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さらばベンチャーズ

 夏の風物詩がまたひとつなくなる。
 そう、毎年夏になると行われていたベンチャーズの日本全国をくまなく回るツアーがなくなりそうだ。75回目の来日になるはずだったのだが・・・
 そのため、2022年がベンチャーズ最後のジャパン・ツアーとなりそうである。くしくも初来日から60周年記念の節目だった。
 オリジナル・メンバーがいなくなったことは大きい。2022年1月に創設メンバーで唯一生き残っていたドン・ウィルソンが88歳で亡くなった。同夏のツアーは2世の助けを得て実現した。
 そのツアーでは、ステージ後方のスクリーンにドンのみならずノーキー・エドワーズ、ジェリー・マギーという今は亡きメンバーたちが映し出されるという粋な演出がなされていたばかりだった。
 1976年、米独立200周年記念の全国100公演ツアーの一環として日本のさまざまな都市でライブを行った。中野サンプラザでの公演もそのひとつでそれ以降よく使われたが、そのハコも歴史を終える。
 ベンチャーズは60年代、「てけてけ」で知られるようなエレキ・サウンドで日本の若者たちに大人気となった。エレキは音楽の枠をこえて社会的なブームとなり、日本の音楽シーンに多大な影響を与えた。
 当時はビートルズを上回る人気を誇ったぐらいだ。そして、彼らの人気はここ日本ではおそらくは本国以上に長く続いてきたのである。
 そうした事情を背景にベンチャーズは日本を愛した。そして日本は愛するベンチャーズを62年の初来日以来、ずっと温かく迎え続けたのである。
 ベンチャーズは59年、ドン・ウィルソンとボブ・ボーグルのギタリスト2人によって結成された。翌年発売された「ウォーク・ドント・ラン」(「急がば廻れ」)がビルボード誌のヒットチャートで2位を記録。


 その2人にノーキー・エドワーズ(ギター、ベース)、ドラマーのメル・テイラーらが加わっていき、60年代全盛期のラインアップとなった。
 ドンとボブは62年に初来日。65年に二度目の来日を果たすベンチャーズはここを境に日本で一大エレキ・ブームを巻き起こしたのである。
 ギタリストにジェリー・マギーを迎えたあとは日本向けの楽曲も手がけていく。欧陽菲菲が歌う「雨の御堂筋」、渚ゆう子の「京都の恋」「京都慕情」「長崎慕情」といった作品で「ベンチャーズ歌謡」と称された。
 91年暮れにはNHKの「紅白歌合戦」にも出演して、「10番街の殺人」「ダイアモンド・ヘッド」「パイプライン」を演奏した。
 2009年、結成50周年の年にボブ・ボーグルが他界した。それから10年後の2019年、ソロツアーのために来日中だった2代目ギタリストのジェリー・マギーが日本で急逝した。81歳だった。
 それを目の前で見てしまった音楽ライターがいる。前田健人(ケント)さんは2019年10月8日、インタビューをする予定でジェリーがリハーサルを終えるのを会場の「赤坂エルカミーノ」で待っていた。
 「スリープウォーク」や「京都の恋」、「ハワイ・ファイブ・オー」を演奏。「ハワイ・ファイブ・オー」のサビをもう一度確認しようとしたところ、ジェリーが心臓発作を起こして倒れて、病院に搬送された。
 前田さんは帰宅してフェイスブックに書いたーー「日本の歌謡界にも多大な影響を与えたベンチャーズ。エレキを始めたばかりの僕にステージやCD、ビデオからジェリー・マギー氏はエレキの楽しさを教えてくれました・・・ジェリー・マギー氏の復帰をどうか祈ってください」。
 しかし、願いはかなわず、数日後、ジェリーは亡くなってしまった。

ジェリー・マギー『マイ・ギター・メモリーズ』(2002)


 前田さんはジェリー・マギーのギターが大好きだった。高校1年生だった2000年頃に前田さんはギターを弾き始めたという。その頃、周囲はルナシーなどのビジュアル系バンドに熱中していた。しかし、前田さんは「ジェリー・マギーやジョージ・ハリスンがお気に入りのギタリストだった」。
 「ジェリーは親指にピックを装着するサムピックを使っていました。またギターを高いところで弾くスタイルだったのです。渋いギターを弾く人で、ギターの神様エリック・クラプトンがジェリーのことを尊敬していたといいます」と前田さんはジェリー愛を熱く語った。
 前田さんはジェリー最後のライブ(長野)の正規録音を入手することが出来たので、何とかそれを商品化する道筋をつけて多くの人のもとに届けられないかと考えているところだという。
             (Special Thanks 前田健人=ケントさん)


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