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【旅行】仙台苫小牧ドンブラコ −7− 旅先では寄り道をしよう

荒浜小学校を後にした我々は仙台市内に戻るのだが、ただ戻るのでは面白くない。
経路上に面白いものがあったらぜひとも見てみたいものだ。
実は旅行前の計画段階で興味がある場所やフレーズを片っ端から書き出すということをやっていたのだが、つまりは行けたら行きたいリストだ。
全部回ろうと思ったら引っ越して仙台市民にならなければならないので現実的ではないのだけれど、実際の旅行での具体的な経路を決める時にはなるべくそういうものを経由できるようなルートを検討する。
その時に役に立つのが毎度おなじみのグーグルさんマップで、そういう対象を探すだけでなく位置関係や経路を確認することで土地勘が把握できる。
グーグルさんマップのナビゲーション機能は時々とんでもない道を勧めてくるもので、例えば10キロ以上離れた地点に移動するのに何故か住宅地の生活道路のような道を指示してくることがあるのだけれど、そういった時に「なんかおかしいぞ」と気づけるようになるためにもこの作業は有用だ。

旅行前にはとにかく気になる地点やフレーズをまず書き出そう

寄り道というからにはそれぞれの場所にあまり時間はかけていられない。
せいぜい10分くらいだ。
なので、シャッと車を停めてシャッと見てシャッと再び移動するというような具合になる。
それで、今回寄り道したのは2ヶ所、いずれも空中写真で見つけて興味を持った場所だ。

気になる地点

空中写真で仙台市の南の市街地を見ていると、一目で気になる地点が二つある。
一つは陸上自衛隊霞目飛行場のすぐ近くにある前方後円墳で、これは形が特徴的なのですぐにわかる。
見たところ結構大きなもので、樹木や下草も綺麗に刈り込まれていて前方後円墳の形状がよく分かる。
拡大して見てみると前方部から後円部に続く斜面には階段も設けられていることから、どうやら自由に上がれるようになっているらしい。
もう一つは古墳から西の住宅地に埋まるように存在感を示しているもので、これは明確に城跡だ。
見ると典型的な近世城郭の平城で、本丸と思しき部分が完全に残っている。
また内部は公園化されているのではなくびっしりとなんらかの施設が入っていて、どうやら城跡をそのまま何かに転用しているようだ。
こういう例は福井県庁や金沢大学旧金沢城キャンパスなどでも見られ、それほど珍しいわけではないが、この城跡の場合は城の遺構の状態が完璧で、主郭を取り巻く土塁と堀がそのまま残っている。
立派な石垣がある城でも明治維新後の破却や戦後の宅地化などで取り壊されることがほとんどで、まして石垣がない土塁の城となると、こんな良好な状態で残っているのは珍しい。
現在ここを占有している施設に何か秘密があるのではと思って拡大してみたら、宮城刑務所とのことで、なるほどなと思った。
これら2ヶ所はちょうど荒浜地区から戻ってくる経路上にあるので、寄り道して現地がどうであるかを見てみることにした。

今昔マップより遠見塚古墳
左の昭和22年の写真では後円部の北半分が切り取られるようにして欠損しているが、これは霞目飛行場を進駐軍が整備する際に土取りをしたことによるものらしい

まず古墳の方だが、これは遠見塚古墳といって宮城県では2番目に大きい前方後円墳ということだ。
古墳時代の東北地方は大和朝廷とはほぼ無関係であったと思うのだが、これほど大きな前方後円墳が、しかも平地に作られているというのはちょっと驚きだ。
中小企業みたいな規模の地方豪族の墓だと大抵山の上に作られているもので、天然の地形を生かしてちょっと地形を改変するといったものが多いのだが、平地に作るとなると大変だ。
「愚者山を動かす」という中国の故事ではないが、何もないところに周濠を掘ってその土を盛り上げて山を作るということは大変な金が、もといこの時代は貨幣はないので時間や労力といったコストがかかるので、ちょっとした地方豪族の手に負えるようなものではない。
よほど大きな勢力がこの時代すでにあったということだ。
それも豊かな穀倉地帯を擁する近畿地方ならともかく、当時稲作はまだあまり普及していなかったと思われる東北地方でという点が面白い。

財の蓄積というものは農業、特に日本の場合は稲作と切っても切れない関係にあって、例えば狩猟採集と原始的な農業に頼っていた縄文時代だと人々は常に飢える危機に直面していた。
これは、労働に対して得られる食料が少なく供給も不安定で、また保存も効かないためだ。
言うなれば現金がほぼゼロで収入と支出がほぼ同じの中小企業が自転車操業をしているようなもので、異常気象やその他の要素によって食料の供給がちょっと断たれるだけで即飢え死にしてしまう。
これが弥生時代以降稲作が普及することによって食料が安定的かつ効率的に得られるようになると、ようやく飢える危機から解放される。
またコメは保存が効くので余剰分は財産として蓄積することができる。
このことで人々は飛躍的に死ななくなり、文明は一気に発展することができるようになるわけだ。
さらにトマ・ピケティが言っているように資本収益率は労働生産性を上回るという法則が働き、財はさらに財を呼び込む。
こうしてムラからクニというさらに大きな単位の集団が形成されるのだが、こういう規模のクニがこの時代の東北地方にあったということが大変興味深いのである。

