【旅行】仙台苫小牧ドンブラコ −11– 苫小牧に入港
朝5時くらいだったか、なんだかえらく寒さを感じて目が覚める。
太平洋フェリーきたかみのB寝台はロールカーテンを閉じたコンパートメント内もよく空調が効いていて、荷物置き場がないのでアルミのトランクと一緒に狭い寝台で横になっていたのだが、どうやらピヤピヤに冷えたトランクにしがみついて寝ていたようだ。
結構旅の疲れも出始めていたようで、体がギシギシ悲鳴を上げている。
そんなわけで、ちょっと体をほぐそうかと思って散歩してみる。
外はまだ薄暗く、空は雲で覆われていているが、日が差している一角だけがなんだか明るくなっている。
波は穏やかで、揺れを感じることはほとんどなかった。
やがて明るくなってくると、それまで暗く見えていた海に少しずつ青みがさしてくる。
太平洋は黒潮が流れているというが、なるほどちょっと黒く見える。
やがて朝飯の時間になったので、昨晩食べたのと同じレストランの行列に並んでデラックスな朝飯をいただく。
朝もブッフェスタイルで、なかなか豪勢なものだ。
列には仙台出航時にフネにトラックやら自走浮橋と一緒に乗り込んできたらしい自衛隊の若い隊員も並んでいて、モリモリ料理をとっていた。
短パンにTシャツ姿の一見私服姿なのだが自衛隊員は見たらすぐわかる容貌をしている上に、Tシャツもよく見たらXXth Engineer(第XX施設隊)というような部隊名が入った統制Tシャツなので、いよいよすぐわかる。
いかにもトラックドライバーというおじさんもやはりモリモリ料理を取っていて、やはり1日の始まりの朝飯がデラックスだと一日の始まり方も違うのだろう。
その後ロビーのカウンターで海を眺めながら何か書き物をしたり写真の現像処理をしたりしているうちに日も高くのぼり、絵に描いたようないい天気になったので、甲板に出て外を見てみよう。
そろそろ陸地が見えないものかと陸を睨んでいたのだが、陸地というやつは海から見ると遠いうちは水平線をなぞったようにしか見えないので、果たして陸なのかどうかわからない。
そもそも地球は丸く、水平線というものはせいぜい15キロ程度先でしかないので、その先にあるものは地球に隠れて見えないわけだ。
もっともこちらも水面に浮かんで見ているのではなく10メートルほど高い船の上からなのでもう少し遠くまでは見渡せる。
そのために船のマストはなるべく高い位置からものが見渡せるようにできているもので、また陸の方も高さがあるものはもう少し遠くても上の方が見えるようになっている。
そのため山の上の方なんかが島みたいに見えるもので、灯台が存在しない江戸時代の北前船など地文航法で航海していた時は、山が重要なランドマークだったものだ。
以前北前船の資料館で見た当時の海図は面白いもので、道中絵巻のように延々海岸線が巻物に描かれていて、それぞれの山の名前と形が記載されている。
江戸時代は基本的に陸地が見えるところしか航海しなかったもので、日没で陸地が見えなくなるまでにどこかの港に寄港するということをやっていた。
このように実際の陸地を見ながら自分がいる位置を把握して航海することを地文航法というが、悪天候で陸地が見えなくなることもあったであろうから、そういう時はかなり心細かったに違いない。
何せGPSはおろか六分儀すらない時代で、周り全部海という状態では自分がどこにいるのかも分からないのだ。
脱線するが、江戸時代の船といったら北前船や菱垣回船で知られる弁才船と呼ばれるものが一般的で、これは絵や模型などで見たことがある人は多いと思う。
ものすごくずんぐりした船体に帆柱が1本だけあって、ここに巨大な四角帆が1枚張ってあり、これまた巨大な舵がついているというものだ。
基本的には貨物船なのでできるだけ荷を詰めることができるようこのような形になっているのだけれども、大きさに制限があって最大で千石とされた。
船の速力はアスペクト比、つまり船体の縦横比で決定されるので、このようなずんぐりした船では大した船足は出なかったであろう。
また1枚しかない巨大な四角帆は扱いづらいもので、西洋の帆船が細かい帆を適宜調整しながら進むのに対してこの帆装では追い風でしか進むことができず、また暴風域では風から受ける力は相当なもので、しばしば帆柱を折った原因になったことは容易に想像できる。
そのため基本的に風が吹いている方向にしか進めないため、どうしても舵は大型なものにせざるを得ないのだが、この舵が暴風雨でしばしば流された。
舵を失うと船は漂流するより他はない。
また信じがたいことに弁才船には甲板がなく、降ってくる雨はそのまま船内に流れ込んで貯まることになる。
