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吉原を歩いた!

 上野で大吉原展が開催されて人気を博しているなど再注目されている吉原。現在でも好事家の興味を引き続けるその街を歩いてみた。
 まず、現在の歓楽街エリア。なぜか「喫茶店」がずらりと並んでいるが、それは昔でいう「茶屋」のことで、要するに「無料案内所」。どこで遊んだらいいのか紹介して店に繋ぐ場所のことだ。
 それぞれの「喫茶店」はソープランドに手数料を払っているという。「だからいい娘が紹介出来るんです」と呼び込みのお兄ちゃんはいう。

 場所を移動する。まず、東京メトロの三ノ輪駅近くの浄閑寺を訪ねた。

浄閑寺の門


 「浄閑寺と荷風先生」というパンフによると、「もともと身を売った者が、病気になり、衰え果てた行く末ほど哀れなことはない。捨犬の如く看とられずに死んで行く遊女達の多くは、日本堤の上をたどって、堤の北端、三ノ輪の浄閑寺に、無縁仏として葬られるのが例となったのである」。
 そして、1855年の大地震の際、多くの新吉原の遊女が投げ込み同然に葬られたことから「投込寺」と呼ばれるようになった。花又花酔の川柳「生まれては苦界、死しては浄閑寺」と詠まれた。

浄閑寺にある遊女たちの総霊塔 

 作家永井荷風は遊女たちのことを想い、この寺をしばしば訪れた。
 永井荷風の記念碑などがある。

永井荷風記念碑 

 遊女たちのための総霊塔の斜め前にはひまわり地蔵尊がある。
 説明書きによると、「山谷には労働に生き労働に老いて一人寂しく仁s寧を終える人が数多くいます。山谷老友会は孤独を超えて連帯し、励まし合い、支え合う助けをしてきた。しかし、死後の安心なくして真の安らぎがないことからひまわり地蔵尊の建立を思い立った」という。
 「ひまわりの花は太陽の下で生を働き抜いた日雇い労働者のシンボルだといえます」。

ひまわり地蔵尊 

 
 音無川という川があった。それは王子で石神井川からわかれている。その清流は田端、日暮里、金杉を流れ、三ノ輪橋をくぐり、浄閑寺の西側にそって、そこから山谷堀をへて隅田川に注いでいる。今は暗渠となっているが、明治の終わりまでは灌漑用水として使われていた。
 音無川にそって三ノ輪から聖天町(現浅草7丁目)まで続く土手を日本堤(吉原土手)といった。新吉原への遊客でにぎわった堤も今はない。
 江戸時代初期まで付近は湿地帯で多くの池が点在していた。1657年の大火後、幕府の命で湿地の一部を埋め立て日本橋の吉原遊郭が移されて来た。以来、昭和33年までの300年間におよぶ遊郭街新吉原の歴史が始まり、特に江戸時代にはさまざまな風俗、文化の源泉となった。
 その点在していた池のなごりの弁天池がある。
 なぜ吉原といわれるようになったのか?
 元々池が点在するような葦繁る湿地帯だったところに作られたので、当初「葦原(あしわら)」と呼ばれていた。
 しかし「葦」が「悪し」を連想させ縁起が悪いとされて、縁起がいい「吉」という字をあてることになって「吉原」になった。

 吉原神社というのがある。

吉原神社弁財天 
吉原神社弁財天 
関東大震災の被災者を祀る 
かつての湿地帯・沼地のなごり 

 さて、鷲(おおとり)神社が弁天池と吉原神社の近くにある。11月の酉の市には商売繁盛を願って大勢の参詣者が集まる。江戸時代、遊郭はこの日すべての門を開放して自由な通り抜けを許したという。
 この神社はお金などをかき集めるという意味で熊手が有名で、社務所の中には巨大な熊手が飾ってある。

鷲神社 
鷲神社 
鷲神社にある巨大な熊手

 吉原大門の交差点だ。

 そしてそこには「見返り柳」がある。代々植え替えられてきたもの。

 吉原大門の跡がある。門があったという印だけだ。

 
現在の歓楽街
「新吉原展」より 
「新吉原展」より



 

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