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『服従の心理』を読んで

 『服従の心理』は社会心理学者スタンレー・ミルグラムが行った、通称アイヒマン実験についての報告をまとめた一冊である。ここでは、その感想について述べていきたいと思う。約7000字と長い文章になってしまったがお付き合い頂きたい。

◇実験の概要

 まずは実験の概要について簡単に説明する。「記憶と学習の実験」と称して2人の実験参加者が集められ、クジ引きで「教師役」と「生徒役」が決定される。生徒役は別室に連れて行かれ、椅子に縛り付けられて手首に電極が繋がれる。この状態で記憶に関するテストを行い、間違えたら電流が流れる。一方、教師役に選ばれた参加者は、部屋に残り電撃発生器の前に座らされる。

日本心理学会HPより引用

 電撃発生器には30個のボタンがあり、それぞれ15Vから450Vまでの15V刻みとなっている。そして回答者が間違えると電流を与えるのだが、その大きさは間違えるたびに15V、30V、45V…と大きくするよう指示される。ちなみに、左端(つまり15V)のところには「弱い電撃」と書いてあり、電圧が大きくなるにつれて「強烈な電撃」「超激烈な電撃」「危険:過激な電撃」と表記が変わり、最後の435Vと450Vのところには「XXX」と死を暗示するかのような文言が記されている。

 このような状況で実験が始まる。生徒役が問題を間違える度に電圧は上がっていくが、回答者の声は実験室にも聞こえる。75Vで生徒役はうめき始め、150Vでは「先生、出してくれ!もうこの実験には参加しない。これ以上は続けないぞ!」という叫びが聞こえる。実験者は教師役にそれでも実験を続行するよう指示を与える。電圧が270Vに達すると抗議は苦悶の絶叫へと変わり、電圧が上がる度にその絶叫は過激さを増していく。そして、電圧が330Vを超えると別室からはとうとう何の声も聞こえなくなってしまう。それでも実験者は回答が数秒間経っても無い場合は誤答と判断して電撃を与えよと命令を下す。

 種明かしをすると、生徒役はサクラであり実際のところ電流は全く流れていない。常にサクラが生徒役になるように仕組まれていたというわけだ。別室から聞こえてくる声も事前に録音したものを流しているだけなのだが、もちろん教師役はそんなことなど知るよしもない。実際に自分が電撃を与えていると感じていただろう。

 さて、この実験で最後の450Vまで電撃を加えた人はどのくらいいただろうか?あるいは、もしあなたがこの実験に参加したとしたら、何Vまで電撃を加えられるだろうか?とても最後まで電撃を加えることなどできない、そもそも電撃など与えられるはずがないと思うのではないだろうか?

 実験結果は衝撃のものだった。参加者のうち62.5%もの人が命の危険に関わる450Vの電撃を与えたのだ。生徒役の絶叫を聞きながら、あるいは声が途切れてしまった後でも実験者の指示に忠実に従い実験を最後まで遂行した。

◇分業制の功罪

 以上が実験の概要である。ミルグラムは実験の設定を変えながら計18の実験を行った。それぞれ最後まで電撃を与えた割合にはばらつきがあるため、実験の詳細については書籍を確認して頂きたい。ここからは、この実験の一般的な解釈とそれについての個人的感想を述べていくこととしよう。

 この実験は何を示しているか。わたしたちは普段「絶対に人など殺せない」と感じている。虫一匹殺すことでさえ心が痛むという人もいるだろう。しかし、この実験が示しているのは、そのような人でさえも正当な組織ヒエラルキーの中に位置づけられ、権威からの命令を受ければ、例えそれが危険な命令であったとしても忠実に従ってしまうという事実である。

 この記事を書いている私も、読んでいるあなたも、そして恐らく実験を行ったミルグラムでさえも組織に埋め込まれて命令を受ければ戦場で自分とは何の関係もない人間相手に銃を連射して殺害したり、戦闘機から爆弾を落として何百人もの人間の命を奪ったりしてしまうのではないか。

 ホロコーストに代表されるような大量殺人はその構成員の人格によるものではない。むしろ、そのような個人の人格が失われることによって効率的かつ安定的な大量殺人が可能になった。

