなんだろう?)
キリスト教の大学で毎週の礼拝やキリスト教関連の講義が必修です。
でも通ってる人の宗教は関係ないので、無宗教の私も、仏教徒の人も誰でも通えます。
でも4年間、毎週礼拝に参加しないと卒業できません。

奨学金制度がしっかりしてました。
20年前の話ではありますが、
外国人、在外国民向けの奨学金制度があったので、1年目の前期以外、ずっと奨学金をもらい続けていました。
もちろん返済不要。
学費の半分だったり、1/3だったり、成績で金額が決まりました。
とてもありがたかったです。
その当時のレートで、学費は日本の国立大学よりも安かったと思います。

すごく素敵な校内で、建物がおしゃれ。
日本からわざわざ父の一眼レフカメラを持っていき、春の花が咲く時期には写真を撮って回りました。
校内に緑が多く、木陰のテーブルに座っているとタイワンリスがやってくる…そんな学校です。

大講堂と大学院館裏の小道 
春に咲くモクレンと桜、毎年綺麗だった。
写真はあまり上手くない…
(上)講義の合間によく行っていた校内のカフェ横の階段。
校内は広くて坂も階段も多くてたくさん歩いてました。
緑が多くて秋の紅葉も綺麗でした。

在学中にどんどんハイテク化(?)が進み近代的な建物も増えました。
いつもどこか工事中、そんな状態でしたが、昔からある建物や大講堂はそのまま残されていて、古いものと新しいものが共存する校内でした。

大学入学後

大学入学後、特例入学者は韓国語のテストがありました。
私は入学前に、
韓国語能力検定試験(今でいうTOPIK)6級を合格していたので、
合格証提出で韓国語のテストはパス、1年目から大学生活を始められました。
(一緒に入学した子は、5級だったので、大学でテストを受け、半年間大学内の語学学校に通っていました。)

緊張しながらむかえた初授業。
キリスト教の基礎を学ぶ授業だったと思います。
わけもわからないのにチームでレポートを提出しろと。
名簿を見て、メンバーを探してチームで挨拶。
そこに「その人」はいました。
1年上のS先輩。
彼女のお陰で、韓国語を自信を持って話せるようになり、大学生活をめいっぱい楽しむことができました。

S先輩とのやりとり

授業が終わりこれからどうレポートをまとめていくか。
相談をしながら教室を出て、休憩室へ。
私は特に何も話さず、聞くだけでしたが、
誰かと何かをする、それだけで疲れて喉がかわいた私は一人で自動販売機で飲み物を買いました。
そしたらS先輩が
「なんで一人で買ってるの?声くらいかければいいのに」
(もちろん韓国語で)

いつも一人で物事を進めていた私はびっくりしました。
(声かけるものなんだ…)
その後も一人で何かしようとすると
「なんで一人でご飯たべるの」とか
「一緒に行こう」とか
声をかけてくれました。
(後から知ったのですが、韓国では一人で食事するのはよくないのです。)

なぜS先輩は私の面倒を見てくれたのか。
「日本で生まれ育った在日韓国人。
日本から来て大学の寮で生活している。
韓国語、変なイントネーションと発音。」

こんな私が物珍しかったのかもしれませんが、
彼女の面倒見の良さ、性格がそうさせたのだと思います。
この授業のレポート作成の後から、S先輩とはとても仲良くなり、
授業以外でも一緒に行動したり、遊びに行ったりするようになりました。

S先輩に教わったこと

彼女は韓国のセンター試験をパスし、実力で梨花女子大学に入学しました。
私が特例入学だと知ると、
「수능 안봤어? 뭐야!」(試験うけてないの?何なの!)
と正直に言ってくれる人。
何に関してもストレートに感情を表現していました。
そして
私の韓国語の使い方も、
「いまのはこういう言い方すればいい」
と教えてくれました。
(本人には教えるとういう気持ちはなかったと思います。ただ聞いてて違和感があるのが嫌だったようです。)
でもそれが私の韓国語に一番必要なことでした。
「伝えたいのに言い方に自信がない」
「頭ではわかっているのに言葉がでない」
そんな「普通の」会話に必要なことをたくさん教わりました。
私の言ってる事はわかるけど、微妙な間違いが気になったのかその都度直してくれました。