遠見塚古墳を前方部より望む
墳丘の高さはかなり低い
後円部に続く階段
後円部
後円部より前方部を望む
くびれ部の高さは人間の身長程度と低い

荒浜地区から車を市内に向けて走らせ、自衛隊霞の目飛行場の側を通って仙台バイパスに出ると、よく見える位置に古墳はあった。
早速付近に車を停めて接近してみる。
墳丘の高さは想像していたよりも低いもので、それでも発掘調査の後遺跡保護のため50cm盛土をしてあるとのことで、実際にはもう少しボリュームの薄いものだったようだ。
案内板によれば4世紀末から5世紀のものとされ、葬られた人物は畿内と強いパイプを持ちながらも独立した勢力を誇る東北の王といった人のようだ。
調べてみると葺石や埴輪といったものは出土しておらず、そういう意味では完全に古墳のフォーマットを踏襲していないのも、辺境ならではのことだろう。

続いて城に向かう。
調べてみるとこの城は若林城といって、伊達政宗の隠居城として知られるもので、晩年は山の中腹にある仙台城にはほとんど行かずこの城で余生を過ごしたらしい。
遅れて出た戦国武将で知られる政宗公も歳で足腰にガタが来たのか、どの時代も老後は高低差のない平屋が住みやすかったのかもしれないな。
なお隠居城といっても家督を息子に譲ったというだけで伊達政宗は生涯現役の人で、この城でバリバリと政務を行なっていたとのことだから、馬力のある人だったことには違いない。

18世紀末に描かれた絵図に見られる若林城

この城は伊達政宗が1627年に幕府に許可を得た上で築城されたが、1636年に政宗が死んだその3年後には使われなくなり、建物は解体される。
ただし堀と土塁は残すよう遺言されたとのことで、破却されたわけではなく、その後仙台藩の煙硝蔵(火薬庫)として使われては爆発事故を起こしたりしつつ、基本的にはさびれた状態で幕末を迎える。
やがて時代は明治へと移ると、旧幕府側についた人や新政府内部での権力闘争に負けた人など、大量の政治犯が出るので、これを収容する必要が出てくる。
この当時北海道はこうした政治犯を活用するのに大いに利用され、死んでも換えはいくらでも効く労働力として初期の北海道開拓はこういった人々が支えていたのだけれど、同じ時期に全国で大量の監獄が必要になったことから、1879年にはこの若林城の全域を使って宮城集治監が置かれ、のちに宮城刑務所となる。

この宮城刑務所は残存していた若林城の遺構をそのまま使ったようで、残っていた土塁の上にさらに塀を設けることで監獄としていたようだ。
木で作られていた塀はのちに煉瓦造りに改められて現在に至っているが、なんとも異様だ。

宮城集治監時代の若林城大手門

用途が用途であるのでよほどのことがなければ地形の改変が行われることもなく、変わった部分といえば塀を板塀から煉瓦造りに変えたときに土塁の頂部を少し削ったことと外周の堀を一部埋め立てたくらいで、大変よく保存されている城跡と言える。

遠見塚古墳から仙台バイパスを南下して市街地に入ると、ものすごく細い生活道路が網の目のようになっていて、しかも一方通行が多いのでなかなか難儀する。
するといきなり目の前が開けて刑務所が目に飛び込んでくる。
車を降りてゆっくり見たいところではあるが車を一時停車させておくことも難しいような生活道路な上に、場所が場所だけに大っぴらにカメラを向けることもちと憚られる。
それで、車で外周を回ってみるだけで我慢したのだが、これは大した城跡だ。
私は石垣に白壁といった、いかにも近世城郭でござるという顔をした城はなんだか嘘っぽくてあまり好きではなく、むしろこうした土塁だけの城の方が真に迫っているようで好みだ。
ゆっくり城を楽しもうと思ったら宮城刑務所に収監されるのがいいのだろうが、たとえ悪いことをしたとしても宮城刑務所に送ってもらえる保証はないのでこの案は却下、もし地元に住んでいたら年に1度ある刑務所開放日にうまくしたら中に入れるのではないかと思う。
そうすれば、伊達政宗が朝鮮から持って帰って植えたという梅の木を見ることができるかもしれない。

信号待ちをしているときに唯一撮った写真
中央の「刑務所作業製品展示場」の看板の後ろに、若林城の土塁の上に設けられた煉瓦塀が見える

つづく

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