 ホロコーストによる死者は最低でも600万人以上いると推定されているが、そのような大量殺人に加担し、その業務を忠実に実行できたのはなぜか。その要因のひとつが分業制による責任感の消失である。ユダヤ人を集める人、ユダヤ人を電車に押し込める人、電車を運転する人、収容所へ連れて行く人、ガス室に押し込む人、ガスを発生させるボタンを押す人は全て異なる人物が担当した。それらの役割はどれも必要不可欠なものだがそれ単体で大量殺人を可能にすることはできない。ユダヤ人を集めるだけで大量殺人は行われないし、ガスを送りこんだとしてもガス室の中に人がいなければ誰も死ぬことはない。それぞれの役割が不可欠でありながらも相補的であることで、責任を分散させることが可能になり、個人が持つ良心の呵責を低減させることが出来た。

『邪悪な行動の連鎖の中間段階でしか無く、行動の最終的な帰結から遠く離れていれば、責任を無視するのは簡単になる。アイヒマンですら、強制収容所を視察したときには気分が悪くなったけれど、でも実際に大量殺人に参加するにあたり、かれは机に向かって書類をやりとりすればいいだけだった。同時に、収容所でチクロンBを投入した人物は、単に命令に従っているだけだというのを根拠に、自分の行動を正当化できた。』

『服従の心理』28頁

 ガス室にガスを送りこむ人も実際にユダヤ人が苦しむ様子を見ることはない。自分の行為が死に直結することを知識として理解していても、現実味を帯びた感覚としてダイレクトに感じることはない。

『爆撃機の投下係は、自分の兵器が苦悶と死をもたらすことを知っているが、その知識には感情が伴わず、したがって自分が引き起こす苦悶に対する感情的反応は生じないわけだ。』

『服従の心理』 63頁

 ホロコーストでは効率良く殺人を行うために、様々な工夫が細部にまで施されていた。被害者の苦しみを五感を通して感じることが無ければ、行為の障壁は低くなる。

『純粋に定量的に見れば、大砲を街に撃ち込んで一万人殺すほうが、一人を石で殴り殺すよりも邪悪だが、心理的には後者のほうが行動としてずっと難しい。距離、時間、物理的障壁は道徳感覚を弱めてしまう。』

『服従の心理』234頁

 効率的な大量殺人を可能にするため、綿密かつ合理的なシステムが構築され、責任と負担を低減させるための工夫が随所に施された。しかしこれは決して邪悪な過去のシステムではない。もっと私たちの生活に密着している身近なものである。死刑制度を例に考えてみよう。

 小坂井(2020)は、ナチスによるホロコーストと死刑制度には技術的な共通点が多くあると指摘した。裁判官が死刑判決を下し、法務省内の各部を通過した後、法務大臣が執行命令書にサインをすることで死刑の執行が確定する。執行命令書が届くと、拘置所長が命令を部下に伝達する。監房から死刑場へ連れて行く人、死刑囚に目隠しをする人、落下床まで連れて行く人、ロープを首にかける人、ボタンを押す人も全て別の人物が担当するという。落下床を作動させるスイッチにはダミーが仕込まれており、誰が落下床を作動させるボタンを押したのかがわからないように設計されているのは有名な話だ。分業制を敷き、責任を分散させ人の命を奪う負担を低減させることで、国家による殺人が可能になる。

 分業制は私たちの社会の発展に大きな影響を与えた。ある物事を効率的かつ確実に実行するために、高度に構造化された制度を構築し、それを支える人員が歯車のように働いた。このようなシステムは私たちに数多くの恩恵をもたらした。工場労働者が巨大な機械の歯車にならなければフォード社が車の大量生産をすることはできなかっただろうし、資本主義社会はここまで発達しなかったはずだ。業務に忠実で勤勉な日本人には自己犠牲の精神があると言われ、世界から賞賛された。ジャパン・アズ・ナンバーワンという言葉はひとえに労働者が部品となり歯車となったことで生まれた言葉だろう。

 しかしここで重要なのは、そのような私たちの生活と不可分な分業体制が大量殺人を可能にしたメカニズムと酷似していることである。この事実は、いったんそのシステムが悪用されてしまえば私たちが組織的犯罪に加担する可能性を示してはいないだろうか。

『死刑を維持するためには、執行官を始めとする関係者の罪悪感を薄める分業体制が不可欠だ。しかしそれは逆に見れば、心理負担を減らす手段さえ採り入れれば誰でもナチスの犯罪に加担する危険性を同時に意味するのではないか。』

小坂井敏晶『増補 責任という虚構』 154頁

 確かに私たちは分業制の中に生き、程度の差こそあれ組織の歯車として生活している。しかし、その対象が殺人ともなれば行動は変わる。ただ黙って作業を遂行したりせず、命令に反抗したり抗議行動をとるに違いない。そのように考える人は多いだろう。しかしミルグラムの実験が示したのは、そのような善良な人間が命令に服従し、相手の命を危険に晒すような行動を自らが歯車となることで実行してしまうことではなかったか。