韓国語の知識はありました。
作文は得意だし、レポートも書ける。
でも会話で使うときにこれで合ってるのか、
不安で言葉にできないことが多かったです。
間違えるのが恥ずかしい、そんなふうに思っていたのかもしれません。
1人でなんでもやってきて、
別に自分の気持ちを伝える必要はないと思っていました。
でも彼女と話したい、彼女に伝えたいと思い、
それを彼女が全部受け止めてくたおかげで、
あっという間に話せるようになりました。
そして早口のS先輩に似て、
私もものすごく早口になりました(笑)

はっきり物を言うS先輩に出会い、
言葉の間違いや微妙なニュアンスの違い、
難しい発音、韓国特有の文化なんかを
オブラートに包まず、ストレートにたくさん教えてもらったこと
そして、この人と話したい!自分の考えを伝えたい!と思えたこと
それが、会話を怖がらなくなり、韓国語が話せるようになった1番大きなきっかけです。

そして言葉のみならず、言葉を伝える行為自体についてもたくさん考えさせられました。
S先輩は本当に何も隠さず言うタイプだったので、
自分の気持ちをあまり話さない私には違う世界の存在に見えました。
でも彼女をみていることで、伝えるべきところは言わないと損、
言わないのは意見がないのと同じ、
等など「伝える」ことについても考えるようになりました。
相手がどう思うのかを考えすぎるよりも
自分の考えをはっきり伝えるのも悪くない、
そんなふうに思えるようになりました。

S先輩との思い出

韓国留学中、父がたまに韓国に来てくれてました。
(弟が2人いるので、母は家)
その時もS先輩はこのお店美味しいよと言いながら、
父も一緒に食堂につれて行ってくれました。
そんな彼女を気に入った父は、日本に遊びにおいでーといい、
先輩はある年の夏休み、日本に遊びに来ました。
実家は愛知なので、東京には行けなかったけど、
みんなで京都に行ったり、名古屋市内で買い物したり、
美味しいものを食べたりしながら1週間、楽しく過ごしました。
(その後私が大学卒業、東京で就職したときも1週間程日本に来て、2人で浅草で花火を見たり、築地にお寿司を食べに行ったりしました。)

そして大学4年の時。
私、虫垂炎になりました…
朝からお腹が痛くて、
授業の合間に大学の保健室に行ったら、
付属の大学病院に紹介状書くからすぐにそこへ行けと。
病院に行ったら虫垂炎で即入院。
親のサインなしでは手術できないので、
両親に電話したら、母が来てくれることになりました。
母一人で飛行機に乗って韓国に来るのは初めて。
そしたらS先輩、空港まで私の母を迎えに行き、
病院まで連れて来てくれました。
その後、ホテルの手配や移動など、一切を引き受けてくれました。
そして私が退院する日も、彼女のお姉さんにお願いして車を出してくれて、家まで送ってくれました。
「情に厚い」を実感しました。
このこともあって、今でも両親はS先輩の事を娘のように思っています。

大学卒業ー就職

梨花ーposco館の前で。
posco-韓国最大の鉄鋼メーカー。
在学中に建てられた学部の校舎。
卒業式用に借りてたガウンを返す前に撮った写真。
自分が大学卒業するなんて思ってもいなかった…

大学卒業後、韓国で就職するつもりでした。
仕事に興味はないと梨花女子大学に通ったのに、
大学で勉強したら、働きたくなっていました。
しかし、両親は帰ってこいと。
なので2月に卒業し、日本へ帰国、日本で就職活動することにしました。
日本の大学に通ってたわけではないので、就職活動もよくわからない。
当時増えてた派遣社員でもよくない?と思っても親が猛反対。
どうしていいかわからず
2泊3日、韓国へ逃げました(恥)
途中休学したり、留学したりでまだ大学に通っていた同期たちに会って話してたら、友達の一人が
「大使館とかに勤められたらいいのにねー」なんて言いました。
考えたこともなかったなぁ、私なんかは無理だよ〜なんて思いながらも
話してたカフェの共用のPCで調べたら、
東京にある韓国大使館、職員募集してました。
びっくりして、帰国後即応募。
書類通過、東京で面接、採用。
何人か応募者はいましたが、みんな韓国から日本へ留学してた人。
日本育ちは私だけ。
日本語ができる人を探してたらしく、私が採用されました。
2月に大学を卒業して、9月に就職決まりました。
(なんて運がいいんだろう…)

