ビスマス・古代遺跡・五重塔
ビスマスという物質がある。金属の一種でその結晶は天然のものもあるが、人工的に作ることもできる。ビスマス結晶は、見る人をハッとさせるような形と色合いを持っている。人はある程度まで、その結晶化の条件を整えることができる。しかし、その最終的な形までコントロールすることはできない。それは「作り出す」ものというより「現れ出る」ものである。それは人間が作ったものでありながら、人間の思惑や期待を超えている。
ビスマスと似たものを、私は中南米で何度も目にした。そのうちの一つは、メキシコのオアハカ州にある古代遺跡ミトラにある、神殿の壁に描かれた幾何学模様だ。この模様が何を意味しているのか、考古学者たちはその答えを出せないでいる。渦巻き、ぎざぎざ、波のような模様。自然物を表現しているのだろうか。水の流れ? 風の流れ? この遺跡は紀元5世紀ころに作られたもので、当時の人々が記した文書など一つも存在しないため、実際のところよく分からないのだ。
もう一つ思い出すのは、やはりメキシコの古代遺跡で、ユカタン半島のマヤ人たちの古代都市チチェン・イツァーに建てられた、「羽毛の生えた蛇のピラミッド」と呼ばれる建築物だ。その東西南北の斜壁に作られた階段は91段からなり、91段かける4は364段、これに一番上の段を足すと365段、つまりそれは1年365日の時間を表現している。またこのピラミッドは上から下まで九層に分けられているが、これは天空は九つの層からなるというマヤ人の宇宙論に対応している。メキシコの諸々の古代建築物の中でも、このピラミッドの形状の美しさはとびぬけている。しかもこの建築物は、春分と秋分の日には、ある「奇跡」を起こすことでも知られている(どんな奇跡なのか、興味のある人は自分で調べてみてほしい)。このピラミッドの形状や「奇跡」について、いろいろなことが言われてきた。しかし、結局、何のためにそんなものが作られたのか、本当のところはよく分からない。
ミトラもチチェン・イツァーも、美しい直線、角、段々、ときに円形、渦巻き、波型などが、自由自在に造形され、その不思議な均衡と調和を目にした者は、思わずため息をついてしまう。それらは今こそ廃墟の一部であって、地肌がむき出しになっている。しかし、それが作られた当時は表面は白い漆喰で塗られ、その上に様々な色が塗られていた。そこでは神々に捧げるお香のよい香りが漂っていたであろうし、霊妙な楽器の音と人々の祈りの声が響いていたかもしれない。
もし誰かがタイムスリップをして、古代人たちに「なぜこれを作ったのか?」と尋ねたとしても、おそらくは、要領の得ない答えしか返ってこないだろう。逆に、問い返されるかもしれない。「なぜお前たちは『なぜこれが作られたか』ということに、そんなに固執するのだ?」 それは、そのようなものとして生まれ、そこにある。それで十分ではないのか。
クイズの答えでも求めるかのように、不用意に「なぜ」と尋ねてはならない。「なぜ」を問うても、虚しいのだ。ビスマス結晶は、なぜあのような不思議な形状と色合いをしているのだと問うても、無駄だ。それは勝手に、あのような形をとった。それと同じことだ。
私の好きな小説の一つに、幸田露伴の『五重塔』がある。その主人公の十兵衛は、恩義のある人々に迷惑をかけてまで、自分自身で五重塔を作ることに執着する。何故か。五重塔の幻影にとり憑かれてしまったからである。それは夜な夜な部屋の隅に姿を現わし、十兵衛に「作れ、今すぐ、作れ」と命令する。その作業にあたる十兵衛の様子は、次のように語られている。
こうして十兵衛は、全身全霊を傾けて、自らの手で五重塔を完成させる。いや正しく言えば、五重塔は、十兵衛の魂を乗っ取り、十兵衛という人間を使って、自らをこの世に出現させる。
さて、この文章は「学問への誘い/新入生への手紙」として書かなければならないものだった。私は学問をすることで、ここに書いたようなことが分かった。ビスマスと、古代遺跡と、五重塔が、一つにつながっているということが分かった。
そんなもんだ。学問なんて金にはならないし、やって人より偉くなるわけでもない。だが、やってみたい人はやってみるといい。…始め方が分からない? まずは図書館で面白そうなタイトルの新書(岩波新書とか中公新書とか)を探して、3日に1冊のペースで100冊ほど読むといい。まずは、そこから始めようか。
『学問への誘い』は神奈川大学に入学された新入生に向けて、大学と学問の魅力を伝えるために各学部の先生方に執筆して頂いています。