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写真家ボブ・グルーエンの眼

 1974年8月23日夜、ジョン・レノンと愛人メイ・パンは、彼らが住むニューヨークの高級マンションから空飛ぶ円盤(UFO)を見た。
 ジョンは居間の窓に色鮮やかな光が映っているのが見えたので、空を見上げるとそこにUFOが飛んでいたのだという。
 メイは何枚か写真を撮った。そしてジョンは、近所に住み親しくしていた写真家のボブ・グルーエンに電話をして、すぐに現像できないか尋ねた。
 ボブはちょうどその時分、自分のフィルムを現像する予定があったので、メイのフィルムを受け取ると現像に取り掛かった。
 ずると不思議なことに、ボブのフィルムは完全に現像出来たのにメイのフィルムには何も写っていなかったのだ。
 メイは、ボブが勧めた超高速フィルムを使っていたから、弱光でもうまく撮影出来たはずだといった。しかし、彼女のフィルムにはただの一枚も写っているものがなかった。
 この話は、ボブの2020年の著書「Right place, right time:  The life of a rock&roll photographer Bob Gruen」(Abrams Press)で紹介されている。


 ジョンはUFO体験以前の73年秋リリースの『マインド・ゲームス』で「Plastic U.F.Ono Band」と洒落ていた。
 実際の目撃後は、74年9月発売の『心の壁、愛の橋』の付属冊子に「1974年8月23日の9時に私はUFOを見た」と書いた。
 また、ジョンの死後リリースされた『ミルク・アンド・ハニー』(84)収録の「ノーバディ・トールド・ミー」には「ニューヨークの空をUFOが飛んでいるけれど/ぼくは別に驚かない」という歌詞がある。
 2021年6月、米政府はUFOについての報告書を公表し、目撃証言を分析。結果として、ほとんどすべての事例を正体不明としたのだが、さらなる調査の可能性をほのめかせた。
 ジョンが生きていたらどのような反応を示していただろうか?
 話をUFOからボブのジョンとヨーコ・オノとの交友に移したい。
 ボブがジョンとヨーコに初めて会ったのは71年12月のこと。アポロ劇場でジョンとヨーコはステージで歌った後、バックステージで多くのファンに囲まれて写真撮影に応じていた。
 ジョンはジョークを飛ばしたー「みんな僕たちの写真を撮るけど、その写真はどこに行ってしまったのだろう。僕たちはそういうふうにして撮られた写真を自分たちでは見たことがないのだ」。
 ボブはその時に言った「私はあなた方のすぐ近くに住んでいるんです。私が撮った写真をお見せします」。するとジョンは「ドアの下に入れておいてくれ」と答えた。ボブがジョンと口をきいたのは初めてだったが、あまりに自然体なジョンに驚かされたという。
 その後、ボブはジョン、ヨーコとエレファンツ・メモリーの写真を撮ることになる。『サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ』(72)制作の頃だ。政治的メッセージ満載のアルバムだった。


 彼らはアルバムがリリースされた後にアルバム名を冠した世界ツアーに出ることを望んでいた。しかし、第一弾シングル「女は世界の奴隷か!」をどのラジオ局も放送しなかった。差別用語を含むこともあったが、あまりに政治的すぎるという理由からだった。
 ジョンは対抗して、アップル・レコードの本部に200台の留守番電話を設置して、同曲をラジオが流さなくても、レコードを買わなくても、電話で聴けるようにしたのだ。
 ジョンは極めて政治的ではあったが、彼の見方は他の人々とは違っていた、とボブはいう。「ジョンとヨーコが強調していたのは、彼らは何かに反対するのではなく、むしろ何かに賛成する」ということだった。
 つまり彼らは戦争に反対するのではなく、平和に賛成しているのだと。またジョンはシステムを変えるには非暴力的手段しかないと信じていた。
 72年8月30日、ジョンとヨーコらは障碍者支援のための「ワン・トゥ・ワン・コンサート」でマディソン・スクエア・ガーデンのステージに立った。しかし、メディアのレビューは厳しかった。それによって世界ツアーのプランは突如取りやめになった。


 ジョンはヨーコ以上に強いショックを受けて、酒の飲んでは荒れた。攻撃的になり、自己中心的になって、誰を傷つけようともかまわないといった風だったという。
 確かにジョンは多くのプレッシャーにさらされていた。アルバムの悪評に加え、ジョンたちは米政府から国外退去命令を受けていた。そのうえFBIから盗聴や尾行をされていたのだ。
 72年秋には米大統領選挙でリチャード・ニクソンが再選された。ジョンとヨーコを敵視するニクソンの勝利にジョンは荒れ狂った。
 手が付けられなくなったジョンは、女性を連れ込んでコトに及んだのだ。ヨーコらにも彼らの声が筒抜けだった。
 ボブは音を消すためにボブ・ディランの『ブロンド・オン・ブロンド』をかけたが、動揺していたのでB面の最後からかけてしまった。流れてきたのは「ローランドの悲しい目の乙女」だった。
 ボブはこの一件がジョンとヨーコが別居するきっかけになったと思っているという。
 ボブは『マインド・ゲームス』や『心の壁、愛の橋』のセッションにも立ち会い、後者のジョンの「百面相」のジャケット写真も撮っている。


 また、74年夏にはヨーコに同行して日本の郡山での「ワン・ステップ・フェスティバル」の撮影もした。
 ボブはロック・アイコンとしてのジョンを人々に強烈に印象づけた有名な写真を74年に相次いで撮影した。
 袖を肩まで切った白地に「New York City」とプリントされたシャツを着て腕を組んでいるジョン(8月29日撮影)。それと自由の女神像をバックにピースサインするジョンだ(10月30日撮影)。


 80年の夏、ヨーコからボブに電話があり「レコード・プラントに来てくれ」という。底では、彼らの5年ぶりのニューアルバム『ダブル・ファンタジー』のセッションが佳境に入っていた。
 セッションは極秘だった。新しいアルバムのレーベルのトップであるデビッド・ゲフィンでさえスタジオに立ち入れなかった。
 スタジオの中はジョンの「哲学の変化」によって以前とは全く異なっていた。ショーンが生まれる前は、スタジオの冷蔵庫はテキーラ、コニャックなどアルコールでいっぱいだったが、今やそれはソーダ、フルーツジュース、ビール1缶にとって代わっていた。
 ボブは新アルバムの宣伝のための写真も多く撮影した。
 12月8日の夜、かかってきた電話でジョンの死を知らされたボブ。
 ジョンとヨーコの写真を求める世界中からの電話が鳴りやまなかった。

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