はからずも18世紀の倫敦を体験したこと

今週はマンションの雑配水管清掃にあたっている。火曜、水曜は共用部を、そして明日からの二日は戸別に配水管を清掃することになっている。

三階の我が家の下に駐車場があり、そこにマンションの配水管が集中しているらしい。昨日は朝から駐車場に発電機が設置され、清掃の音が鈍く響いていた。

陽も傾いたころ、妻が書斎にやってきて
「一体、何が起きたの!悪魔のような匂いがするの!」
という。

「悪魔のような匂い」は彼女の口癖だ。もちろん、彼女は悪魔に出会うようなことはしていないはずだ。それでも、彼女が悪魔のような匂いと言えば、
「なるほど、悪魔とはこのような匂いをしているものか。」
と思う。

彼女についてトイレに行ってみると、まだJRが国電だったころの駅の公衆便所の匂いがする。そう。おトイレの匂いではなく、便所の匂いだ。妻の疑わしげな視線を感じ、慌てて弁明する。
「僕の仕業じゃない。お腹も壊していないし、だいたい食後にトイレを使っていないよ。」

何が起きたのかわからず、換気扇を強めて様子を見ることにする。
「散歩にでも出かけようか」
「うん、そうね」

洗面所に向かった妻の悲鳴が聞こえた。洗面所にはいるまでもなく、文字通り悪魔の匂いが鼻をついてきた。はじめた嗅いだ悪魔の匂いは、世の中のあらゆる臭さを一緒にした匂いだった。風呂場の換気量を最大にし、ぼくはジョギング、妻は散歩に出掛けた。逃避行だ。

春のような陽気のなか、多摩川土手を一時間ばかり走って戻ったころには、昼下りの事件をすっかりと忘れていた。汗だくになったスポーツウェアを脱ぎ捨て、化粧室にはいったが、すぐに飛び出しぴたりと扉をしめた。

「息 が  で   き    な     い」

窓を開け、キッチンの換気扇を最強にして洗面所以外はひとまず清浄にできた気がする。洗面所に近づくと国電の便所の匂いがほのかに届くが、それは我慢するしかない。我慢するだけでなく、死を覚悟しながら急いでシャワーを浴び、風呂と洗面台に水を貯め、地下からの臭気が止まることを祈った。「死にそうな臭さ」に、クラクラしたが、死にもしなければ、気も失わなかった。

不思議なことに家中の換気扇を回しているにもかかわらず、便所の匂いは強まるばかりだ。

「この臭気は重い気体で、部屋の床あたりを這っているらしい。それで換気扇の吸い込みが悪いのか。」

散歩から戻らない妻に電話し、ひょっとしてホテルに泊まろうかと相談をしてみた。

「もしかしたら、そうね。」

ところが、近所のホテルを検索したところ「禁煙室はございません」だと。今どきそんなホテルがあったとは。戻ってきた妻に

「国鉄の便所のある自宅とホテルの喫煙室とどっちにする」

と酷な選択肢を与え、金を払ってまで喫煙室に泊まるよりは、(希望的観測だが)寝室は寝られないほど臭いわけではないのでステイホームを選んだ。惨状をマンションの管理人に伝え、翌朝、業者と相談することとした。

眠れないほどではなかった。だが、たびたび眠りを破りそのつど寝間を薄く漂っているものを思い出させる程度には強烈でもあった。

明るくなって様子を見ると昨晩以上に強烈だった。匂いが漏れないように、そして朝になってやってくる業者の日頃、下水の匂いに慣れきって感度の衰えている鼻に訴えるように、洗面所を密閉していたからでもある。

屋外作業の始まる時刻になるとマンションの管理人が清掃作業の現場監督を伴ってやってきた。下水の掃除作業の監督と聞いて、ごついオッサンを想像していたが、40手前くらいの彼は爽やかなイケメンだった。イケメンを現場に案内すると、彼の鼻にも便所の匂いはたちまち届いた。方々に鼻を向け探っている。

「水は使いましたか?洗濯はしましたか?」

答える間もなく、たちまちのうちに、

「わかりました。これです。」

と、洗濯機の下から空のコップのようなものを取り出した。本来、そこには水が溜まり、下水管に蓋をするのだそうだ。それが超高圧洗浄器による清掃のときに、コップに溜った水を洗浄器が吸いこんで空にしたために、地下の下水施設の臭気がそのまま部屋に上がってきたという。

それにしても、駐車場での作業に使っている超高圧洗浄器と我が家の洗濯機がどうして繋がる?そして、この空のコップは?顔中を疑問符にしているぼくに、イケメンが丁寧に解説してくれた。

超高圧洗浄器は長いホースの先にノズルがあり、そこから超高圧で水を噴射するシャワーのようなものらしい。普通のシャワーとは異なり洗浄器はホースの根本に向かって勢いよく水を噴射するらしい。水を後ろに噴射した勢いに助けられ、下水道のなかを自律的に管に沿って進む仕組みらしい。「よく、できている。すばらしい発明だ!」

ただ、困ったこともある。超高圧洗浄器の激しい水流に沿って、下水管内の空気もホースの根本に動く。それもかなりの激しさで。この気流が洗濯機の配水管が備える水栓の水も吸い込むこともあるのだそうだ。水栓が水を失うと下水施設の臭気が登るわけだ。

ぼくらが難儀したという悪魔の匂いがどのようなものか気になる人は、簡単に確かめられるので試してみて欲しい。洗濯機の配水管の先に水を貯める1カップくらいの容器がある。これは簡単に取り外せる。五分も待てば悪魔がやってくると思う。

一昨年、慶應大学の増井先生が facebook に紹介していたスティーヴン・ジョンソン「感染地図―歴史を変えた未知の病原体」という本を読んだ。18世紀のロンドンを舞台にした実話だ。コレラの感染爆発と、その原因をつきとめた医師と牧師の活躍を描いた内容だ。表題の「感染地図」はコレラ患者の住まいを街の地図に重畳したもので、情報可視化の先駆けとも言われている。

18世紀のロンドンの不衛生は筆舌に尽しがたいが、この本はその困難な仕事を見事にこなした。人口が急増したロンドンの市民は、汚物を川に流し、川が流れを失うと、裏庭に垂れ流していたという。このため、多くの家屋の地下が糞尿で埋もれていたという。どうやら、文字どおり小山のごとき糞尿があったらしい。

コレラが発生したとき、大衆も学者らもその原因を臭気に求めた。昨日、ぼくらを悩ませたものを何十倍も強化したものが、当時のロンドンの空気だったのだろう。その臭気に鼻を曲げつつも、ロンドン子らは生活を営んでいた。死にそうに臭かったに違いない。それでも人間は臭さでは死なないらしい。感染地図から文字を通して学んだことを、今日、身体をはって理解した。信じがたいことだが、人間は案外丈夫らしい。

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