「媒質」としての生き方

最近、色々な活動をされている方々の事を追っていて、腑に落ちることが一つありました。
それは、
私たちは何かの「媒質」になっている時、生きている実感を感じるのかもしれないということ

そう考えるに至った具体的な出来事は、
・ピアニストSさんがショパンコンクールの演奏後に、
「自分”が”弾いているという感覚ではなく、自分を媒介として現われて来るショパン”が”弾いているとい感覚なんだ。」と言っていたこと。

・共創プロセスデザイナーのUさんが、「自分は人々がより良い形で組織を作っていけるように、中間に入り、お客様と組織を作る。」と言っており、中間の媒質という感じですか?と質問したら、そうそう!そんな感じです!と回答いただいたこと。

・ソーシャルデザイナーのFさんが、「自分の仕事は、人々の関係性を編むこと、場を創ること自体なんだ。」と言って、生き生きと仕事をされていること。

興味深い点は、それぞれ活躍する領域も違うのに、各々がプロとしての充実感を感じている部分が、総じて「自分が媒質になっている時」ということ。

媒質になると、どんな経験や満足が自己に与えられるのだろうか。

これを自分事として体験してみたいと思って、
自分も何かの媒質になろうと意識して行動する実験をしてみた。
例えば、バイトで働くとき、徹底的に媒質になろうとしてみた。

徹底的に仲間の事を考え、感情に寄り添い、何をしてほしいのか、どんな声掛けや表情をしたら会話が続けやすいか、喜んでもらえるかを全力で考えて、行動に落とし込んでみた。

まず、そうしたら、自分の世界の見方が変わった。一緒に働く仲間が愛しくてたまらなくなった。同じ時間と空間を共有し、同じ目標に向かって協力し合い、お互いの気持ちに配慮しあうことが、こんなにも嬉しくていとおしく感じるなんて思わなかった。

さらに、周囲が私を評価し、信頼を深めてくれるようになった。(ほんまに急に!)こうやって良好な関係を作れていれば、いざという時には助けてくれるという感覚があるからこそ、自分の心にも余裕ができて変に緊張しなくなり、より気持ちよく楽しい気分でいられるようになったし、頭を使うべきところに頭を使えるようになった。


さて、この実験をしてみて気が付いた一番面白いことは、
自分が相手のことを考えて行動すればするほど、よい環境や関係が自分の周りにネットワーキングされ、結局まわりまわって自分のためになっていく」ということ。

なんだか、これ、生き方としてかなり本質的なことな気がしてならない。

何かの媒質となるとき、自分の行動としては、相手に「与えている」ことになる。現代のメディア中心の社会の中で与える機会を奪われ、与えることに飢えていた自分がいたことに気が付いた。また、相手方も、「自分のことを気にかけてくれる人がいること」に喜びを感じているんじゃないかと思う。

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