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18歳未満禁止・三上寛

 1970年代前半に日本の呪われた風習や赤裸々な性を題材にした「怨歌」を歌ってセンセーションを巻き起こしたフォーク歌手・三上寛(みかみ・かん)さんが2023年5月6日(土)、横浜中華街「李世福のアトリエ」で「落日のアダージョ」と題したライブを行った。
 レコード・デビューは1971年。原点は、今はベテラン・ジャーナリストの筆頭格として知られているが、当時はテレビ東京のディレクターだった田原総一朗さんの「ドキュメント青春」という番組に出たことだった。「青森から出てきた新聞配達員」として取り上げられた。
 三上さんは「有名になって何かやらないといけないという意識があったのでしょう。でも「青森から人を殺しにやってきたんだ」と言ったため、「変な奴」だと思われたのです。すると「お前だな、変なこと言った新聞屋は」といわれて、レコードを出すことになったのです」と振り返った。
 ところで、「田原総一朗さんって面白い人です」と三上さんはいう。そして当時のとっておきのエピソードを披露したー「ニューヨークに行って娼婦になった日本人がいたのです。田原さんは現地に行って、その女性を取材しようとしたら、ギャングにあたってしまって「絶対にダメだって」」。
 ところが、とあるプールバーでギャングは「もしうちの女の子とここで、みんなの前でファック出来たら(映像を)撮らせてやってもいい」と田原さんは言われたそう。三上さんはいう「後から田原さんに「どうしたのか」って聞くと「やったよ」って威張っていました」。

三上寛さん

 三上さんは「自分は音楽というよりはキャラで世の中に出てしまった。どうやって稼げばいいか分からない。あの頃、漫画家の先生たち、特に赤塚不二夫さんと上村一夫さんにはかわいがってもらった」と語った。
 「上村さんは飲むときはビシッと決めてくる。置き屋の息子でした。その上村さんがある時、おもむろにギターで一曲歌ったのです。それがずっと頭の中に沁みこんでしまって、もう(彼が)死んでから何年も経っているのに「寛ちゃん、あんたも歌ってみなさい」と今も言われているようです」。
 話はあちこちへ。かつて「高校に行くって大変難しかった。おカネがなかったから」と三上さんは言う。「私たちの小さな村。同級生が120人。そのうち高校に行ったのは4人だった。私の場合は、親父が死んで退職金などがあったので高校に行きましたが、ほとんどは漁師です」。
 「小学校6年生から中学校1年生くらいから働き始めると髪を角刈りにして、煙草を吸い始める。町から来た先生はびっくりしちゃうわけです。家庭訪問するとお母さんが「うちはあの子しか働き手がいないんですよ」。
 当時は、中学校を卒業すると集団就職するのが普通だったという。そのなかで、「修行して小さなラーメン屋を一軒買った人がいました。その人が死ぬ間際に村に帰って来たのです。そして村人全員のために自分で作ったシュウマイを分けてから、死んでしまいました」。

 そしてゲイの話も。「若い時、詩を書いていて、ハーバード大学の詩人に呼ばれて大学に行ったのです。その人はアメリカ人で横浜に住んでいたことがあって、その人はゲイでしたね。意外と深いですよ、ゲイの世界は・・・うちのカミさんは(そのアメリカ人は)「あんたの顔しか見てないわね」というのです」。三上さんがそのアメリカ人に「そういう世界なんですか」と聞くと「そうだ」と言ったそうです。
 ゲイって日本でも昔からあって、例えば稚児(ちご)文化で侍の世界で男の世界の色道。中国でも男性器をとってしまう人がいるし、欧米とは違うと思うのです」。続けて「ある人がいい歌手はみんな「み」で始まるといいましたー美空ひばり、三波春夫、美川憲一って」。
 「夢は夜ひらく」といった曲を熱唱していった。
 では三上さんの妖しさ・呪術性はどこからきているのか。生まれ育った土地ー青森県に深いかかわりがあるのかもしれない、青森県津軽を原風景とした人間の生きざまを歌う作品は、令和という時代にも息づいている。

『三上寛のひとりごと』

 時系列的には前後するが、三上さんの前に、大迫秀雪(おおさこ・しゅうせつ)さんと本業が占い師だという笠原マヒト(かさはら・まひと)さんから成る「地上楽園」がパフォーマンスを披露した。

「地上天国」-大迫秀雪さん(左)と笠原マヒトさん

 「コンビニエンス」という曲から始まり、途中の笠原さんのソロを挟んで、オリジナル作品を「すみれ」、「新天地」、「イメージ」、「I ♡ Japan」、「アンテナ」など地上天国は計10曲歌った。
 大迫さんは三上さんの弟子だが、どうしてそうしたのか。明らかに。
 「大学の学園祭に三上さんが来たのです。ステージがどんどん熱くなったていきました。そこで私の先輩は全裸になってしまったのです。すると三上さんは演奏しながら、その先輩のおちんちんを咥えたのです」。
 「私は「なんて素敵な人なんだ」と思って、すぐ「弟子にしてください」とお願いし、三上さんにつきまとっていました。10代の時にすごい世界を見ちゃって、弟子にしてもらったのです」と大迫さんは言った。
 大迫さんは利き手の左手でアコースティック・ギターを弾きながら歌う。一方の笠原さんは湯タンポ、ナベブタなどで「手作りした楽器」を使う「チンドン屋」といった風だった。2人は会ったのもまだ5回目、ライブ自体は3回目だったが、観客を十二分に楽しませた。
 前座および司会は前田健人(まえだ・けんと)さんだった。地元愛が感じられる「横浜ホンキ―・トンク・ブルース」などを歌った。

前田健人さん(右から二人目)


 


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