『忠誠、規律、自己犠牲といった、個人として大きく称揚される価値こそがまさに戦争という破壊的な制度上のエンジンを作り出し、人々を権威の悪意あるシステムに縛りつけるというのは、何とも皮肉なことである。』

『服従の心理』276頁

◇ある環境に置かれたら誰でも同じ行動をとってしまうのか

 やや飛躍的な議論を行う。この実験では権威が存在し責任を転嫁できる状況であれば、たとえ良心に反する行為でも命令に従ってしまうことが示された。つまり、ある外部環境が人間の行動を規定するということである。そこから、ある特殊な環境に身を置かれたら、誰でも非人道的行為をしてしまう可能性があると考えることはできないだろうか?

 現在、世界では戦争が行われており、日々凄惨なニュースが目に飛び込んでくる。無実の市民が殺害されたという情報が飛び交い、その度に私たちは憤りを覚える。なぜ一般市民を殺害の対象にするのか。無実の市民を殺害するなんて鬼畜の所業ではないか。

 そして、私たちはそのような行為を個人の人格に起因させがちである。つまり、その戦闘員が普遍的価値観から逸脱した異常な規範意識を持っているから、無実の市民を殺害したと考える。なぜなら、そのような規範を逸脱した行動が個人やその組織の性格によるものでなければ、外部である私たちが批判出来る理由がなくなってしまうからである。ところが、いつまで経っても一般市民の殺害はなくならないし、むしろ戦争において一般市民の殺害がつきものであることを歴史は物語っている。

 一般市民の殺害は本当に各戦闘員の人格に由来するものだろうか?その戦闘員が戦時国際法を遵守する意識が欠如しているために一般市民の殺害が行われてしまうという主張は信頼出来るだろうか?その環境に置かれたら誰もが同じように一般市民を殺害してしまう可能性はないだろうか?

 無い、と答えたいところである。高度な人権意識を持つ近代社会に生まれた私たちは、自分が無実の市民を殺害出来る人間だと信じたくは無い。しかし現状を踏まえると、そしてこの本を読んだ後だと、その環境に置かれてさえしまえば、私も、優しいあの人も、無実の市民を銃で撃ち抜いてしまうのではないかと思ってしまう。

 平時においてどれだけ冷静沈着な人物であっても、自らの命が危機に晒される可能性があれば、冷静な思考力はあっという間に失われる。

 『バトル・ロワイアル』という小説がある。ある中学校の1クラスがまるごと無人島に拉致され各人に武器が手渡される。その状態で最後の一人になるまで殺し合いをするように命じられる(この命令に従わなかったら殺されてしまう)という物語なのだが、命の危険と信頼という脆い関係をとても繊細に描写している作品である。

 信頼している友人と遭遇する。今まで仲良く学校生活を過ごしてきた仲間でありとても殺すことなど出来ない。しかし、その友人は武器を持っているし、自分が生き残るには相手を殺すしかない。もしかしたら自分は殺されてしまうのではないか…?

 強固な信頼関係で結ばれている友人同士でさえも、両者のどちらか一方に「自分は殺されるかもしれない」という疑念が僅かでも生じてしまったらその信頼関係は崩壊する。「やらなければやられる」のであれば「やられる前にやる」行動を選択してしまうというわけだ。当時国会でも議論になったほどの小説だが、自分の命が危機に晒される可能性が生じたときの心の機微についてうまく描写した作品であると思う。

 話を戻そう。たとえ相手が一般市民だとしても、攻撃を行っている自分に対して敵意を持っていることは間違いない。市民を殺害することが許されないといえども、相手が武器を持っていて自分に攻撃をしてくる可能性は残されている。その可能性が0.1%でも存在している時点で、いやその可能性を想定してしまった時点でそれが排除されることは無くなり、自分の命に対する恐怖だけが増大していく。

 攻撃目標という観点からすれば撃つ必要はなくても、生かしておいたら他でもないこの自分が殺害されるかもしれない。相手が無実の市民であるとか、戦時国際法の遵守がどうとかは問題ではない。人間としての防衛本能が目の前の人間の殺害を導く。「やらなければやられる」可能性が僅かでも生じていれば「やられる前にやる」行動を選択してしまう。そして幸運なことに、戦闘員はそれを実行するだけの十分な装備を手にしているのだ。