大使館勤務

大使館では電話や手紙の作成、お茶出しなんかが主な仕事でした。
外務省や議員会館へアポ取りの電話。
日本語話者を採用したかった理由がここにありました。
秘書検定のテキストなどで勉強をして(試験は受けず)ビジネスに必要な知識を入れ、仕事をしていました。
入社間もなく、ある書記官とエレベーターで一緒になった時に言われた言葉。
「누구 백이야??」(誰のバック?=誰のコネ?)
ストレートな物言いにびっくりしたけど、
S先輩の何でも言う姿に慣れていたことで
「백없어요~」(コネありません~)
って笑って返せました。
簡単に入れる職場じゃないことはわかるけど、
本当にコネも何もありません。
採用された自分が1番びっくりしてるんだから。
ただ応募してみたら採用されました。運がよかっただけ。
韓国、コネの世界を実感…コワイコワイ
(今はそうでないことを願います…)

話せることがうれしい

大使館は5年ちょっと勤めて、結婚を機に退職しました。
その後韓国語を話すことは少なくなりましたが、
私の夫の母は韓国出身、韓国語が母国語です。
たまに義母が他の人に聞かれたくない事を韓国語で話してくれるのがとても楽しいです。

現在は韓国語を教える仕事をしています。
教えるというより、一緒に会話を楽しむことをメインに考えています。
生徒さんの中にはすでに韓国語を習っていて、
単語もたくさん知っているし、
文章も作れるし、
旅行に行っても困らない。
でも「普通の会話」ができないという方がいます。
知識をインプットするのは自分一人でもできます。
ハングルや文法は、教室もたくさんあり、オンラインでも学べるところはたくさんあります。
でもアウトプットは相手がいることで、会話をすることで伸びます。
今はAIが会話の相手になってくれたりもしますが、
人として心を通わせて会話ができる、
そこに言葉がついてくる。
そのためのお手伝いがしたい。

かつて私の韓国語に付き合ってくれたS先輩みたいに、
私がS先輩だから話したい、伝えたいと思ったように、
自分の思いを言葉で表す「会話」を楽しみたい。
そんな思いで韓国語を教えています。

嬉しいことに、
韓国語を習いにきてるけど、
私と話すのが楽しくて来てると言ってくれる方もいます。
少しでもこの気持ちが伝わっているのなら、本当に感謝しかありません。

韓国語を教えた経歴

大学在学中に「韓国語教師養成課程」を修了しました。

梨花女子大学 言語教育院 韓国語教師養成課程 修了証

大学在学中、夏休みや冬休みは、国際教育振興院で在外国民の韓国語習得プログラムのボランティアをしていました。
大学内の言語教育院では言語交換=언어교환=language exchangeで、日本語を教えたり、韓国語を教えたりもしました。
大使館勤務をしているときも、ボランティアに近い形で韓国語を教えていました。

派手な経歴があるわけではありません。でも
言葉を習うのは、伝えたい気持ちがあるから。
伝えたい相手、
伝えたい思いがあるはず。
一人ひとり違う、話したい、伝えたい気持ちに寄り添って、韓国語を教えていきたい、韓国語での会話を楽しみたいです。


自分の記憶の記録と、
韓国語を話すことができるようになったときの気持ちと、
なぜ韓国語を教えたいのかを書き留めて置きたくて
この記事を書きました。
拙文にもかかわらず、長々とお付き合いいただきありがとうございました。
ご意見などありましたらコメントいただけるととても嬉しいです。




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