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ビートルズ側近マルの本⑬

 【スピリチュアル・ビートルズ】1964年の北米ツアーも最後の三週間に突入すると、ローディのマル・エバンスなどの取り巻きもビートルズの「ショーが終わった後のこと」でおこぼれに預かるようになった。
 64年のアメリカ。保守的なモラル意識がまだ強かった。
 深夜、ファン・クラブの代表たちが贈り物や手紙を持って現れることがあった。お返しにソーダをあげたり、バンドと一緒に写真を撮らせてあげたり、それから・・・そのうえ、ビートルズには深夜の女性ゲストもいた。
 システムはシンプルだったらしい。ホテルに女性を入れるには、誰か権限を持った者の許可さえあればよかった。マルとニール・アスピナールが女性たちが入ってこれるようにアレンジをした。
 たいていの場合、マルとニールがバンドに近づける女性を選んだものだった。彼らにとってもメリットがあった。二人は、「そういうことを望んでいる匂い」をさせている女性を直感で見極められたというのだ。

グルーピーたち(イメージ)


 しかし、冷やっとすることもあった。9月5日のシカゴでのコンサート前のこと。ビートルズ一行はサハラ・オハレ・ホテルを出ると、群衆の中の一人の女性がポールのところに一直線に向かってくるのに気がついた。
 彼女はハンカチの片方を腕に結んでいて、もう片方をポールの腕に結びつけてしまうつもりだったのだ。そうすれば二人は離れられなくなる。マルは「いいアイデアだったけど、そうはいかなかった」と言った。
 9月11日、ビートルズはジャクソンビルのゲーター・ボウルで演奏したが、そこの有力者たちに「勝利」したのだ。彼らは1964年7月に公民権法が成立したあとも人種隔離政策を支持していた。ビートルズは人種隔離しない平等な観客席を求め、そういう条件で演奏したのだった。

高まる米公民権運動

 9月12日のボストン・ガーデンでのコンサートのためマサチューセッツへと向かう飛行機の中で、マルのジョンに対する長年の恐怖心が急速にもたげてきたのだった。飛行機の後ろの方の席で、涙を流して記者のケーンに「ジョンは僕に対して不機嫌で・・・でもジョンのことが好きなんだ」と話した。ケーンは二人の間に何があったのか分からないうちに、ジョンがマルのところに近づいてきて抱きしめた。
 マルにとって、クリーブランド・パブリック・オーディトリアムでの9月半ばのショーは忘れられないものとなった。機材に電気がいかなかったのだ。それは担当者がビートルズはアコースティック・ギターで演奏すると思い込んでいたからだった。急いでケープルを用意した。
 そして本当の問題はコンサートの最中に発生した。騒乱のような状態に陥ったのだ。マルは書いた。「何千人もの子どもたちがステージに押し寄せ、警察が途中でコンサートを中断すると警告せざるをえなかった」。
 数日後、ビートルズは予定していなかったが、カンサスシティのミズーリに立ち寄った。プロモーターのチャーリー・フィンレイがそれまでに聞いたこともないような額ー15万ドルで、大リーグ、カンサスシティ・アスレティックスの本拠地のスタジアムでのライブをオファーしてきたからだった。
 ビートルズは9月20日のニューヨークでのチャリティ・コンサートでツアーを締めくくった。ビートルズは数日のオフを過ごすためにオザークスへと移動した。マルもツアーそしてビートルズからのオフが必要だった。
 マルは長年マカロニ・ウェスタンのファンだった。とりわけ銃に魅せられていた。英国では手に入らないものだったからだ。警官たちと仲良くなったマル。その中の一人がガン・ショップに連れて行ってくれた。
 マルはそこでピストルの「ホルスター」ケースを買った。カウボーイ・ハットをかぶり、そのケースをつけ、複製品のピストルをそこに装着して、ホテルの中を歩き回るのがマルは楽しかったのだという。

ピストルのホルスター(イメージ)


 9月21日、ビートルズはイギリスへ帰国の途についた。当時のロック・ミュージシャンのツアーとしては破格の120万ドルを売り上げていた。
 デレク・テイラーがのちに回想したところによると、機中の席の配置についてブライアン・エプスタインとビートルズたちとの間でやや面倒なことが起こっていた。マル、ニールそしてデレクはエコノミー・クラス、ブライアンとビートルズはファースト・クラスだった。
 ツアーの最中、ビートルズはブライアンをエコノミーに行かせてローディたちを連れてこさせたのだ。
 デレクはいう「ブライアンはエコノミー・クラスの席に来て、マルとニールとぼくをファースト・クラスのほうへと移動させたのです。明らかにブライアンはビートルズに言われてきたのでした」。
 9月21日に帰国する時に、ビートルズ・ファミリーは一人減っていた。一人とはいえそれは重要な人物だった。そう、デレク・テイラーが辞めたのだ。ブライアンとの関係が原因だった。
 ビートルズの周辺では、4人と会える頻度などによって嫉妬心が生まれることがあった。ブライアンとデレクの間にはその種の緊張が高まっていた。デレクはブライアンの誇りにとって許しがたい存在となったようだった。
 当時、デレクは「ビートルズを愛しているが、ずっと一緒にいることは出来なくなった。何百回もクビになるなんて御免だからだ。オフを取らせてもらう」と言った。
 NEMSのPRを担当していた28歳のトニー・バーロウがデレクの後釜に座ることになった。

 
 
 
 
 

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