◇私たちは罪を問えるか

 ある環境に置かれた時に誰もが同じ行動をとってしまうとしたら、なぜ私たちはそれを批判することが出来るのか。戦場に限った話ではない。重い介護負担を強いられ、我慢の限界を超えて親を殺してしまう。そのような事件を目にする度、私たちは同情をする。仕方ないとまで考える者もいるだろう。しかし、そのような特殊な外部環境が殺人という行為を生起させたのであれば、その行為者となった人間に罪を問うことは出来るのだろうか。「自分も同じ環境なら同じ事をしてしまうだろう」と言うとき、なぜ私たちは彼らの罪を追及できるのか。

 ある男児が、教育水準が低く貧乏な国に生まれたとしよう。日常的に事件が起こる環境で、安定した教育も受けられず、生きるためにやむなく窃盗を行ってしまう。もしも彼が、教育水準が高く裕福な国に生まれたとしたら同様の罪を犯すだろうか?

 彼が窃盗を犯したのは事実であり裁かれるべきだ。真っ当な主張である。しかし、その行為の源泉が彼の生育環境にあることは明らかであり、彼がどの両親のもとに生まれるか、どの国のもとに生まれるかを選ぶことは出来ない。彼は偶然そのような環境に生まれてしまっただけであり、もしも違う国に生まれていれば窃盗をすることは無かった。貧乏くじを引かされた彼を糾弾できるのは、私たちが罪を犯した人間ではないからであるが、その分水嶺となっているのはただの偶然だ。

 これは世間一般の犯罪者に対しても適用出来るだろう。生まれながらの犯罪者はいない。社会という装置とその人を取り巻く外的要因の副産物として犯罪が生み出される。確かに、被害者がいる以上、犯罪の行為者を野放しにしておく訳にはいかない。その意味では最終的な行為者を裁くというシステムに制度的な合理性はあるかもしれないが、本質的な合理性はないと考える。

 私たちはなぜ他者の罪を問えるのか。私のような学生にはこの問いを解くことは出来ない。もっとも、誰にも解くことが出来ないアポリアなのかもしれない。

◇「服従」は悪なのか

 話が大きくそれてしまったが、この本の主題は「権威から発せられた命令に多くの人が服従した」ということであり、端的に言えば服従は悪であると主張している。しかし、服従はそこまで悪とされる行為なのだろうか?服従は私たちに悲劇をもたらす疫病神なのだろうか?

 確かに服従は私たちにいくつかの悲劇をもたらしたが、同時に私たちの生活を支える基盤でもあった。教育システムに服従し、一定程度の同質性を保った集団が形成されることによって、今日のような安定した社会が築かれた。全ての学生が教育方針に反発し、教師に反抗し、既存の教育システムを破壊するような行動を取る時、そこに秩序は生まれるだろうか?

 日本の教育が個性を消失させて代替可能な人間を作り出しているという批判はしばしば見られるが、個性という色を中和させなければ混沌の世界しか描かれない。「出る杭は打たれる」という諺はネガティブな意味で用いられるが、出る杭を打たなければ骨組みを支えることが出来なくなって建物は崩壊してしまう。

 多くの構成員からなる集団を安定して運営していくためには、権威への服従は必要不可欠である。私たちが問題にすべきなのは、服従がどのように用いられるのかということであり、その二面性を十分に理解することではないか。

◇補足

 ミルグラムが行った実験は、世界中で論争を巻き起こしたいわば「問題作」であり、その解釈の妥当性や実験そのものの信頼性については多くの批判が寄せられてきた。本記事ではそのような批判はいったん脇に置き、ミルグラムの実験手続きや信頼性が担保されたという前提のもと執筆を進めた。

 ただ、この実験に対して多くの指摘がされているのは事実であり、一概にこの実験結果とその解釈を信頼することができない点には留意しておきたい。実験の信頼性や批判については、こちらのnoteによくまとまっているので、興味のある方はこちらを参照してほしい。

 もっとも、そのような指摘はこの実験に限った話ではなく、心理学全般に当てはまる問題である。心理学が再現性と一般化可能性の危機に陥っていることが指摘されてから久しいが、未だに心理学は脆い学問であると思うし、「科学的な心理学」という原理的矛盾の解決には至っていないと思う。こちらも個人的に興味深いテーマなのだが、それについてはまたの機会に譲ることとする。

◇文献

小坂井 敏晶 (2020). 増補 責任という虚構 ちくま学芸文庫
Milgram, S. (1974). Obedience to Authority. New York: Harper and Row.
  (ミルグラム, S. 山形 浩生 (訳) (2012). 服従の心理 河出文庫)
サトウタツヤ (2004) ミルグラムの電気ショック実験 心理学ワールド, No.26.


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