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「しとたんかとはいく」収録作品、夢沢那智氏作「十一月の牢獄」について

 夢沢氏が「しとたんかとはいく」の掲載作品すべてに感想を書かれていた。その中には私の作品についての感想もあり、とてもありがたいと思った。それから私なりに夢沢氏の作品に向き合いたいと考え、この文章を書くこととした。
 正直に話すと、私には詩について何か「わかっている」と自覚出来るものがほとんどない。そんな私ではあるが、出来る限りのことがしたいと思った。
 何度か氏の作品を読んだ。それから作品を受けて感じたことを言語化しようと思ったが、難しかった。ただ、初読では悲しみを覚える作品だなと思った。もう少し具体化したり、何を悲しく感じているのかをとらえたいと思った(結果的に悲しみとは違う感情を見つけて、捉え方にも変化を与えることとなった)。
 「「歴史」という名の」や「顔のない」という言葉を抜いて読んでみた。そうして何度か読んでいるうちに、その二つの言葉の必要性を改めて理解したように思った。歴史が歴史として残っていくとき、その場に残る者と、名前は残らずしかし確かに一時そこにいた者があったのだということを考えた。教科書で学ぶように、数百年という時間を超えて現代の私たちにその名が届く者がいる一方で、名を知ることも出来ない役者たちがいたことを想う。歴史に名を残すことは必ずしも輝かしいことではなく、汚名を残すことになる者もいるかと思う。この「少女」の境遇は後者に近いのではないかと考えた。
 現実の世界なら時の経過と共に夕方から夜になる。夜は更に夜更けへと進み、やがて朝が来る。しかしこれは詩の世界である。ここまで読む中で、冒頭の悲しみについてではなく私は恐ろしさを感じていた。その理由には、「決して来ない夜」という言葉の関係も深いと考えている。この先もある歴史がネガティブな事実として残り続けると受け止めた。当然朝をむかえることはない。せめて今より暗くなるのであれば、その変化についてまだ何か言及したり指摘したりする者も現れるかも知れないがそれも起こらない。時は停止したから。
 例えばインターネット上で繰り返される争い。「顔のない子どもたち」の一人として私も現場から離れて、無関係なふりをして歴史を遠くから眺めて来なかったか。これからもそのように振る舞わないと誓えるか。その点について考え恐ろしさを覚える。それらを踏まえて「気をつけよう」とは安易には語らせない、歴史と事実を抱えて目の前まで迫って来る緊張感のある作品だと思った。

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