20240709:共感なんか、
人のこと理解なんかできるわけないやん
ってよく思う。それは個人間でも社会でも一緒で、今はどうにも昔より可視化しやすいらしくて、ちょっとだけ楽できてるような気がする。
ほんの一昨日東京都知事選があったらしくて、途中もなんか批判というよりは人格非難やろみたいなんが跋扈してて、終わってからも同じようなことが起こってるっぽい。ここ数年よく見かけるよね。アメリカでトランプが通ったときとか、維新が勝ちまくる大阪とか。二階が受かり続ける和歌山は頭悪いとか。そんなわけないのに。ワードミュートかけまくっていいであんなもん。
「その人にはその人の事情がある」っていうシンプルなことを人間は理解できひん傾向があって、というかできひんくて、だからそんなことが起こるわけ。もっと日常に入り込むと、子どもが体調崩して仕事休むのを迷惑がるとか、男は生理の辛さを理解しやんとか。共感も理解もできるわけないのに。
こんなんやから、自分自身の思考パターンは基本的に断絶することによってできてるんかもしれへんくて、でもそれは悪いことじゃない。だって人には期待してないってことやもん。期待してないからこそ生まれるポジティブってのはなんやかんや存在してて、今いい感じに生活できてるのは割とそのおかげやったりする。いらんとこで20歳までの人生経験が活きてて、それはそれでええことなんかちょっと悩むけど。
結局共感なんかできひんのやし、じゃあ共感やと勘違いしてるのは何やねんって聞かれたら、多分消費やと思うって答えるしかない。人間は結局他人のことを消費して生きてるわけで、それは「性的消費」とか言われてるやつがわかりやすいけど、もっと広い範囲で適用できてしまう。たとえば障害者ストーリーに感動するとか、現場仕事で暑い中・寒い中働く作業員とか。全部他者の消費。遵法性とかいろいろあるとは言え、何が違うか端的に言えって言われると案外クリティカルな理論は難しかったりする。それを考えるとアダルトビデオと24時間テレビは同類項やし、どっちも地上波なんかじゃなくてPornhubにでもアップロードするのが最適解。せめて有料コンテンツにしてFANZA。
だからいい意味でもっと他人を諦めたらいいのになって思ってる。人に対してなかなか苛つかへんのはそういう部分で、最悪自分で巻き取るがなって気持ちで生きてるから。その中でこの部分だけ信じるとか具体的な他人の用法が生まれてくるわけで。ライブのときに「勝手に消費してくれ」って言うのはそういうことやし。まあ、もうちょっと気楽に期待せずに生きていいと思いますよ。
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