一見板が張ってあるように見えるがこれは単なる足場で、甲板というものは本来水の侵入を防ぐため船体に隙間なくピッタリと張ってあるものだ。
甲板を持った西洋の船が樽だとすると、日本の船は単なるおわんに飯を山盛りにして水に浮かべただけの代物で、嵐が来れば水はいくらでも入ってきて、そのままでは沈んでしまう。
そのためにアカ汲みといって排水を人力でやらなければならないのだが、これは大変な労働だ。
ともかくも、そのような日本の船は嵐に遭うと容易に帆柱を失い、舵を失い、浸水に悩まされることで頻繁に遭難した。
そうならないために「風待ちの港」で天候を見定め、すぐに陸に帰ってくることができる沿岸を航海していたのだが、それでも海難事故は後を絶たないために神頼みということが一般的で、それで福井県の三国神社など北前船で栄えた港にある神社には舟絵馬が奉納されてきた。
そんなタチが悪い船など使わなければいい、世界にはもっといい船があるのに日本は遅れていたから悪いのだと思う人は多いだろう。
ところがそうではない。
当時は江戸幕府の鎖国に伴う海禁令によって「作ってよい船」の基準が厳格に定められていて、上記の欠点は全てこの法令によって定められた結果である点に江戸時代の悲哀が感じられる。
向かい風でも進める三角帆を持ち甲板など張って航洋性のある船など作られたら好き勝手に外国に行けてしまうではないか、けしからん、なので船はテキトウなスペックのものしか作らせてはならん、というくだらない理由で江戸時代の船乗りは多くが遭難することになったが、これは人災といってよい。
実際に作ろうと思えば簡単に作ることができただろう。
その証左に、江戸時代に入ったばかりの頃仙台藩はイスパニアの技術者の手を借りて純日本製のガレオン船であるサン・ファン・バウティスタ号というのを建造し見事遣欧使節をメキシコにまで送り届けているし、幕末になって海防論の観点から海禁令がなくなった途端に、さまざまな藩で洋式帆船の建造に成功している。
あえて文明の進歩にブレーキをかけるというのは江戸時代のあらゆる方面に見られた事象で、たまに開明的な君主が現れては漢訳洋書の解禁ということをやり、限定的に海外の技術が入ってくるということもあったが、江戸時代260年の統治は概ねおカミは絶対である、タミクサは大人しく従っておれというものであったようだ。
日本人の国民性の多くもこの時代に醸成されたといわれ、出る釘として打たれないよう目立たず消極的に生きるのが謙譲の美徳であるとか、上には逆らわず大人しく真面目に定年まで勤め上げるのがいいといったことは最近まで珍しいものではなかった。
人が不条理に死にすぎる室町や戦国時代もいかがなものかとは思うが、私がどうしても江戸時代を好きになれないのはこういうことによる。
ともかくも昔の船乗りは不条理に大変な目に遭っていたもんだというようなことを考えながら甲板で風に吹かれていたが、やがて右弦に島影らしいものが見えてくる。
近づくに連れてそれは島ではなく陸地の高いところであったようで、次第に水平線上に黒い太い線のようになって陸地が見えてきた。
そのうち左弦にも同じような陸地が見えてきた。
さらに進むと白く光る明らかに人工物と思しきものがあるのがわかるようになってきて、やがてそれらは製油所や町の形に見えてくる。
そろそろ下船の用意をしなければならないと思い、船室に戻って荷物をまとめることにする。
10時半くらいに荷物をまとめてロビーに向かうと、船はちょうど苫小牧港に入港するところだった。
右弦には大きな製油所があって巨大なタンクがいくつも並び、左弦にはこれまた大きなRO-RO船(車両ごと荷物を運ぶ貨物船)が停泊していた。
やがて船は岸壁の手前で停止し、スラスターを回して船の向きを岸壁と平行に向ける。
船からホーサロープが岸壁のボラードヘッドに投げられ、ロープがしっかりと巻き上げられると船は完全に繋留状態になり、それまで感じていた船の揺動がウソのようになくなる。
程なくして下船のアナウンスが流れ、荷物を引いてボーディングブリッジを渡ると、苫小牧西港フェリーターミナルの中に至る。
飛行機と違ってバゲージクレームもなく、まして入国審査も検疫も何もないのでそのままあっという間に外に出た。
それまでは人工物の中にいたので今ひとつ実感がわかなかったが、ようやく北海道に上陸したのだという気分になった。
同日の苫小牧は天候も良く、ただ福井よりは高緯度なせいか青空が少し薄かった気がした。
つづく
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